「で、エルの方は進んでいるの?」
「ええ。楽器は大体揃っているし、録音機材もありますからね。なので30曲くらい書きました。譜面のコピーも持って来ていますから、手直しが必要なら好きに変えて下さい」
それで私はエルヴァに譜面の入ったファイルを渡した。
「自分だけの楽器はあっちで買わなかったの?」
「こっちに『Stratcaster』があるので、あちらで『Les Paul』を買いました。それとドラム・セットです」
「前に話していた『TAMA』?」
「そうです」
「『Les Paul』は何?」
「『'59 Reissue』」
「本当に!?」
「本当。私としたら中古の『Studio』で十分だったのに。ただ、ちょっとしたこだわりで『XR-2(※)』か『XR-3(※)』があればなとは思っていたけど、そんなのスイスにないしね。で、どうしようかなって思っていたら、お祖父様にこれにしなさいって決められちゃって」
※)『XR』シリーズは83年のモデル。70年代から80年代に駆けての『Les Paul』迷走時代の最後の徒花。70年代の『Artisan』や『The Paul』などを経て『XR』となる。『XR-1』はタップスイッチ付きの2ハムバッカー(Dirty Fingers※)が乗っている。『XR-2』は『XR-1』のミニハム仕様で、『XR-3』は『XR-1』のピックアップを『Tim Shaw』のものに替えたモデル。この3機種はドットポジションで、ネックにバインディングがなかった。『XR-1』と『XR-3』にはボディのバインディングすらない。『Def Leppard』の『Steve Clark』モデルとともに、『Studio』や『Junior Special』の元になったモデルだ。
そして『Gibson』は悟った。何をしようと顧客が求める『Les Paul』は、あの50年代末期のものだけだったと。そこで出たのが『Reissue』シリーズや『Historic Collection』であり、『Studio』や『Junior Special』などの体系を見直した廉価モデルだったのだ。
※)『Dirty Fingers』。70年代半ばから80年代の頭まであった、『Gibson』ご謹製のハイパワー・ピックアップ。この当時のハムバッカーにはボビンの頭に『T』型の金型跡があるので別名『Tトップ』という。そんな中でボビンの高さが通常の2倍はある『Dirty Fingers』は、『Seymour Duncan』とともにリプレイスメント・ピックアップの雄である『DiMarzio』の初期を支えた、『Super Distortion』や『X2N』などに対抗すべく出されたピックアップだった。『NWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル)』を支えたピックアップとして知られている(LA Metal(Glam Metal)はこの後に来るムーヴメント)。
またこの『Dirty Fingers』には、別バージョンで『Velvet Brick』というピックアップがある。あの『Bill Lawrence』がハイゲインで荒れ気味な『Dirty Fingers』の出力を落とし、音を揃えたものだという。やはり『DiMarzio』の『Super Distortion』と同じく、『Dirty Fingers』も扱い難いピックアップだったのだ。誰でもわかる事だが、何でもかんでも歪めば良いというものではない。重要なのは、粒の揃った歪みが得られると同時に、微妙なピッキングニュアンスを出せる事だ。だから磁力の強いアルニコⅤより、磁力の弱いアルニコⅡやアルニコⅢが好まれ、コイルの巻数を減らしたりするのだ。その解答の一つが、当時は『Velvet Brick』だった。
なおこの『Dirty Fingers』や『Velvet Brick』は、どこか『Melodymaker』っぽいチープな『Sonex 180』や『The Paul』『The SG』などに使われていた。この中の最初に挙げた『Sonex 180』は『Gibson』から販売されていたが、日本のマツモクが下請けで造っていたという。セットネックでなくボルトオンだけど、新素材を積極的に採用し薄く軽く仕上げてあった。これの英国輸出版『Eros』の赤い『Sonex』は1本持っている。10年前の第四次があった倫敦で手に入れたのだ。つまりウェイバー君から精子の採取は済んだという意味だ。
それはともかく、『Standard』と『Custom』には『Dirty Fingers』で、『Deluxe』に『Velvet Brick』が乗っているのは米英共通だ。私の『Eros』は『Deluxe』なので『Velvet Brick』が乗っている。
余談だが、この意味で『'57 Classic』は『Burst Bucker』のどれよりも音作りがしやすい。同じようにハイゲインな『498T』より『496R/500T』で、更に低出力な『490R/T』の方がもっと扱いやすい。音色が気に入るかどうかは別として。
そこで近藤クンのお父さんの話になる。『エル様』の愛機は幾つかあるが、その中でもハムバッカーとなれば、『Les Paul Studio Lite M-Ⅲ』だ。HSHレイアウトで2つのハムの間にシングルが1つある。5weyのセレクターにタップスイッチ。ボリュームとトーンは潔く1つずつ。92年から98年頃まで、赤・青・茶色の3色で展開されていたプレイアビリティ溢れたギターだった。そのピックアップを『エル様』は近藤クンのお父さんに巻き直して貰っていた。
