────〆縄にくゝり付けられた幾何千の鈴々が木枯らしに揺れなびいた。薙ぐような突風に轟音は明白で、赤鳥居の前に立ち尽くしていた齢十九かそこらの青年は目を見開くが早いか一瞬裡の後に顔をしかめて耳を塞いだ。薄手のシャツに、乾いた風が沁みる。肉体の芯が冷えて凝固し、石膏細工の如くに感覚を喪失した指先が意識とは離れた所で小刻みに震えていた。そうして、おお。気を巡らせてみれば、本来なら鼓膜を敲いているだろう鈴の金鳴り音がまるで聞こえぬ事に男は気が付いた。びゅうびゅう空を裂くのは聞こえる。そうして鈴が暴れ馬のように身体を捩らせている事も。しかしどれほど耳を近付けても、金銀色とりどりのその鈴からは甲高い金属音はおろか……存在感さえ発していない。
非現実的な言を弄するならばあたかもそこには在り得ないといった、そんな感じがしてならないのである。あらゆる物質は粛々と内的に、眼球の中で一つの『像』を結ばせる。我々人間はその光の輪郭を物質の姿として捉えるわけであるが、この時男はその鈴の真なる容貌を掴み損ねていた。恐怖か或いは好奇心から、男はゆっくりと目の焦点を一点に集中させたまま、藁しべが針みたいに逆剥けた大縄に手を添える。
触れられない。触れられないのだ。そこには温度がない。感触がない。しかし何とも重そうに吊られながら揺れている。実在と幻覚の間だ。何度も何度も水を掻くように探るが、手遊び以上の意味を永劫持つことはない。怯えの痙攣が肋間から全身に波及していく。男には分からなかった。〆縄がないのか、自分自身が実際その場にいないのか。この悪趣味なほど現実的な幻は実は決して幻などでなく、ただただ遥か何千年も前から端然とこの人の居ぬ山奥に根を張っていて、朧気なのは自分だけなのではないか、と。
そう考えを手繰り寄せて、男はさーっと顔を蒼褪めさせた。あらゆる信仰が無に帰したような感覚だった。故知らぬが、察するにそれは深い深い畏敬の発露であり、超自然的なものに対する理解不可能な思考のショートだったのだろう。
「助けて!」
男は叫ぶ。すると赤鳥居の横に並ぶ鈍緑色の狛犬二頭が彼方を見つめている双眸をぎょろりと男の方へと向けて、牙から雨雫を涎のように滴らせながらこう言い放った。
「哀れなるものが一人。名は無し!」
「帰る路は既に
男は一旦の驚愕を見せたが、すぐ身をひるがえして像を睨み、言い返す。
「何を言っている? ここは何処か、説明してくれ。何が何だか分からない!」
「説明したって分かりはすまい。解する度胸もない癖に。」
「分からない? 尊大め。貴様らは最初から何も分かってなどいないのだ。これからも、ずっとそうだ。」
何を言っているのか、男には微塵も理解できなかった。そうして次第に、四肢の末端が少しずつ黒い影に覆われていっている事に男は気付いた。太陽は浩然と天頂で遍く大地を照らしているのに、男だけは(しかもその肉体を縁取って塗り潰したみたいに)光を失っていったのである。
「なんだ、何だこれは!」
「貴様そのものだ。」
「背けられぬ、貴様の『像』だ。」
黒影はどんどん肉体の中心部に伸びていく。怖い、怖い、怖い。麻酔に似た鈍麻感。重い腕。擦るようにしか動けない脚。頭をよぎるのは唯一、死の事ばかりだ。額から滴る汗が……陽の光を受けて生命の律動のように輝いていたその代謝が……影に呑まれて、最早呻きもなく、景色と同化して。
そうして、男は目が覚めた。脂汗が背中を熱に迸らせていた。息を荒くしながら時計を見る。午前八時。友人との待ち合わせに遅刻する事は確実だった。
◇◇◇
「遅いぞ遠山!」
「ごめん、ごめん。」
男は寝ぐせも整えずに、如何にもつい先程起きましたといった感じの格好で友人の中林と赤塚公園で落ち合った。時節は冬の暮れ。時折日の照って暖かい日もあるが、その日はいつもと同じように寒く、血圧の低い中林は気だるげそうだった。今日男が中林と会う約束をした理由は一緒に写真撮影をする為であった。あったが、現在そんな気は毛頭ない。写真を撮るような精神状態でないのは十目の見る所十指の指す所に明らかだ。
男はどうしても、今朝見た夢を誰かに打ち明けたかったのだ。悪夢は秘めれば秘めるほど心の中で膨れ上がっていくという事を男は知っていた。……あの夢は放置してはいけない類いのものだと、そう判断したのだろう。男はその機会を探るみたいに、そのまま赤塚公園の並木道を中林と共に歩いた。
