トロンメルと一緒に着替えもせず食堂に降りれば、ルヴィアと凛がとても困った顔をしていた。
「どうされました?」
「郵便物をチェックしましたら、こんなものが……」
ルヴィアが封の切られた封筒を寄越した。
「見ても?」
「どうぞ、ご確認あそばせ」
そこに入っていたのは、宝くじの高額当選くじ引き換え(換金)も行っている大手都市銀行(メガバンク)の通帳とカードと印鑑、そして一通の手紙だった。通帳の口座名義人は『ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト』で、通帳の捨て印には『瑠美亞』とある。外国人が日本の印鑑を作成する場合、実印なら氏名(フルネーム)でも良いし、氏(ファミリーネーム)でも名(ファーストネーム)だけでも役所は認めてくれる。そしてそれはアルファベットでもカタカナでも良かった。大事なのは認印とは違うものである点だけだった。
ところが銀行印にはこれといった共通ルールが無かった。その銀行が認めさえすれば、何でもありと言えば何でもありだ。押し切れるなら『瑠美亞』もありだし『亜院津辺流』もありなのだ。だからルヴィアが困っているのは印鑑に関してではないだろう。むしろ、凝った書体(誠印相体)に喜んでいるフシすらある。
「口座残高ですわ」
「残高?」
そこで開いて見れば、桁を現すカンマが無かった。もし、今あなたの手元に通帳があるなら確認して欲しい。日本の銀行通帳は『\9,999,999,999』といった具合で、カンマを使う場合は百億以上表示できない。そしてその昔は表示不可として、全部『※』印で埋め尽くされていたのだ。
ところがこのルヴィアの通帳はこうなっていた。『\10000000000』。カンマがない。現代は地方銀行でもこの12桁までは表示され、メガバンクの幾つかは最大100兆円台までは表示可能らしい。どこでそんな知識を手に入れたかって? そういう通帳を見た事があるからとしか言いようがない。
「『エル』からですか?」
「はい。お手紙もありまして、エルヴァさんや皆さんの事をお願いしますと」
「それで、私のもあるのよ」
ん? 凛のも?
「そう。『必ずその世界の『遠坂』を再興しなさい』って……『末広がりの八だ』って8億……」
「それもこんな風に通帳と印鑑が?」
「ううん。私の口座に振り込み。私宛ての手紙でわかったのよ」
普通の高校生なら腰が抜ける額だけれど、ルヴィアも凛もそこは普通じゃない。だから金額にではなく『何故なのか?』という疑念が先に立ったようだ。
「なるほど。そこは疑問に思って当然ですね。私の推測で良いですか?」
コクリと二人は頷いた。
「思うに、このところ世界のあちこちで起きていた『現象』。それに何らかの『答え』が出たのだと。もしかしたら……カンですが、解決する必要がないとわかったのかも」
「そうなの?」
「あくまでも、カンですよ。それと彼女はこちらの世界でかなり大儲けしたようです。私もお母様名義で短期投資して、そこそこ儲けましたが、人様に差し上げるほどではありません。彼女、もしかして兆単位で利益を得たのかも」
「兆!?」
「兆ですの?」
「ええ。まぁ、それが当たっているかはどうかは別として、ルヴィアも凛も今回は『施しを受けた』とか、『下に見られた』とか考えず、そのまま貰ってやって下さい。感謝の気持ちからなのは、間違いないはずですから」
「それはお手紙にもありましたが……宜しいんですの?」
「くれるって言ってんのよ? 貰っとけば?」
「リン。金額が大き過ぎますわよ」
そこで私は二人の友人に第二魔法に関連する貨幣の話をした。
「二人とも『魔法使い』の弟子でしょう? こちらで10兆稼ごうが20兆稼ごうが、持って帰れない事に気付きましょうよ」
「ん? どういう事?」
「少額でも紙幣だと番号が入ります。となるとコンフリクトを起こして、後から『その世界に割り込んだ』分は消えるしかありません。次に現金で用意できないほどの高額になれば、それは実在も疑わしい単なる数字です。海外では通帳が存在しないので、この感覚をルヴィアはわかるでしょう?」
「ええ。ですが純金は難しいと思いますが宝石なら。現にミストレスは自前の宝石を……」
「自分の魔力が籠もった、ですよ? 『エル』にしたって、宝具や魔術で自前の『魔力で満たされた空間(極小泡沫空間)』を作るから、可能なわけで」
二人も段々わかってきたようだ。凜も理論と実技を優先していて、こういう部分は後回しだったようだ。
「本当ですわ……。仮に10兆分として、その宝石全部に魔力を込めるとなりますと……」
「一朝一夕とは行かないわね。師匠は『エル』が居たから、色々気付けたのね。うん?」
「ええ」
二人は同時にエルマを見た。エルマが『ラインの黄金レプリカ』を持っているのは二人も知っている。ヒントとは意外と身近なところにあるものだ。ただし答えそのものでなく、捻ったり、何かと足してみたりしないと答えにならない。魔術師がどうとか関係ない。そこに気付けて答えを出せるかどうか。物事はいつもそうだと思う。
後日、私やエルマにトロンメルの口座にも振り込まれているのがわかった。エルマとトロンメルは10億ずつで、私だけは1000億だった。これは私だけの分ではない。お父さんにお母様、おチビちゃんにクロエちゃん、士郎クンにセラやリーゼリットの分も含まれているのだ。だから口座を分けたり、一部長期の投資に回したりした。
そして『エル』の気風が良いのも事実だが、ここが並行世界である点を見逃してはならない。その『儲け』は、決して持って帰れぬ外貨なのだ。何よりキャッシュではない。通帳を飾る『0(ゼロ)』が増えただけだ。ましてやルヴィアに話した通り、日本以外では『通帳』がない。残高は明細で確認し、支払いは自動引き落としかデビットカード、もしくはパーソナルチェックだ。だから持っていても意味がない。
いや、決して意味がないとは言わないけれど、偶に遊びに来て一体どれだけ使えるのかという物理的な限界もある。兆単位を越えるお金持ちは、買い物がつまらないだろうなと思う。もはやこの世に投資くらいしか楽しみが残っていないのではないかとさえ思う。