だからこそ私は『Melodymaker』の『P-90』を誰が巻き直したかすぐにわかったのだ。しかしこの『Melodymaker』は良い音だ。
「一緒に行ったの?」
「うん。最近はどんなのがあるか、見たかったみたい。それでカードでポンと」
「買って頂いたの?」
「うん……。エルヴァちゃんも戻っていたから気まずかったなぁ」
「それは気マズい。それってスイスフランで幾らくらいするの?」
「7500スイスフラン」
「高ッ!」
まぁ、高いだろうね。アメリカでの6000ドルが日本円で64~65万。スイスならそこに関税がガバッと乗って7500スイスフランだ。これを日本円に直すと86万強となって、そこに更に高級品購入税みたいな物品税が掛かる。アメリカに来るなら税込みで6300ドルくらいで買えたのに。だけどスイスのお金持ち向けなんだろうね。並んでいた『'59 Reissue』は、どれもアメリカでも滅多に見ない杢目だった。だから私のはキルテッドに近い。
私は左右両利きなので(これは『エル様』も同じ。エルヴァは元々左利きだった記憶はあるが、観察するに今は完全な右利きだ)、左用の『Les Paul Custom』が欲しかったのだ。『Alpine White』のカスタムってカッコ良くない? だけどお祖父様の鶴の一声で、右用の『'59 Reissue』になってしまった。これはこれで気に入っているのだけれど。
『それで良いのか? 店員さん、この出来なら1万スイスフランはするじゃろう? 値札を間違っとらんか?』
こんな事を言うものだから、エルヴァちゃんもクスクス笑っていた。だけどこれで『Custom Shop』ではないのだから、驚かされる。イタリアもののバッグや靴もそう。一番いい革がお店に並ぶ。だから他国より元から高い。そこに税金だ。それがスイスだった。
一通り、音楽の話を終えた私達は、母屋に戻り、エルヴァとリンさんにリョーコの話をした。
「穂群原から留学……!?」
「へぇ、誰?」
「鈴木凉子って子ですよ」
「ん……? あ。B組の!」
やっぱり、リンさんの世界にも居たらしい。
「遠坂、憶えているのか?」
「うん、思い出した。彼女、聖杯戦争の期間も留学中だったから、ある意味、1番安全圏に居た人なのよ」
「あ、そうなるな」
「そうそう」
結局、認識阻害でどうにかなるだろうと落ち着いた。テンプラ・パーティは明日の夜に行う事にして、各自プラスアルファのメニューを考える事なども決まった。ホームシックになっている子を助けるためとなったら、全員が燃えていた。それは誰しもが経験ある事だというのもあるが、元の世界に戻る手立てがないリンさんにシロウさん、そしてエルヴァには身につまされるものだったからだ。
「あ、エルヴァ?」
リンさんがエルヴァを手招きして耳打ちした。
「はい?」
「ちょっとマズいの。タ◯ポン、貸して?」
「は、はい」
「エルヴァ、ストックはあるのかい?」
「ありますよ。ですからリンさん、好きなだけ使って下さいね」
「そんな何十日もあってたまるもんですか。何であんたは軽いのよ? ホント、ズルいわ」
そうしてエルヴァが自室に飛んで行った。リンさん、買い置きが切れたのか。
「ちょッ!? 遠坂?」
「うっさいわね。聞き耳立てるな。それに、私とエルヴァはそういう仲なの。イライラしてるんだから黙っていて」
デリカシーが無いと言えば無いのだが、ドイツやスイスだとこの程度の知識は男女関係なく小学生から持っている。なので案の定パミちゃんも知らぬ顔だし、フンボルトも平気な顔をしている。つまり『家族』なら当たり前の距離感なのだ。だけどそれは男女間の場合だと、『恋人』の壁を越えているとも言えた。
エルヴァがパッケージを持って降りてきた。それでリンさんを呼んでバスルームに見送った。多分たった今、始まったのだろう。私は尋ねた。
「何度かリンさんに?」
「はい、助けて貰いました」
この子はナプキン派だった。それをタ◯ポンに替えたのは、リンさんのアドヴァイスがあったからだろう。旅でシャワーしか使えないなら、断然タ◯ポンだ。だけど知識はあっても、ヴァージンの間は使う勇気がなかった。そこをリンさんが優しく面倒をみてくれたのだろう。それに以前のエルヴァならフンボルトと限らず、人前でのこの手の会話は避けていた筈だ。つまりこれは恥じらいを失ったのでなく、フンボルトとの仲がそれだけ深く確かなものになったという事だ。
もっとハッキリいうと、私がチューリッヒに戻っていたこのひと月、ヤリまくっていたって事だ。だけど乱れた感じがしないのは、パミちゃんやモニカさんにミアータさんの存在のお陰だろう。それとリンさんが少し変わった。
「エルヴァ、ありがとう」
「大丈夫でしたか?」
「まぁ、何とか。ストックが切れていたから、買いに走ろうと思った矢先にこれだもの。私は中学生か」
旅の疲れもあったのだろう。タイミングが悪かった。
「リン。出発するる時に買っておいてって言ってくれれば、お買い物に行ったのに」
「ありがとう、パミ。けど、そういう時はまだ大丈夫って考えちゃうのよね。ちょっと部屋に戻るわ」
「どうぞ」
エルヴァを見たら頷いていた。サニタリーショーツに穿き替えに行ったのだ。
「エルヴァは、次いつの予定?」
「今のままなら今月の半ば。エルは?」
「私はこっちに来る前に終わったトコ」
