学園までのいつもの坂道から、遠くで白煙が昇っているのが見えた。火事だろうか。サイレンは聞こえないが、消防車が走るのは見えた。ボヤで済めばいいけれど。
「エルヴァ先輩、早い」
朝練がなくなった本日の私は、毎度の士郎クンとでなく、トロンメルを従えて登校していた。エルマはいつものようにバス通学だ。
ちなみに士郎クンもエルマにも朝練はある。だからもっと早く家を出ている。3年生の私とマネージャーという肩書のトロンメルだけがこの時間だった。
そしてこの頃のトロンメルは、私をエルヴァ先輩と呼ぶようになっていた。
「やっぱり、坂がキツいですか? トロンメル?」
「はい……。ホームセンターで買った、6段変速のママチャリじゃ厳しかったです」
事前にアドヴァイスもしたけれど、自分の中で決めた予算があったらしく、トロンメルはホームセンターの自転車を選んでいた。それでも、陸上で鍛えたこの子の体力なら登れない事はないと思う。
だけど馴れていないから、少し厳しかったようだ。弓道部との掛け持ちだから、基礎体力を上乗せしたいという発想は良いと思う。それで応援と道順を教える意味で、本日こうして付き添って登校したのだ。
「少し休憩しますか?」
コクリと頷き、トロンメルは背負ったカバンから水筒を取り出しお茶を口に含んだ。中身はよく冷えたジャスミンティーで、これはトロンメルだけでなくエルマも私も同じだった。
よく日に焼けた肌。私の褐色の肌と遜色ない。おでこに水筒を当てて冷やしている、夏服姿が可愛らしい。対する私は長袖のブラウスだった。少し早いが、風を当てておきたかったのだ。
トロンメルが涼んでいる間、私はスイスのエルヴァちゃんから届いたPCメールとエルから届いた手紙の内容を考えていた。凜が来ているのは知っていた。ルヴィアや凛とともに会ったからだ。
だけどそれを私は、時計塔での授与式を受けるためと、巫女の姉さんとちぃ姉さんを連れ帰るためだと勝手に思い込んでいた。エルは凜に一任し来ていないものだと。
だけどエルは来ていた。どこで何をしているのか知らないが、エルヴァちゃんからのメールが届いたと同時に、切手が貼られていない手紙が郵便受けに入っていたのだ。
『世界が変わります。ですが、あなたは動かず今ある日々を大切に送りなさい』
意味がわからなかった。だけどこの世界で何かが起きるとエルは識ったのだろう。エルヴァちゃんのメールも『動くなと言われました』という内容だった。
何かが確実に起きる。不安もあるけれど、エルに任せるほかはなかった。だって……小学部前のバス停に止まったバスから降りてくる小学部生の中におチビちゃんやクロエちゃんの姿が見えたからだ。
私はあの子達の姉でありたい。ここで幸せに生きていきたい。
「あ、手を振ってくれてますよ?」
「うん」
トロンメルと一緒に手を振った。朝練がないとこんな時間なんだ。それはすっかり忘れていた新鮮な感覚だった。
『今ある日々を大切に』
そうさせて頂こう。だけど無事に終えれば、必ず何があったか話して欲しい。『どうか無事に……』そう願って私達は校門を潜った。
郊外にある工場兼営業所での視察を終え、グアダラハラ市の観光も終えた僕達はとあるバス亭に居た。本当ならこんな治安の悪い国はさっさと出るべきだ。飛行機で次の目的地であるアメリカに入るべきなんだろう。
だけどシロウはこのメキシコという国が気に入ったのか、興味が湧いたのか、もう少し見て回りたいと言った。期間は1年。そう急ぐ旅でもない。
だから少々高く付くけれどバスでティファナを目指すことにした。そこからカリフォルニアに入る算段だ。ここグアダラハラからだと、バスで60時間近く揺られる事になる。
それでも窓から見える光景や、行き交う人々の存在が少しでも感じられるバスにした。実際、少々早く移動しすぎていたと思っていたところだ。
でも、恋人が襲われそうになった国が気になるのか。シロウは存外大物かもな。
「だってコイツ、将来英霊になる可能性があるんだもの」
は?
「バカ、言うなって。フンボルトが戸惑うだろ?」
ふ~ん……。
「それってさ、エルヴァと関係がある?」
シロウは意表を突かれたという顔をした。
「英霊という現象が存在するのは知っている。だけどさ。こういう言い方は悪いけれど、君よりエルヴァの方が可能性が高いように思う。いや、彼女はとっくに確約済みか?」
「参ったな……。いや、それはないよ。詳しくは俺も知らないけれど、彼女はどうやら何かの術で英霊の能力を自分のものとして扱えるようだ」
やっぱり魔術か。だけどその存在感とリアルさが余りにもなぁ。
「何か気になるの?」
「そりゃ気になるよ、リン。ズバリ聞くけど、彼女はあの白髪の男性、彼の能力が使えるんだろう?」
「うん」
「意外とあっさり白状したね?」
「誤魔化してもしょうがないわ。それだけの存在感が彼女にあるのは事実だから。魔術師だったら誰だってわかると思う。それくらい放つ魔力と存在感が桁外れなの。ね、士郎?」
「そうだな。だけどアーチャーが言うには、かなり変質しているらしい」
「それがエルヴァの才能なのか、その術を使うために必要な触媒の性能から来るものなのかは不明だけれどね」
「やっぱり、そういう触媒なんかを?」
「ええ、使っていると思う。それ以外考えられないもの。まさか英霊と融合している訳でも無いだろうし」
そうだね、それはないだろう。もしあったとしたら、自らの存在を喰われてしまうのがオチだ。
「フンボルト? 思ったより驚かないな?」
「以前も話したけれど、僕は魔術師の末裔だからね。それなりの知識はあるよ。と言っても神秘がこの世にあるって事がわかっているだけだけど」
「遠縁がアインツベルンって本当?」
「母方のお婆ちゃんのね」
リンは前々からアインツベルンという名にこだわる。何かあるらしい。
「アインツベルンに何かあるのかい?」
「ええ。私と士郎の事は調べてあるでしょう?」
「まぁね」
「こっちもこの世界に残る上で、そこは正直に全部話したからね。で、日本の冬木ってところで60年に1回、聖杯戦争って儀式があったのね。それの第四回が中途半端に終っちゃって。それで次の第五回が10年後に始まったの。そこに当時高校生だった私と士郎が参加したってワケ」
7人の魔術師が集い、それぞれが英霊を召喚し相争う儀式。
「それさ。どことどこが始めたのか知らないけれど、欲しいのは英霊そのものなんだろう? 彼らの持つ、その膨大な魔力で以って更に大きな何かを成す。そういう儀式なんだろう?」
「誰かに聞いた?」
「いや。君達の調査書にも、聖杯戦争の中身というか詳細は書かれていなかったよ。だけどあれだけポンポン喚び出せるのなら争う事に意味を見いだせない」