お金はあればある程、得られる安心感違うというが、同時に自分の精神の中でデフレが起き、物の価値がどんどん下がるものだ。つまり何を買っても、何を食べても『飽きる』。遂には新しい体験にすら『飽きる』。何故ならお金を集められる人ほど、賢いし想像力が豊かだからだ。
『千里眼』なんて無くても、『王様』が愚王ならこの世に厭いていたと思う。だけど『王様』は『AUO』ではなかった。どこまでも『人を愛でていた』。その『美醜』のすべても。『エル』はそこが少し違う。『必要悪』は認めても、『絶対悪』は許さなかった。私はただ『彼女』がこの世に厭きないようにと祈るだけだ。
食事もお風呂も終えた私は、エルマに集まった機材を発送する許可を出し、トロンメルからギターを返して貰い部屋に戻った。そこで一人愚痴を零した。
「私も元はあなたですよ? エーデルフェルトからは、アドバイザー料として定期的にお金が振り込まれますし、投資や投機もしています。それもリスクを考慮して分散投資ですよ? ここまでしてくれなくとも両親の老後の資金や、家族の未来への貯蓄もある程度貯まっていますのに」
それが気紛れにせよ、それでもやはり有り難かった。だから心の中では素直に感謝した。そして机の上の写真立ての『彼』にオヤスミと言ってから電灯を消した。
幾ら荷物を運んでくれるからと言っても、公共の交通機関だと余りにも彼女に悪い。なので空港からは僕持ちでタクシーを使った。窓の外を流れる景色が見知ったものになると、嫌が応にも安心感に包まれる。『今回も無事に帰って来れた』と安堵のため息すら出る。
昔は『世界を救うんだ』『僕がやるんだ』と、そればっかりだった。だから勇んで出て行ったものだ。だけど今は『また、家族と会える』、その事が何ものにも代え難い歓びだった。
「楽しそうですね?」
「そりゃ、久々に家族に会うんだから。君達の時代でもそうだったろう? 戦場から家に帰るんだ」
「それは確かに。無上の喜びですね?」
「そうさ。君達の時代から見れば危険度は知れてるかもしれないけれど、無事に帰れるというのは本当に嬉しいよ」
「ええ、わかります」
そんな僕の気持ちが伝わったのか、彼女も楽しそうだった。彼女が深山町のとある場所でタクシーを止めさせた。
「ここかい?」
「はい」
定型的だけれど情の籠もった挨拶の後、彼女はその家に入っていった。
やられたなぁ。人というのは不思議なものだ。一度失敗したら、無意識にそれを遠避ける。その家の真裏はマッケンジー宅だった。僕が第四次で唯一、居場所を突き止められなかったライダー主従が潜伏していた家。だから『エル君』は、彼女がここで暮らす家をあそこにした。僕に疑心暗鬼を抱かせないためだ。あ、ニューヨークに居たのもそういう事か。僕と引き会わせるためだったのか。
よくよく考えれば当たり前の事だった。エルヴァ達を通さずに英霊が勝手に増える……それを一番嫌うのは僕じゃないか。『エル君』が居れば別だけど、彼女は今回の事で多忙だった。だけどセイバーのためには、早くからここに馴染ませるべきだ。そういう事か。
そしてこれも『エル君』の思惑通りと言うか。僕自身が歳を経たのもあるけれど、エルヴァ達を迎えてからこっち、どうにも甘くなった。いや、アイリに言わせれば、元々そういう性格だったと言うけれど。ともあれ僕は年頃のセイバーが心配だった。エルヴァやエルマに話しておくべきだろうね。何故かって? だからそれが僕の役目だからだよ。そういう風に『エル君』は配役していたって事さ。
運転手に代金と、タバコ代程度の少々のチップを支払い、礼を言って荷物を受け取った。
「ただいま」
「お帰りなさい、あなた」
僕は心底ホッとした。
目が覚めたので上半身を起こして伸びをした。
「う~ん」
薄い毛布がハラリと下がって、自分が裸なのに気付いた。ああ、そうだったと、寝息を立てている彼を見た。ここまで『安心』して眠れたのっていつ以来だろう。そっか……彼とこうなっちゃったか。でも、満足だったし嬉しい気持ちが強い。この選択は正解だと思う。
「あ……エルヴァ……?」
「おはようございます」
「う~ん……。おはよう」
そして家族との挨拶でない恋人同士にだけ許されるキスを交わした。
「君って……」
「うん?」
「酔うと言葉遣いが変わるね?」
「酔ったからでなく、安心できたからだと思いますよ?」
「つまりそれは、僕にしか聞けない言葉遣い?」
「フフ……。私も女だったんだなぁって、改めて自覚しました」
「なんだいそれ?」
「色々、溜まっていたんですよ。それをフンボルト、あなたが受け止めてくれた。ありがとうございます」
すると彼は片眼を瞑ってこう言った。
「どういたしまして。正直、やり過ぎたと思っていたよ。だけど、何とか君の合格は貰えたようだね?」
「はい」
そうして笑いあい、交代でシャワーを浴び、身嗜みを整えてからチェックアウトした。時刻は午前10時を回っていた。シャワーの時、入って来るかなと思ったがそれはなかった。彼は一度身体を許したのならと甘えて来るタイプではなく、どこまでも真摯な態度を崩さなかった。こんなところで好感度は上がるものだ。だから私も今朝はバスタオルでできる限り身体を隠した。大胆だけど恥じらいや貞淑さも併せ持つ。
『外では並んで歩ける事に誇りを懐かせ、ベッドでは技巧豊かな娼婦となり、子供達の前では佳き母となる。女の顔は一つではありませんよ、お嬢様』
忘れもしない『エル(私)』が初潮を迎えた時のママの言葉だ。ああ……このまま真っ直ぐハンティントンに戻るのが惜しい。もっと彼と一緒に居たかった。
「フンボルト?」
「なんだい?」
「寄り道して貰って良いですか?」
「どうぞ。今日はこれといった用事はない。どこに行こう?」
「ファストフードで軽くブランチして、サンタモニカ・ブールバードで楽器屋さんに」
「好きだね?」
コクンと頷いた。だけどこれには理由があった。
「フンボルトから見た私って、マメな働き者でしょう?」
「そうだね。それがまさか演技とか?」
「それこそまさかですよ。そうではなく、あなたが感じ取ったように、私も無意識に近い形でストレスに対する自覚があったって事です。元来、私は音楽でストレスを発散するタイプなんですよ」
「そうか、そうだったんだ?」
「はい。クルマも好きですが、あれでストレス発散は危険でしょう?」
「だね」