『エル様』は『宝具・ラインの黄金』があるため、生理が来ない。そのために赤ちゃんを望めない。それは女性としてどれだけ悲しい事だろう。なので研究を重ね、遂には排卵が可能な『ラインの黄金』を造った。そのプロトタイプが、101番のエルマと102番のトロンメル、そして103番ことヴンダーに投入されている。ただその3つは、単なるバージョン違いでなく求める性能の方向性がそれぞれ異なっていた。
例えばエルマのそれは『是、ラインの黄金・改』とかいうそうで(ヘンな名を付ける子だ)、『エル様』が持つ『ラインの黄金』の機能限定版だ。全体的な性能も低い。それでトロンメルの持つそれは機能が削減された特化型で、エルマの補助でもあった。つまりエルマもトロンメルも、1人だと大した事はないが(それでも『Elements』や『Essential』くらいの性能はある)、エルマとトロンメルが2人で組めば、負担を分担しあい『エル様』並の事ができるのだとか。要はエルマにとってのトロンメルは、解除キーも兼ねた補助装置だったのだ。これは逆からも言えて、トロンメルの補助装置がエルマだ。
だけど、ヴンダーの持つ『ラインの黄金』だけがわからない。『エル様』からは『あなたのはヴンダーの改良品だ』と言われている。なのでヴンダーは補助装置のような機能を外部に置かなくとも1人で完結するプロトタイプ、もしくは最初の成功例だったのだと思う。
そこまで考えて、さっきの工房で懐いた違和感の正体に思い至った。それはパミちゃんだ。この子の『エル様』が『ラインの黄金』を持っていたのは、ほぼ間違いないだろう。となるとこの子も……?
うん、これだ。持っているに違いない。問題はどういう機能を持つのかだ。そしてそれがこの世界に悪影響を起こさないかどうかだろう。だけど『エル様』からの指示はない。ならパミちゃんが心を許しているエルヴァに話して、彼女に調べて貰うしかないか。この世界におかしな影響を与えないものとわかれば、何ら問題ない訳だし。ただ、今は動けない。詮索しているような態度を見せるわけには行かなかった。だからエルヴァに、後で話があると彼女の部屋に誘われたのは僥倖だった。
2階に上がる階段で鼻歌を歌うエルヴァ。そんなクセってあったっけ?
「それで話って何です?」
彼女の部屋で訊いてみた。
「その箱です」
見覚えのある箱だ。高さは7センチくらいで横が50センチ、縦が35センチくらいだろうか。まぁ、洋服が入っているのはわかる。
「私に?」
「はい」
何だろう? そう思って箱を眺めていると、横に日本語のラベルがあった。そこには『穂群原学園高等部 女子制服』と書かれてある。思わずエルヴァの顔を見たら……。
「私のもあります。来年の2月か3月に、一緒に卒業して頂けませんか?」
そういう事か。私のサイズは彼女と同じなので問題ない。問題があるとすればエルヴァだ。話には聞いていたし、知識としてもあった。ロングTシャツの胸が結構育っている。性的なパートナーができた事で女性ホルモンが活性化しているのだ。胸を揉まれて大きくなるのではない。セックスに拠るホルモン分泌がそうさせている。ただ妊娠したわけではないので、ブラウスが入らなくなるほどの成長はないと思う。だけど来年だと、ブレザーのボタンが留まるかな?
もう一つ理由を挙げるなら、パミちゃんの存在だろうか。おチビちゃんやクロエちゃんと別れ、エルヴァちゃんとも中々会えない今。彼女はパミちゃんを妹というより、娘のように感じているのかも。冗談だけど、そのうち母乳が出ないかと疑いたくなるくらい、母性愛のようなものが滲み出ている。こうなるとちょっと質問し辛いが、何とか話を回さないと。
「わかりました。それであなたに踏ん切りが付くのなら。ただ、私はそれを着て学園に通った経験がありません」
「あ……」
「気にしないで。私も自分を18歳だと思っているので。ですから一緒に」
「ありがとうございます!」
身内だけの簡素な卒業式は、チューリッヒで行いたいという。なので自分の分を取り込みついでに、彼女のを預かろうとしたら断られた。それだけは自分で持っていたいという。もう、心配する必要がないと思えるほど立ち直っているが、こういう思い出への強いコダワリが、ああいう風にさせたとのだとも言える。裏返せば彼女は情に篤いのだ。
「エルヴァ、私の方からもお話があります」
「何でしょう?」
「パミちゃんの事です。あの子は……」
「放任主義だとでも? 私が口喧しく言わないのは、自分で気付けて考える子だと信じて……!」
誰もあなたの子育ての方針なんて興味ないっつうの。でも『エルヴァ』がおチビちゃんやクロエちゃんに慕われていた理由がここなんだよね。『危ないよ』『それはダメ』と言わない。とにかくやらせて考えさせる。それで痛い目にあったり、怪我をするから、大きくなっても自分で考える子になる。
メチャクチャわかるよ、それ。だってそれがママの教育だった。それが『エル様』が受けた教えなんだもの。
「あのさ。そういうのはフンボルトと話し合って? 私が訊きたいのはそういうのじゃないの」
「な、何?」
「ズバリ、パミちゃんの事ですよ」
「出会いも、今までの経緯もメールで報告した通りですよ? あの子が何か?」
トボケてる? 違うか。エルヴァには『ラインの黄金』がない。だからピンと来ないのか……。
「じゃなくて。『ラインの黄金』ですよ」
ビッビクンッってわかりやすい反応だ。
「あの子は持っている? 持っていない?」
背後に廻って、耳に息を吹きかけながら囁いた。
「ぁあ……」
