日本のエルヴァにメールを送り、ベッドに入った私はエルから受け取ったカタログをゴロゴロと横になって眺めていた。メーカー名は『Epiphone』だ。57年頃から『Gibson』の傘下となっていて、それ以降両社には似たモデルが多い。
高級路線の『Gibson』に廉価路線の『Epiphone』が一般的な認識だろう。だけど元々『Epiphone』はホロウ・ボディで名を売ったメーカーで、今も昔もホロウ・ボディにはファンが多い。私の中でも『Gibson』『Gretsch』と並ぶメーカーだ。
パラリと捲ったページには『Sheraton II Deluxe』。『Casino』みたいなセミ・ホロウだろうか。トップはトラ杢バッチリなメイプル。指板のインレイも色違いの貝を組み合わせているのかゴージャスだ。良いなぁ、これ。
またパラパラと捲ると、アーティストモデルの『Jorma Kaukonen Riviera Deluxe』。ビグスビー付き。ん、この赤いのも良いなぁ。けれどこれは『Dot』シリーズじゃないんだよね?
見比べるためにページを『Dot』シリーズに戻した。ノーマル(スタンダード)の『The Dot』に、杢目の綺麗な『Dot Deluxe』。今年から出た廉価版の『Dot Studio』。
洒落では無いだろうが、『Dot』シリーズのインレイはドットだ。それは『The Dot』も『Dot Deluxe』も同じだ。なのに『Dot Studio』は指板にインレイが無かった。潔いし、廉価版なのに初心者お断りな姿勢も良い。
『こんな青いのにお気に入りのステッカーを1枚だけ貼って『Rock'n'roll』したら『Rock』だよね?』
そんな日本語にすると意味不明な事を考えていた。最後のページに『Zephyr Blues Deluxe』というのがあった。『Gibson』の『ES-5』をベースにして作られたモデルのようで、『P-90』がトリプルのフルサイズ・ホロウ・ボディだった。
ラウンド・カッタウェイも時代掛って良いし、仕上げも良さそうだ。お祖父様がお持ちの50年代から60年代の『D'Angelico』や、60年代から70年代の『D'Aquisto』には敵うべくもないが、普通に買えるカタログモデルとしてはかなり良いと思えた。
『う~ん……良いなぁ。あれ? 『25.5" Scale』って。この子、『Gretsch』の『Falcon』と同じでロングスケールなんだ?』
こういうホロウ・ボディで極端なハイ・ポジションや、トリッキーなストレッチ・フレーズなんてまず弾かない。だから別段ロングスケールでも問題ないと思う。だけど以前、ロングスケールの『Country Gentleman』を持たせて頂く機会があって握り難いなと思った事がある。ネックが丸く太い『Strat』や『Tele』より弾き難く感じたのだ。
そういうのも個人の感覚だからね。
『市販品で最高なんてある訳無かろう? 例えばクルマじゃ。シートの高さに低さ、前に出したり後ろに下げたり。ポジションはそれだけでは無いぞ? ハンドルの深さにボスの長さ、シフトレバーの長さに角度。サイドもそうじゃろうし、アクセルやブレーキの踏み代、クラッチの繋がる深さなどもそうじゃ。バイクは自転車ほど調整幅がないが、それでもきちんと合わせるじゃろう? なのに楽器はそれらが利かん。何よりも繊細さが求めらるのにな』
だから市販品で満足できる者は、余程上手いかドヘタのどちらかだとお祖父様は仰っていた。ですが人には予算というものが……と、言ってはいけない。
『楽器を演奏するというのは魔術と同じで道楽じゃ。道楽の金を惜しむのなら、そもそも向いとらんか楽器を触る身分ではないわ』
こんな風に『もっと働け』とばかり、ピシャリと切り捨てられるのがオチだ。だから……そこからの反発心があったから、『エル』はスチューデント・モデルも好きだったのだろう。
今度は『Electric Guitars』の方のカタログを開いた。もちろん最初は『Les Paul Model』からだ。『Les Paul Custom』に『Standard』、『Standard Plus Top』。『Classic』に『Classic Plus』、『Classic Quilt Top』。
『おお! この青い『Quilt Top』、むっちゃクール!』
私は基本青色が好きで、赤や橙色なども好きだった。だけどこの杢目の透けて見える青は本当にクールだ。上手い人以外持っちゃダメって雰囲気がある。
他には『Les Paul-100 Studio』や『Junior』、アンプとセットの『Special I 』や『Special II』があった。この後からの機種はネックがボルトオンだ。コスト削ってるなぁ。だけど200ドル以下なんだよね。
『え? 何これ? 『SoBe Beverages/Les Paul Studio Promotional Guitar』?』
アメリカで売られている、『SoBe(サウス・ビーチの略。マイアミの事)』という飲料とのタイアップ・モデルだ。『Eddie Van Halen』の象徴でもあった『フランケン』の、あの赤い部分を緑にしたような、500本限定の『Studio』だった。
『こういうので学祭に出たらウケるだろうなぁ……』
いやぁ、『Les Paul』はぶっ飛んだのばかりだ。面白いカタログだなぁ。
今度は『SG』のページを開いた。『Epiphone』の『SG』は基本2系統に分かれていて、ボルトオンネックが『G-310』で、セットネックが『G-400』となっている。
時々ここに属さない『SG Special』や、本当に『G-400』かと言いたくなるような、『Xtreme G-400』のようなモデルも出るが、基本はそのどちらかだ。
日本では今、『Elitist '61 SG Reissue』というのが出ている。同じものがアメリカでは『Elitist '61 SG』となっている。これらは『Elitist』シリーズとして違う括りになっていて、純日本製の高級シリーズだ。
またダブルネックの『G-1275 Custom』は全部、『Jimmy Page』のと同じく、テールピースがブリッジと離れていた。狙ってるねぇ。
今はもうない『Coronet』や『Wilshire』に『Olympic』、『Crestwood』などがオールド・チープ・ギターとして持て囃される『Epiphone』だけど、この最近の『SG Special』も中々だと思う。
そもそも『SG』というギターは、『Les Paul』に代わって出て来た。なので『Les Paul』で指摘されたネガな部分を潰してある。まず、軽く取り回しが良い。ハイポジションも弾きやすくなっている。