「はい。それで日本に居るもう一人の『私』を通じて日本製のシンセサイザーなどを頼んでありました」
「言ってたね。それが趣味だけでなく、ストレス発散用に無自覚で求めたいたと?」
「そう。あなたに抱かれて『安心』できた。だから思考が冷静になって、そうだっんだと気付けました」
「なるほど。じゃ、軽く食事をして楽器屋に行こう」
それで彼がポル◯ェを滑り込ませたお店はピザ店だった。入ってちょっと驚いた。ベーカリーもあるし一品料理もそこそこあって良いお店だ。そこで私はホウレンソウとマッシュルームのチーズピザ、それとサラダとカフェオレを選んだ。彼はコーヒーとパンの巾着? このお店のオリジナルかな? 餅巾着のように端が紐で括られた、中に具の詰まった熱々のパンを頼んでいた。オリーブオイルが掛かっていて美味しそうだ。
「ここ、知っていた?」
「リンからの情報。リンもミアータさん辺りから仕入れたんだと思うよ?」
お互いに分け合って食べたつもりが、巾着をほとんど私が食べ、ピザを押し付ける形になってしまった。外に出る時、ごめんなさいと謝ってから腕を組んだ。彼は『どういたしまして』と言ってキスをしてくれた。あのピザは少しガーリックが効き過ぎだと思った。言わないけれど。
それからビバリーヒルズの方へ向かってクルマを走らせた。程なく左右の景色が楽器屋さんとゲイ・バーばかりになった。
「まだ開いていないけれど、この辺りはゲイ・バーが多いね?」
「ですね」
観光案内にもガイドブックにも載っていないが、このブールバードは昔から『ハッテン場』でもあったのだ。ビバリーヒルズに近く、ミュージシャンも通う楽器屋さんが立ち並び、ハリウッドからも適度な距離。まぁ、そういう事だ。
「フンボルト、あそこ!」
「ん? もう、君のアンテナに掛かった?」
掛かった。『Gibson』の専門店っぽい。お店の看板が大きな『Explorer』だ。そしてそれがお店の名前らしい。
「今の君は宝を見付けたジム少年だね?」
「どうでしょう? 私の彼は3本足のようですよ?」
英国の小説家、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの著作、『宝島(Treasure Island)』の事だ。この作家は若死だったので寡作だけれど、他に『ジキル博士とハイド氏(The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde)』といった有名作がある。幼い『エル(私)』が読み耽ったのは、当然『ジキル博士とハイド氏』の方だ。
『表向きは善良な紳士である私の最悪の欠点は快楽への旺盛な欲望の二面性であり、これを密かに満たすため、完全な二重生活を生きてきた。その後、科学的実験を重ねて善悪二要素の完全な分離の可能性を追求し、人格から悪の側面のみを切り離して別人格を出現させる薬品を発明した。これを用いて私はハイドという別人に変身するようになった』
ジキル博士の手紙の抜粋だけど、この文章にゾクゾクしたのを憶えている。『エル』から見た私もミトもパミも、皆んな『ハイディ(ハイジ)』ならぬ『ハイド』だったのだ。そして彼女の真の狙い(目的)は、『個人が持つ多様性と可能性の追求』だった。
おチビちゃん達のように魔法少女や変身できる能力に漠然と憧れるのでなく、自分で解決しようとし実現した。それが『エル』だ。
「足かい?」
「足ですよ。こんなミニマムな女の子に。今も何かが挟まったような感覚です」
「ごめん……」
「あ、いえ。文句でなく、大きいなって比喩であって……」
「やっぱり僕のって大きい?」
「ほ、他に人のを知らないので比べようもありません!」
言っていてバカっぽいが、『エル』は慣れていない私が快感を得やすい、私の膣に合ったサイズにしていた可能性がある。どうしてそういう事を考えるのか? それは彼女が『魔女』だからとしか言いようがない。本当にバカらしく信じられない話だけれど、『空間を跳ばす』能力が精緻になれば処女にポルチオやGスポットの快感を与えられるし、そこらを歩く男性の陰嚢から精子を抜き取り強制妊娠させる事も可能となる。
ある人権派の仮面を被った女性議員は会期中に堕胎した。ある二世議員は懐妊中の妻が宿す子の素性を知らない。前者は精神的ダメージを与えるだけだが、2回3回とマリアチックな体験をすれば、まず間違いなく発狂する。そして後者は明らかな断種だった。その議員が育てる子は議員の血を引かない。文字通り家を断つのだ。昔はこうして魔術師が減らされた。
なんでこんな吐き気を催すような事を思い出してしまったのか。それは『エル』のせいだ。私の場合は結果オーライだったけれど、日本にいる『私』は、好きになった人との初体験をどう切り抜けるのだろう。心配になってくる。
「と、ともかく行きましょう」
そうして私はフンボルトの腕を抱いてお店に入った。『Explorer』は、日本語で『冒険者』という意味だ。踊る、踊る。店内は『USA』と『Gibson』の文字があちこちで踊っていた。まず目を惹いたのが、入口付近からズラッと並ぶ各種の『Les Paul』だった。そのゴールドパーツが映える『Black Beauty』は3ピックアップの57年モデルのリイシューだった。
「綺麗……」
「本当だね。ねぇ、このギターで誰を思い出す?」
「フリップ博士とフランプトン?」
「僕も同じだ」
横には2ピックアップ仕様も立てられていた。そこに変なのを2本見付けた。1本は3ピックアップだけれど、ノブが3つしか無く、それが全部ボリュームだった。そしてピックアップ・セレクトスイッチの部分にマスタートーンがある。
「これって、リアの音だけ欲しいと思ったらフロントとセンターのボリュームを一々下げるの?」
「だろうね。スイッチもちょっと違うんだよね? フロント、リアとミドルのミックス、リアだっけ?」
本来2ピックアップ用であるトグルスイッチは、構造的にそういう配線しかできなのだ。
「はい、確か。となるとこっちは、手間は掛かるけれどセンターだけの音も出せるって事ですね?」
「うん。レコーディング用かな?」