胸に手を回すと腰が砕け始める。相当『覚えた』なぁ、これ。必死になって我慢していた、ロシアの頃のあなたが懐かしいね。でも反応を見て楽しんでばかりもいられない。
「で、どっち?」
首筋に舌を這わせつつ、脇からブラ越しに乳房を撫で、乳首が勃つのを確認する。摘んであげるフリをしながら手は離れたり戻ったり。それをいよいよ『ここ』というところで止めた。
「ッンン……持って……持っています! ァン~~ッ……」
「良く言えました」
空間を跳ばして、私の舌の一部は彼女のポルチオを、空いた指はGスポットとクリ◯リスを服の中から刺激していた。この魔術で堕ちないやつは居ない。まして一度でも膣でイッた経験があるのなら。
「ひ、卑怯ですよ! 」
「隠そうとするからですよ。あの子が良い子なのはわかっています。ですがそれが自らの意思で抑え込める範囲のものかどうか、暴走した場合に危険があるのか無いのか。そういう検証は必要ですよ?」
「ですけど! なぜあの子だけ? エルヴァちゃんにはそんな事をしていないのに?」
「エルヴァちゃんにはお祖父様が居ます。そして私もあなたも居る。何よりエメラルドにその能力を委託しています。更にいうならあの子は『エル様』の異世界同位体です。ですがパミちゃんはクローンでしょう? 悪しき因子はない子だと私も考えています。ならばこそですよ? あちらの『エル様』の自由意志であるならまだしも、どうしてクローンにまで『ラインの黄金』を?」
エルヴァが私を睨んでいる。そしてみるみる内に、私と同じ大きな瞳から涙を零しこう言った。
「それが……あなたにはわからないんですか……?」
何かを間違ったか、見落としていたらしい。怒るというより、エルヴァは私を哀れんだ目で一瞥して出て行った。しまったなぁ。あの皆んなで考えたレシピなんかもお祖父様に預け、既に食料配布とともに配られているというのに。それを教えてあげられなかった。
何があったんだ? 僕の愛しい人が大粒の涙を流しながら、工房に飛び込んで来たんだ。今は各自銘々が好きに動いていた。リンは部屋で休んでいるが(初日が重いらしい)、シロウはミアータさんやモニカさんと買い出しで、パミは楽器の手入れをしている僕の横で本を読んでいた。
そんなところに、泣いているエルヴァが飛び込んできたものだから僕もパミも驚いた。
「エルヴァ、どうしたの?」
「わからないけど、エルと何かあったのかい?」
それで彼女は語ってくれた。エルはパミの人柄や人間性を認めても、『あの宝具』を必要以上に恐れていると。恐れること事態は悪くないが、それでパミを調べたいというのはおかしいと言うのだ。僕は戸惑った。普通の感覚で言えばエルの方が正しいからだ。それで危険がないとわかれば、皆んなも安心できる。調査の間、パミには不便を掛けるかも知れないが、エルの事だから傷つけるような真似はしないと思うんだが?
だけどエルヴァは首を振った。彼女の言いたい事を要約するとこうなる。
一つ、確かにパミの持つ『宝具』は未知数だ。危険な部分も当然あるだろう。然しながらパミはそれをきちんと制御下に置いている。エルだって同じ『宝具』を持っているのだから、そこはわかるはずだ。
二つ、自分(エルヴァ)とフンボルト(僕)はパミを、この子の『エルヴァ』から託された。疑う前に人として愛情を以って接するべきだ。
三つ、パミの持つ『宝具』は『エルヴァ』達の世界でのアインツベルンの最高傑作だ。そしてエルの『宝具』も、『エル』が造った現状での最高傑作だ。その意味をエル本人がわかっていないところが辛い。
「わかっていないとは何を指すの?」
「多分ですが、エルは素体から鋳造されたホムンクルスでなく、『エル』のクローンに近いのではないかと」
そう考えた理由はこういう事らしい。アサシンとの出会いが先なのか、『エル』のアイデアが先なのかは不明だが、『エル』は分割思考と『宝具』を組み合わせる事で数多くの『分身』を仲間としている。その際の身体は基本エーテル体だが、素体を利用し仕事内容で身長や容姿に年齢を変化させている。何より思考体(思念体)は使い勝手が良い。素体が滅んでも、『エル』が思考を回収すれば、何度でも復活できるからだ。
だけど47番の遭難事故以来『エル』は考え方を少し改めた。それと同時に長い間温めていた『宝具』の改良に着手した。その結果が101番から103番だという。そしてそれらの集大成として造られたのがエルだと言うのだ。
「パミちゃんに聞いてわかったんです。同じ試すなら素体でなく本人のクローンだろうと」
確かにそれは言える。むしろ先にそちらだ。その先を求めるようになってから、適合性の高い素体造りだろう。
「それともう一つ」
「もう一つ?」
「はい。間違いなくパミちゃんの宝具には、あちらのアインツベルンが残した今まで全部の研究成果や資料などが保管されているはずです」
これには納得だ。パミは少し驚いていたが、その可能性があると納得したのか大きく頷いていた。
「だけど、エルヴァ。やっぱり私は2人にケンカして欲しくないな。だから、4人で探検しない? 私も何があるのか知りたいし」
それでエルを誘って『宝具』の中を探検する事になったんだ。
本日の2時間目は英語だった。ハッキリ言ってサッパリわからん。一応、中等部3年時代に高等部の推薦入試を受けて、合格しているからこの3年D組の席に座っているんだが。窓の外を見ると3年A組とB組は体育らしい。男子はテニスか。領域選択だな。となると女子はダンスか器械体操……え? グラウンドに居るぞ?