だけど同時に致命的な欠陥も併せ持ってしまった。それがストラップで下げた場合の重量バランスの悪さ。ヘッド落ちで調べると、幾らでも事例や証言が出て来る。これはボディが軽く短いのに、ネックとヘッドが従来通りの長さがあって、かつネック寄りのストラップピンの位置が悪い点が重なって起きている。改善の方法もあるにはあるが、ステージで動くと自然にヘッドが下がってしまう。
次にボディ面積(容積)の少なさと、軽さ(密度)の関係で音が軽く腰砕けになる点だ。フロイドローズを付けたギターのようにボディが鳴らない(鳴るだけの容量がない)。だから鳴りを良くするための工夫が必要となる。
良く知られているのが、ヘッド側を重くする方法だ。ペグを重いタイプに換えたり、ヘッドに錘を付けたりする。するとそれなりに鳴るようになる。と同時にヘッド落ちが酷くなる。そこでボディエンドの裏側を加工して、そこに石や金属の錘を埋め込む。すると結構鳴るギターに変身する。だけどそこではたと気付くだろう。最初から『Les Paul』を買えば良かったって。
ところがそのバランスの悪さの先に、このギターのフロントにしか出せない甘い音があって、それが今の音楽と合うのだ。またリアの音の軽さがアンサンブルを壊さない、独特なリズムギター向きな音を作り出している。そんな意外な良さもあるから、楽器はわからない。
そんなだから初心者にはお薦めしないけれど、悪戦苦闘して自分だけの音を作りたい人には『SG』も選択肢に入ると思う。そしてこの『Epiphone』の『SG Special』だ。どこか初心者向けの通販モノのような安っぽさがあるのに、意外とネックの握りは良くてしっかりしている。前々から買おうかどうか迷っていたギターなのだった。
また『Epiphone』は、本家以上に作りの良いのではないかと思える、『1963 Firebird-VII 』なんていう3ピックアップ・モデルをカタログに載せてもいる。安物ではあるけれど、どこかが違う。そんなメーカーだった。
『1958 Korina Explorer』は要らないけれど、以前あった『USA Map Guitars』は今も欲しい。アラスカやハワイが無いのは痛いが、『アメリカを抱える』大統領のような気分が味わえそうだ。
コントロールパネルの形をアラスカ州にして、ノブをハワイにしたいよね……? そんな事を思いつつ、私は夢の中に旅立った。
「ま、ま、ま、まずは、お、落ち着きましょう、吉川クン!」
「お前が落ち着け」
「そ、その……えっとですね?」
私は顔が真っ赤だったと思う。告白どころか懺悔までしよう。『エル』はともかく、この『47番』こと私は、今の今まで誰からも告白された事がない。
「本当に私で良いのですか? 何度も話したように、卒業後は海外ですよ?」
「それで悩んだよ。けど好きな気持ちは抑えられない。きっと今言わなかったら俺は一生後悔する。だから話したんだ」
照れて少し赤い吉川クンの顔をジッと見た。目を逸らさず私を見詰め返している。
「期間限定でも?」
「期間限定なんて思わない。お前が海外で暮らすなら、俺もそこに行く。一緒に居たいんだ。ダメか?」
現実的には、魔術師として時計塔に行く私だ。倫敦に押し掛けられても困る。だけど私の心は……吉川クンの言葉をとても嬉しく感じていた。だから泣きながら、30cm以上も背が高い彼にしがみつき、ワイシャツを涙で濡らした。
「な? 一緒に居させてくれ」
その太い腕が優しく背中を撫でてくれる。彼の腕の中で、うん、うんと頷くだけの私だった。
これからも話さなければならない事はたくさんあるし、話せない事もたくさんある。だけど吉川クンの友人の見守る中で、私達は『公認の仲』になってしまった。
そして場所がマウント深山のど真ん中だった事を、自転車を押す吉川クンに見送られて家に入った私はすっかり失念していた。
2階に上がってお部屋に入ると、真っ暗な中でクロお姉ちゃんが網戸の外を見ていた。
「どうしたの? 電気もつけずに?」
「人の心って醜いものよね。結局、憎しみって愛情の裏返しなんだわ。対象がどこにあるかの違いだけで」
「何を言っているの?」
「何でもない。お風呂湧いた? 喚びに来てくれたんでしょう?」
「うん」
階段を先に降りていると後ろからスンスンと鼻をすする声?
振り向こうとしたら、「さっさと歩きなさい」と軽く肩を押された。着ていた服を脱いでお風呂場に入ったら、クロお姉ちゃんはいきなりお湯を頭から被った。それで髪の毛から洗い始めた。
家の湯船は二人で入れても、二人で身体を洗う場所はなかった。だからこうやって別々に身体を洗うのはいつもの事だけど。
「先にお湯に……」
「うん? 汗をかいたからね。もう少し涼しくならないかな」
「そうだね~」
お風呂から上がるとお兄ちゃんも帰っていた。だけど何か雰囲気がおかしい。それに気付いたクロお姉ちゃんが、セラとママに尋ねた。
「何かあったの?」
「ん、う~ん……」
「エルヴァちゃんもお年頃って事よ。今はあなた達も気にしないで見守ってあげて?」
何を? お姉ちゃんがどうしたの?
そこにクロお姉ちゃんが爆弾を投げ込んだ。
「お姉ちゃん、彼氏ができたんでしょう?」
「ええ~~っ!? だ、誰?!」
驚いているのは私だけで、お兄ちゃんもママも皆んな落ち着いていた。
「相手は剣道部の主将でしょう? 前々から怪しいと思っていたから」
「やっぱりクロエは気付いていたか」
「クロエちゃん、そんなに前から?」
「うん。雰囲気が良かったから。何かあるとしたら学園祭だと思っていたよ。ちょっと早かったけれど」
「よく見てるわね~」
「ホントによく見てるよ」
私だけが知らなかったみたい……。だからその後の晩ご飯は皆んな静かに食べていた。ごちそうさまをしたら、お兄ちゃんはお風呂に行って、クロお姉ちゃんもお部屋に戻っちゃった。
それで2階に上がったら、クロお姉ちゃんはお部屋に居なかった。
本日も後はお風呂に入って眠るだけという段になって、何げにギターを爪弾いた。手に取ったのは、アメリカのエルヴァから贈られた『615 Nashville』だ。夜なのでアンプを使えない。なので音はピンコピンコと軽い。
『Hot Rod Deluxe』にヘッドホンでも挿そうかなと思ったが、思い直してリゾネーターの『D-800P』に持ち替えた。ジャララランという響きが良い。なので机の上でペン立てになっている陶器のマグカップを持ってボトルにした。スライドしながらブルースを弾くと、なんとも後ろ髪を引かれるような音が出る……。
吉川クンは私が好きだった。少し照れていたけど正々堂々と言えていて立派だと思った。もし私が男の子だったら、誰か女の子を好きになっても、あんな風に言えただろうか?