リンが手のひらを顔に当てた。
「だからそれは、あいつらやエルヴァって子が凄過ぎるのよ。普通は大霊脈に繋がった巨大な魔術装置が必要なのよ?」
「だろうと思うよ。それなりに働きかける大掛かりな陣も必要だろうし」
「そう。それでウチのご先祖と、間桐ってところのご先祖と、アインツベルンが組んで儀式を始めたのよ」
言われてみればそうだ。どうしてあの子やエルヴァ達が英霊と一緒に行動していたのか? それはノウハウを持っていたからだ。だから喚び出せたんだ……。
「まさか、会長が……?」
「いいえ、あの人は関係なかった。ややこしいけれど、私の知っているアインツベルンはごくごく一部だった。そこまで大きくて古い家門だとは思わなかったわ。教えて頂いた名はユーブスタクハイト・フォン・アインツベルン。ここでは滅ぼされたそうね?」
「会長が?」
「本当に知らないの?」
「知らないよ」
「そのエルンスト会長に聞いたお話だと、衛宮切嗣が奥さんとともに、奥さんと産まれたばかりの赤ちゃんの自由を勝ち取るために滅ぼしたのだそうよ」
「その名は並行世界の……シロウの父親?」
「そういう事になるわね。そしてここでは、あのエルヴァの実の父親なんでしょう?」
「お嬢さんか……」
「ええ。だってここの私はまだ高校生だったじゃない」
「となると、鉱石科の主席を分け合ったのは並行世界のルヴィア?」
「正解。まさかあんなに仲が良いとは、夢にも思わなかったわ……」
並行世界……。SF的な解釈しかできないけれど、どうも世界ごとに色々違うようだ。
「フンボルトは魔術回路があるのか?」
「一応。33本だったかな?」
「33本も? どうして魔術師にならなかったんだ?」
「それは至極単純。食っていけないからさ」
「え?」
「だから……魔術が使えたからって、そのスキルが何の仕事に役立つんだ?」
「それは色々あるだろう?」
「無いよ。秘匿が優先され、公にできないスキル。それは経済活動に役立たないと思うな。シロウはその辺りをもっとよく考えた方が良い。スーパーパワーで、メシもいらず困らないってなら別だけど。やっぱりリンがゴールド・クリプトナイトになってあげないと」
「クリプトナイト? それ、弱点って意味でしょう?」
「理性を保つって意味合いをゴールドに込めた積もりだけど」
「ああ、そういうのがあるのね?」
「そうそう」
「フンボルトってアメコミ好き?」
「割とね。趣味は旅とアウトドア。イタリア南部が好きで、学生時代から何度も行ってるよ。それとスペイン南部」
「それでスペイン語を?」
「カタコトだけど何とかね」
「旅か……」
「だからこそだよ。今回のというか、この1年を実りあるものにしないと。全額出してくれる会長に感謝しなよ?」
「だな」
「そうね」
これであんな道路の真ん中で、どでかい剣を出したリスクがわかるだろう。即座に動ける彼は凄いが、裏返せばそれは何も考えていないって事と同じだ。
リンというパートナーが居て本当に良かったと思う。でなけば、シロウは危ない。いつか隠蔽を優先する誰かに消される。直接的か間接的かはわからいけれど……。
そうはなって欲しくない。だから会長は僕を水先案内人になれと指名したんだ。
予定通り夜行のバスが来た。僕達は運転手にチケットを見せて、荷物を預け席に座った。
食料と飲料はたっぷり用意した。この行程だと長時間の休憩が取れるのは、シナロア州のロス・モチスかクリアカンだけだった。なのでロス・モチス行きのチケットを購入した。そこまで14時間は掛かる予定だ。
選んだバス会社は『TAP』。長距離バスは幾つかの会社があって、ここと『ETN』が良いとガイドに載っていた。また、ホテルをチェックアウトする際にフロントの人もその二社が良いだろうと言ってくれた。
なのでバスの発車時刻まで暇になった僕達は、グアダラハラの街を散策していた。食料はその時に買ったものだ。
「短時間のトイレ休憩なんかはあるのか?」
「直行だ。トイレはバスにあるから」
意外だけど、シロウもリンも夜行バスは初めてらしかった。
「英国で旅に出たりしなかったの?」
「何度かしたけど、金もないしな。電車で行ける範囲だった。それ以外はルヴィアに誘われてハイランドに行った。けれどあれは自家用車だ」
ハイランドとはスコットランドの北部高山地だ。古風な言い回しだな。だけどあの辺りは人がほとんど住んで居らず、ガソリンスタンドの存在も怪しい。よくそんなところへ。
「何かの儀式でもあったの?」
「うん? 儀式って事はないけど、こっちのルヴィアの用事だったんだ。だから正式に招待されたのは遠坂で、俺はその付き添い兼運転手さ」
ふ~ん。だけどそういうのがあって、それでロシアの草原を英国のどこかと勘違いしたのかもね。
「他は?」
「他か……。ウェールズやコーンウォルが多いな。あそこは何度も通った」
へぇ?
「それはどうして?」
「それは……俺の喚び出したセイバーが、アーサー王だったからだ」
本当に過去の……存在も疑わしい『伝説』からも喚び出せるのか……。
「フンボルトはロシアでの、仲間の正体を知らなかったの?」
「英霊っていうのは知っていたよ。けれど、どういう人だとかそういうのは知らない。それを尋ねたりするのは禁則事項だったんだ」
「それで……。徹底していたのね?」
「だね。お嬢さんも自分の英霊を偽名で呼んでいたろう? 確かモードレッドだっけ?」
「それ、多分本当の名前だと思う」
え?
「どういう意味だい、リン?」
「良いわね、士郎?」
「ああ」
どういう事だ?
「士郎が召喚したアーサー王は女の子だったの。そして反逆の騎士はアーサー王の実子だった。あのモードレッド……セイバーにそっくりだったのよ」
それで初対面の時、あれだけ驚いていたのか。エルヴァお嬢さんは、何を思って反逆の騎士を喚び出したんだろう? いや、その前に女の子なんてあり得るのか?
だけど彼女はハッキリと目の前に存在した。きっとそういう事もあるんだろう。
「他が誰だったかもわかるわよ」
「そうなのかい?」
「ええ。知りたい?」
「まぁ、そこはね」
「じゃ」
「遠坂?」
「大丈夫よ。令呪に縛られない仲間なんでしょう?」
「そうだった」
「ね? サーヴァントじゃないのよ」
そして軽くリンは息をついで教えてくれた。
「ランサーはクー・フーリンよ。そうアイルランドの彼。それでランスロットは、間違いなく円卓のランスロット卿。それから、エルヴァ達が先生と呼んでいた彼がケイローン。下半身が馬じゃないから別かも知れないけれど」
なるほど。で?