「全く。自分で話を持ち掛けておいて遅刻とはやってくれるぜ。夜更かしでもしたのか。」
「夜更かしなんかしたら身体を壊して、そもそも約束がおじゃんだよ。」
「虚弱な奴だ。だから花を被写体にすることが多いんだな。」
「関係あるのか?」
「お前の好きな花は? 韮だろう。あんなか細い花が好きなのは体の弱い奴だけだ。」
「どんな価値観だ……。」
他愛ない話。しかし落ち着くものでもある。それに、会話の雰囲気は先程の夢の話を切り出すにも悪くない感じだ。明るすぎず暗すぎない。男はこういう所で運が良かった。今までの人生で弱音を吐くことに苦労した経験は一度もない。この日もそれは同じだった。話は先に、中林のほうから繰りだされた。
「……突飛な話にはなるがだね。俺は今日ここに来る前に一冊本を読んできたんだ。」
「立派なことだな。文化人めいてる。で、何の本だい? 君の事だ。ファンタジー物だろう。ホアズブレスに旅行でもしたか、それともドゥイノの悲し気な天国で天使と詩でも語らったか。」
「馬鹿野郎め。リルケの綴り言なんて退屈でしかないだろう。」
「以前僕のところに年賀状を送りつけたとき、紙端にさも得意げな感じで書き添えた一節はお忘れで?」
「そんな事あったか?」
「『ただ一人死者は踏み上っていく、<原苦>の山の奥深くに。やがて
そう男がそらんずると中林はあからさまに焦った。
「思い出した。やめろ、恥ずかしい。やめてくれ。」
「あの時は盛大に馬鹿にしてやったからな。」
「ああ、クソ。気取った俺が馬鹿だ。恥ずかしいばかりだ。」
「顔が紅いぜ。……それで、結局何の本を読んだんだ。」
中林は照れくさそうな表情から一転、ごほんと咳払いをしたかと思えば真剣な面持ちで男を見つめて答える。
「題名はあまりよく覚えていないが、記憶する所では『
「知らん本だ。というより、今朝見た本の題名ぐらい覚えていてくれ。」
「それが違うんだ。これは、ふざけた話ではなくて、俺が夢で見た本なんだ。」
「夢?」
「そうだとも。なに、まぁ、長く生きていればそんな事の一度や二度はあるだろうが、兎角に印象的だったんだ。」
「続けてくれ。」
「ああ。夢の中で俺は、どうしてか赤ん坊だ。いや、赤ん坊っていうよりはガキに近いか。四歳ぐらいの感じだ。俺は暗くて埃っぽい屋根裏部屋のような場所で父母の帰りを待っている。外は嵐。だが、どうしてだか、雨が屋根をつつくあの騒々しい音がちっとも聞こえない。」
男はその一言を聞いて少しばかり驚いた。中林が突然に夢の話も切り出した事も、そうして彼もまた同じように音の聞こえない夢を見ていたという事が、男にはどうしても不思議に感ぜられた。
「手持無沙汰で、暇という焦燥が嬲るように俺を駆り立たせる。それで、実に都合のいい展開だが、ふと腕を伸ばしたところにその『擱き文』という褪せた紅の装丁の本が置かれていて、それを開く。」
「描写が克明だな。創作じゃないのか。」
「若干補完はしているが、ほとんどそのまま伝えているよ。……それで、この本の中身とやらが非常に奇妙で、不気味で、なんというかおぞましかったのだ。」
「おぞましい?」
「そうだとも。何の気なくその最初の一頁をめくって見れば、そこには一辺5㎝ほどの小さな…アイロニーかぶれの挿絵がずらりと、病的に羅列されていた。」
中林が言うには、その挿絵とやらは一枚一枚が変な悪臭を呈していて、覚えているものだと、針金のような細い体をした首から上がない男女一組が互いの肉体を(文字通り)融かしながら絡み合っている絵。スポンジ状の脳でキッチンシンクを掃除する仮面を付けた乳母。怨嗟の声を百の言語で延々と書き連ねる充血した瞳の少年。男性器を啜る大腸。子宮破裂で死んだ十代の娼婦の、泡立った鮮血を歯茎に塗りたくって射精する奇形の男。それら陰惨な絵画調の挿絵が見開きで、大量に載せられていたのだという。
「俺は怖くなって、本を閉じようとする。その時だ。外で雷が落ちたのか、先程までの昏い静寂を地響きのような爆音が一気に破り捨てていったんだ。恐怖で目をつぶった俺が次に光を求めた時、そこから本はなくなっていた。辺り何処にもない。」
「不気味だな。」
「だろう? しかもだ、俺はあの本に載っていたような非常に悪趣味な挿絵は、類するものも含めて今までで一度だって見たことがないんだ。俺はこれが妙に引っかかった。夢っていうものはだ。よく、その日一日起きたことを脳が整理している時に見るショーのようだものだ、と。そんな事を言う輩がいるだろ。」