『お前と一緒に居たいんだ』
未来の事は誰にだってわからない。それでも今この瞬間は一緒に居たい……そんな気持ちが伝わった。期間限定だとか、魔術師だからとか、そういうネガティヴな気持ちが薄れて行く。
いつの間にか私も、彼を好きになっていた。その事実に気付けた。だからこそ彼との事を真剣に考えよう。卒業まであと半年。それまでにより良い考えや、あり方も見えて来るだろう。
3年D組吉川弘三。一番上のお兄さんが弘一、二番目のお兄さんが弘二、彼は三男だから弘三だ。『弘』という漢字には、は『広い』だけでなく『広める』と能動的な意味もある。同じ弓編の『弦』とどこか似ている。
『お前の弓を引き絞った時の顔がカッコいい』
いつかそんな事を言われたっけ。今度、彼の剣を見せて貰おう。
「お姉ちゃん、ニヤけ過ぎ」
「はい!?」
ドアの入り口にクロエちゃんが立っていた。その後ろにはエルマとトロンメルも。そっか、知っちゃったか……相変わらず早いな、この子は。けれど思ったより落ち着いて見える。きっとエルマとトロンメルが何か話してあげたのだろう。だから二人の年長の妹に目で礼をした。
「クロエちゃん……」
「うん、良いよ。お姉ちゃんが決めたんでしょう。なら仕方ないじゃん」
私はギターをベッドに置いて、立ち上がった。そして褐色の可愛い妹を抱きしめた。その身長差よりも彼との差が……いやいやいや、今は妹だ。
「お姉ちゃん。いつか私も、カッコいい彼氏を紹介するね」
「クロエちゃん……。うん。待っていますね。…………エルマ。後ろから抱きつかないで下さい」
「私はお姉様に、彼氏が居ようと彼女が居ようと気にしませんから」
トロンメルが呆れ、クロエちゃんも引いている。
「エルマお姉ちゃん? さっきはあんなに良い事を言っていたのに」
「エルマってガチだったんだ……?
「ガチもガチです。お姉様が太陽なら私は路傍の花。いつかは枯れるこの身といえど、お姉様なくして私の人生はありません」
「あなたは光合成でもしているのですか?」
「はい。今はこうしてお姉様から直接熱エネルギーを頂いています」
ピタリと背中に張り付くエルマ。暑いです。
「妙な事を小学部の子の前で言うな!」
軽くゲンコツを落とすとやっと離れた。
「クロエちゃん。お風呂は済みましたか?」
「うん」
「電話を入れてあげますから、お姉ちゃんともう1回入りませんか?」
「入る!」
それでクロエちゃんとお風呂場まで手を繋いで行ったら、エルマとトロンメルも付いて来ていて、脱衣場で服を脱ぎ始めた。あなた達、髪の毛が湿っていますよ?
肩までゆっくり浸かった後、クロエちゃんを呼んで私の前に同じ方向で座らせた。
「お姉ちゃん?」
「以前、おチビちゃんにしてあげた事ですよ? 憶えていませんか?」
コクリと頷く。そっか……。おチビちゃんの体験を全部が全部、憶えている訳ではないのか。そんな気はしていた。だってクロエちゃんとおチビちゃんは別人だ。なのでうっかり眠ってしまう時もあったろう。私が『エル』の全部を知らないように。
「5年生だから我慢できますよね?」
そうして目を瞑るように促し、私よりもっと細い、少女らしい髪を洗ってあげた。シャワーで濯いで、トリートメントもしてあげる。手に石鹸を広げ、耳の後ろから項に背中も洗ってあげた。そして小さな声で、囁くように聞いてあげた。
「ここ、ちゃんと洗っていますか?」
首筋を赤くしながら、コクンと頷いた。
「イリヤがやってるのを見て覚えたよ」
偉いねと言ってあげてからお湯で流してあげた。
「お姉様! 私のも洗って下……ゲフッ……」
妙なところを肩越しに突き出すな。っていうか、お一人エッチのし過ぎだろう。お豆さんが私の1.7倍くらいあるぞ?
「ナイス、トロンメル」
「エルマがこんなに酷かったなんて……。よく耐えられますね?」
「まぁまぁ、抑えてあげて下さい。この子はこの子で良いところがたくさんありますから」
トロンメルが私の顔をマジマジと見た。クロエちゃんも何だとトロンメルを見た。
「姉さんが姉で良かったです」
「あ。トロンメルのお姉ちゃん、やっと言った」
「え?」
「エルヴァお姉ちゃん、ずっと待っていたんだよ?」
「ああ……」
身体を洗い、エルマに活を入れ、お湯に浸かった。そうして4人でお風呂に入った後、クロエちゃんを送ってあげてからお母様と少しお話した。まぁ、詰まるところ交際する事になりましたという報告だ。
「どんな人かしら? 一度遊びに連れて来て?」
この複雑な家庭環境を吉川クンに見せると?
「エルヴァちゃん? あなたは私の双子の姉の子でしょう? そうなると叔母と姪の関係かも知れないけれど、心情的には親子だわ。そういう雰囲気というの? それが伝わって、あなたがちゃんと家族として皆んなから愛されている子だと伝われば良いのよ。重要なのはそこよ? だから疎かな付き合い方は辞めてねって、これは親の気持ちかな」
「お母様……」
「うん。私はね、何も知らないままキリツグと一緒になったの。それでも幸せよ。なら、私よりたくさんの事を知っているエルヴァちゃんなんだもの。もっともっと幸せにならないと。でしょう? だから親としてあなたを見守りたいの」
私はお母様の胸に飛び込んだ。
翌朝、エルヴァ姉さんや士郎さんと一緒に走った。ここのところ私は毎日姉さんと走っている。時々エルマも参加するが、あの子は距離で運動するタイプでなく、時間を計って有酸素運動をするタイプなので、途中で折り返し凛さんやルヴィアさんと合流して運動をする事が多い。
最近は空手の型なども習っているそうだが、それなら姉さんに教われば良いのにと思う。だけどお風呂場であれだけ大胆ではしたない事をする(自分の指で股間を広げ、姉さんに敏感なところを突き出していた)のに、そういうのは言えないらしい。
私も大概な性格だと思うけれど、エルマも大概だ。だけど『私は違います』と線を引いて、私と関わろうとしなかったヴンダーより、真面目なコトも変なコトも話し合えるエルマの方が断然良い。
いつもの公園で休憩し、持参したドリンクを口に含んだ。姉さんもタオルで汗を拭きながら、自分のドリンクを口に含んでいる。
「今日から部活が暫く行えませんね?」
うん? 選手に選ばれているエルマに訊くならわかるけれど、私に? どういう意図だろう?
