「す……すみません……」
手近にあった布巾で吹き出したコーヒーを拭いた。
「そうか……君が上杉の思い人だったのか……。
良かったな、上杉」
店長が意味深な事を言う。
思い人?
「そうですよ、永かったです。
三年待ちましたからね」
三年?
何言ってるんだこの人は、私がこの店に来てからまだ二年よ。
それに、付き合ってるって…。
告白した覚えも告白された覚えもないんですが?
しかも、決定済み?
「あ…あの、課長代理?
私は「孝雄っ!」」
私の言葉が遮られる。
「上杉課長代理、私は「孝雄っ!」」
「はい…孝雄さん……」
「何かな?」
「あの…いつから私達付き合うって…?」
「有希?
君は昨夜の事を忘れたの?」
………ボンッ!
思い出してしまった……。
自分で顔が赤くなるのが分かる。
しかし、私は付き合う気はない。
「あー、君たち。
いちゃつくのは終業後にしてくれないか?
仕事に私事は持ち込むんじゃないぞ。
まあ、気持ちは分からんでも無いがな」
店長が割り込んでくれたのでこの話は終わった。
あやふやになったまま……。
そして、この日の昼までに課長代理と私が付き合う事になったと全館に知れ渡った。
もちろん、情報の発信源は課長代理だ。
少しは自重して欲しいが、嬉々として言いふらしていたそうだ。
その代償に昼休みに行く私は数人の女達に拉致され更衣室に連れて行かれた。
そして、課長代理のファンから吊るし上げられた。
昨日の出来事をオブラートに包んでからビニール袋に入れた内容を説明したが分かって貰えない。
まあ、当事者の私も信じて無いんだから当然よね。
男性社員からは好意的に受け入れられた。
課長代理が私にアプローチしていたのに私が一向になびかないのでやきもきしていたそうだ。
アプローチって、全く無かったんですが?
たまに仕事のフォローをしてくれた記憶はありますが?
仕事帰りにコンビニで偶然出会ったり休日に映画館の前ですれ違った事しか思いつかない。
えっ?
それら全部がアプローチの一部?
分かるかぁーっ!
もっとこう、なんて言うか…言葉に出したり……。
そういえば、私って告白してきた人は全員お断りしてたんだ。
男性からの裏切りが怖かったから……。
だから、男性には必要以上に近づかない様にしていた。
そんな垣根を簡単に飛び越えて来たのが課長代理だったのよね。
それが偶然の出会いだったとしても……本当に偶然なの?
でも、フラフラで熱が有ったのは本当だし……。
しかし、課長代理が草食系だなんて言ったのは誰よっ!
周りからじわじわと攻めて逃げ場が無いようにしてから獲物を狩る様な奴は絶対に草食系じゃないから……。
しかも、凶悪なモノを持ってるし……。
目を瞑ると凶悪なモノの形がリアルに思い出され、思わず口をその大きさの形に広げてしまった。
いやいやっ!私そんなに淫乱じゃないからっ!
頭を振り、余計な考えを捨てて業務に戻った。
仕事中に各フロアから頻繁に人が来た。
目的は課長代理と付き合う事になった女が誰であるかを確認する為だ。
持ち場は大丈夫なんだろうか?
今日は平日だけどそれなりに忙しいのに。
私は人から注目されるのが苦手だ、特に男性からは……。
だからなるべく目立たない格好と地味な化粧しかしない様にしてきた。
私を見にきた人、特に女性の反応は決まっていた。
『ふんっ!
何故あんな地味な女がいいの?』
って、捨て台詞を吐きながら去って行く。
台詞の内容は違うけど、ほぼ全員のニュアンスは同じだった。
「疲れた……」
今日は定時で上がらせて貰った。
接客での疲れより社内の人の対応に疲れた。
つくづく課長代理の人気が分かる。
そんな人が私を選ぶなんてあり得ないわ。
何かしら裏があるように思える……。
私なんかと付き合って何のメリットがあるのかしら?
もしかしてアレを飲んだから……?
いやいや有り得ない……。
「待ってたよ。
さあ帰ろうか」
店の従業員出入り口の外に全ての元凶がいた。
「課長代理…仕事は?」
「孝雄ねっ!
たまには定時で帰れるからね。
だから、有希を待ってたんだ」
定時上がりの他の従業員達から好奇の目で見られながら課長代理が私の手を繋いできた。
「さあ、乗って。」
駐車場に連れていかれ、課長代理の車に乗せられた。
「あ…あの課長代理。
ど「孝雄ねっ!」」
「孝雄さん…。
どこに行くんですか?