「で、白髪の彼が士郎。英霊に至ったエミヤシロウよ」
僕達はかなり小さな声で話していた。なので大声を出さないよう自分で自分の口を押さえた。それくらい驚いた。結局、リンが防音結界を張っていたので問題はなかったんだけれど。
「そして私が聖杯戦争中に召喚したのも彼だった。存在が少し違うようだけど」
「それで君はシロウの可能性を知ったのか?」
「そういう事よ。何をすれば、こんな現代で英霊になってしまうのか……ヤレヤレだわ」
「まったくだね。自分を抵当にでもして、借りたのかな?」
「フンボルト、あなた本当に賢い。多分、私もそうだと思う。何かがあって前借りしたのよ、その能力を。それを返せと永遠にこき使われるの」
なるほど……何となく見えて来た。
「シロウは彼に殺され掛かった?」
「ああ……」
バカだ。死んで自分が間違っていた事に気付いたんだ。遅い。世界に組み込まれるリスクも顧みず飛び込んで……後悔したのか……。並行世界のシロウを殺しても自分じゃないだろうに。
「知識なき者の憐れな末路だ……。こういうのって時計塔では教えないの?」
「身も蓋もないわね。そこまでわかっている教授が居ないのよ。もしくは教えられない……禁忌に触れる内容なんでしょうね」
「教えたくとも教えられない……神秘を深く識るからこそ話せない事か。つまりは世界の根幹に関わるシステムの話になるんだ?」
「その解釈で良いと思うわ。士郎、わかった? 魔術師でないフンボルトでもここまでわかるのよ? 決して後悔しない、俺はお前とは違うなんて、アーチャーもどこかのアーチャーに言った可能性があるのよ? わかってる? これって世界に都合よく利用されているって事でもあるのよ? 大富豪で永遠に3しか引けないのと同じなのよ?」
『大富豪』って何だと尋ねてみたら、ドイツの『アーシュロッホ(アスホール/尻の穴)』と似たカードゲームだった。細かなルールは違うようだが(どのみちアーシュロッホもローカル・ルールだらけだ)、『大富豪』というタイトルは良いね。ドイツ人は本当に口が汚いよ。
だけどリンがここで、そのゲームを例えで出した意味に気づいて少し驚いた。その内容というか構造は、僕がファヴェーラで思い描いていた事とほぼ同じだったからだ。
更に彼女はもっと踏み込んでいた。『世界に利用されている』という発言だ。だけどこれは感情が高ぶって、うっかり出て来た言葉だろう。リンほどの魔術師が言っていい事ではないと感じた。だからそれに関しては尋ねなかった。
その後、軽い食事を終えて、僕達は眠りに就いた。座席はリクライニングできるし、足元が広い。フットレストもあるので思った以上に快適だ。
旅慣れている僕はどこででも眠れるという特技があった。おまけに隣の席が空いていた。だからぐっすり眠った。起きたのは夜明け前。トイレに行きたくなったからだ。
同列の通路を挟んだ反対側がリンとシロウの座席だ。リンはシロウにもたれてすやすやと眠っていた。だけどシロウは暗い中、窓の外をジッと見詰めていた。
「眠れなかったのかい?」
「いや、少し眠れたよ。考える事が色々あって……」
「そうか」
もっと話を聞いてあげるべきなのかも知れない。だけど会話するには憚られる状況だ。なので僕は『後で』と言い残してトイレに向かった。
トイレから戻るとシロウが頻りに前を気にしていた。
「ここは多分クリアカンの辺りだと思うけど、何か気になるのかい?」
「フンボルト、何も感じないのか? 何か変だぞ?」
「何が?」
そう言った瞬間にバスが何かの中に入った。煙、或いは霧。もし目で見えていたなら、そういう中にバスが入った。だけど目には見えないし、少なからずあのロシアで感じたような『魔力(マナ)』でもない。
「こ、これって……」
異変を感じたのかリンが起きた。だけど周囲の人々は眠っている。起きている人も居るが、そういう人は元から早起きか、眠れなかった人だ。だからこの異変には気付いていない。
だけど僕も正直わからかった。違和感は感じる。ある領域にバスが入ったという感覚はある。なのにそれが何なのかわからなかった。
「遠坂?」
「結界なのかしら? 違和感はあるのに魔力を感じない。万一の事を想定して、気持ちだけ切り替えておきましょう」
彼女は芯が強い。想定外の物事に対処する心構えが一瞬で出来上がっていた。先程までの彼氏にもたれる、少し甘えたがりな雰囲気が消え、シロウと一緒に前のウィンドウを睨んでいた。
バスが通る高速道路には問題がなさそうだった。だけど道路の外に見える、クリアカンの街……その至るところから黒煙が昇っていた。
「火災? いえ……テロ?」
「……わからない」
ここで乗客の誰かが叫んだ。この高速道路から見えた他の道路でクルマが爆発したのだ。
「やっぱりテロ?」
『Terroranschläge am 11. September 2001(September 11 attacks)』はまだ記憶に新しい。だけどこんな……言っちゃ悪いがメキシコの地方都市をテロリストが狙うか?
「戦争が始まった……?」
「それはないと思いたい。何より空爆を感じない……」
爆弾が落ちる風切り音も、ミサイルの飛翔音もしない。そもそも現実的でない。仮に海からの攻撃だとしても、ここまで飛ばせるミサイルならもっと大きな爆発になるだろう。
あんなクルマ1台だけが吹き飛ばされる小規模、かつ限定的な攻撃が可能とは思えない。つまり軍艦や潜水艦からの攻撃ではない。となれば大陸間弾道ミサイルという事は絶対にない。
もしそうならこんな悠長にモノを考えられない。中心地なら蒸発しているだろうし、数キロ圏内なら爆風で死んでいただろう。
ならこれは……。もう窓の外は煙だらけだ。街の至るところから黒煙が立ち昇っていた。とうとうバスは止まってしまった。視界が悪過ぎこれ以上走るのは危険だと運転手が判断したのだ。
賢明だと思う。運転手はきちんとバスを端に寄せていたし、問い詰める乗客にも丁寧に対応していた。だけどこんなのわかるわけがない。どう答えれば良いんだ?
「シロウ、行くぞ」
「ああ」
僕とシロウは乗客に向かって拙いスペイン語と英語で語り掛けた。
「今、何が起きているのか……それはドライバーにもわかるはずがない。余りにも想定外な事が現実に起きている。戦争なのかテロなのか、或いは単なる事故なのかも不明だ。だけどこの状況から判断できるのは、視界がひらけたら再出発してここから少しでも早く脱出する事だけだと思う。何故なら街がこんな状態だと、緊急車両も走れないし、救けも望めない。なので、この路側帯を手懸りにゆっくりと前進して、ともかく先に進み、この街から一刻も早く脱出する。それしかないと思う。どうかな?」
パニックを起こし掛けていた乗客がやや落ち着いた。
「道路に降りて逃げられないか?」
「このなんなのかわからない状況や、攻撃から逃げたい気持ちはわかります。ですが、このバスが一番早く危険地帯からの距離を稼げる。運転手さん、ゆっくりで良いから右のガードを目印にして前に進みましょう」
「わかった」
そしてバスは、葉の上を這うエスカルゴのようにノロノロと動き出した。それで良い。取り敢えず動けば、それは安全圏への脱出を意味する。
恐怖から来るストレスは大きいが、乗客は冷静さを取り戻した。こういう時、助かる見込みがあるというラインを引くのは有効だ。今僕は、暗に違う街へ行けば安全だと言ったのだ。
だが本当にそうなのか、それは誰にもわからない。行った先はもっと酷い状況かも知れない。だけど前に進むしかなかった。何故ならバスの通り過ぎた後ろは完全に真っ黒で何も見えなかったからだ。
やがて前方の客席から絶望の混じった悲鳴と嗚咽が聞こえた。フロントウィンドウの前も真っ黒で、これまたクルマが燃えていた。
そんな煙の中でゆらりと人が動いた気がした。シロウが立ち上がった。
「あのヤロー!」
「抑止が動いているの!?」
リンまでが声を上げた。その男はゆっくりとこちらに向かって歩いていた。そして手で停まれと合図を出していた。
「何か、違うんじゃないか? 危険を知らせてくれているように思えるよ?」
「みたいね」
「また、別のアイツなのか? それともロシアの?」
正にその赤い外套を纏った男性は、あのアーチャーだった。止まったバスに彼が乗り込んできた。
「こちらも旅の最中で怪しい者ではない。そこで情報を提示する。この道路の先は燃える車両で塞がれ危険だ。私と仲間はクルマを棄ててここまで歩いていたのだ。こちらのバスにしても、引き返す事もままならんだろうが、少し戻るとインターがある。そこから高速を降りて下道を迂回した方が安全だろう。私と二人の仲間を乗せてくれるなら、出来る限り君達の安全を確保する。どうかね?」
そしてその猛禽類のような鋭い目が僕の隣のシロウを捕らえた。
「『衛宮士郎』……?」
そう呟くとかれは口を噤み、仲間をバスに招き入れた。赤毛でスーツ姿の女性だ。双子だろうか?