「学園祭の後は直ぐに中間テストです。そしてテストが終われば、新人戦の大会です」
そうだ。だから1年生の練習時間が圧倒的に少ない。だけど学園の予定がそうなっているから仕方ない。それにテストの時期は他校も似たり寄ったりだろう。
「トロンメル? 無理をして弓道部のマネージャーなどせず、軽音楽部に正式に入りなさいな。陸上部にしてもそうです。幾ら長距離専門で市のマラソン大会狙いだとしても、普段皆さんと練習しないのは不味いですよ」
ああ、そういう事か。なら決まっている。
「陸上部の先輩方に話した上で退部し、マラソン大会だけに絞ります。それで軽音楽部に正式に入ります。それと弓道部はこれからも手伝わせて下さい」
「それはエルマのため?」
「だけでなく、部員の皆さんが好ましくて。仲間としてそこに居たいんです」
「わかりました」
そう言うとエルヴァ姉さんはベンチから立ち上がった。そこから家まで黙々と走った。
部屋に戻り、シャワーを浴びて制服に着替えた。クローゼットのハンガーには前の学園の制服も掛かっている。スカートは使い回せるけれど、夏のブラウスがオーバー・ブラウスなので使えない。まぁ、来年の夏はもう少し背が伸びているかも。
成長型ホムンクルス。その素体を使って私達は『エル様』に鋳造された。最初の設定次第で20歳でも、25歳ででも成長を止められる。
『ずっと10代だとダメですか?』
『20年後も40年後も10代ですと周囲が気味悪がります。それで住処を転々としなければならなかった魔術師は、決まって性格が歪みます』
『それはどうしてですか?』
『知性や記憶力がいくら高まっても、感受性や精神も10代のままだからですよ』
本当は精神も成長する。だけど肉体年齢に引き摺られ、判断が甘くなる傾向が強いのだ。若さは、明日もあると誤った認識すら許容してしまう。だから鋳造されたホムンクルスや人格を与えられた礼装などと違って、自ら破綻して行く場合が多いのだそうだ。
着替え終えて部屋から出ると、同じく制服姿の姉さんとエルマが立っていて、その周囲に20人くらいのアサシン達が膝を折って話を聞いていた。すぐに散会したのでエルマにどうしたのかと尋ねた。
「用事があったのは私です。エルマはマスターですから立ち会っただけですよ」
そう姉さんが答えてくれた。どうもアメリカにいるもう一人のエルヴァさんから買い物を頼まれたらしい。だけど学園のある姉さんは日中動けない。それでアサシン達に代理購入を頼んだのだそうだ。
金銭は既に先方から振り込まれているらしく、それの確認と引き出し、それとカードでの買い物を依頼したという。ここがアサシンの怖さだと思う。幾ら姉さんが委任状を書いたとしても、そう簡単には他人が銀行口座から引き出せるものではないだろう。ましてやカードでの買い物など不可能に近いと思うのだが。だけどそれをしてしまうのがアサシンだった。
そうして3人で階下に降り、食堂で朝食を頂いた。今朝は久しぶりにアーチャーさんが厨房に居た。昨日の夜にでも戻ったのだろう。だから士郎さんも既に来ていた。
「あれ? セイバーは?」
「ランサーとランスロットも戻ったのでな。裏に居ると思う」
姉さんの質問にアーチャーさんが答えていた。
自転車の前カゴにお弁当にタオルとエフェクターなどを入れたサブバッグを置いて、ギターバッグを背負って(教科書&ノート、筆記具に体操服入り)、私はペダルを踏んだ。
バス停に向かって歩くエルマを追い越して、姉さんと一緒に深山町を縫って走った。いつもの坂を登っていくと、海の見えるカーブのところで男子が声を掛けてきた。
「お~い、おはよう」
「おはようございます。もしかして待っていた?」
「ああ、一緒に行こう」
剣道部主将の吉川先輩だ。姉さんのお弁当仲間でもあり、今日からステディな仲だ。やがて校門を抜け、自転車を止めた私は、下足室のところでお二人と別れた。階段を登る後ろ姿を見送ったけれど、ぎこちないな。
「おい、蒔寺。本当かそれ?」
「本当だって。昨日の7時頃かな。マウント深山で、吉川先輩がエルヴァ先輩に告白してOK貰ってさ。今朝も一緒に登校してたぜ」
そういう盗み聞きは良くないと思いつつ、聞き耳を立てた私だ。
「リン、知っていまして?」
「初耳よ。だって昨日の今日なんでしょう? エルヴァ、晩ご飯まで出ていたから、たぶんその時ね」
「ですわね。ですがあれだけの魔術師が一般人と……」
「ルヴィア……。今のあなたなら、家を背負わない彼女を無責任だとは考えないんでしょう?」
「ええ、考えません。これだけお世話になっていますのに」
「ね? だから私は素直に応援するわ」
「ですわね」
「だけど、マウント深山って。これ、相当噂になっているわね」
「エルヴァさんらしいと言えば、エルヴァさんらしいのかも」
うん、確かにエルヴァっぽい。彼女は意外と抜けたところがあって、『そこで?』っと思うようなところで失敗をやらかす時がある。だけどそれが妙に和むのだ。きっとまだお買い物中の主婦の方々や、そろそろ店じまいに掛かろうかという商店の人々を『若いって良いなぁ』なんて和ませたに違いない。
なぜそう思うのかって? 根が素直だから、そういうリアクションを自然に取るのだ。あのエルヴァという人は。やがて周囲の喧騒は、エルヴァと吉川先輩の話一色に塗り潰された。
方や学園一の有名人で、成績優秀なスポーツガール。もう片方も剣道では全国レベルの有名人で、成績こそ知らないが、その強面な容貌とは裏腹に人気のある先輩だ。
だから、お似合いと言えばお似合いではある。彼女が魔術師であるという点に目を瞑れば。その意味でルヴィアの懸念は尤もなのだ。
だけど私は応援したい気持ちが強かった。これも心の贅肉なのかしら? いえ、友情よ。それだけはハッキリ言える。結局、その日は放課後までずっとその話題で持ちきりだった。
だからホームルームで、美人コンテスト出場に推薦されても普通に流していた。
「リン、まさか受けるとは……」
「ルヴィアは辞退したわね。どうして?」
「あなたと競いたくないというのもありますが、確実に負けるとわかっていますのに。そんなものに出て不名誉を蒙りたくありませんわ」
「あら。私に負けると?」
「また、ボケますわね? エルヴァさんが推薦されないはずがないでしょうに」
「あ……」
「それに1年生からはエルマやトロンメルにサクラも出る可能性がありますのよ?」
「…………ぁぁ…………」
ここぞという時にやらかす『うっかり』。泣いていいかな?
