一日で書いたのでかなり荒いです。書き直すかもしれません。
漆黒の意識の中、心の奥底の声に耳を塞ぎ、目をつぶったまま心の中で踊り続ける言葉を死んだ意志で追い続けるベルの耳に、優しい炎が灯った。
『ベルくん』
敬愛する神様の優しい声が響いた。
かみ、さま……
『ベルくん、帰っておいで。何も考えずに、帰って御飯食べてお風呂に入って寝なさい。何もかもその後だ』
何処までも優しく慈愛に満ちたその声は紛れもなく敬愛する神ヘスティアのものだ。
その声が、とてつもなく当たり前のことを言っている。それだけでベルには救いだった。それだけで塞いでいた耳を開き、目を見開くことができた。死に瀕していた意志が僅かに賦活した。
「目が覚めたら、アイズ君とその保護者を交えて妊娠について話し合『今はそれじゃ駄目なんじゃ。
何処までも優しい神様に魔道具を握りしめて現れた祖父が体当たりする。
そのまま、神様を封印とラベルの張られた壺に押し込みきっちりと封をした。
(神様が、おじいちゃんのお姉さん???)
アイズのことさえ一瞬脳裏から消し飛ぶほどの衝撃を受け──
──る筈がない。憧憬の少女に意識を失っている間に犯されただけならまだしも、十日後に着床して憧憬の少女が己の子を孕み己が父となる。
そんな現実を叩きつけられたベルにとって、祖父と主神が姉弟であることなど何事も無いと同義だった。
ぶっちゃけ、薄々悟っていたし。
無反応なベルに向かって、祖父が振り向いた。
『ベル。我が孫よ。よく聞け』
ベルの肩を握りしめる何故か祖父は蒼白だった。それでさえベルの意志を動かしてくれなかったが。
奮い立たない意識の中で、ゆっくりと周りが色づいていくのを認識した。
黄金の麦の穂波。
一面に敷き詰められたような麦畑。夕日に照らされた麦畑の中のあぜ道。
ベルは、こうして祖父に肩を握りしめられたり、手を繋がれたり、肩に乗せられて、家に帰った。
憧憬の少女に、意識のない時に犯されて子供ができるなど。想いもしなかった日々。寂しくとも幸福に満ちていた日々。
その感傷さえも、ベルの意思に灯を灯してくれなかった。
『思うことは色々あるだろう。寝ているときに、惚れたおなごに犯され、初めてを奪われたのだ。
その上、お前は混乱の極致にいるのに、相手は行き着くところまで行き着いてしまっている。子を宿そうとしとる!
釈然としない気持ちは儂にはよぉぉぉぉぉぉ──ーっく分かる。正直、お前が地底湖に落ちて気絶した時に送還されても何とかするべきじゃった。
だが、今は混乱などという贅沢をしておる余裕はない。生きていればこんなこともある。一度寝ただけのおなごに妻面されることも、かぁちゃんといちゃついとる時にアポ無し子連れでいきなり認知してくれと言われることもよくあるんじゃ。そんな子たちがかぁちゃんに始末されるのもよくあるんじゃぁぁぁっ!』
言葉を重ねても反応しないベルを見る祖父の瞳には涙が浮かんでいた。
『一つ一つ確認して、解決していこう。ベル、未だ着床していない今、アイズちゃんはまだ孕んどらん。これは分かっとるな』
「……」
今のベルには、荒々しい強引さではなく穏やかさが必要だと切り替えた祖父の言葉に、コクりと力無く頷くベル。
『では、今のうちにアイズちゃんの胎を刺激──殴るなり蹴るなどの激しい暴行を加えるか何らかの薬物を使えば子は流れる。これも分かっとるか』
「……」
口調は淡々とした穏やかなものでも内容は容赦ない祖父の言葉に反応し、怒りの形相を浮かべるベルに祖父は静かに頷く。
『うむ。では、アイズちゃんとの子を──無理矢理レイプされ勝手に孕まれた子を……はしょった上で偏っとると感じるじゃろうが、事実じゃ。ベル、それは認めろ』
「……」
あんまりな言い草に、祖父をジト目で睨んだベルだったが直ぐ目を伏せて祖父の言葉を認める。事実を端的に言い表したことは間違いないからだ。