この後、彼の指示と誘導でバスはUターンし、道路を逆走した。そしてインターから降りて迂回する道を探り探り走っていった。
高速から見えた状況よりも辺りは酷い。だけど目の錯覚なのか? 黒煙が立ち込めるその向こうに、ごく普通に街を行き交う人々が、平和な日常が見えた気がした。
「リン、これって……」
「ええ……。私の識っている魔術じゃないわ。何かもっと別の……でも、ここまで大規模な神秘がどうして?」
「わからない」
わからないが、何か選別されている……そんな気がした。この結界か何かわからない外で、人々は平和に生きている。そういう確信があった。
ある線から日常と非日常が交錯している。そこを偶然僕達のバスが越えてしまったのだ。だからある程度走ったら、黒煙も何もなく昨日までと同じメキシコの風景に切り替わっていた。
いつの間にかすっかり太陽が昇っていた。バスはそのまま下道を走り、目的地のロス・モチスの街に入った。昼近かったので、僕達は適当なファストフードの店に入った。
「貴様、この世界の衛宮士郎では無いだろう? どういう事だ?」
「そうだ、違う。並行世界から跳ばされて来た」
白髪の彼は既に黒い上下に衣類が替わっていた。その彼が短い溜め息とともにリンを見た。
「何よ」
「君はどこの並行世界でも、全然変わらんな?」
「な!?」
リンが顔を真っ赤にして抗議している。だけど、どこか嬉しそうだ。そこへシロウが疑問を呈した。
「あんたこそ何者だ? この意味はわかるよな?」
「ああ。私は自分殺しを一度も考えなかった者だ」
「そう……なのか?」
「ああ。それに魔法使いと昵懇でね。この世界には調査で来ていた。だから彼女達の1人は本来の私の仲間で、もう1人はこちらで雇った者だ。衛宮士郎、貴様は誰かの指示で動いているのか?」
「指示……そうだな。その通りだ」
それで僕達は話せる範囲で彼にこちらの事を話した。それで彼は納得したようだ。
「そうか……ここのアインツベルンの庇護下にあるのか。小学生くらいのエルヴァがここには居るだろう? あの子を知っているか?」
「ああ、知っている」
正にあのお嬢さんの霊脈事業の開発先にシロウ達は現れたのだった。
「私はその『エルヴァ』の並行世界存在の従者だ。だから安心しろ。貴様を襲うような真似はしない」
二人の赤髪美人も頷いた。そこから更に詳しくお互いの事を話しあった。
「アーチャーの座が5つから6つもあるだって?」
「そうだ。私はその2番目に組み込まれた存在だよ。おそらくロシアで会ったのはこの世界で逗留している5番目だろう」
「そんな……? アーチャーって何人も居るの?」
「居るのだろうとしか言えん。それに私ですら百人からの統合された人格だ」
「百人……?」
「統合だって……?」
僕も驚いたが、少し考えればわかった。それだけ並行世界というものは数多くあるという事なのだろう。
「そうだ。だから過去を振り返った時に、経験していないと思う気持ちと、それはやったと思う気持ちがせめぎ合う」
「百人分の記憶があるから……」
「それが召喚時の記憶障害に繋がっているとも言える」
「ああ……」
「また、人である頃に一度リセットされているからな。あれも原因の一つだろう」
リセットか……。シロウのプロフィールで見た、7歳以前の記憶がほとんどないってあれだな。
「アーチャー? あなたは……その……抜け出したいとは思わなかった?」
「今は抜け出せた状態でもあるので、そうは思わんが……以前は思う時もあった。だが、それは自分の蒔いた種であり、自らが選択した道でもある。だから誰かに内心を話す事も無かったし、他者にあたる事もなかった」
「本当に?」
「本当だ。過去の自分を否定したいタイプは3番目の座に集約されていてな。アレが一番惨めだ」
「どういう事?」
「既に何度も達成しているのだ、『衛宮士郎殺し』を。なのに現世に召喚されれば、必ずその世界の衛宮士郎を襲う。記憶がリセットされているからだ。それだけ衛宮士郎という人間は、世界にとってイジりやすく操作しやすいモノだった」
「そんな……」
「いや、リン。私は何度か世界を渡っている。そうして並行世界を見渡せば、これほど守護者向きなバカはそうそう居まいと気付いたよ。頭でも理性でも、他人よりもまず自分自身の命だとわかるようになったとしても……結局、土壇場では他人優先だ」
「ああ……」
「まぁ、ある種の病気だからな。怒るな、衛宮士郎。私の事であって、今のは自虐ギャグだ。笑って聞き流せ」
この人物はその見た目とは裏腹に随分とフランクだった。何より余り笑わないシロウより彼の方がよく笑う。
「なんか、私の知ってるアーチャーじゃないみたい」
「君も3番目を召喚したクチだろう? そういう固定観念は早く棄て給えよ。『アーチャー』という存在ですらそうなのだ。君もそうだし、衛宮士郎もそうだ。並行世界ごとに人は異なる。そこを忘れるようなら第二魔法は遠いぞ?」
リンが盛大にしかめっ面をした。だけど、この二人は息ぴったりだ。そんな彼がポツリと呟いた。
「そうか……。貴様達のスリップが、この大掛かりな事象……それの前兆だったのかもな」
「どういう事だ?」
「ん? 要はお前達の元の世界が、この世界と近いのではないかとな」
リンとシロウは目を輝かせた。特にリンが。何故なら初めての手懸りとも言えたからだ。
「それでフンボルト、君達はどこへ?」
「どうして僕の名を?」
「君の並行世界存在とは友人なのだ。あちらでの君のあだ名はフンバルト・ヘーデルだよ」
「え?」
シロウが変な顔をし、リンが吹き出した。そもそも何だそれ? どうしてそんな変わった発音を?
「それ、日本語なのか?」
「そうだ。エルヴァ……私はエルと呼んでいるが、彼女が君をいつもいつも『踏ん張ると屁~出る』とからかうのだ」
意味を教えられて呆れた。と言うか大笑いした。そうか、そちらのお嬢さんはそういう人なのか。これは傑作だ。だから僕は笑いを堪えながら、カリフォルニアに行くと答えた。
「では国境のティファナだな? そこまで一緒に行こう」
「良いのかい?」
「ああ、君達を連れていても、こちらの仕事に支障ない。問題なく調査できる」
彼は彼のお嬢さんに頼まれ、この不可解な事象を調べていたらしい。
「って言うことは、事前に起きる事がわかっていた?」
「何かが起きる、までだ。何が起きるのかまではわからず仕舞いだ」
そうか。彼のような『神秘の体現者』となった者でもわからないか……。
「まぁ、戸惑うことも多かろう。だが、君達が何故旅をするのか。それを支援する、この世界でのノイント老の心遣いを見失うな。それを忘れさえしなければ、正しい答えを必ず得られるだろう」
そして彼はシロウをジッと見た。
「方法は幾らでもある。決して一つではない。ジイサンはアレしか出来なかった。いや、思い浮かばなかった。そしてそれが内心では間違っていると思いつつも、それまでに棄てた者達の多さに止まれなかった。だから後悔したんだ」
シロウも彼をグッと見詰め返した。
「わかるな? 縛られるな。方法は幾らでもある。後は貴様次第だ。やりたい事をやり遂げたいと思うのなら、何も棄てるな。ジイサンの思いも、リンの願いも、全部拾え。何かを棄てないと何かがなし得ないと言うなら、そいつは元から3流だ。そこに挑む資格も才能の欠片もない。己を分析できなかった高望みだけのバカだ。もし、そうではないと言うのなら、全部拾え。そして『正義の味方』という存在すら越えてみせろ」