「コンテストにトロンメル・フォン・アインルベルンさんを推薦します」
は?
級友の突然な推薦に驚くと同時に、二つの懸念が同時に浮かんだ。一つは姉さんの存在。もう一つはD組にいるエルマの存在だ。だから断ろうかなと考えた。
だけど、こういうのを『賑やかし』とわかっていても、『盛り上がるなら』と受けるのが姉さんでありエルマだ。私も段々それがわかってきた。なので反対も唱えずそのままにした。
ホームルームが終わるとダッシュで2年A組に行った。陸上部の蒔寺楓部長と氷室鐘先輩、そして三枝由紀香先輩と会うためだ。
あちらもちょうどホームルームが終わったところで、教室から出て来る御三方とナイスタイミングで出会えた。
「すみませせん、先輩方。少々、お時間よろしいですか?」
「おう、トロンメルじゃん。どうした?」
そこで息を吸い、当初からの目標であるマラソン大会には出場するが、それを理由に練習にも参加しない幽霊部員のままだと皆さんの士気に関わる旨と、軽音楽部に正式に入部する旨を話した。
「そっか……。やりたい事が見付かったんなら仕方ない。けど、マラソンは出てくれるんだな?」
「はい、それは」
「なら、わかった」
「うむ。他の部員にはこちらから伝えておこう」
「うん。残念だけど、やりたいコトをやるのが一番だからネ」
そう言って笑顔で送り出してくれた。やはり素敵な先輩方だ。後ろ髪を引かれるし、申し訳ない気持ちで一杯だけど、何とか頭を下げて自分の教室に戻れた。気分を入れ替えギターバッグを背負い、それで軽音楽部に向かった。
チャイムが鳴ってホームルームが終わったのにも関わらず、1年D組の教室から誰も出なかった。
「お湯は電気ポッド?」
「できればガスコンロを用意して、ヤカンでお湯を沸かしたいところです」
「アインツベルン、それは何でだ?」
「カルキ臭さを抜くのと、ヤカンで沸かす方が味がまろやかになるからです。特に日本は水道水が最初から軟水です。しっかり手順を踏めばイギリスより美味しいお茶が味わえます。それをお客様に楽しんで頂きたいのです」
「なるほどね~。お水からして有利なんだ?」
「そうです。ただ、問題はクッキーやスコーンですね。調理実習室はクッキング部が使うので、家から持参する他ありません。そこで少しでも見栄え良くするために、ジャムやシロップを添えて出したいと思います。その準備に人員を募りたく思います」
お菓子作りが好きだという女子が4人手をあげてくれた。その他、教室の飾り付けや、テーブル代わりの机の配置、そのテーブルに掛けるクロスなどなどを担当する人を次々と決めていった。
「お花を飾りたいわね」
「匂いがキツくないか? よくわかんないけど、お茶の香りも大切なんだろ?」
「あ、そっか」
「そうだ。どの途、机が余るだろ? 後ろに並べてそこを飾り付けたらどうだ? 理想は本で見たガーデンだけど」
「プランターでも置くの? 本格的にやったら、お金掛かるよ?」
「そうか……」
何故かこの1-Dは熱心な人が多かった。そこでおずおずと手を挙げたのが桜だ。
「はい、間桐さん。何でしょう?」
「華道部の人に相談してはいかがでしょう? あちらも作品展示の準備があるので忙しいとは思いますが、休み時間に相談に乗ってもらうとか」
「うん、それですね」
皆んながウンウンと頷いた。華道部は毎年、書道部や茶道部にも作品を展示していた。学園祭は高等部だけの行事だが、同じ期間中等部も文化祭をしている。先生方を賢いなと思うのは、その中等部文化祭の内容だった。
模擬店などは一切なく、教室での研究展示と中等部体育館での演劇、それと合唱コンクールで上位成績を修めたクラスの合唱披露に絞られているのだ。つまり文字通りの『文化祭』だ。
だけど手の空いた高等部生も見に来るし、小学部の見学もある。また小中高の保護者や家族も見に来るので来場者は多い。そうなってくると、皆んな真剣になる。
なにより期間中は中等部生も指定時間内は高等部に行き来自由なので、模擬店や飾り付けなども間近で見ている。だから内部生は面白さも辛さもわかっている。先程から意見をポンポン話しているのは、皆んな内部生だったのだ。
ただ、ここが私も盲点だった。穂群原には高等部と中等部の合同部が結構ある。我が弓道部もそうだった。そして書道・茶道・華道の、専用室を持つ三大文化部もまた中高の合同部だった。そして華道部の中等部生は高等部と一緒に展示となるので、見栄えの点やお花代が自腹になる点からも3年生だけに限られていた。
つまり先生や部長との交渉次第で、1年生は難しくとも、2年生の中等部部員に作品発表の場を設けられる可能性があるのだ。その事を『それと……』と指摘してくれたのが桜だった。
彼女も数少ない中等部からの弓道部員だ。同学年の女子はたった二人で、もう一人は高等部では異なる部を選んだ。だから思うところはたくさんあるのだろう。話を纏めるだけ纏めたら、私と桜は華道部の部室に向かった。
「その人の名前やクラスは訊かないけれど、弓を置いた理由は訊ける?」
「うん。3年間試合に出れなかったから」
それが競争であり実力の結果だけれど、中等部生には厳しい。だけどそんな『思い』があったから、桜は華道部とタイアップできないかと提案したのだろう。これは弓道部も何か考えないと。
「そうだ。3年生の引退日に中等部生と高等部1年生による御前試合なんてどう?」
「ご、御前試合?」
「そう。ハンディ戦で。例えば中等部には最初から10ポイント与えてさ。合計点で競うんだ」
「中等部の1年生にも弓を引かせるの?」
「もう的前には立てるでしょう? どうかな?」
「う~ん……」
モチベーション、上がると思うんだけどな。ともあれ、そんな事を話しながら廊下を歩く私達だった。
軽音楽部の部室に『こんにちは~』と、同じクラスで同じグループのメンバーとなった秋田美穂と入った。
この部室は中等部棟と高等部棟の間に建つ特別教室棟の空き教室を利用したもので、第二音楽室とは準備室で繋がっている。やだし元教室の部分は、普段は第二音楽室ともども吹奏楽部の練習場所にもなっているから、本当の部室は準備室の方だ。