それでもう1本の方は、これかというアーティスト・モデルだった。愛称はその色から名付けられた『Oxblood』。あの『Jeff Beck』が名作『Blow By Blow』のジャケットで構えていた黒い『Les Paul』だ。これは54年式のゴールドトップの『P-90』をハムバッカーに載せ替え、『Oxblood』という色に塗り替えた改造ギターがオリジナルだ。その特徴は54年式の証であるブリッジ・テールピースにある。
1970年、ジェフはレコーディングで訪れたテネシー州メンフィスの楽器店でそれと出会った。これまで58年製、59年製と2本の『Les Paul』を使ってきた彼は、壁に掛かった改造済みの『Oxblood』にピンと来てオーナーと交渉した。ジェフの目の止まったのは、正に前オーナーから依頼された改造が完成した直後だったらしい。肉眼では黒にしか見えないその濃厚な焦げ茶色は、ステージのライトのような強い光の下だと赤みが強くなる。
ハッキリ言ってオクターブ調整できない欠陥楽器なのだが、あの『Jeff Beck』が持っていた事と、ジャケットの構え方がカッコ良すぎて、一気に有名になった。使えば不満が出るのがわかっているのに、欲しいと思わせる妖しいギターだ。しかも、『Blow By Blow』の中でこのギターは使われていない。ほとんどの曲がストラトで弾かれ、偶に鳴っているハムバッカーは『Seymour Duncan』が用意した2ハムバッカーのテレキャスだったりする。
このギターの横からはゴールドトップやバーストの『Standard』が並んでる。だから『Custom』との間だったのかと納得した。ちなみに『Custom Shop』から、瑕まで再現された完コピが出るは5年後の2009年だ。この2004年、『Gibson』は瑕のない『Oxblood』をごく少数出していた。その内の1本がこれであった。
ブランコテールピースの52年、バーブリッジの54年と並び、ハムバッカーでゴールドトップの57年もあった。『Custom』のコーナーもそうだったが、ここの『Historic Collection』のラインナップは凄い。バーストは58年とトラ杢の美しい60年の間に、59年の『Reissue』があった。しかも1本や2本ではない。7本も8本も色とりどりなバーストが並んでいるのだ。思わずブルっと来た。横のフンボルトも同じみたい。
「あ~、ブルっと来た。トイレに行きたくなったよ」
「私も」
本気で凄いものに圧倒されると尿意を催すのは、実は男性だけではない。女の子も高級バッグや宝石が大量に並ぶのを見ればこうなる。問題は今見ているのがギターな点だった。
「僕さ、試されている?」
「試す積りはありません。いい加減、悪目立ちするドレスから着替えたいのはありますが、あなたとのショッピングを楽しみたいという私の本音にも気付いて下さい」
「あ……」
洋服を買うためだけで引き摺り回したくなかった。そんなの一人でもできるし、エルと来れば良い。二人でああだこうだと眺めて楽しみたい。それが本音。着替えなんて二の次、三の次だ。
フンボルトはお祖父様と同じで背が高い。たぶん187~8cmはある。つまりお兄ちゃんとほぼ同じで、今のシロウさんより少し高いのだ。そんな彼が縮こまっていた。私の真意を知って恐縮しているのだ。だから腕を組んで次のコーナーに促した。勿論、こうドイツ語で言ったけれど。
『私、料理も趣味なのでステディ・リングは要りませんが、ステディ・ギターがあっても良いなと思っていますよ?』
『バーストは勘弁してよ?』
『'59 Reissue』のチェリー・サンバーストに付いたプライスタグは6千ドルだった。日本でも小売値が65~70万だから、こんなものと言えばこんなものだが、ステディ・リングと思えば高い。クスクスと笑い合いながら、57年モデルのシングルカッタウェイと、58年モデルのダブルカッタウェイになった『Junior』を見た。フェイデッド・チェリーやTVイエローも良いが、TVホワイトや、シングルカッタウェイだけのヴィンテージ・サンバーストも良い。こういうのなら強請っても良いかなと思い始めた矢先、彼がもう少し先を指差した。
『Reissue』の『Special』が並んだその先だ。そこには現行品の『P-90』でない、『Les Paul Junior Special』が山程並んでいた。このコーナーはこういう廉価版ばかりらしく、『Epiphone』も並んでいた。ほとんどの『Epiphone』が、『Les Paul Junior Special』よりプライスが安いところに無常を感じる。
そんな中にレモンドロップのトラ杢があった。
「これだ……これなら受け取ってくれるかい?」
この時、凄まじい衝撃を受けた。電撃が走ったとかではない。頭の中がスパークしてビジョンが見えたのだ。『エル』から分かれて見えなくなった『未来視』だ。時間にして1秒もない。なのに、純白のドレスを着て厳かな教会の中を歩む私、新しい家で目立ち始めたお腹を抱えながらも調理をしている私、病院で彼に似た金髪の男の子を産む私、名付ける時二人で揉めた事まで頭に浮かんだ。
『なんでピスタチオなの!?』
『美味しいし、栄養があるからです! それに、この子を産むまでほとんどそれしか喉を通らなかったからです!』
『だからって食べ物の名って事はないだろう?』
結局、それがミドルネームになった。それもお祖父様に叱られ、少し撚った形で。『ビスタリオ』って何だ? だけどこれが俗に言う『マタニティ・ハイ』だと直ぐにわかった。わかってても陥るのか……orz……。ファーストネームはお祖父様が候補を出してくれた。というか、前のファーストネームがミドルネームに降格したのもお祖父様がそう届けたからだ。
『お祖父様、エルヴァお姉様は一体……?』
『妊娠出産は女性にとっては一大行事じゃ。お腹の子を無事に産むために、ほとんど全部のエネルギーがそこに集約される。その時に出たドーパミンなどがな、頭にまだ残っとるんじゃよ。じゃからチビ、エルヴァを悪く言ってはならんぞ』
それで新しい名前をエルヴァちゃんとお祖父様で考えてくれた。それが『Leonardo』と『Leopard』だった。そして母親の私が『Panther(黒豹)』だからと、フンボルトとお祖父様とエルヴァちゃんが強く薦めたのが『Leopard』だった。そうして息子の名は『レオポルド(Leopard)』に決まった。