彼が何を指して話しているのか不明だった。だけどシロウには通じたようだ。シロウが彼に深く頭を下げたのだ。
その日、僕達は適当に宿を取ってロス・モチスの夜を楽しんだ。と言うか、食事と酒を味わいながら議論を戦わせたというべきか。
僕とアーチャーのテーマは『パエリアとリゾットとピラフについて』だ。彼のピラフに対する知識は完璧だった。何よりビリヤニにまで手を出している点が凄い。
しかも生半可じゃなかった。カダイという専用の鍋を使い、米は必ずインディカ米(長粒種)のバースマティー、それの中のバースマティー・ラーナービールプラという品種を指名買いしているという。
何でもバースマティー米は香り米でもあるので、昔から高額で取引されているらしい。何よりこのビリヤニという料理に一番合う米でもあり、改良された品種が何十もあるという。
そんな中から彼は古典的な品種を選び、それを使い続けているのだそうだ。そして調理法は至ってシンプル。
メインの肉(マトンが多いらしい)を煮込む時間に、オニオンフライを作り、香辛料をミックスさせ、ライスを塩で下茹でし、煮込んだ肉に香辛料やヨーグルトを加え、ライスを加え、練った小麦粉で鍋に蓋をして炊き上げる。
キモは水分量だけだという。これだけで盛り付けるとグラデーションになった本格的なビリアニが出来るという。ただし所要時間は、肉がマトンだと3時間は掛かるという。とんでもない料理だ。
また彼はパエリアにも詳しかった。これはカタルーニャより南部に行く事が多かった僕の知識の先を行っていた。だけどリゾットに関しては間違いがあった。
「リゾットはジャバニカ米のような短粒種じゃなく中粒種だよ。代表種はカルナローリにマラテッリ、バルドにヴィアローネ・ナノなどだ。短粒種だとジャパニカ米のアルボーリオがあるけれど、カルナローリほど有名じゃない」
「そうなのか。これは勘違いをしていたな」
「まぁ擁護するなら、中粒種は短粒種の派生でもあるからね。元は同じと言われているよ」
「ほぅ」
そしてシロウとアーチャーのテーマは『チャーハンと焼き飯とピラフについて』だった。皆んな米ばかりというのが面白い。また、チャーハンに関してはリンが思った以上に詳しかった。
「炒飯の調理法はリンに譲るが、ピラフと炒飯が又従兄弟のようなものだとは知っていたかね?」
「インドがどうとかは聞いた気がする」
「それが正解だ。元はプラーカという携行食にもなった、余り物を使った混ぜご飯だったのだ。それがインドからアラブ諸国に広まってサフランを使う炊き込みご飯に変化し、トルコのピラフとなり西欧諸国にも広まった。それが里帰りしてプラーオとなったのだよ。そのプラーオを専用の釜を使い、香辛料を増やし、ヤックニーというソースと分離して炊き上げるのがビリヤニだ。またプラーオには簡易的に鉄板で炒める調理法があってな。元々は清の時代に回教徒が食べていたピラフと、『炒(チャオ)』という技法がミックスされ、余り物……つまりは本来のプラーカに近い発想で産まれた料理が今で言う炒飯だよ」
「へぇ~」
これは僕も知らなかったので大いに驚いた。
「またスペインの一部地域では、イスラム帝国支配の時代に伝わったピラフが、後のパエリアになったのだ」
その通り。元はピラフだったのだ。だけど当時は道具が無かったので、身近にあるものを利用した。それがフライパンだったと言われている。
ちなみにイタリアのリゾットはピラフが原型でなく、雑穀のお粥が先にあって、その雑穀が米に代わったものだ。では米はと言うと、これまた変わったルートで、アフリカ北部のムーア人(ベルベル人)が持ち込んだものとされている。
伝播した当初は陸稲(りくとう)だったと思うのだが、ポー川流域で水稲(すいとう)に変化したのだと思う。イスラムがスペインに侵攻する数百年も前の事だ。
そしてカタルーニャでの稲作は全部水田だ。イスラム帝国のアラブ人は、稲とともに水田の拓き方を残していってくれたのだった。
更に後世、イタリア料理は一人の王女とともにフランスへ渡り、フランス料理として花開いた。この時のリゾットはトルコのピラフとともに伝えられた。
だけど水耕にフランスは適さなかった。何より欧州の中では、どこよりもパンに向いた良質な小麦が穫れていた。なのでスペインからパエリアの味と技法を自分達のリゾットに取り入れ、新たなる味を生み出していたのに広まらなかった。
返す返すも残念だけど、それでもドイツよりマシだろう。ドイツはビール向きの大麦やライ麦は育っても、小麦が全然駄目だった。だから稲なんて誰も見向きもしなかった。
固くてもそもそした黒パンなのは北欧やロシアも同じだけれど、あちらは米を食べる習慣もある。こう言ってしまうとアレだけど、本当にドイツは食が貧しい。
それはさておき、ヤキメシというものがわからない。日本独自のものらしいが。
「焼き飯はあれだよ。タマゴを先に入れるか入れないかだ」
「その説明では片手落ちだ。タマゴを使わぬ炒飯もあるだろう?」
「あるのか?」
「あるわよ。それで?」
「うむ。それで、具材を先に入れ、炊き炒めつつ炊き込みご飯にする調理法に『炒(チャオ)』を取り入れた。そして清には炊飯文化があった。また、関西には粉モノ文化があった。そこだよ」
「じゃ、タマゴがどうとかの前に、焼きそばの麺の代わりにご飯を使ったと言えば良いのか?」
「それが正解だ。一緒にしてしまえばそばメシだ。フンボルトには伝わりにくいかも知れんが」
「いや、何となくはわかったよ。同じ混ぜるにしても最初から混ぜるのか、別々に火を通して最後に混ぜるのかの違いだね?」
「その通りだ。そして困った事に日本の喫茶店などで供されるピラフは、この焼き飯タイプが実に多い」
「炒め煮でなく炊飯した米をフライパンなどで?」
「そうだ。焦げない程度で焼き混ぜるのだ。これは日本の地理的な問題もあるのだろう」
「ああ、間に中国があるから。味付けの違うチャーハンのように伝わったんだね?」
「そうなのだろうな。この他に、日本は白米を白いまま食べる文化があるので、炊飯器がほぼ100%普及している。ここに水に浸けた米と下拵えした具材や調味料を加えて炊く方法もある」
「それだと単なる炊き込みご飯じゃないか?」
シロウの抗議とは逆に僕は感心していた。それって道具が違うだけで……。
「そうなのだよ。違和感があるだろうが、これはこれでピラフなのだ。そして日本はこの炊飯器が広く使われているので、炊き込むタイプの料理が多種多様にある」
「確かに多いわよね。五目に鶏肉、キノコに山菜……」
「鯛とか魚の炊き込みもあるぞ」
「そうだ。あのカオマンガイすら炊飯器で作る方法がある。米の事を知るのなら、ここも知っておかねば片手落ちだ」
こんな話をサルサに潜らせたトルティーヤチップスを肴にして、ビールで流して話し込んでいた。
「これは余談だが。強いて言うなら『炒飯』と『チャーハン』は似て非なるものだ」
「どういう事だい?」
「『炒(チャオ)』という技法を使ったかどうかだ。コークス並みの火力を家庭で望めるかね?」
「コンロの違いか?」
シロウが声を上げた。
「そういう事だ。と同じくして、『焼き飯』とは別に『炒めご飯』というものもある」
「炒めご飯……?」
「なにそれ?」
「白いご飯をバターを使ってフライパンなどで炒め、仕上げに鰹節と醤油をな」
「猫まんまを炒めたようなものなのか?」
猫用にしては辛いのではないか?