顧問の先生(高等部2~3年生の選択音楽と中等部1年生を受け持つ、若い女性の先生)が、吹奏楽部の顧問である音楽教諭(高等部1年と中等部2~3年生の音楽を受け持っている、優しいお爺ちゃん先生)と同じ第一音楽室の準備室しか使わないので、空けて下さったらしい。
ちなみに第一音楽室の準備室は、その隣の視聴覚室と繋がっていて、また第一音楽室と視聴覚室は階段状になっていた。要はこの横並びの音楽室と視聴覚室は吹奏楽部が本当の主で、特別教室棟は中等部生も利用しているって事だ。
学園祭前なので吹奏楽部も練習に余念がない。第一音楽室や視聴覚室からプオーっという管楽器の音が聴こえていた。防音壁や防音扉があるんだから閉めろよと言いたが、授業じゃないからエアコンが止められているのだ。だから扉も窓も全開なのだった。
そして軽音楽部のロックバンドはもっと悲惨だった。この空き教室の後ろにある楽器奏庫の中で、『必ず』扉を閉めて練習しなければならなかった。先日姉さんが涼しい顔をしてギターを弾いたのは、魔術を使って体感温度などを下げていたからだ。その魔術の流れがあって、あの神業的な速弾きに繋がったのだ。
学園祭当日の軽音楽部は、体育館のステージが最終日のみで、初日と中日は視聴覚室で演奏する事になっていた。ただしステージも演劇部や有志による漫才などと交代だし(演劇部のメイン舞台は中日なので、最終日は出番がほとんどないとか。だけど笑えないお笑いが邪魔だとは先輩方の愚痴だった)、視聴覚室も映画研究会との交代(1時間ごとの入れ替え制)だった。
つまりポップスやフォークと違って、ロックはかなり迷惑がられていた。どこの学校もそうだと思うし、練習場所があるだけマシだと言えた。なので汗だくになって涼みに出て来る先輩方も学園には文句を言わなかった。その分、お笑いを槍玉にあげているけれど。
また幾つかあるバンドの人達は、姉さんも出られないものかと口々に言っている。だけどギターの人が皆んな渋い顔をしていた。それはそうだ。学園生活で最高に輝く日を、横合いから奪われたら溜まったものじゃない。
そんな事を考えながらギターのチューニングを始めたら、楽器奏庫から大柄な人が出て来た。吉川先輩だった。脇にホコリだらけのキーボードを抱えている。
「あった、あった。これで良いんだよな?」
どうも先輩は友人の先輩と倉庫の奥のロッカーを漁っていたらしい。
「そうだ。『YAMAHA DX7II-D』。10年以上も前のシンセだけど、まだまだ使えるぞ」
「奥にはまだあったな」
そうなんだ?
「そんなに?」
「歴代の先輩方が置いていったのや、部費を貯めて購入したはいいけど古くなったのとかね。ベースにギター、アコギも積み重なってるわよ」
美穂の言葉に驚く私だ。思った以上に軽音楽部は歴史があるみたい。すると吉川先輩が私に気付いて微笑んだ。
「酷いもんだ。あの練習場所、たぶん半分も使ってないぞ。衝立の奥が楽器の墓場だ」
「だから言ったろ、サルガッソーだって」
これには皆んなが笑った。
「あった? 吉川君」
「はい、ありました」
若地先生だ。若いから若地ではないけど、どうやら使っていないキーボードを貸し出す事になっていたらしい。3年生ともなれば、あの手この手で必要なものを調達するものだ。
「あれ? これでも良いけど、私の言ったのは『VL1』よ? そっちの方が、アインツベルンさんには合うから」
へ? と思ったが、姉さんの事だった。どうも姉さんは若地先生のお気に入りらしく、キーボードやピアノが弾ける事も、二人が付き合い始めた事も気付いていたらしい。
「っていうか、毎日仲良くお弁当を食べているんだもの」
先生が指差した窓の外。そこには中庭があって……そこは姉さんと吉川先輩が、いつも使っている場所だった。音楽室の真下だったんだ?
「吉川先輩。姉さんと演奏するんですか?」
「ああ、3-Dでな。委員長や遠峰には話してあるぞ」
「それ、姉さんに話しました?」
「え? あ……。それを話そうとして……」
「勢いで告白しちゃったと。姉さん、ホウレンソウには厳しいですよ?」
「うわぁ~~~!」
大男がキーボードを小脇に抱えて走り出していった。恋は盲目とはよく言ったものだ。バーサーカーだろ、あれ。
そうして吉川先輩が姉さんを連れて戻って来たのは、数曲合わせた後だった。20分ってところかな。ちょっとプリッとした顔をしているが、私にウィンクしたので振りだけだろう。対する吉川先輩は身長が30cmくらい縮んで見えた。だけどしっかり仲良くお目当てのキーボードと付属品を掘り出していた。
吉川先輩がどこかに飛んでいきそうなくらい上の空だ。だけど顔は満面の笑顔。姉さん、倉庫で何をした?
「拭くだけじゃダメですね。端子を接点復活剤で磨かないと。面白そうなシンセだから何とか復活させたいですね」
「故障はないと思うわ。私が学生の頃、これを使っていたから」
「そうなんですか?」
「あら、こう見えても軽音楽部の元部長よ? だから顧問を引き受けたというか、押し付けられたんだから」
「あれ? もしかして若地先生。吉川弘一先輩の?」
「ええ、同級生。彼も剣道部主将だったわ」
「先生と兄貴、3年の時、同じクラスだったんだ」
「あらま」
世間は狭い。その一学年下に小学部の藤村先生や生徒会長のお兄さんが居たという。結局二人は準備室で、仲良く2台のキーボードを綺麗に拭いていた。姉さん、2台使うのか。
先生の説明に拠ると、その『VL1』は付属品で息を吹き込み、その強弱でより本物の笛らしい音が出せるのだとか。笛だけでなくどこかの民族楽器みたいな音も簡単に出せるらしい。93年のモデルらしいが、凄いのを作るなぁ。
また『DX7II-D』の方は『FM音源』というのを使っていて、その透明な音色は80年代のポップスに使われまくりだったとか。そんなのを学園に置いていく先輩ってどういう人だろう?