さっきも言ったように1秒ほどで我に返った。頭の中のBGMは何故かハマショーの『もうひとつの土曜日』だったけれど、そこはいい。私はこの人と結婚して男の子を産むんだ? それこそがアンツベルンのもう一つの悲願じゃないか。そうか『エル』に代って……。日本の『私』もいずれは子供を作るだろう。だけどこのビジョンは大きい。
私の傍にはお祖父様もエルヴァちゃんもママも居た。私の子は暖かく見守って下さる人達に囲まれている。これほど希望が持てる未来が待っている。
『ああ……安心した』
いや、どこかのお父さんじゃないんだけど。でも安心した。フンボルトは私に安心を齎(もたら)す人だったのだ。赤ちゃんの名前は『Leopard』だって……。だけど正しい道を進むためには、出産ハイを装ってピスタチオみたいな変な名前を、彼と揉めても推さなきゃならない。こんな能力、要らないよ~。
それで結局、買うのは決定だけどもう少し見ていこうと、そのギターをお店の人に預けた。タグにはこうある。『'2003 gibson les paul junior special plus』と。このギターは知っていた。ゴールドパーツにAAクラスのトラ杢。最初に出たのは2001年で、色はレモンドロップとチェリーに濃いパープルの3種類。『Epiphone』版もあったが、どちらも限定だったのでとても数が少なく滅多に見ない代物だった。
なのに元は『les paul junior special』なので、バインディングも無いし、ポジションはドットというそのゴージャスさと裏腹なシンプルさが妙に気に入っていた。勿論、『エル』はその3色を全部持っていた。だから『Epiphone』版で良いから中古でも見付かればと、何店か回って探したかったのだ。それが最初の1店目で見付かった。しかも2003年の新品だ。再出荷されていたなんて知らなかった。きっと色もこれだけで、ほんの少量しか作っていないだろう(後に2002年もごく少数のレモンドロップが出ていた事がわかった)。
私はこの子にもう名前を付けていた。『Leopard』と。
娘達が登校した後、僕は散歩に出ると言い残してエーデルフェルト邸のガレージ側に回った。アポは事前にとってある。件の人物も既に待っていた。
「悪いね。オーギュストさん」
「いいえ。年頃のお嬢様に悪い虫が付かぬよう願うのは、人の親として当然でございましょう」
「そこまでは言わないですよ。ただ、エルヴァがどういう相手を選んだのか。そこが知りたいだけです」
オーギュストの先導で僕達はガレージ奥にある小部屋に入った。机が二つに椅子と小さなテーブル。広さは3畳くらいしかない。机の上の棚にはエーデルフェルト家が所有するクルマの、サービスマニュアルやパーツリストが並んでいた。
オーギュストは棚に置かれたガラスケースから湯呑を二つ取り出し、小さな筒型の缶から何かの粉末を小さじで掬い、湯呑に投じた。そして電気ポッドのお湯を注ぎ、ティースプーンでかき混ぜた。
「どうぞ」
「これは?」
「おや? 昆布茶をご存知ない?」
本当に知らなかった。海外ばかりだからなぁ。家ではこんなの誰も飲まないし。だけどこの旨味は中々だ。一服付いたところで彼は、クリアファイルからリポートを取り出した。そしてそれを僕に手渡してくれた。なのでざっと目を通した。
姓名:吉川弘三
フリガナ:ヨシカワコウゾウ
生年月日:198×年8月8日
『ふ~ん、こいつも夏生まれか』
199×年4月 私立穂群原学園小学部入学
199×年3月 私立穂群原学園小学部卒業
199×年4月 私立穂群原学園中等部入学
200×年3月 私立穂群原学園中等部卒業
200×年4月 私立穂群原学園高等部入学
『生粋の穂群原っ子だな』
父:吉川弘毅(ヨシカワコウキ) 職業:警察官(※)
(※)警務部長。階級は警視長。剣道師範。全日本剣道選手権大会2回優勝。全国警察剣道選手権大会1回優勝。
「け、県警の警務部長だって?!」
「機動隊の元隊長です。剣道だけでなく柔道も強く、現在の機動隊員からも慕われるノンキャリアの叩き上げらしいですな。実家は剣道の道場を開いておりまして、こちらは兄弟の方が引き継いでおるようです」
たぶん祖父か祖祖父、いやもしかしたら江戸時代からの道場のような気がするな。しかし……警官一家か……。堅いと言えば堅い。なので普通の親なら嬉しい情報だ。だけど、ウチはバリバリの魔術師一家だし、僕の過去を洗われたら堪ったもんじゃない……。最悪はノイント老に頼むしかない……だろうね。
母:吉川操(ヨシカワミサオ) 職業:専業主婦(※)
(※)前職は警察官。最終階級は巡査長。全日本女子剣道選手権大会1回優勝。
兄:吉川弘一(ヨシカワコウイチ) 職業:警察官(※)
(※)冬木市◯◯町で交番勤務。階級は巡査長。
兄:吉川弘二(ヨシカワコウジ) 職業:学生(※)
(※)私立◯◯大学在籍。
「彼は三男なんだ?」
「左様です。ですので家を継ぐといったしがらみもありません。それとご長男も剣道家です。その彼は高卒で警察官になり、高校時代は全国高等学校総合体育大会剣道競技大会の個人で2位になっております。また三男も同大会で個人2位でした」
「相手にとって不足なし……か。この次男は?」
「その方はラガーマンです。高校時代は全国の一歩手前、今の大学では何度か全国大会に出ております。昨年はベスト4でした」
この人物だけ毛色が違うのか。
「機動隊志望とか?」
「左様です」
やっぱりか。
「自信を持たれませ。エルヴァ様は弓道での個人優勝者。不足どころか勝っておいでですよ」
「そこはね。そうではなく、こちらが普通の家だったならって意味で落ち込みますよ」
「ええ、そこは。ですからキリツグ様、変に動かずエルヴァ様にお任せなさいませ。あの方ならきちんとなさいますよ。私ども大人は、見守るだけで良いのではありませんか?」
「そうですね……そうなのかも知れない。そうだ、彼の写真はあります?」
「ええ、こちらです」
それは登校中だろうか。自転車を押してエルヴァと仲良く歩いている写真だった。制服姿の可愛い娘が、見知らぬ男に微笑んでいる。デカイな。30cmは身長差があるんじゃないか? だけど相手の男は随分と実直そうで……エルヴァに優しい顔を……。っていうか思い出した!