男は黙って頷く。
「しかし、だとしたら不可解だ。誓って言うが昨日はそういったゴア映画などは一切として観ていないぞ。つまり、あー……言いたい事が分かってくれるか。」
「夢が記憶を整理しているならば、身に覚えのないパーツが現れるのはおかしい?」
「そうだ。あるいは逆説的に……俺は意識していないだけで、実のところ深層心理の何処かでは、あの残忍な『絵空事』を空想しているのかもしれない。だが、だとしたらだ。俺とは? 俺とは何なのだ?」
中林はニヒルに、しかし重たい語気でそう男に問うようにした。衣を脱いだ赤塚公園の並木が、風に揺れて擦れた音を立てる。舞った路傍の枯れ葉一片が二人の肩の間を通り過ぎていった事に、男も中林も気付かなかった。
「何が言いたいんだ。」
「脳は、我々が知る限り、唯一の考える臓器だ。思考と感情は同じものなのか、そんな事を議論する必要はない。だが、考えてみると、俺の知り得ぬ所で俺を形作ろうとする何かが生み出されているというなら、その私秘にさえ達さない所在不明の想念は誰のものだ?」
滔々と中林は語り続ける。
「……俺の知らない俺。知られもしないのに、いつからかそこにある何か。恐ろしい。俺たちは指先まで、その肉体の末端まで精密に操れるくせに、心についてはまるで無力だ。あの夢を見て以来、まぁつまり今日の朝からだが、俺は自分が不気味でならない。あんなグロテスクなイメージは俺の知っている俺のものではないんだよ。」
「………分かった。実は今日、僕も夢の話をするつもりだったんだ。丁度いい。僕の見た夢も話させてくれ。」
そう言って男は中林に今朝見た夢の内容を語った。中林は今までにないぐらい真剣な表情で傾聴していた。それこそ本当に辺りの雑踏、雑音が聞こえなくなるほど、二人は話に耽った。
夢の内容を語り終えた所で、男はふぅと一息ついて、ふと話を転換した。
「さっき君は僕に、自分が不気味でならないと言ったが、その気持ちは分からないでもない。僕も今朝、自分の心が不安でならなかった。だけれど僕が最初に思ったのは、もっとみじめな事だった。」
「聞こう。」
「ある哲学の命題を思い出したんだ。『誰も居ない森の中で樹が倒れた時、音はするのか?』と。」
「………
「恐らく僕らが見たこの心当たりのない夢は、心裡に在ったから見たのではなく、運悪く見てしまったが故に生じただけなのではないかって。だとしたらその最初の種は何処から来たのかという話になるが、スピリチュアルな話をすれば、超自然的なものと捉える事だって出来るだろう。」
「おいおい、それはちょっと現実味がなくないか。シックスセンスとか虫の知らせとか、前世なんてのを真面目に考察するのは夢想家の仕事だぞ。」
「しかし、僕もまた君と同じように、この偏執的な考えに脚を絡められているんだ。非常に怖い。知られなければ存在しないなんてあんまりだ。恐ろしすぎる。例えばの話ではあるが、僕が今ここであの公園内の丘陵に消えて、そうして誰にも見つからぬままそこで死に絶えたならば、じゃあその死が知られるまで僕はどこに行く?」
「さぁな。ただ誰も彼もが、実際にお前には会っていないにも関わらず、記憶の影に魂を吹き込んで、死ぬのを許さんだろうな。」
「それ見ろ。怖い。僕には耐えきれないぞ。」
「ああ、もう。分かった。この話はやめよう。一連の話はくだらない雑談だとでも思おうじゃないか。馬鹿らしいぜ。いい年した男二人が夢の云々で弱腰なんて。」
「さきに話を持ち出したのは君じゃあないか。」
「話してみると、意外と怖くはなかったよ。自分の中で恐怖だけが巨大になっていたに過ぎない。お前は?」
男は逡巡して、そうしてやはり未だ恐ろしいと答えた。中林は鼻で笑った。空を見上げるといつの間にか雲間から明るい陽射しが差していて、二人は互いに何を言うでもなく、カメラのレンズを大空へと向けた。今日、写真はあまり撮れなかった。それでも友人に秘したる話を打ち明けるのは、やはり多少なりとも心を落ち着かせるようで、夕暮れ時に分かれた後も、男は中林との会話を幾度となく反芻した。
その夜、中林が酔った統合失調症の中年男性に襲われて死亡したという話を男が知ったのは、彼の死後の二日後の事であった。