居た居た。あいつの髪の色はメッチャ目立つから、4階からでも一発でわかる。だけど3年でグラウンドは珍しいな。ああ、幅跳びか。確か1年が50m走で、2年がソフトボールの投擲だっけ? 学期中に2回しかない、陸上だったと聞いている。
エルヴァは芸術選択が音楽で、教科の選択は理数だ。科学は物理と化学を選んでいて、社会は世界史を取っていた。苦手な教科は古文だときっぱり話していた。スイスのでっかい領主が先祖らしく、昔は『アインツベルンに非ずんば人に非ず』を地で行っていたという。まさに『この世をば我が世とぞ思ふ、望月の欠けたる事もなしと思へば』というくらい権勢を誇っていたそうだ。藤原かお前ん家は。本当に古典や古文が苦手なのか?
あ、手を挙げた。エルヴァの番だ。やっぱ弓道部のやつはポニーテールが似合うな。ン? ジャージの下を脱いで……ブルマで跳ぶのか? 空気抵抗を減らすためか体操服の裾はブルマの中だ。うおっ! いきなり凄い加速だ。なっ?! 踏み切ってから空中で足を掻いた!? オリンピック選手かよ??
「コラ。吉川、どこを見てる」
「す、すみません。7mを越えやがった……」
「ん? ああ、ウチのクラスのアインツベルンか。幾らあいつでも6mくらいだろう?」
この英語の先生はエルヴァの担任だ。脱線してもあんまり気にしない先生だった。
「いえ、あの砂場の位置。間違いなく7m越えてますよ」
「見間違いだろ? 高校女子の国内記録が6m40くらいだぞ?」
そうなのか?
「吉川、『俺の彼女は7m跳んだ』。これを英語で言ってみろ」
「え? 英語で?」
「言えれば余所見を許してやる。中学生レベルだぞ?」
「シ、シー……」
「『My girlfriend』」
ガールフレンズで良いのか。ラヴァーとかそういうのじゃなくて良いんだ?
「マイ ガールフレンズ……」
「単純に考えろ。『jumped 7m』」
「あ、そっかジャンプで良いのか」
「ただし過去形な。正解を暗唱」
「はい。マイ ガールフレンズ ジャンプド セブン メートル」
「『Good』。発音、アインツベルンに習えよ?」
「はい……」
こんな具合に簡単な英会話にしてくれるんだ。だから生徒からの人気が高い。学祭の最終日でも教頭先生達と一緒にずっと歌ってくれていた先生だ。エルヴァに言わせると、かなりアブナイ先生らしい。冗談めかして話していたので、嫌ってはおらず、むしろ親しみを感じているからこその『アブナイ』発言だったようだ。だけどそれは俺にしてもそうだった。この先生だから俺も何とか赤点を取らずに済んでいる。だから親しみだけでなく感謝もしていた。
そんな先生に逆らうつもりはないが、やっぱりあれは7mを越えていたと思うんだ。段々と俺はエルヴァならやりかねない、エルヴァならあってもおかしくない、そんな風に考えるようになっていた。
体育を終えて更衣室で着替えていたら、下靴の中は砂だらけだ。一応外で叩いたのになぁ。
「エルヴァさん?」
「ほいよ?」
「ほいよって。早く着替えないと、次も教室移動よ?」
「そう考えて教科書もノートもここに」
「ちゃっかりしているわね」
じゃぁねと着替え終えた人から次々と出ていった。私もそそくさと着替え教科書や体操服を入れたサブバッグを持って更衣室を出た。次は物理だ。
別に理工学部に進みたいわけではないのに物理を取ったのは、昔から好きだったからだ。魔術師としてなら、薬学云々関係なく化学は必須だろう。何より一度覚えれば、計算も少ないし簡単だ。つまりテストの平均点を上げるための稼ぎ場でもあった。だけど生物や地学を取らなかったのは、言うまでもなく今更だしプライドもあったからだ。昆虫でなく魔術に拠って作り変えられた『蟲』を扱ったり、人体を人工物で一から造った先生は居ないだろうからね。
特別棟に向かって中庭を歩けば、落ち葉がいっぱいだ。今日の私は茶色いベストでなく薄手のセーターをブラウスの上に着ていた。すっかり長袖に馴染んでしまって、もう半袖の感覚を忘れつつある。中庭を見渡せば、皆んなセーターかベストだ。校内でブレザーを羽織る生徒は少ない。
「エルヴァ先輩!」
ん? エルマの声?