『認めたならば声を出す力が無くとも想うのだベル。そうすれば儂には通じる。お前はアイズちゃんとの子を無かったことにしたいのか、無かったことにしたくないのか』
(……アイズさんとの子供を無かったことにしたくない)
『苦労するぞ。違うファミリアの子を。第一級冒険者の主戦力の子を。何よりも、17の子を孕ませるんじゃからのう。お前に非がなくとも──いや、非はないんじゃ。本当に無いんじゃよ。被害者以外の何者でもないんじゃ。本当に、なんでこんな、こんなとこまで儂やあやつに似なくとも……
……ゴホンッ。いや、済まん。本当に済まん。
お前に非がないことなど何の関係もない。安全日だと言われていようが襲われていようが、おなごが「産みたい」と涙のひとつも流せば17の子を孕ませた男が全て悪くなる。それがこの世の理だ。辛く苦しいぞ。周り全てが敵になるかもしれん。その覚悟はあるか』
(……覚悟があるかはわからない。けど、だけど……)
『半端な覚悟では、後悔するぞ』
(……)
ベルには、後悔しないと想うことは出来なかった。
だって、子供が出来て一番辛く苦しむのはアイズだ。
この歳で妊娠して出産する経済的生活的肉体的な辛苦だけではない。
アイズの半生が無意味なものになるかもしれない。
冒険者として一時的に離脱しても、産んだ後直ぐに復帰する。そんな風に上手く行く筈がない。体の急激な変化、勘の鈍り、思考の決定的な変化、幾つものマイナス要素が頭に浮かぶ。
剣姫としてのアイズは間違いなく終わるし、余程上手くいかなければこのまま引退だろう。
そんなこと許せるはずかない。
アイズがどれだけ自分を犠牲にしながら足掻いて頑張って、ここまでの冒険者になったのか。うっすらとしか理解していないベルにも艱難痛苦の日々だったことだけは分かる。
あの日、ウィーネを守ったあの日、アイズの闇を見たベルには分かる。
その日々が意味の無い日々になるかもしれない。
そんなこと許せるはずがなかった。
ベルの子が宿ると幸せな笑みを浮かべてくれたアイズ。アイズがベルの子供を産んでくれると言ってくれて驚きはした。でも、否定的な想いは一切浮かばなかった。
正直、泣きたくなるほど嬉しくて幸せだ。祖父に答えた通り、産んでほしい、と心の底からそう思う。
けれど、それは出来ない。
意味がなくなるかもしれない艱難痛苦の日々だけでない。
アイズは生まれてくる子をベルと繋がる鎖のように使ってしまった。意図せずに『物』として使ってしまった。今はそれでよくとも何時か後悔するだろう。
二つの辛苦を同時に味わい、子を抱きしめながら慟哭して絶望するだろうアイズのことを想うと、覚悟があるなどとベルには思考することさえ出来なかった。
子を産んでほしいなどと言えるわけがなかった。
それ以上に、アイズとの間の子を流す──家族を殺すなど、ベルには出来るはずが無かった。
このやり場のない感情に圧し潰され、アイズにしっかりとした返事も出来ずに無様に意識を失った自分。逃げ出した己への嫌悪感でベルはおかしくなりそうだった。
そんなベルに、祖父はどこまでも愛しい者を見る眼差しを向ける。
『ベル……こんな状況でも、諦めも自棄にもならずに、己ではなくアイズちゃんのことを想う。その想いは何処までも正しく尊い。お前が思考を停止させず、自分以外の誰かに意志を委ねていない証だ。──だが、今だけは捨てろ』
──は?
『今だけは、男として、人生の先駆者として、いや、同じ選択を提示されて失敗した者として断言しよう。悩んで思考を回転する時間などないとな』
一つずつ解決するって、だから子供のこと……
『むろん大事な事じゃ。産まれてくるお前の子、儂のひ孫と同列はあってもそれ以上に重要なことなどこの世にあるはずが無い。だが、今だけは……今だけは優先しなければならないことがある(ひ孫のことは、アイズちゃんがどれだけ腹くくってるか確認した後、まずは二人だけで考えるべきことじゃからのう)』
子供よりも優先しなければならないこと?