「コイツ。体育祭で士郎をボコボコにしてくれたヤツ……!」
オーギュストに宥められ、何とか冷静さを取り戻した僕だ。エーデルフェルトからの帰り道、僕はアイリの言葉を思い出していた。
『キリツグ、あの子は賢いわ。だから私達がどうこう考える必要はあまりないと思うの。勿論、親として見守ってあげて、困っていれば手を差し伸べるわ。でもね、あの子はどこまでもイリヤちゃんやクロエちゃんの善き姉であろうとしてくれる。だから恋愛の事も、ちゃんと考えていると思うの。見守るだけで良いと思うわ』
なぁ~んて、オーギュストとまったく同じ事を話していた。男親って寂しいものだね……。
深山町に入りいつもの角を曲がると、おチビちゃん達の家と、その向かいの敷地を囲むやたら長い塀が見えた。この塀をやり過ごして右に曲がればエーデルフェルトのガレージだ。すると……。
「あら、キリツグだわ」
「あ、本当だ。日本に帰ってたんだ?」
「え? キリツグ? どこ?」
「目の前よ。シートの隙間から前を見て」
「あ、本当だ」
それでキリツグに声を掛け、ガレージにクルマを置いてから家に入った。荷物は使用人に頼んである。勿論、キリツグを誘った。食堂にいたアーチャーにお茶を頼んで私達は応接室に入った。
「そうか、旅行だったのか」
「え~、知らなかったの?」
「ごめんね。ずっと海外だったから」
旅行への出発前から居なかったんだから、お母様辺りから聞かない限り知りようもない。そういうのを全部すっ飛ばして『知らなかったの?』と言う、もう一人の『小さなイリヤ』。この辺りはウチの『ちぃイリヤ』の方がマシだ。だって、ボケた事を言えば、クロちゃんや美遊ちゃんにツッコまれるからね。
それはさておき、キリツグの顔がすぐれない。さっきもトボトボと、捨てられた子犬のように寂しげに歩いていた。だから声を掛け誘ったのだ。荷物などを使用人に頼んだのも、少しでも早くお話を聞きたかったから。正直、旅行帰りで疲れているけれどそうも言ってられない。これは絶対何かある。
『英霊のイリヤ』も感じ取っている。これは『現象』とは関係ない。そちらは『エル』が動いているし、どの途、私じゃどうにもならない事だから端から考えていなかった。
「何かあった? プライベートな事とかで?」
キリツグは私と『英霊のイリヤ』を見た後、二人のイリヤを見て少し困った顔をした。だけど意を決したのか話してくれた。
「実は……エルヴァが男性と付き合うようになった……」
あ~……。それは男親として心配だよね。私くらいの年齢になれば、逆の心配も出て来る。私は『エル』を座とした幽霊みたいなものだから、キリツグもお母様もうるさく言わない。が、結婚の申し込みはかなりある。ありがたい話だけれど、受肉の薬も効かないこの身だと、子孫を望めない。なので軒並み断っている。
だけど好きな人が居ないわけではないし、その彼とは何度もデートしていた。紹介してくれたのは私を姉として慕ってくれるミトで、相手の男性は彼女の部下だ。
ここで掌をポンと叩いたのが『英霊のイリヤ』だ。
「ヨシカワって男の子でしょう?」
「どうしてそれを?」
「うん? 本人が教えてくれたの。お弁当を一緒に食べるようになったとか、もりもり食べるから頼もしいとか言ってたし、その前から雰囲気が良かったのよ」
彼女は彼女で、エルヴァの姉としてそれなりに情報を持っていたようだ。
「どんな男かわかるかい?」
「強面で人を寄せ付けない雰囲気があるけど、話せば普通だし、真面目で実直ね。あの子ならエルヴァとは誠実に付き合ってくれると思うわ」
「そ、そうかい……」
キリツグも全面的に反対しているワケではないみたい。想像するに、エルヴァが余りにも良い子だったから、すっかりキリツグの中では実の娘になっていた。本来ならイリヤちゃんやクロエちゃんで味わう遣る瀬無さを今体験している。その事への戸惑いと、キリツグならではの親心が合わさってこうなったと。何となくわかって来た。
「キリツグ、イリヤちゃんやクロエちゃんの時の予行演習だと思えば?」
「それは言っちゃダメだよ。僕は親としてあの子を愛している。だから心配なんだ」
やっぱり。
「うん、そうだよね。だけどエルヴァを信用しているんでしょう?」
「それは勿論だ」
私とキリツグの顔を交互に見る小さな二人がおかしい。まったく同じ仕草だ。ここでアーチャーがお茶を運んで来てくれた。お礼を言って彼も座るように促した。
「私もかね?」
「親が子供の事で悩んでいるの。バカ息子はそれを見て反省なさい」
口をパクパクしながら落ち込むアーチャー。そうよ、あなたの『キリツグ』が安心できたのは、息子ができるできないは別として『継ぐ』と言ってくれたからよ? 『切って嗣ぐ』。何を切断したの? それはあなたの過去全部。本来の肉親も友人も全部『切った』。だから何もかも失ったあなたを引き取った。最初は同情と罪滅しだったと思う。ドイツに残してきた『娘』に代わる存在になったのは、アインツベルンの結界が抜けない、死期が近い頃だった事でしょう。
そんなすがるものが、もうあなたしか残っていない最後の最後であなたは『継ぐ』と言ったのよ。それはきっと『キリツグ』にとって赦された瞬間だわ。息子が跡継ぎを選んでくれたみたいな、世間一般的な喜びだけじゃ無かったの。あなたの言葉であなたの『キリツグ』は赦された事を悟ったのよ。だから『安心』できたの。
そして呪いの儀式も完成した……。キリツグの起源は『切断』と『結合』。あなたは『キリツグ』によって縁故関係を切断された。そしてともに暮らした5年の果てに、『赦す』事で『結合』した。それであなたも浴びただろう、あなたの中にあった『アンリ・マユ』が目覚めたの。
