蓮とマキナは池のほとりに座って、じっと待っていた。そう、彼が“ザニガニ”ではなく“ザリガニ”を釣り上げるのを。しばらく沈黙が続いていたが、あまり忍耐のないマキナが不安げな表情で連に彼に尋ねようとしたところで、彼は勢いよく釣り竿を引き上げる。
「取れたぞ」
そういう蓮が握る釣り竿の先を見ると、そこには真っ赤なザリガニが見事に食いついていた。マキナは「すごい」と手を打ち鳴らして驚きつつ、喜んだ。なんとも器用な奴だと蓮は思いながら、釣り竿を彼女に渡す。
「今度はマキナがやってみたら?」
「わ、わたし…?」
「ああ、誰でもできるよ」
マキナは遠慮しつつ、しっかりと蓮から釣り竿を受け取った。そして、さっきの酢イカのあまりを紐の先につけ、再び水中に垂らす。聞こえるのは鳥のさえずりと、波の音。そんな静寂に近い空間が、二人の交流を促す。
「俺の名前、憶えてる?」
「…あまみや れん…?」
そこは覚えていてくれたのかと、蓮はちょっと嬉しい気持ちになる。しかし、何だか余所余所しさが残る。
「好きに呼んでもらって構わないよ」
「えーと…じゃあお兄ちゃん!」
「え?」
予想だにしない返事にひっくり返りそうになるが、なんとか踏ん張る。
「だ、だめ?」
「別に構わないよ。マキナがそれで呼びやすいなら。俺もマキナって呼ばせてもらおう」
「うん!」
その返事を機に、しばらく時が止まったように静かになった。
「ザニガニ…早く釣れないかな…」
だから、ザリガニだって…というのもなんだか面倒なので、そこは敢えてスルーしてやることにした。しかし、彼女には間違いを指摘してくれるような家族はいなかったのだろうか?
「ご両親が“ザニガニ”って言ってたのか?」
「うにゅ?…違うのよさ」
「そうなのか?」
「うん、私が馬鹿だから覚えられてないだけ…」
「間違いだって指摘してくれないのか?」
「…お母さん、私のこと嫌いだから」
蓮は彼女に言われて自分の両親を思い出す。捕まった時に親身になってくれたのは、当時両親くらいしかいなかった。他の連中は揃いも揃って俺のことを“犯罪者”呼ばわりしていた。
「お兄ちゃんはなんでお母さんが私の事嫌いか興味ない?」
興味…か。全くないと言ったら嘘になる。人間と言うのは何にだって些細な関心は必ず抱くものだ。部屋のホコリ、人の不幸、他人の素行など。
「興味ない…て言ったら嘘になるな」
「興味あるなら、なんで聞かないのよさ?」
蓮は好奇心や冒険心が自分勝手なものだと知っている。それは新たな発見をもたらすだけで、他人の心、そして“踏み入ってはいけない領域”を踏み荒らすというとんでもない弊害を伴う。なので、彼は冒険家とかそういう類の人種があまり好きではなかった。別に特別恨んでいるわけではないが、冒険家の映画を見ていると、何だか地元の人々を見ているような気がする。
「そんなことしない…話したいなら聞くけど」
「ほへー…お兄ちゃんって不思議な人なのよ」
「何故だ?」
彼女が釣り竿を持つ手に力が入る。そして俯いた。
「この学校の人以外は、聞いてくるから…」
「それは…酷だな」
彼は空を仰ぎ見ながら、同情…というよりかは返事をする。
「私、馬鹿だから…天音姉みたいにしっかりしてないし、由美ちゃんみたいに頭も良くないから…」
そう言うと、彼女の表情が陰る。そんなことで悩むなんて、よっぽどの自己不信か、誰かにずっと言われてきたからだろう。蓮は、後者だと考える。もちろん根拠はない。彼の培われた感でそう受け取ったから。
「別にバカではないと思うけど…仮に馬鹿だとしても、何が悪いんだ?」
「だ、だって他の人に迷惑かけちゃって…嫌われちゃうから」
「迷惑かけるような人が嫌いな奴は、世の中に沢山いる」
蓮は決して軽い同情、嘘で励ますことはしない。ただ、自分の思ったことを伝える。
「けど、そんな人ばかりじゃないのも確かだ」
彼は空を見ていた視線をマキナに移す。
「マキナの事を大事に思ってる人は、決して馬鹿なんてどうでもいい理由で嫌ったりしない。まあ、赤の他人は別だけど」
「それに、さっきも言ったけどマキナはバカじゃない」
マキナは首を傾げるが、その顔には不安げな表情だ。蓮にはどんな人が本当のバカかよく分かっていた。
「そんなもんかな…」
すると、突然グイグイとマキナの持つ竿がしなった。
「き、来た…!」
思い切り竿を引き上げる。すると、先端には蓮の時のように真っ赤なザリガニが吊り下がっていた。
「よく出来たじゃないか。持って帰って育てるといい」
「うん!ありがとお兄ちゃん!」
マキナはそう言うと、ザリガニを鷲掴みにしたまま楽しそうに飛んでいった。…その場に取り残された蓮は、何だかもやもやした気持ちのままだった。マキナの事情…これは俺にどうこうできる問題ではなさそうだと自分の無力さを感じた。