『うむ──アイズちゃんの精神的な問題を優先しなければならん』
アイズさんの、精神的な、問題。
『ベルよ。お前が心の奥底では認められても、望みを捨てきれん故に心の表面にも声にも出せないことを言おう──』
おじいちゃん、待っ
『はっきり言おう。不味い、極めて不味い。もう駄目だと言いたくなるくらい不味い』
声から真剣以外の色を消した祖父は、あたかも太陽が東から昇るというように破滅を口にした。それを聞いてベルの頭から今までの迷いがわずかに薄れていく気がした。
根拠のない希望──アイズの精神状態がマトモな状態だから話せばわかるはず、という願望が薄れたのだ。
そう、今のアイズがマトモなはずが無い。自分が知るアイズ・ヴァレンシュタインは肉体関係を強要して子を鎖にするような娘ではなかった。
なのに、今それをしている。それがどういうことなのか。ベルは激しい危機感に襲われる。が、それ以上は出来ない。
『そう、不味い、極めて不味い。精神のバランスが崩れておる。常識や良識を理解して認識していても、それを守ろうとするところが欠けてしまっとるんじゃ。それも、本人にとってそれこそが正常な状態だという認識付きでな。
このままだと精神的に病むならまだ良い。不味い方向に覚醒してしまう危険性がある。儂の惚れたおなご、お前の祖母のようにな』
祖父の眼差しは血走りながらも澄みきった経験者の眼差しだった。気圧され、突然出てきた祖母に疑問を覚える余力さえベルにはない。ここまで祖父が言ってくれているのに奮い立たない。
『進むのだ、ベル。ここまで来たのならば言葉ではどうしようもない。迷うこと無く突き進むしかない。もう車に乗って丘から下っているのだ。丘の上、元には戻れない。お前にできるのはハンドルを切り方向を出来る限り変えて終着点をマシなものにするだけだ。ここで引けば──』
意味が分からない言葉が幾つかあるが意図だけは理解出来た。血を吐くような祖父の声を初めて聞いたのだから。
『お前の惚れたおなごはヤンデレになり、二度とは元に戻れんっ!!』
血走った目には、魂がこもっていた。呼応してベルの心の奥底に雷霆が響く。が、それだけだった。
やり場のない感情で死にかけた意志は雷霆をもってしても起き上がれられなかった。
『ベル、ヤンデレは──』
反応が無い孫にも諦めず、意志が死にかけている孫を起こそうとする祖父。
『そこに──いるのですね』
そこへ、突然美しい女性の声が割り込んできた。
何らかの魔道具を使っているのだろう、雑音混じりの小さな声だった。
その声は歓喜に満ちていた。至福に震えていた。
三日間飲まず食わずで砂漠をさ迷い渇死しつつある人間がオアシスを見つけた時もかくやの、歓喜と至福だった。
声だけで絶世の美女だと分かる美女のそんな声を聞くだけで、男は絶頂するだろう。
そんな声だった。
だが、ベルには──おそらく満面を冷や汗で一杯にした祖父も──恐怖しか無かった。
意志が死にかけているはずのベルにさえ、はっきりとした感情を、恐怖を、その声は感じさせてきた。
その声にはアイズの情念の言葉が仔犬の鳴き声と思えるくらいの情念が含まれていたからだ。
恐怖一色に支配された空間。
だが、ベルの心臓は違った。心臓から循環して沸き立つ血潮は違った。
二度と会えない懐かしい家族の声を聞いたかのような懐古に沸き立ち、使われていなかった部分に熱が灯ったように熱い。
『──そ、そんなっ、もうっ!? ……そうか、裏切ったか……ヘルメス』
祖父が聞いたことがない戦慄に満ちた小さな叫び声を上げ、手の中の魔道具に目をやり聞き取れない罵りを上げ──ベルの耳には『縛られて床に転がされて、神々の女王に虫を見るような目で見下ろされるなんて状況で抗うなんて出来るかぁ!!??』という、知り合いの伝令神の悲痛な叫びが聞こえた──次の瞬間、満面の冷や汗を消し去り笑みを浮かべると振り向いた。
『久しぶりじゃな。我が愛する妻よ』
『ええ、本当に久しぶりですね。あなた──』
声がさらに歓喜と至福を増す。意志が死につつあったベルの意志を強制的に甦らせ、反射的に身を起こさせるほどの恐怖を覚える情念がその声にはあった。
