蓮はその後天音に昼間の事を問い詰められ、何となく茶を濁して逃げることに成功した。しかし、この頃何かと天音の尻に敷かれているような気がしてならない、と蓮は不安を感じていた。
女たらし……という訳ではないが女慣れしている自分ですら、こんなに翻弄されるんだから天音は異常に違いないと考えている。
天音が居なくなった自室はほのかに石鹸の香りが漂っている……。
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――榊由美子はずっと孤独だった。
およそ友達と呼べる人は、いない。にも拘わらず、身近な家族でさえ、彼女を酷く煙たがっていた。
いわゆる中流階級に属していた由美子の母親。そんな彼女に、榊道明という……“貴族階級”の男がやって来た。それは由美子の母親、そしてその両親にとって、一生に一度起こるか分からない程貴重なチャンス。願ってもない、奇跡。
しかし、奇跡は儚く散った。
母親は由美子を産んで……“産めなくなった”。
身体が弱かったのだ。一度の出産も耐えられるか否かという瀬戸際で由美子を産んだきり、もう、子どもを授かることはなかった。
分かっていた。彼女には、こうなることは分かっていた。
そして、その後。榊道明は……彼女を“捨てる”ことも。
…
………
……………
…………………
「――っ……!」
榊由美子は、酷く苦しい記憶を思い出し、思わず枕に当たり散らしていた。今の彼女は普段の冷静さを欠いていて、まるで別人の様だった。その顔は苦痛に歪み、歯は無意識にギリギリと音を立てている。
真っ暗な自室、月明りが窓をかたどって地面を照らす。ユラユラと揺れるレースカーテンが、再び由美子を日常へと引き戻す。が、それと同時に月明りは彼の顔を象る。
「雨宮……蓮」
由美子はボソッと呟く。
しかし、そこに本物の蓮はいない。いるのは、由美子の頭の中だけ。
『ココロの怪盗団』
なんてバカなネーミング何だろう。そんな事を、由美子は考えていた。それは半ば意地で、負け犬の遠吠えによく似ている。――ふざけないで、心なんて盗める訳ないじゃない。と、可能性を否定する理性が、ひたすら“吠えている”。
と、そこで、由美子はふと勉強机の上に視線をやる。そう言えば、先ほどまでパソコンを弄っていたのだったと、彼女は再び勉強机に向かう。そして机上の画面を見つめる。そこには――怪盗お願いチャンネル、かつて怪盗団と一般人の唯一のパイプラインだった掲示板が映されていた。
「……」
無意識にタイピングしようとしていた右手を咄嗟に引き留める。本当にこんな“インチキ”に自分の人生を賭してしまっていいのか? そんな疑念が、彼女を沼に引き込む。しかし、湧き上がる疑問を突き詰めていられるほどの余裕は、もう彼女にはなかった。……失敗するに決まっている。これは、失敗が前提の無謀なギャンブルなんだ。そう、自信に言い聞かせる。
『榊 道明』
掲示板の入力欄に、憎き男の氏名が書き込まれる。そして……由美子はエンターキーを、押した。備考欄は空白、何も書いていない。改心させてほしい理由も、彼の“残虐非道”についても。でも、彼女は無意識に思っていた。――“彼なら”、彼ならこの救難信号に気が付いてくれる、と。
「……やはり、書き込んだのか」
突然、部屋の奥、それも真っ暗闇から声が聞こえた。
それは異常だった。
彼女の自室、それも月が輝く真夜中。
同居人はいない。しかも、それは……男の声だった。
「ひっ……!」
由美子は驚いて、椅子から転げ落ちる。
余りにも恐ろしくて、叫ぶ。必死に叫ぶ……が、声が出ない。そうか、人間って本当に“怖いとき”って声が出ないんだ。彼女は、悟った。
しかし、男の声はさっき聞こえたきり、止んでしまった。今はさっきとは打って変わって静寂が場を包み込んでいる。ヒューと夜風の音、カーテンの揺れる音、遠くから聞こえるさざ波の音。それだけ。それ以外聞こえなくなっていた。だが、それと相反するように由美子の心は酷く五月蠅くなる。
「だ、誰なの!」
由美子はやっとの思いで、部屋の暗がりに向けて声を張り上げる。
返事はない。が、由美子の目は暗闇にぼうっと浮かぶ人影を捉えていた。部屋の奥、真っ暗闇の中にぼうっと浮かぶその人影は、腕を組んで扉にもたれかかったまま微動だにしない。暗闇でその顔は伺えない。その人物がどんな表情かというのも、全く分からない。それだけに、由美子の恐怖心はどんどん肥大化してゆく。
「……」
しばらくの静寂。謎の人物がいなければ、心地よい波の音で寝てしまいそうな部屋の中で、由美子は人影を睨みつける。まるで“あの男”を睨みつけている時の様な、疑心暗鬼に満ちた瞳で。が、その人影はその視線に射抜かれても、動揺する様子すら見せない。
そして……人影は静かに口を開いた。
「……“真っ暗闇”は得意なんじゃないか? 榊 由美子」