「すみません、教室移動中だったんですね。道理で3-Aに居ないはずだ~」
探して追い掛けて来たらしい。
「どうしました?」
「本日の部活に彼女が来ますので」
「ああ、なるほど。では、後で顔を出しますね」
そうしてエルマと別れた。『彼女』とは言うまでもなく、1年E組に入ったセイバーの事だ。驚くなかれセイバーは、『アルトリア・ペンドラゴン』と本名で転入していた。その美貌と愛用の赤い万年筆にドラゴンの蒔絵が描かれている事から、一気に有名になった。『エル』の作戦だろう。ペンにドラゴンでペンドラゴン。こういうのが学生にはウケる。だから伝説のアーサー王と同じ姓だと誰も考えなかったのだ。
ちなみにアルトリア姉さんもこのドラゴンの蒔絵が描かれた万年筆を持っている。当然『エル』の贈り物だ。その『エル』は黒地に金魚が描かれたフォルカンを愛用していて、カリグラフィーのように文字を書いていた。インクは自家製のワインレッドか、アインツベルンが時計塔に卸している魔力入りの緑掛かったブルーブラックだ(そういう専用のインクタマバチから開発していた。アインツベルンに『蟲使い』が居たのは、こういうところから来ていた)。この魔力があるので、文字を色々と操作できるので重宝されている。なおワインレッドの方は『凜』という名が付いており、『エル』が凜に贈ったものだ。こちらは水性で魔力は入っていない。
そういや私は、こっちに来てから万年筆を使っていない。そろそろ何か買おうかな。ちなみにその凜が長い間の万年筆派で、プロフィット党だった。ヤングを買ったのが5年生頃で、中1でスタンダードを買っていた。高1でプロフィット21を買い、軸が太いからとスタンダード21に買い直していた。『姉のイリヤ』は書道少女なので『筆ペン』や『ふでDEまんねん』を愛用している。ただしノートは黒鉛の鉛筆と色鉛筆を使っている。
一方『エル』はパイロット派で軸は何でも使う。授業は鉛筆と補助軸を使っていて、『KUM(ドイツの鉛筆削り)』でカリカリと削っていた。手帳やメモには『ペン習字ペン』を使い、目が痛くなりそうな極細の文字を書いていた。
アルトリア姉さんは学生時代からプラチナ派で#3776を愛用していた。姉さんが何故万年筆を使うようになったのかを知ると、少々胸が痛くなる。羽ペンもなかった時代だから、葦などの草木を切ってマイ・ナイフでペン先を毎回仕上げていたそうだ。
『最高の書き味になった頃が、ペン先が潰れる合図なんだ。あれは辛いぞ?』
円卓は役に立たんと帳簿類を全部自分でつけていた姉さん。何度も何度も削り直していた事だろう。だから姉さんは書き味の滑らかな万年筆にハマった(※)。油性のボールペンは以ての外で、水性のボールペンでも足りない。ローラーペンでやっと何とか。やはり万年筆に限ると言っていた。『エル(私)』に筆記体のルーン文字を教えてくれたのは姉さんだ。あんな石に刻むような文字に筆記体があったなんて。
※)使った経験がなければピンと来ないと思うが、ペン先が交換できる(漫画を描くような)ペンと違い、万年筆はカリカリでなくサラサラとペンが紙の上を走る。それはペン先にポイントがあるからだ。ただしサラサラ感はやや太めのペン先の方が強い。それは万年筆が欧州の発明品でアルファベットを書くためのものだからだ。
ところが日本の文章は漢字にひらがな、カタカナが混じる。なので極細のペン先が発達した。その最たるものがペン習字ペンだ。そのペンだと3mm四方のマスに20画もあるような漢字が書ける(だから『エル』は手帳用のペンにしていた)。ペリカンにもモンブランにもこんな極細は存在しない。カリカリと紙の繊維にペン先がやや引掛かるが、慣れれば問題はない範疇だ。凜がプロフィットを愛用するのも、この極細が強いメーカーだからだった。
チャイムが鳴り3-Aの教室に戻る。お手洗いに寄ってから、教室に入ると選択授業で別れていたクラスメイトが集まっていた。教卓の上の時計を見れば、休み時間は残り2分。次の現代国語を終えれば4時間目はまたまた選択の音楽。再度特別棟へ行かなきゃならない。それでもってお昼休みは中庭でコーちゃんとお弁当。いっそ教室移動にお弁当も持って行くか?