私の家とは反対方向なんですが?」
「僕の家。
有希は明日休みでしょ。
僕も休みなんだ。
だからずっと一緒にいられるんだ。
それに、昨日の続きもしたいし……」
「き……昨日の続き…って……」
思い出してしまった。
自分で顔が真っ赤になるのが分かる。
「いやいや、待って下さい。
私の気持ちも考えて下さいよ。
昨日は無理矢理だったじゃないですか」
「でも、いやだったら抵抗するでしょ?
有希は僕を受け入れてくれたんだよ?
僕は有希を僕だけの有希にしたいんだ。
他の奴に絶対に取られたくないんだ。
なんならすぐに婚姻届を出す?」
内ポケットから本物の婚姻届を出してきた。
「有希は印鑑を押すだけでいいからね。
そうだっ、そうしよう。
今から区役所に行けば特殊窓口があった筈だ」
「ま…待って…待って下さい。
わ…私課長代理の家がいいですっ!」
「孝雄ねっ!
仕方ないな、区役所は明日にする?」
「いや、明日も無いですから。
それに、私の印鑑も無いですし……」
「そう?
印鑑なんか何処にでも売ってるよ?」
ぶつぶつ言うのを無視して婚姻届を自分のバッグにしまい込んだ。
しかし、こいつグイグイ来るな…。
いつのまにか家に行く事になってるし……。
「分かりました。
じゃあ家に行くので、何処かのスーパーに寄って下さい。
食事を作りますから」
「うんっ!
分かった。
何を作ってくれるの?
楽しみだなぁ」
この笑顔だけを見たら草食系なんだけどなあ……。
近くの高級スーパーに寄った。
高級スーパーよ高級スーパー。
なんなのここ。
玉子一個が百円って、一個よ一パックじゃなくて。
牛肉なんてグラム千円からだし、マヨネーズなんて聞いた事もないメーカーの物が鎮座してる…。
そんな食材を値段を見ずにポンポン買い物カゴに入れていく…見た目草食男子。
まあ、払うのは課長代理だからいいか。
「お酒はどうする?
有希は赤ワインが好きだったよね。
ついでに買っとくか」
なぜ課長代理が私の好みをしってるんですか?
誰かにリサーチしたのかな?
「ふふっ!
夫婦で買い物っていいね。
有希の作ってくれる料理を想像しながら買い物出来るんだから」
「ふ…夫婦って。
まだ結婚してませんからねっ!」
「そう、
なんか墓穴を掘ったような…。
買い物を済ませ、課長代理の家に着いたらすぐに料理に取り掛かった。
献立はスキヤキにする事にした。
簡単に食材を切って並べるだけなのと、高級牛肉を食べてみたかったから。
だって、グラム二千円の牛肉だよ、二千円。
スキヤキ用の肉って一枚づつ紙に包まれてるんだよ。
見た瞬間は何故肉が紙に包まれてるか分からなかったけど、値段を見て納得したわ。
あまりに私が凝視してるから課長代理が買ってくれたの。
一キロも……。
割り下も高級スーパーにあったやつを買ったわ、もちろん聞いた事無いメーカーの高級割り下。
お肉が舌の上でとろけるって初めて経験したわ……。
スキヤキってこんなに美味しいんだ。
課長代理も美味しい美味しいって言いながら食べてくれた。
全て食材のおかげなんですが……。
「ふうー、美味しかった。
ごちそうさま」
シメのうどんまで堪能しました。
明日はこの残ってる出汁で肉じゃがを作ろう。
明日って、私ったら自然にこの雰囲気に馴染んじゃってるし。
ダメダメっ!
男はいつか裏切るから…もうあんな目に遭うのはいや。
「ふうーっ!
サッパリした。
有希も入ってきなよ」
先にお風呂に入っていた課長代理が出てきた。
一緒に入ろうと誘われたが固辞した。
まあ、絶対に言われると思っていたので反論の準備はしていたのだ。
ふうーっ!
気持ちいい。
色々あった一日だったけど、不思議と嫌な気分では無い。
「有希の服は洗濯しとくからね。
着替えはココに置いてるから」
お風呂の外から課長代理が声を掛けてくる。
「は……はい」
強引に入って来られたらどうしようかと思ったけど、それは無かった。
ちょっと残念……。
いやいや違うからっ!
って、洗濯ぅー!
もしかして下着までかっ?
お風呂から出てドラム型洗濯機を覗くと洗濯ネットに入れられたブラとパンティがゆっくり回ってた。
その代わりに、真新しいブラとパンティとガウンが置いてありました。
しかも、私好みのやつが……。