「ほんの一例だ。ご飯と漬物でも良いし、味噌と炒めても良い。それこそ昨日の冷めたピラフでも良いし、グラタンとご飯でも良い。キーワードは余り物さ。庭に植えたネギを刻み、余った豆腐とツナ缶で炒めたりな」
「ネギを植えていたのか?」
「む? ジイサンが残してくれた財産を目減りせぬようにな。そういう工夫はお前もやっているだろう?」
「い、いや……そこまでは」
「何!? 春にトマトやキュウリを種付けし、秋に白菜を植えたりはせんのか? 私の知るシロウは、少学生時代から釣りを趣味とし、自分で釣った魚でジイサンに若狭焼きやイカの刺身を出していたのだぞ? 日に日に弱るジイサンの身体を気遣い、美味しいものを少しでも食べて元気になって欲しいと願う……。貴様、本当に衛宮士郎なのか?」
「そんな奴が居るのか!?」
「何を言っとる! 私でさえ、豆アジが安く手に入れば一夜干しにしていたし、イワシがワンパック100円で7尾も入っていたら、煮付けと天ぷらに必ずしていたぞ? 大根や人参の皮もきんぴらや一味炒めにして、どれだけそれでメシを掻き込んだか」
「遠坂、安心しろ。俺、きっと英霊にはなれない……」
「うん。そんな気がした……」
何だかわからないが、シロウは何かを吹っ切ったように見えた。それを赤毛の二人がクスクスと笑いながら観ていた。
「私は日本で感動する料理に出会いました」
「それは?」
「牛丼に豚丼、そしてトンカツです」
「わかります。私は現在ドイツ住まいですが、シュニッツェルだと、どうにも物足りない。カラッサクッと来るあの食感が無ければ」
「ですよね? 今、私はソースカツ丼なるものを食べたいと思っているのですが、これに中々巡り合わないのが実に残念です」
「そんなものですよ」
とても『個』が明確な二人だと思った。そこまで行かずとも、普通は誰でも『個』がある。集団性を重んじる傾向にある日本人でも、深く識れば、リンやシロウを例に出さずとも『個』を感じられる。
そしてアーチャーは、『個』そのものだった。酒で幾分滑らかになった彼の舌はこんな言葉を紡ぎ出した。
「私は現代に於ける『ロレンス』だったらしい」
国家よりも種族、種族よりも部族。その部族よりも宗教と宗派。砂漠という極めて広大だが、人の営む世界とは隔絶された奇異な場所。
彼はそんなところで生きて、生き抜いて、やがて死んだ。
「私はロレンスのように人々を裏切ったつもりはない。だが、忌み子であるという意識には常に苛まれていた。それが言動に出ていたのだろうな。どこかで信用のおけない奴と思われていたようだ。そして最後は人々の……かつての仲間が見守る中で処刑された。義妹に『知恵の七柱』を贈られ、何度も読み返したよ」
シロウもリンも二人のバゼットも部屋に戻った後の話だ。この時の彼は、自分の主であるエルヴァお嬢さんを義妹と呼んでいた。それだけ親しい仲なのだろう。
僕はそのトマス・エドワード・ロレンスという人が書いた自伝、『知恵の七柱』という書物を知らなかった。
英語圏ではそこそこ知られた、結構インテリ層が読む本だったらしい。あのE・M・フォースターは『稀にみる傑作』と評し、H・G・ウェルズも『偉大な人間記録』と褒めていたとか。
バーナード・ショーも『彼にしか書けない世界史』と絶賛し、アラブの人々とトルコの人々をその三枚舌で翻弄し、直接的にも間接的にもロレンスを苦しめたウィンストン・チャーチルでさえ、『この本は英語で書かれた最も偉大な著書の地位を占めた』などと礼讚したらしい。
ロレンスという人物が居たことは知っているし、観ていないけれど名作と言われる映画がある事も知っていた。だけど第一次世界大戦頃の『アラブ反乱』はほとんど知らなかった。
そしてアーチャーは、ロレンスと同じく砂漠が好きだと言った。
「どうして?」
「平等だからだ」
「どういう意味だい?」
「死が誰しもに訪れるように、砂漠の掟もやはり誰も避けて通れんからだ」
ロレンスは『Clean』と言ったそうだが、彼は『Equality』でも『Impartiality』でもなく『Even』と言った。不可算名詞から副詞、或いは形容詞なので文脈的に同列に語るのはおかしいのだけれど、その真意は痛いほどわかった。
『Equality』には均等や対等という意味もある。ただしそれは量的なバランスに重きを置いている。『Impartiality』はもっと公的な意味合いを含み、公平や普遍という人の目から見たバランスに重きを置いた言葉だ。
だけど『Even』には何もない。身分もお金も何もない。言ってみれば『Equality』に近いのだが、そこから更に無駄なものを削ぎ落としたというか……。
彼はシロウより自立心があって大人な思考を持っている。これは若い頃からそうなのだろう。『過去の自分を恨まなかった』と言っていた。それはつまり、自分を客観的に観ていたという事だ。だから迷わず『道を選択』できたのだと思う。
「だからだろうな。メキシコはチリに次いでアメリカ大陸では好きなところだ」
確かにメキシコはサボテンのイメージ通り、郊外は乾いた場所が多い。この先のバハやカリフォルニアもそうだ。そしてチリか……。砂丘があるんだったか?
「チリは南北に長いだろう? あの細長い国の海側は、ペルー海流(フンボルト海流)が北のカリフォルニア海流と同じく寒流なのでな、極端に雨が少ないのだ。それで延々と砂漠や砂丘が続くのだよ。そして知らないだろうが、日本と変わらんくらい良い魚が捕れる国でもある」
「そうなのか?」
「勿論、暖流の回るニュージーランドやオーストラリアには負けるだろう。だが南北の長さが豊富な種を得るのに適している。ブラジルなども良い漁場があると思うが、移民以外ほとんど魚を食わんからな」
ああ、需要がないからマーケットが狭いのか。となると金にならない職業は廃れる一方だ。
「シュラスコの弊害かな?」
「だろうな。もともとの原住民があまり魚を食べなかった。なので真のポルトガル料理が普及しなかったのだよ」
真のポルトガル料理とは海鮮にあるという。確かに大西洋に面しているだけあって、魚介類が豊富で料理の種類も多い。
「近年南アでスシやサシミがチラホラと取り上げられるのは、あそこにも暖流が流れているからだ」
彼は意外なほど物識りだった。既に時計の針は翌日になっていた。
その日の午後、僕達が夜行バスをどうするか決めかねていると、アーチャーはどこからともなくクルマを引っ張ってきた。6人が十分に乗れるSUVだった。
「これで?」
「この街には空港もあるし鉄道もある。その方が無難だが、君達は私と同じくメキシコの『今』を見たいのだろう? ならクルマしかあるまいよ」
実にその通りなのだった。食料や飲料などを仕入れ出発したのは午後の4時だった。取り敢えず向かうのは、ソノラ州の州都エルモシージョだ。
「どういう街なんだろうか?」
「自動車工場があるくらいで、これといったものは無かったと記憶している。気候が温暖で冬でも過ごしやすい。それと物価がとても低く、タコスが安い。ああ、それと街の至るところにホットドッグの屋台がある。これも自動車工場の影響なのかもな」
操縦はアーチャーが1人でしている。助手席は僕。2列目にシロウとリン。3列目にバゼット達だ。
「ホットドッグと自動車工場にどういう関係があるんだ?」
「知らんのか? デトロイトはニューヨークと変わらんくらいホットドッグの街でな。それだけ工員達に愛されているのだよ。その風習がそのまま入ったのだろうと予測を立てたに過ぎん」
「なるほど」
「ホットドッグは良いですよ」
3列目からだ。
「片手で短時間の間に食事が済みます」
「ええ。しかもハンバーガーより手を汚さない」
「ついでに食器も汚さない。合理的ではあるがな……」
「ジイサンは……ハンバーガーが好きだったな」
今度は2列目のシロウだ。
「理由は正にバゼットが話していた通りだ」
「みたいだな~。それと俺の料理が下手だったのもあるけど、味覚が子供っぽい人だったな」
この時、アーチャーは意味深に笑った。ピンと来るものがあった。もしかしたら彼がいる世界、つまりお嬢さんがいる世界では、その義理の父親は生きているのではないかと。