知ってる? 『嗣ぐ』って漢字は跡継ぎを意味する言葉だけれど、王族や皇族、由緒ある家のような格式があって格調が高いさまを現すの。あなたは『キリツグ』の死に拠って、『イリヤ』を抜いて嫡嗣から継嗣になったのよ。家財を全部受け継ぐってそういう事だからね。それで呪いは完成した。
普通ね。なんにも知らない、魔術師もどきを大聖杯が選ぶと思う? それも『アンリ・マユ』が澱んでいたからでしょう? そしてそれは『世界』の意志でもあったの。10万人のシロウが居て、その内の数人でいい。『世界』の奴隷になれって誘われていたの。
アーチャー。そういう事を知って、そういう観点からよく見れば、令呪の浮かんだ方の腕を切り落としてでも生きろと言いたくならない? 生きて天寿をまっとうしろと言いたくならない?
「キリツグ、何か私の知らない情報でも掴んだ?」
『英霊のイリヤ』だ。そっか、その線はあるね。
「うん……実は……。ハッキリ言おう。彼の人柄とかどうでもいい。いや、どうでもいいワケじゃないけど、エルヴァが選んだなら間違いないと信じている」
「なら……?」
「だけどね。彼の家族構成が不味かった」
「家族構成?」
「うん。両親が警察官。しかも父親は県警のお偉いさんだ。また、彼は三男だが長男も警察官で、次男も警官を目指しているらしい」
「ということは?」
「進路希望などの調査までは行っていなかったようだ。だけどほぼ間違いないだろう」
あぁ……堅い職業で良いじゃないとは言えないか。相手は申し分なしだけど、こちらが大問題だ。
「どうしよう……。どうすればいい……? 僕の存在がエルヴァの将来を……ぁぁ……」
ああ、やっぱりそこで悩んだのね。
「そんなのキリツグ・サイドでどうにもならないじゃない。それにキリツグのしている事を、日本の警官が知る手立てもないわ。だから、いつもの表向きの職業を話せば良いと思うよ。名刺もあるんでしょう?」
「ビジネスカードだけどね。確かにある」
「なら今まで通りじゃない。シロウが一人増えるだけでしょう?」
キリツグが口をあんぐりと開けた。そうだよ。ここのシロウはまるっきりの一般人だ。
「だから大丈夫よ。私達も手伝うから。ね、キリツグ?」
「ああ……ありがとう……ありがとう……」
あ、『エル』から念話? 『5963.3510』って何? ん? 『学園祭が終われば迎えに来る?』 うん、わかった。だけどもう一人の『小さなイリヤ』が。連れて帰るの? 本人に確認して元の世界に戻す……か。そうだね、そろそろか……。
家に戻ると皆んなから呆れられた。
「初めてのデートで翌日の昼帰り。やるわね?」
「言わないでくれ。僕が無理に誘って夜更けまで呑んでいたから。彼女の酔いが覚めるまで休憩が必要だったんだよ」
あれ? その言い訳は理由としては良い線だと思うけれど……。
「ああ、それと。僕とエルヴァはステディな関係になった」
ここで皆んながドッと湧いた。そうそう、これを言って欲しかった。コソコソ隠れた関係は嫌だったのだ。だから言ってくれた彼の腕を引いて少し屈ませた。そして頬にキスをした。
「ま! やるわね!」
続けざまに『やるわね』と言わなかったら、最初の言葉がジャイアントロボのような発音だった。続いてミアータさんやモニカさんが祝福してくれ、シロウさんも喜んでくれた。モードレッドはフンボルトの、背中と言うか腰をバンバン叩いて喜んでいた。お兄ちゃんは『フッ……』と笑いながらキッチンに消えた。
ただエルだけは顔の前で手を合わせ、無言で侘びていた。だから彼女に近づき、しっかりとハグした。そして耳元でこう囁いた。
「ビジョンが見えました。私は彼と結婚し、子供を産みます」
少し驚いた顔をしたエルだけど、みるみるうちに笑顔となって私に強くハグを返してくれた。そうして私から離れたエルが皆んなを見渡してこう言った。
「二人に進展がなければ、明後日にでもスイスへ帰る手筈でした。ですけどエルヴァ、フンボルトと居たいでしょう?」
私もフンボルトも頷いた。
「そこでお祖父様からの提案です。フンボルトの北米での仕事はほぼ3ヶ月で終わります。その後にアジアを周って欧州です。アジアは無理ですが、北米は条件付きで滞在延長となりました」
「条件付き?」
「細々した報告や手続きなどがありますのでモードレッドと私は一旦スイスに帰ります。それで1ヶ月後に、私だけ様子見にこちらへ戻ります。それをひと月ごと、2ヶ月後も3ヶ月後もです。あなたはその間、フンボルトやリンさんにシロウさんとともに視察の旅を手伝って下さい」
私とフンボルトは手を取って喜んだ。そしてエルに感謝した。モードレッドと帰るのはエルヴァちゃんを安心させるためだ。様子見と言いつつ一人で来るのも、モードレッドをエルヴァちゃんに返す意味がある。
「それと私が居ない間も作曲や作詞を続けて下さい。私も今度会う時までにそれなりの曲を披露しますので」
私は再びエルをハグした。今度は逆に囁かれた。
「態度に出過ぎ。それと避妊はきちんと。エルヴァちゃんとボテ腹で会いたくはないでしょう?」
私は思わずエルでもフンボルトでもなくリンさんを見た。避妊の魔術は幾つかあるのだが、リンさんは何を使っているのだろう。それが気になったのだ。後で訊こう。
お茶で一服した後、私とフンボルトは着替え、買って来た機材を裏の小屋に運んだ。家に入るとエルが封筒を手渡してきた。
「何ですか?」
「『エル様』からのボーナスですよ。例の『現象』に目処がついたのでしょう。お兄ちゃんもそう考えているそうで、もうじき帰るそうです。まぁ、それよりも中の確認を」
促されて封筒の中を覗くと、何かがぎっしりだ。出してみれば、大手銀行のATMカードにパーソナルチェック帳。デビットカード機能付きのクレジットカードに明細証。それと暗証番号と思われるメモが入っていた。明細証にあった金額は1億ドル(円で百億強)だった。何だそれ!?