血潮が『旦那さんと下界に居なかったお姉さんしか敬語を使わないヒトだったから敬語が懐かしいわね。普段の傲然とした口調も懐かしいけど』と脈打っていた。
何故、血潮が感情があるように意思を伝えてくるのか。
疑問を抱くべきだろうが、アイズを孕ませたことと美しい声の主のおかげでベルの感情は振り切れていて疑問を抱く余力など無かった。
『──先ほど、あなたはヤンデレは──とおっしゃろうとしてましたが? 何のことでしょうか』
『なんじゃ、知らんのか』
『何をですか?』
『極一部の狭い場所で人気のヤンデレ健康法じゃ』
『まぁ』
『ほれ、ヤンデレ~ヤンデレ~と大きく口を広げて声に出しながら踊ると、体に良いんじゃ』
『まぁまぁ──知りませんでした。本当に、下界には色々なものがありますね』
『じゃろう』
『では、一緒にやりましょう』
『──極一部の狭い場所でしか流行っとらんのじゃが』
『私たち二人だけですることに流行りは関係ありません』
凛とした美しい声にふさわしい明快な口調。
なのに、何らかの予兆を感じたかのように祖父の体は震え、『母さん、ねぇちゃん、助けてぇ』と、声を出せない口元を動かす。
ベル? 子兎のように震えてるよ。
男二人が無力化された場で、血潮が『あれは愛しい旦那さんと二人きりで何かをすることに喜んでいるのよ。他意は──少ししかないわ』と沸き立つ。
他意はあるんだ。
死に瀕していた意志が賦活してツッコミをいれるのをベルは何処か他人事のように感じた。
『相手が身内じゃなかったら、他意しかないわよ。身内判定が峻厳なだけで、身内相手だと甘いくらいに優しくて素直な可愛いヒトなんだから──ちょっと分かりづらいけど』と沸き立つ血潮。
ちょっと?
あの恐怖しか感じられない情念の嵐が?
美しい女性に「ヤンデレ」などと言わせられない。言わせてしまえば死ぬ! 儂が!! そう決意した祖父に「ヤンデレ~ヤンデレ~」と歌わせながら変な躍りを踊らせ、それを手拍子して囃し立て、疲れ果てた祖父が休みそうになれば「なら、私も踊りましょう」とか言って祖父を追い詰めて躍らさせて「もう勘弁して」と祖父に泣きながら土下座させるまで止めないと確信できるほどの情念が、ちょっと分かりづらい?
ベルの中で「ちょっと」の定義が崩壊しながらも、何とかこの場だけは切り抜けた祖父と美しい女性の会話は続いていた。
『──まったく久しぶりじゃな』
『ええ、本当に』
『変わりないお前の声が聞けて、わしゃあ嬉しいぞ』
『あなたは少し変わりましたね』
『ほうかなあ、儂は変わっとらんとおもうんじゃが』
『いいえ変わりましたよ。お声を聞いて確信しました。あなたは少し優しくなりました』
軽やかな笑みさえ含まれた声が一層歓喜と至福に染まる。絶頂したような声から僅かに覗く──
『──私以外の何者かに染められたのですね』
死
──僅かに覗かせた不機嫌の感情に、ベルと後ろ姿を汗でグッショリと染めた祖父の脳裏をその単語が埋め尽くした。
血潮が『あれは、どうして自分はその場に居なかったのかって悔やんでるのよ。自分に苛立っているの』と脈打つ。
『長い、長い離別の時間でした。でも、この再会の喜びに繋がるならば全てを許せます』
声が大きくなり、更なる情念がこもっていく。
『──いえ、許せない。一つ許せないことが。絶対に許せない問題があります』
より一層声が大きく聞こえる。
『私たちの間に、問題があるのです。夫婦の間に問題が、愛し合う夫婦の間に問題がある。あってはならない事です』
近づいているからだ。声の主が近づいているから、大きく聞こえる。聞こえてしまう。
『私たちの間には解決しなければならない問題があります──盗人のことを』
怖い。
今の言葉に殺気でも怒気でも害意でも殺意でも込められていれば、ベルはまだ立ち向かえた。向き合えた。
だが、今の言葉にそんなものはなく、あったのはただ
ならば、ベルはどうなのか。
ベルは祖父に育てられた。唯一の家族として、十年以上もの間祖父に育てられ共に過ごしたのだ。それをこの相手はどう判断するのか。これもまた、ベルには自明だった。ベルと祖父は男同士だとか、そんなものこの相手には関係ない。盗人というのはベルの事だ。