学生はこういうところが本当に辛い。特に並ぶ女子トイレはどうにかして欲しい。とにかく膀胱が小さく尿道が短い女の子は堪らない。周囲に人が居なかったら股に教科書を挟んで身をクネラせたに違いない。やっと順番が来てスカートを捲くってパンティーを下ろし、一気に膀胱を緩めた。便座にシートを広げるとかペーパーを置くとか、そんなゆとりもなかった。ここまで切羽詰まったのは初等部の4年生以来? 多分それくらいだ。
我慢し過ぎて尿道が細くなっていたのか、尿がシャワーみたいに広がっているし。やっと終われば、アソコはビチョビチョ。カラカラとペーパーを丸めて、ポンポンと一度拭きした後、もう一回ペーパーを取って前から後ろへと二度拭きする(後ろから前だと雑菌がアソコに触れる可能性がある。なので女の子は小さな頃から前から後ろに拭けと躾けられる)。学園の女子は、1日でどのくらいペーパーを消費するのだろうね?
ガチャリ
「え!? アインツべエルンさん?!」
「ごめんなさい。鍵を掛け忘れていました」
いきなりドアが開いた事で驚いて少しおならが出た。美人コンテストで1位になろうが、人生ってこんなものだ。パンティーを上げて、スカートを直し、水を流して個室から出た。彼女にもう一度謝り、手を洗った。恥ずかしくないのかって? それは恥ずかしいすよ、女の子ですから。けれどそんなの気にしていられないというか。
もう次の授業が迫っている。こんな分刻みのスケジュールなんて、社会人になっても中々味わえないと思うのだけどいかがなものか。いや、そんな事はないぞ。私は忙しいという人は、一度自分の働き方を見直した方が良いと八つ当たりに近い感情さえ抱いてしまう。それが学生生活だった。
私は経験がないのだが、プールの授業中にトイレに行きたくなったら、水着をどうするのか知ってる? あれはね、時間があれば、膝辺りまで全部下ろすのが正しい方法。股間部分の布をズラしてするのは、本日の私みたいな緊急の場合のみだ。そしてこの方法にはリスクがある。終わった後、しっかり布を戻して整えないと、ヴァ◯ナの片側3分の1ほどはみ出ていて、死にたくなるような思いをするらしい。私が目撃したのは毛がはみ出ている子が数人だ。
オシャレな子は結構無駄毛の処理をしているのだけど、真面目な委員長タイプの子はお尻も毛だらけという場合がある。これは『エル』だった頃、中3の修学旅行で見ている。お母さん、ちゃんとお手入れの方法を教えてあげなさいよと思っても、誰も何も言わない。皆んなナイーヴな年頃だし、1~2年の頃より人の気持ちを考えられるようになったからね。
現国は得意ではないが漢文と同じく、『外国語』だと思っているので何とかなっている。漢字を覚え音読み訓読みを覚えれば何とかなる。設問自体は読めばわかる。『この時作者は何を思ったか?』、これは『先生が望む答えは何か?』だ。大抵の作者は早く原稿料が欲しいな、それで借金返すぞとか、美味しいものを食うぞくらいしか考えていない。100%そうだと思う。作家になれたのは、そんな事を考えながらでも読ませる文章、人の心を動かす文章、売れる文章を書ける才能があったからだ。これはドイツ文学でも英文学でも同じだ。
この点で古文は難しい。言いたい事の裏に風流な別の意味があったりする。韻を踏むだけのボブ・ディランより恐ろしい。俳句なんて恐ろしさの局地だ。『荒海や佐渡に横たふ天の河』。何だそれ? 『奥の細道』に初めて触れた時、腰が抜けた。だけど『荒海』を『航海』と読み替えて意味がわかった。その心(精神)の船は日本海を渡るだけでなく、星船となって天の河にも翔ぶのだ。だから川でなく河なのだ。
夏の日本海は凪いでいる。きっと海は月明かりだけでなく星空も映していた。その玄妙なまでの幽幻さと静寂。それが瞼に浮かんだ時、芭蕉は天才だと悟った。そして初めてオーロラを見た時のあの何とも言えない感情が理解できた。それを日本語では『幽幻』という。近い言葉はあるが、ドイツ語でも英語でもこれを言い表す単語はない。だけどここまでの荘厳さを五七五で表すって、彼はやっぱり『NINJA』だよね?