「こんなに?」
「あって困る事は無いでしょう。それに持って帰れないからだと」
「あ~……。幾ら儲けたんだろう?」
「さぁ? 1千億ドルくらいかなとは予測しています」
とんでもない。それだと日本円で10兆だ。でも7~8兆ならあっという間に稼ぎそうではある。なにせ彼女はあの『1年革命』で、アメリカより早く共産党幹部の口座を押さえ、300兆ものお金を横取りした前科がある。しかも誰がどう奪ったのか一切不明。行員の手続きもコンピューターにも何ら問題ない。ただ送金先がロシアの裏で糸を引く女だと判明した途端、当局は手を引いた。
何故なら『これ以上探るな』と、朝起きた大統領の顔に油性マジックで書かれていたからだ。それも鏡文字で。たぶん彼は一期で辞めるだろう。テロリストを飼っていた連中との繋がりなど全部調べ上げられ、『世界はお前らのものではない。戦争ならいつでも買うぞ。後ろの奴らにも伝えておけ。伝えられるものなら』とホワイトハウスの彼の執務室に手紙が置かれていたからだ。そして彼の裏に居た国際金融資本家やネオコン(後の『ディープステート』。古くは『影の政府』や『ユダヤ資本家』とも。グローバリズムを掲げ国家の枠を破壊し自分達が他の者を支配しようと企む者達)は軒並み連絡が取れなくなった。全員入院していたのだ。脳溢血や脳梗塞で。
戦う前から負けていた。そんな恐怖を与える正体不明の女が、実は彼と何度も食事をしていたとは彼も知らない。これは偶然だった。テキサスに住む親族が大統領の家のご近所で昔から懇意だった、ただそれだけだ。知らなかったとは言え、現代を生きる『魔女』と食事をともにした彼は、知りうる限りのすべての情報を『エル』に抜かれた。それがあっての『1年革命』だった。
なお、『1年革命』後、共産党幹部だった者達はほとんどが発狂するか廃人となっている。革命で共産党政権が倒れたからではない。毎夜毎夜、三峡ダムなどが破壊され、彼らを呪いながら死ぬ6億人も7億人もの人民を見せ付けられたからだ。地獄はいつだって人の心の中にある。利権絡みで一部の幹部が強行したダムの建設。あの国の杜撰な建築では、決壊もあり得る未来だった。
「ボーナスに納得できたのなら次です」
「次?」
「はい。お兄ちゃんが『エル様』と合流するのは冬木です」
凜が残した世界移動用の陣があるからだ。
「それでですね。フンボルトが動くのも来週以降の予定です。お兄ちゃんを見送りついでに、あなた達4人で一度冬木に行ってみては? それで学園祭を見学してくれば良いと思いますよ」
「え? でも……」
「あちらの『エルヴァ』を見るのでなく、あなたの想い出をフンボルトに見せてあげなさいな。ね? リンさん」
「うん。私だってここの『凛』とは正直会いたくないの。けれど彼女達は眩しいわ。どこまでも学生である自分を楽しんでいる。そういう生活がどうして選べたのか。ロシアで話は聞いていても、イマイチわからなくてね。でも何となくそれを知る事が大切に思えたのよ。エルヴァのケースと私のケースとは違うけれど、あなたも行けば自分なりの『ケジメ』が見付かるかもよ?」
そう諭されたので不承不承頷いた。だってフンボルトがとても行きたがっているのだ。
「だって、その『Gakuen Sai』って、『a cultural festival』でなく『an annual school festival』って事でしょう? 日本って独特だからなぁ。それは興味あるよ」
「フンボルト、お願いです。向こうで『私』を見ても変な感情を持たないで下さい。私だけを……」
「うん、わかっているよ」
ミアータさんとモニカさんは苦笑いし、リンさんは片手で扇いでいた。シロウさんの顔は真っ赤で、モードレッドは指を咥えていた。そしてエルは呆れていた。まぁ、恋人同士のキスはあまり人前でするものではないね……。
「ここまでハマるとは……」
「ハマるように仕向けていたんでしょう?」
「まぁね」
そうして翌日、私とフンボルト、リンさんとシロウさん、それとお兄ちゃんの5人は日本へ旅立った。空港にはエルとモードレッドが旅装で見送ってくれた。彼女らは後の便でスイスに飛ぶのだ。クルマを運転してくれたミアータさんも『待っています』と笑顔で送ってくれた。
私はカリフォルニアが大好きになっていた。だから窓から見えるLAXの滑走路へ『行って来ます』と呟いた。