祖父と夫婦というならば声の主は己の祖母だとか、激しい雑音の中どうして何を言っているのかが識別できるのかとか、そもそも祖父は生きているのかとか、ひょっとして祖父が自分と浮気したと思っているのではないか男と男なのにとか、いきなり意思を伝え始めた己の血潮は何なのか、疑問の数々を脳裏に浮かべる余裕さえベルには無かった。
ただ怖い。
滝のような冷や汗が祖父の背中から流れる。潤む瞳に映る祖父がぼやける。意識が途絶しそうになる。
『盗人のことを──私の娘とあなたの子であるあの節操のない駄犬の間に産まれた子供のことを。私たちの孫のことを解決しなければなりません』
同時にベルは会いたかった。
声を聞いた時から鼓動を速める心臓。心臓から巡る血が懐かしさに脈打っていた。
脈打つ血潮に心を委ねて声を聞けば、恐怖以外に想いは変わり声の奥底に隠れた想いが聞こえる。
声には情があった。泣きたくなるほど愛しい強い情が。
祖父が他の者の色に染められたと怒り狂うように、激烈かつ苛烈であっても、悪辣でも卑劣でもない情愛に満ちた声だった。
流れる血潮が『あれは会いたくてたまらないけど、素直にそれを言うと自分の威厳が損なわれるんじゃないかって気にしているのよ。旦那さんは、ちょっと強引にでも手を引っ張ってあげないと』と脈打つのに深く同意する。
そんな、あまりにも強く激しいがゆえに、よく知らない他者には恐怖しか感じられない情が、ベルは泣きたくなるほど愛しく懐かしかった。
会って話したかった。
……聞き間違えてなければ、父の父が祖父で母の母が祖母であり、祖父と祖母が結婚している上で、父と母がベルという子を成す関係とはなんなのか。
『近親相姦』という闇の濃い単語を脳裏から全力で追い出しながらベルは祖母に会いたいと思う。
血潮が『ちょっと……主神と眷属なんだから、そんな闇が深すぎて吐きたくなるような関係に括らないで』と脈打つのに頷く。
(そうか、そうだったんだ)
今まで心の奥底では認められても、望みを捨てきれない故に心の表面にも声にも出せなかったこと。さっき祖父を制止しようとしたことを受け入れ頷く。
(おじいちゃんは神様なんだ)
そして、祖母は女神なのだ。
何らかの理由でベルを育てられなかった両親が、主神に、自分たちの親にベルを預け、預けられた祖父は愛情を注いで育ててくれたのだ。
それは、祖父母が神と言うだけの当たり前の家族の形だった。
ファミリアを家族と想うベルには、ヘスティアを主神とし、その眷属に、家族になったベルには、納得と理解と安心以外抱かない当たり前のことだった。
今まで、心の奥底にあった棘。育ての親が神であり両親の顔を知らないという寂しさが拭われたベルは、顔を上向きにして祖母の方に向ける。
(なら、どうして)
無様でも、何故、祖母は祖父と一緒に自分と居てくれなかったのか、こんな二人と家族として一緒に居たかったと縋り付いて責めたく──
『あの、何人もの男を咥えこんで恥にさえ思わない──貞淑を知らない雌豚共、私が躓いた途端に落ち目になったと見て囲んで叩いてきてすべて奪い去ろうとっ』
突然の激昂──躁病の人間のような突発的で激しい激昂。
初めて声に怒りをにじませた祖母の声。あまりの迫力と威圧に、ギシリと空気が凝固する。その恐さは、ベルに祖母が居なかった理由を触れてはならないと魂に刻み込ませた。
流れる血潮も『旦那さんが
『お姉さまの爪の垢を煎じて飲ませるべき糞虫共の相手をしている間、あなたと共にいてあなたを染め、あなたに染められた子供のことを……──あの子たちの子供のことを、孫であり盗人のことを解決しなければなりません』
『いや、落ち着いて連絡した時、お前はおばあちゃんと呼ばれるのだけは耐えられないそんなに老けているように見えるのか──』
『あなた』
『……なんじゃぃ』
『相変わらず、女の機微に疎いようですね。困ったお方です』
聞き分けのない相手に静かに激昂した、そんな声に祖父が身構える。