それはさておき、若地先生は音楽大学に通う前の学園生時代から、ピアノとは別にシンセサイザーを使っていたそうだ。それはクラシックだけでなく、ポップスも好きだったからだという。
「要は自作の曲でね、一人でオーケストレーションしたかったのよ」
それで高校生と思えない機材を奮発して揃えたという。幼少の頃からピアノを学んでいたそうだが、限られた音しか出ないピアノに厭きていたそうだ。だから音大もピアニストでなく先生になりたくて選んだという。
「辛い時や哀しい時、嬉しい時や楽しい時。音楽はいつも人に寄り添ってくれる。そんな音楽の楽しさを皆んなにも識って欲しくて先生になったのよ」
その趣味は今も続けておられ、自宅の部屋は音楽室より酷いという。『SY99』と『AN1x』、『S90』の3台に、『FS1R』や『MOTIF-RACK』といった音源を幾つか繋げて曲を作られているそうだ。
ちなみに先生は『YAMAHA』党らしい。通りで。キーボード担当の人が持っている機種も、『CS1x』に『CS2x』、『S03』といった学生にも買いやすいシンセか、『P-90』や『P-120』といったステージ・ピアノばかりだった。
誰も『CASIO』などの家電店で扱っているようなキーボードを使っていない。そこはわかるけれど、『KORG』とか『roland』とか誰も使っていないところに驚く。
例えば『エル様』は最小の機材として、ピアノとマスターキーボードを兼ねた『YAMAHA S90』と、ピアノとオルガンとシンセが一体となった『Roland V-Combo VR-760』、拡張ボード満載の『KORG TRITON STUDIO』か『TRITON Extreme』の3台をメインで使っていた。
そこに太い音のするアナログの『Minimoog Voyager』や、アフタータッチで音が変わる『ARP String Ensemble(Solina)』を足していた。とことんロックやファンクを目指していたのだ。
『ロックって何ですか?』
『世の中を糺したい。一人一人はちっぽけでも、皆んなで声をあげれば世の中が変わる。そう信じている、ピュアな愛を持つ人がギターやマイクを持つのですね。本来のロックはそういうものです』
そんな事を教えて下さった。
「『ES』のラックが出るのを待っているのよ」
まだ何か買うらしい。それはシンセかな? 『FM』はポップスに合うけれど、似たような音ばかりだからなぁ。
「それで曲を?」
「うん。皆んなが元気なれる曲をね」
こういう先生なら、姉さんと気が合うのは当然だと思えた。
前の学校でも顔と名前は知っていたけど接点のなかった私。ここでは次々と関わっている。自分の人生や運命の最初の一歩からして変わっていくのを感じる。
「ところで、エルヴァ先輩?」
私はキーボードを拭き終わって、帰りに接点復活剤を買って帰ろうと話していたお二人に声を掛けた。
「ん? トロンメル、何か?」
「お二方は、それぞれのクラスは良いんですか?」
「あ!」
ど忘れしていたらしい。皆さん、作業で忙しいだろうに。しかもお二人は実行委員だ。私も実行委員だけれど、1年E組は出し物が奇術と占いの館だと(休憩はお隣のD組でと、おんぶにだっこ案が)早々に決まっていた。
不真面目という訳でもないけれど、他のところをしっかり見たいので余り凝った事はしたくないという人が多かったのだ。色々聞くと、どの学年にもそういうクラスが一つはあるらしい。頑張りたい人も居れば、そこそこでいいやと思う人も居る。それが普通の感覚だ。
「行くぞ、エルヴァ!」
「ちょっ!?」
バーサク男は姉さんを小脇に抱え、『降ろして~』という声をこだまさせて駆けて行った。あれはどうなんだと思っていたら、皆んなが皆んなホッコリしている。
「良いなぁ、あの二人」
「マンガみたいだけど絵になるよね」
「な? アインツベルン先輩って近寄りがたい雰囲気を感じたけど、思ったより気さくなんだな」
「吉川先輩とそういうトコが似てるよね」
「だよね~」
そんな事を口々に言っている。先生までが頷いていた。
「マジで?」
「ええ、本当ですとも」
「あの嬢ちゃんがなぁ。まぁ、恋愛は自由だ。落ち込むな、ランス」
「私はそんな邪な男でも野暮でもありません。落ち込んでいるのはアーサーですよ」
「セイバー? 何でだ?」
「アーサーは后を娶った実績がありますからね」
「それを寝取った邪な野郎がお前ぇだろうに。けど、そういう事か?」
「断言はしませんが、多少そのケはあったと思います」
「待て待て、友情だろ?」
「まぁ、その延長だとは思いますよ。しかし、落ち込み方が……」
「一時のもんだろ?」
「そう願いたいところですよ」
海外でのお土産を渡そうとしたらこれだ。思わず隠れてしまったではないか。しかしあのエルヴァが……。そういう事にはもっと堅い人物と思っていたが、意外な面もあるのだな。
『衛宮、そういうお高い女を求める層もあるんだよ。『シオリスト』って知らないか?』
知らん。シオニストなら知っているが。時々、記憶の奥底から意味不明な事を話し掛ける『心の慎二』。これは何だろうな?
『僕は言ってみれば、お前の良心だよ』
親はあの災害で……。
『ボケてんのか、お前?』
ともかく『慎二』を振り払い、それでなんとか間を見て土産を渡し厨房に戻ったのだが、今度はニコとオーギュストに士郎がエルヴァの事を話していた。
「あの人には幸せになって欲しいよ」
「ですな。まぁ、お嬢様は顔を顰めるかもしれませんが、調べたところ普通に良さそうな男性でしたぞ」
調べたのか!?
「問題は魔術師の家系でない事、そしてご両親が警察関係者なところですな」
「一般人で、警察?」
「左様です」
「だからルヴィアさんが顔を顰めるのか」
「はい。まぁ、最後は凛様を押しのけてでも応援するのがお嬢様ですな」
「だよなぁ。情に脆いのがルヴィアさんのいいトコだし」
「それはさておき、士郎様もそろそろフィンランドに?」
「その予定です。そうとう反対されそうだけど」
「そんな事はありませんよ。旦那様も奥様も、自由恋愛ですぞ? ましてやお嬢様が妹とまで言った美遊様を悲しませる筈がありませんよ」
「ですね。何もない俺はそこにすがるしかないけれど」
そういや、士郎は土蔵の鍛錬をしていなかった筈だ。固有結界……いや、相手はエーデルフェルトだ。どうにかするのだろうな。
いつの間にやらこの士郎が一番の出世頭だ。言ってみれば逆玉の輿だからな。何故、私はルヴィアを選ばなかったのだろうか……それはきっと、どこかに行っても遠坂なら許してくれると考えていたからだろう。
要はルヴィアを悲しませる事ができなかった。なのに遠坂にはさんざん甘えて。哀れな男だ。それだけにフィンランドへ挨拶に行きたいという士郎は眩しい。自分の過去とは全然違う衛宮士郎。口には出さないが、私は内心で士郎とルヴィアを応援していた。
空港に降り立つとノイント老のエージェント達が迎えてくれた。中には見知った顔もあった。
「やぁ、久し振り」
「ご無沙汰しています」
「どうだい、最近は?」
「既にお聞き及びと思いますが、我々は既に『その後』に向けて動いております。先日はネバダでとある土地を取り囲む、周囲の土地を買い上げました」
「それで彼らの土地を守るんだね?」
とある霊脈がある。その土地は地元のネイティヴのものだ。有用性があっても取り上げる訳には行かない。なので霊脈からこちらにもマナが流れるようバイパスを作った上で、第三者がその土地に手が出せないよう買い上げた。エルとエルヴァからの提案らしいが相変わらず早いな。
「それで株は?」
「株というより資本ですね。明日、お館様側とベネズエラ政府とが調印します。ロシアとも調印が済みましたので、後は『OPEC』の最終判断次第ですね」
「早過ぎないか?」
「足を引っ張りそうな者、障壁となる者……。つまりこれまで、お館様が頭を痛められ、キリツグ様がお手を煩わせられた相手が軒並み……」
何だ?