ロス・モチスを出て数時間。シナロア州からソノラ州に入り、やがてナヴォホアに入ろうかというところで警官とは思えない奴らの検問があった。そしてそいつらの顔は恐怖に引き攣っていた。
「クルマが欲しいみたいだな」
「メキシコから逃れようと?」
「だろうな。あの『現象』を体験したのだろう」
ロス・モチスでは、ラジオががなり立てていた。麻薬に関わる組織の者が全員鎖に繋がれ、軍の基地前で放置されていたのだ。その中には僅かながら警官も、軍人に政治家も居たのだ。
この何かわからない未知の現象は、確実に悪党だけを狩っていた。これがシナロア州だけで起きた事なのか、他の州でも起きた事なのか、そこが不明だったのだが、どうやらここでもあったようだ。
「衛宮士郎、出るなよ? お前はリンと残れ。それでバゼット達が出れるように通路を空けろ」
「え? でも?」
「時計塔まで行きながら知らんのか? バゼットは史上最強と言われた元執行者だぞ?」
「あ、フラガの?」
「そうだ。さぁ、空けろ」
それで二人のバゼットがクルマから降りて、電光石火で相手を叩きのめした。ほんの数秒で7~8人居た男達は二度とモノを握れない腕にされていた。
これを残虐だと僕には思えなかった。何故なら彼らはどう見ても全員がヤク中だし、これまでに数々の犯罪を侵して来たであろう事は一目瞭然だった。
何よりこんな公道で私的な検問をしてクルマや金品を奪おうとしていたのだ。そして砕かれ潰れた腕が地面に落としたものは、全部アルゼンチン辺りから密輸された実銃だ。
ゆっくりとクルマから降りたアーチャーは、それらの銃を回収し、予備弾薬を呻いている男達の懐から奪い取った。更にシロウと似たような剣を魔術で作り、足の健を切った。
「どうして足を?」
戻った彼に訊ねた。
「バゼットと同じ理由だ。二度と犯罪ができんようにだ。生かすという事はそういう事だ。それに……殺すのは簡単だが、それをするとマスターに殴られるのでね」
「そちらのお嬢さんは武闘派なのかい?」
「この私が完膚なきまでに叩きのめされています」
「私もです。それで彼女の軍門に降ったと言っても過言ではない」
バゼットの告白だった。現役最強とも言われる執行者を、魔術を併用してだが素手で殴り倒したという。どれだけ強いんだ?
「そんなにその子は強いの?」
「強い。そして霊脈さえ掴めば、冬木でなくとも英霊を召喚し使役するだけの魔術師だ。それも複数な」
「な!? スイスのあの子の異世界同位体なのよね?」
「そうだ。私の方のエルヴァは18歳だがね」
それは奇しくも、僕が知っているエルやエルヴァと同い歳だった。
「複数って?」
「ん? 興味あるか?」
「そりゃぁね。聖杯戦争に出ていたんだもの」
「それはそうか。しかし相手は降霊科の教授が裸足で逃げ出す天才だぞ?」
「だからこそよ。教えて、アーチャー?」
アーチャーは溜め息を吐きながら教えてくれた。
「まず、同じアサシンばかりが7……もしかしたら10騎以上居る」
これだけでゴクリとリンが唾を飲み込んだ。
「どうしてアサシンなんだ?」
「うん? それは彼らが諜報員としても優秀だからだ。何をなすにもまずは情報ありきだ。開戦だといって夜な夜な深山町を彷徨くようでは遅いのだよ」
「言ってくれるわね?」
「言うも何もあの子は初日で教会を爆破するぞ? 言峰は病院送りだ。そしてその間に言峰が侵した数々の不正とあの地下でAUOの養分とされていた者達を救出し、聖堂教会をローマから破門させる機運を作り出す。これが1日目だ」
リンとシロウが口をあんぐりと開けた。
「2日目はアインツベルンの森だ。バーサーカー攻略だよ」
「攻略たって、あんな化け物をどうやって? 2騎や3騎居たとしても不可能よ?」
「裏技があってな。一つはこういうモノだ」
アーチャーが稲妻のようなデザインの短刀を取り出した。それをシロウが真剣に見詰めていた。
「頭が痛ぇ……」
「バカか。いきなり宝具を解析するな」
「これって、キャスターのだったよな……」
「ええ。魔術的な契約を切る概念があったと思う」
「それでセイバーは……」
「その通りだ。これでイリヤスフィールを刺す。それで終わりだ」
「近寄れないだろ?」
「そこで固有結界だ」
「あ、イリヤを外に残すのか?」
「そうだ」
なるほど。シロウは固有結界が使える可能性があるのか。それがあったのか……。
だけどこの二人、その結界にイリヤというマスターだけを取り込むとは考えないんだな。
「それだとアイツが出て来るぞ?」
「そうよ、教会に手を出せば……」
「それが真の狙いだ。本来のターゲットはAUOに他ならん」
つまり、今までの話はそいつを誘い出すための手法を語っていたのか……。
「アイツを斃すためにこちらにはセイバーとヘラクレスが控えている」
は?
「今、なんて言った?」
「ん? アイツを斃すために……」
「その後!」
「セイバーとヘラクレスが控えている……だが?」
「セ、セイバーってアーサー王か!?」
「お、女の子なの!?」
「かぶせ気味に言うな。そうだ、想像通りだ」
「んで、バーサーカーじゃない、ヘラクレスまで居るっていうの?! 何、その化け物?」
「人のマスターを化け物呼ばわりは酷いな」
「だって! どうやって、魔力を維持しているのよ?」
「足りなければ余所から持って来るだけだ。ただし、安易な方法ではない。霊脈と繋がると言ったろう?」
「参った……それもあっての霊脈探査か……。ここのエルヴァが似たような事をやっていたんだった……」
「その子も天才なのだろう?」
「ええ。あの子も天才なら、あの褐色のエルヴァもエルも天才だわ」
「だよな。あんな『熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)』を出現させるなんて。彼女は弓も上手かったし」
「ええ。あの子もヘラクレスを召喚したのよね?」
「うん、エルヴァちゃんとエルの二人で。ヘラクレスが紳士的な人だったから驚いた」
今度はアーチャーが驚いた顔をしていた。
「ここのエルヴァがヘラクレスを喚ぶのは理解できる。触媒さえ用意できるのなら可能だと思えるからな。だが、エルヴァは……彼女は日本に居るのでは無いのかね?」
「いや、今はアメリカだと聞いているよ」
「どういう事だ……? そもそもそのエルは誰だ……?」
誰にもそれは答えられなかった。
それから更に数時間掛けて僕達はエルモシージョの街に入った。アーチャーの案内で、そう格式の高くない気軽に入れるレストランに腰を落ち着けた。
目当てはテレビだった。適当に注文した後、僕達はテレビに釘付けだった。あの異変はメキシコ全土と一部中米、そしてコロンビアなどの南米や、東南アジアのどこかの国、更には中東でも起きていたようだ。
「『黄金の三角地帯』に『黄金の三日月地帯』……か。ほぼ予測通りだったな」
「そうなのかい?」
「ああ。抑止か何なのかは不明だが、その意図というか意志は麻薬の撲滅にあるようだ」
うん、そんな気はしていた……。この大いなるチカラを行使したナニカは、この世から麻薬を消そうとしている。
「仮に抑止だとして、そんな風に動くものなの?」
「ガイアでは考えられんな。しかし、この世界線ではアラヤが麻薬を危険視したとなったら、あり得ない事では無いのかも知れん。ちょっと考えられんが……」
アーチャーは腕組みして目を瞑った。
「しかし、リン」
「何?」
「桁外れの魔術師が世界のシステムに介入したとなればどうだ?」
「どういう意味?」
「大聖杯があるから英霊のコピーが召喚できる。つまり大聖杯をハッキングできる魔術師ならサーヴァントなんて簡単に喚べるという事になってしまう。勿論手順や触媒、魔力などの問題はあろう。しかし最早我々はそれが出来る魔術師を知っている」
「そうね。だからその先ね?」
「そうだ。世界の中にある神秘、その基盤とは何か? 明確にはまだ解明されていないが、しかしそれを利用して魔術師は魔術を行使している」
「ええ、その通りだわ」
「であるならば、英霊という存在が何故あるのか? そこがわからずとも、世界の一部を解き明かしてしまった魔術師が、どこかの世界に存在しており……」
その一端に介入した結果だと言いたいのか……?