だが、ベルの血潮は『あれは、旦那さんが手紙で済ませて直接来ないことに拗ねてしまって、そのまま会いに行かなかったことを後悔しているの。で、そういう事に相変わらず疎い旦那さんに、正直に話すか迷っているのよ。美人な上で可愛いなんてやっぱり母さんって無敵ね』と脈打っていた
ひょっとして、素の祖母は割と天然なのではないか。ベルの脳裏にそんな疑問が浮かぶ。
『男性たるものそういうことに目端が利かなければなりません。それが義務だろ、とお姉さまがよくおっしゃっていました。流石お姉さま、もっともなことをおっしゃいます』
どうやら、祖母は有耶無耶にすることを選んだようだ。血潮も『母さんが素直になるのは、年に一度もあればいい方だったから仕方ないわね』と脈打っている。
生暖かな想いに浸るベルとは違い『ン億年処女のねーちゃんに男がどうのこうのを聞くのは愚行じゃぞ……いや、ねーちゃんに「男」教える奴が居たら、それがそやつの最後の日じゃが』と物騒なことを呟く祖父。背中を向けていても決意の眼差しをしているのが確信できた。
血潮が『あのふたり、ひとりのお姉さんにだけはシスコンなのよ』と脈打つ。
……祖父と祖母のお姉さんってどんな人なんだろうなあ。あのふたりに慕われるんなら、きっとすごくすごく優しい人なんだろうなあ。神様だから当たり前だよなあ。僕って、祖父母にトラブルがあって大叔母に育てられたことになるんだなあ。
生温い想いに浸るベルに気を取り直した祖母の声が聞こえる。
『あの子たちの子供とあなたがどう過ごしたのか。直に会ってから話していただきます。私にこんなみじめな思いをさせ、耐えがたい時間を過ごさせた……責任を取らせなければなりません』
魔道具に限界が来たのか、プツリと祖母の声が消える。祖母の声が聞こえなくなると同時に止まった血潮の脈打ちがなくても分かった。
あれは『祖父と共に速くベルに会いに行きたい。会ってから、これからどうするのかを決める』そう言っていた。
よく知らなければ、柔らかく優しいと呼ぶべき玲瓏な声が処刑宣告に聞こえるんだろうなあ。誤解されやすそうな祖母の言葉に暖かい想いを抱く。
祖母の声が途絶えると同時に祖父はゆっくりとこちらに向き直った。
『ベルよ。儂は行かねばならん……心配せんでも、あやつはまだお前の所へは行かない。儂が行かせん。だから──』
それは覚悟を決めた男の眼差しだった。
夫という一番の身内の癖に、祖母の秘めた想いが、ベルを殺そうとしているのではなく会って同じ時間を過ごそうとしている想いが伝わらない
祖母に会いたいと思うベルは、思わず半眼で祖父を見る。ひょっとして祖父は、あんな素敵な祖母に会いに行きもせずに放っておいて「ワシと一夜のアバンチュールをせんかぁ」とかナンパしたり覗きをしていたのか。しかも、「女房?美しい女じゃった。愛しい女じゃった。じゃが、もういないんじゃ(涙を流す)少し、少しの間だけでええ、そばに居てくれんか」とか健在な祖母を居ないものとしてナンパしていたのか。そんな過去を思い出すベルの中では、祖父の株が音を立てて崩壊していた。
祖母最大の激怒状態『旦那が浮気して他の女を孕ませた』状態を知らないベルと、知り抜く祖父とでは祖母の恐さに対する認識が違うのは当たり前なのだが、その辺を突っ込める者はここには居ない。
『己の心の裡の声を聴け。己の心の裡の声のままに動け』
ぽすんとベルの肩の上に暖かな手のひらが乗っかる。株が大暴落していても、懐かしくあたたかな愛情あふれる手。
その手が肩に置かれたベルは、自分が何時の間にか立てていることに気付いた。
(ありがとう。おばあちゃん)
祖母の情愛により心が賦活していることに気付いた。
『大切なのは、お前自身が決める事じゃ。お前が見てきたこと、聞いたこと、乗り越え、時には相談したこと、それをまとめた想いがその心の裡にある。その思いに従え』
万一、いや億が一、かぁちゃんが行ったら出来る限りねーちゃんから離れるなよー! 今のオラリオでかぁちゃんが問答無用じゃなくなるただ一人じゃからなー、と残して祖父の声は消えた。
同時に、黄金の麦畑も霧がかかったように煙り消え去っていく。