「脳溢血や脳梗塞で倒れました。全員です。それもあなたがアラブに行っている間にです」
何だって?!
「ざっとですが、人数にして延べ150万人強です」
「国も何もかもが違うのにか?」
「はい。このアメリカでも数万人が僅か三日の間に。どいつもこいつも植物人間一歩手前。外部とのコミュニケートが不可能な状態です。よってそれを発表するもの、隠すものに別れております。ですが当方とエーデルフェルトなど一部のものは気付いています。世界同時に株価が乱上下していますからね」
な!? それも……『現象』なのか……?
「まさか恐慌?」
「には、ならないでしょう。一時的な動きです。ただ、この機に乗じてどれだけ動けるかですね」
どうやらノイント老達は、今回かなりの数の企業を同時買収しているようだ。という事は……。
「君らは『エル君』と会っているのか?」
「はい。御館様からあの方の指示通りに動けと仰せつかっております」
やはりか。その後言われるままにクルマに乗り込み、空港からマンハッタンに向かった。着いた先は1stアヴェニューのイースト47thストリートと48thストリートの間に聳(そび)え建つ、高級超高層ビルだった。その名を『Trump World Tower』といい、著名な俳優や野球選手などセレブが大勢住んでいる事で有名だ。
そして乗り込んだ高速エレべーターの行き先ボタンを、彼らは迷いもなく押した。最上階だ。目眩がするほど昇ってからエレベーターは止まった。
開いた扉の前には、黒いスーツを着込んでいるセイバーが待っていた。
「どうぞ、こちらです」
ん? 何か知っているセイバーとは違うような……彼女がノックをすると、目の前の大きな扉が内から開かれた。するとそこにも同じいでたちをしたセイバーが居た。
「お久しぶりですね、キリツグ」
「君が『エル君』の方か……」
「はい」
「彼女は?」
「英霊のイリヤ達が連れ帰ったセイバーですよ」
「ああ……『エル君』が」
そうだった。あの子はまた『セイバー』を従者にしたと聞いていた。その桁外れっぷりに、もはや僕の脳が考える事を拒否しているとしか思えないな……。
「借りているのかい?」
「買い取ったと伺っていますよ。ここは4分割されての分譲だそうですが、あちらでは当初の設計通り改装せず、2フロア分買い取っています」
おいおい。
「幾らするの?」
「ここは知りませんが、あちらでは5千8百万ドルでしたか」
60億か!? だとすると単純計算で1/4だから、15億か……。つまり、『ここ』でこれを買えるほど既に儲けているって事だ。アーチャーの言葉を思い出す。
『金のある奴の方が、確実に人を救っている』
若い頃なら感情に任せて否定したその言葉。だけど今は『その通りだ』としか言えない。2階分の天井まである大きな窓に夕日が沈む。こんなマンハッタンを見たのは初めてだった。
「ようこそ」
声に慌てて振り返ると、髪を上げてイブニングドレス姿の『エル君』が立っていた。その臙脂色のドレスはシルクだろうか。首には大きなダイヤのネックレス。耳にもダイヤの飾りをぶら下げていた。重くないか、それ?
しかし……スイスのエルヴァもこんな風に成長するのだろうか? クロエやイリヤはどうだ? とても想像付かないな……。僕が呆気に取られていると、いつの間にやらエージェント達は消えていた。
『エル君』がソファーを薦めてくれた。そのタイミングで、馴染みのセイバーがカクテルを銀のお盆に乗せて現れた。その赤いマラスキーノ・チェリーの浮かんだ赤いカクテルは。
「粋だね? 夕日を眺めながら『マンハッタン』かい?」
「いえ、自棄酒です。敗北宣言のようなものですよ」
「というと?」
「先日、この『現象』を起こした者の成れの果てと接触できました」
会ったのか……。僕は目線で先を促した。
「予測通り、私やエルヴァちゃんの並行世界存在でした。それで……人工的なウィルスの蔓延と、そこを商機と捉えた者が広めたワクチンとで……『彼女』の世界は滅びました」
な……!?
「それでここも……?」
「逆です。自分の世界以外は救いたいと願ったのです。だからお父さん、あなたが願ってもできなかった事、誓約があって私には無理だった事がここでは起きています。まず間違いなく、この世界は世代交代するまで真の悪党が現れません。お祖父様には話してあります。これをチャンスとして、できる限り長い平和を維持できる体制を整えて下さい」
そして『エル君』はグラスを片手に立ち上がった。窓の外の夕日はすっかり沈んで、空は群青色から黒へと昏いグラデーションに塗り替えられていた。紅い瞳に街の灯りが映っている。その斜め後ろから僅かに見える顔が寂しげであり、哀しみに耐えているようでもあった。
「私はこれで降ります。詳細はお祖父様の方へ送りましたので、そちらでご確認して頂き、今後の事を検討されて下さい」
それは本当に敗北宣言だった。僕達の手でなく外部からの世界転換、或いは変革。それでも良いじゃないかと、この子は到底思えないのだろう。
「ですが、お父さん。ある意味、これからの方が忙しいかも知れませんよ?」
哀しみは窓から棄てたのだろう。振り向いた顔はエルヴァのように素直な笑顔だった。だから僕達は再度乾杯した。
「未成年には良くないが、酔うまで付き合うよ」
「ありがとうございます」
そこでセイバー達の手によって、軽い料理が運ばれてきた。
「君達も座りなさい。一緒に呑もう」