「或いは……」
リンだ。
「ん?」
「並行世界同士の今現在の配列が、そういう現象を引き起こしていて、どこかの誰かが懐いた麻薬撲滅という願いに反応している……」
ああ、ロシアのあれと同じようにか……。
「否定も肯定もできんが、実に興味深い話だ。もし会えるなら、私のマスターにもそれを話してやってくれ給え」
「良いわよ」
そうして僕達はエルモシージョの街からティファナを目指した。アメリカとの国境に面した州都メヒカリに入ったのは5時間後だった。
「メヒカリって……」
「三陸で釣れるアオメエソではないぞ? メヒコとカリフォルニアからの合成語だ」
「だろうと思ったけれど、言わずにいれなかった。ここは素通りか?」
「何か用でもあるか?」
「いや。どういうところかなって」
「そうだな。少し道を変えて国境の壁でも見ていくか」
それでアーチャーはクルマを国境の壁沿いに走らせてくれた。ちょうどこの辺りは道路がそうなっている。シロウも僕もその壁をジッと見詰めた。
1枚の壁が隔てる富める国と貧しい国。それは見る者からしたらユートピアとデストピアだろう。
その昔、父方のひいお爺ちゃんは、幼いお爺ちゃんとお爺ちゃんのママを逃すために、東ドイツで死んだ。国境から脱出しようとして撃ち殺されたんだ。
それがあってお爺ちゃんは西側で頑張った。一流の家具職人になって大勢の弟子を育てた。若き日の父もその中のひとりだ。
頑固だけれど優しい爺ちゃん。そのお爺ちゃんのママ、僕のひいお婆ちゃんは旧姓がエーデルフェルトだ。元はフィンランドの人だったんだ。
そして母方のひいお婆ちゃんの旧姓はアインツベルン。僕はそんな神秘の大家……その両方からの血を受け継いでいた。だというのに魔術師ではないし、お爺ちゃんや父の跡も継げていない。それが僕の悩みだった。
何も今更魔術師になりたいなんて思わない。だけど何かを残せる人間にはなりたいと思っていた。祖父や父が家具を残しているように。
こんな事を話したら、エルヴァはなんて言うだろう? 何と答えてくれるだろう?
その壁の向こうに彼女が居るんだと想像するだけで、少し沈んだ気分が晴れた。
するとクルマの前に警官が飛び出てきた。アーチャーがクルマを止めて外に出た。
「俺も連れて行け」
「ほぅ? キャッシュで1億1千万ペソ支払えるのなら手は打ってやろう」
拳銃を抜いた警官の腹をアーチャーが蹴り飛ばした。警官は壁にぶち当たり目を回した。
「おい!」
「アーチャー、いきなり警官を?」
「ああいう手合とは何度も遭遇していてな。どうみても汚職警官だ。まともに話を聞くだけ時間の無駄だ」
「そうなの?」
「うむ。下手に関わって強盗に会うのも馬鹿らしければ、取り合っておかしな濡れ衣を着せられるのも馬鹿らしい。よって、誰も見ておらんのを確認の上で倒した」
「だからって」
「ここはメキシコだ。日本ではない。日本で培った常識は通用せん。あの警官はこれまで麻薬とは無縁だった、ただそれだけだ」
そんな警官を捨て置いて郊外に出れば、この水も何もない砂漠の国境で、何人もの人間が壁に貼り付けられていた。ギャングらしき者に混じって警官の姿もあった。
「ここでも起きたのだろう」
「それでパニックになって?」
「そういう事だ。これはクルマで正解かもな。こうなると飛行機も列車も止まっているぞ」
「むむむ……」
シロウが唸っていた。気持ちはわかるけれど、ここはそういうところだ。ここの司法や行政がまともでないなら、自分の身を守るのは自分だけだ。この場合はアーチャーが正しい。
もし間違っていたら……そんなのも後からでいい。今、どうにかしないとどうにもならない。そこを瞬時に切り替えられたから、ひいお爺ちゃんはお爺ちゃんとひいお婆ちゃんを逃すことが出来たんだ。
いつだってそうだ。いざという時は考えさせてくれる時間なんて無い。動けるか動けないか。それだけだ。
「ククク……そちらの世界では聖杯戦争を勝ち抜いたのでしょう? それとも限定された箱庭でなければ動けませんか? まるでスクールのグラウンドのように」
「バゼット、キツい」
「いや。バゼットさんの言う通りだよ、遠坂。今まで日本と英国の一部しか知らなかったからな。それがロシアにスイスにドイツ、そしてスペインにブラジル、メキシコだ。危機感は持っていた積もりだけど、心のどこかで日本の常識が通用すると思い込んでいた。それはやっぱり危険な考えだ。反省だよ」
そこでアーチャーがポツリと言った。
「本当のメヒカリは陽気な人が住む良い街でな。手軽に異国情緒が楽しめるので、ティファナに次いでカリフォリニアから入る旅行者や観光客も多い。そんな観光客が気付かぬ膿が一気に絞り出された感じだな。だが、この違和感に気付いている者は居るか?」
誰も答えないので僕が答えた。
「国境の街だからかも知れないけど、メキシコ側の報道が随分と大人しい気がする。何よりエルモシージョの街もそうだったが、一般市民が騒いでいない。それにここまで来れば、サンジェゴからのラジオが流れても良いくらいだ」
カーラジオはメキシコ国内からのスペイン語ばかりだった。どんなにチューニングしても英語の放送は入らなかった。
今走っているこの2D号線の道路は比較的綺麗だが、景色の左右は岩と砂利が高く積み上げられていた。多分、これらを退かして道路を作ったのだろう。地図で見ても周囲は何もない荒れ地のようだった。
「この辺りはソノラン砂漠というのだが、その左手の瓦礫を超えると枯れた湖がある。サラダ湖といって、アメリカ側の環境問題となっているソルトン湖と遜色ない広さがある。今のような乾季だと、水が完全に干上がり乾ききった跡地があるだけだ。ところが雨季になると水が貯まり、その広さは琵琶湖以上になる。あのサンフランシスコ地震やノースリッジ地震を引き起こした、サンアンドレアス断層の上にあってな。なんとも不思議な湖だよ」
まだ見た事は無いけれど、カナダのスポッティド湖やアブラハム湖、ヨセミテのモノ湖にドミニカのボイリング湖……この新大陸には北半球に限っても不思議な湖が結構ある。ボリビアまで行ってウユニ塩湖も見てみたい。
ナイアガラの滝、イグアスの滝、ギアナ高地のエンジェルフォールズに広大なアマゾン。近いところまで行っているのに、都合で見れなかったのは返す返すも残念だった。こんな仕事でもない限り、この僕がアメリカ大陸に来るなんてあり得ないからね。
なら、せめて街を楽しもう。バタバタしていて、本場のテキーラすらまだ味わっていない。
アーチャーにしても、ただ何となく話しているだけで、別に観光案内をしている訳ではないだろう。だけど僕はその言葉から、せめてティファナは積極的に楽しもうと思った。