消えていく麦畑を見つめながら、ベルは想う。祖父母の姉、祖母、祖父、両親、知ったばかりの事に伴う無数の想い。急激に膨れ上がる想い。想いは奔流となって、祖母に与えられた限度を越えた精神への衝撃によって強制的に目覚めさせられたベルの意志を賦活させてくれる。片方だけで意志を体に巡らせることさえできなかった。
だが、二つ揃った今、ベルはゆっくりと閉じていた瞳を開けることが出来た。
開いたおぼろげな視界の中には、夜叉が居た。
長い髪で顔の半分を隠し、残りの部分が際立つ。黄金の双眼。ありとあらゆる漆黒の意思でかき混ぜらせ煮立てられたぽっかりと開いた闇。
輪郭は人。紛れもなく人でありながら、人でありすぎて怪物よりも禍々しい。
その禍々しい生き物──アイズの中身が禍々しいものに入ったような存在は、赤い唇を開き、赤い口内を見せる。
「ひょっとして、ベルは──嫌、なの私との子供」
尋常ではない眼差しで、キスを応えることなくずっと無反応だった自分を見つめるアイズは恐ろしい圧力をかけてくる。
さっきまでの自分ならば肉食獣におびえる兎のように震えて動けなかっただろう。アイズを決定的な方向へ進ませると分かっていても、あまりの闇に、威圧に、憤怒に、得体のしれない生き物に見えて、呼吸さえ出来ずにおののき動けなくなってしまっていただろう。
だが、祖母という比類ない圧(身内モード)を知ったベルには、まったく恐くなかった。それどころか、闇に飲まれ荒れ狂っているようにしか見えないアイズの姿がまた違う風に見えた。
憧憬の少女。
彼女に憧れた。まるで英雄のように自分を助けてくれた少女に憧れた。少女のような英雄に成りたくて、少女の横に立てるように強くなろうと決意した。
彼女の美しさに一目惚れしたことは間違いない。出会いに胸が高鳴ったのは間違いない。
けれど、自分が、ベル・クラネルが一途に目指したのは、彼女であって彼女ではなかった。
あの黄金の草原の中、祖父から何度も聞いた英雄という具体的な形のない象徴こそを目指していた。
アイズは、剣姫と呼ばれる少女は、あの時の自分にとって最も理想の英雄に近かった。だから、憧れ目指した。英雄という覆い越しのアイズに、剣姫に憧れ目指していた。
今、それを理解した。
理解したベルは改めて憤激に荒れ狂って怪物のように見えるアイズを見た。
憧れの、英雄という名の覆いを消して、剣姫ではないありのままのアイズを見た。
「い、いやなんだね……わ、私っ、子供、つくって、でも、ベルはっ……」
そこに居たのは、強く優しく、脆くて弱い、意地っ張りで頑固で、天然気味の少女。
「子供、ぃても……ベルは…………私の……英雄じゃっ、なぃ……の……やめて……お願い……」
助けてくれる英雄をずっと待ち続け、ようやく現れてくれた
「ベルが、居ないと……わたし、もう……どうしたら、いいのか……」
肉体関係という既成事実を作り、子供という鎖が無ければ、安心できないほど幼い未熟な少女。
自分を、ベルを英雄だと思っている少女。
それが──ベルが好きになった女の子だ。
「アイズさん」
「あ……」
全てを理解したベルは、ただその名を呼んで抱き締めた。
アイズのしなやかな裸体を胸に抱きしめながら、同じく未熟な己の体温を伝える。
「べ、ベル……」
ベルはアイズとの子供を流す──殺すなんてできないし、アイズもできない。だから、子供は必ず生まれる。
その子供を鎖として使ったことがどれほど愚かな事だったか。アイズは何時か知るだろう。そう遠くないうちに知るだろう。そして、死ぬほどの自己嫌悪に陥るだろう。
だから、その時には自分が一緒に居よう。後悔させないために後悔しないために一緒に居よう。
愚かで未熟なふたりなのだから、誰かに助けらてもらいながら子供を一緒に育てよう。助けてもらえるように乞おう。
……あぁ、本当に僕は愚かだ。
そうしたいと伝える前に、何よりも先に、彼女に言わなければならないことがあった。
己の裡の想いを伝えなければならなかった
「アイズさん。聞いてください」
彼女に、この想いを伝えなければならない。
「僕はあなたが好きです」
エロが無い(絶望
次からは結の章です。