4時間目は若地美紗子先生の音楽だ。私はとにかくもう、この音楽の授業を楽しみにしている。そこまで好きなら音楽科のある学校に行けよという話だが、そういう高校はほとんど県の反対側にあって、通学に2時間は掛かってしまう。なのでかつて知ったる穂群原を選んだのだ。今はそうでもないけれど、以前は違う学校でも良かったかなと思っていた。だけどそうなるとコーちゃんとこういう仲にはならなかった。人の出会いって本当に不思議だ。
本日は音楽鑑賞と作文だった。ベートーヴェンの『運命』を出だしだけ連続10曲くらい聞いて、表現の違いを感想文に書きましょうという内容だ。指揮者によってここまで変わるのかと皆んな驚いていた。コースで芸術を選び、選択で音楽を取っても、普通(総合)科の生徒はそんなものだ。
ちなみに穂群原には専攻科がなく、全クラス普通(総合)科だ。そこから芸術の音楽か美術、或いは書道を選べる芸術コースと、英語などの授業が増える英文コースと、理数コースがある。だけど教室移動でわかれるだけで、理数科や大学受験に備えた進学コースなどがあるわけではない。なので月に1~2回、A組からF組まで音楽の授業が同じ時がある。
本日がその日に当たり、視聴覚教室でコーちゃんは私の隣に堂々と座っていた。だから楽しみであって、お弁当の用意が必要だったのだ。
「おい、エルヴァ。なんで聞いただけで指揮者とオーケストラの名前が書けるんだ?」
「文化、文化。ルツェルン音楽祭とか暇さえあれば通っていましたから。それに学園などが扱うCDって有名ドコロばっかりですよ?」
「堪んねぇ……」
やがてチャイムが鳴った。
「中庭で待っていますから」
「音楽室に、弁当持って来てたのかよ? ホント、堪んねぇ……」
「ダッシュ!」
「おう! 先に食ってて良いからな」
彼と別れて中庭へ行き、いつもの場所(ベンチ)で、お弁当箱を入れた袋から取り出したランチシートを広げた。これ、本当は何というのだろう。子供の頃から遠足などで広げるシートはランチシート(正解はレジャーシート、もしくはピクニックシート)と呼んでいた。お弁当箱を包んだり、お弁当箱の下に敷く布が、私の中ではランチクロスだ。
そしてこのいつもの場所は、例え中庭が混んでいても必ず空いていた。皆んな遠慮しているのだ。それくらい私とコーちゃんは有名人だった。これが公認の特典だ。そして有名人のデメリットはヘンな事ができないところ。コーちゃんが望むのなら、ホテルに入っても良いと私は言った。だけどスジとしてそれはできないとコーちゃんは返した。ここまでは立派な話だで済むのだけれど、2人とも校外でも知る人ぞ知る有名人なのは痛かった。新都の買い物ですら『あの子は?』と気付かれる。
そして益々、2人は『学園生の間は別れられないな』となる。勿論、別れるつもりなんて毛頭ないから、余計に真剣になるというか。話は2人を置き去りにしてドンドン進んでいた。今、コーちゃんの伯父様と伯母様、そしてお義母様の3人がチューリッヒに飛んでいた。日本語通訳なんて誰がするのだろう? 欧州に戻っているお父さんの手が空いていたら助かるのだけど……。
長い長い旅を終えて空港に到着すれば、日本より肌寒い事に驚いた。
「お義兄さん。私ども、浮いていませんか?」
「操さん。この人に訊かずともしっかり浮いています」
覚悟の上だったが全員着物じゃからなぁ。儂は紋付きの羽織袴で、女房と操さんは紋付きの黒留袖だ。菓子折りも用意したが『何もいらない』というエルヴァさんの話をしっかり聞くべきじゃったな。これが本物のアルプスか。まるで絵葉書のように綺麗だ。そこに羊羹はなかったか……。む!? この気配は……?
「吉川様ですか? アインツベルンの者です。お迎えにあがりました」
その美しい金沙の髪に翠の瞳を持った少女は、仕立ての良さそうな洋服に身を包み、儂らをクルマまで案内してくれた。ドイツの高級車だ。運転手とともに荷物を積んでくれ、それが終わるやいなやドアを開いて待っていてくれた。動きが実に機敏で無駄がない。その黒く大きなリムジンの後部へ3人で乗り込んだ。少女は助手席だ。
「私はあの家の使用人で、今回の通訳を務めますモードレッドといいます。言葉や文化の壁で、何かとご不便があると思いますがご容赦下さい。その分、私が皆様の代わりとなりまして手配などを致します。何なりとお申し付け下さい」
「これはご丁寧に。痛み入ります。ところであなたはボディガードも?」
「さすがですね。左様です」
勝てん。どう足掻いても勝てん。儂が百人居っても無理だ。エルヴァさんの強さの秘密はここにもありそうだ。
「綺麗なところですな?」
「ええ。チューリッヒは美しい街ですよ。お時間を頂ければ観光案内も致します」
「いえ。まずはご当主様にご挨拶を致さねば」
しかし窓の外の景色は街から離れているように感じた。空港より南に街の中心地があり、目的地は空港よりも北の郊外になるそうだ。やがてクルマは柵のような大きな門を抜け公園に入った。これは……。
「あ、あなた。ここは公園ではなく……」
「ああ。前に見えて来た。城というか家なのか……?」
近くに行けばより大きさが際立つ。玄関の前の半円弧状になったガレージには海外の高級車がずらりと並んでいた。運転手がクルマを停め、建物の中から執事のような男性が現れ、荷物を運んでいった。黒く大きな扉(おそらく黒檀だ)の中で儂らはたまげた。30人以上もの女性使用人が左右に並び儂らを歓迎してくれたからだ。どの人もエルヴァさんに似て美人揃いだ。また、その玄関のホールは天井の高さがビルの4~5階分はあった。真正面には階段があり、その下には西欧の甲冑と大きな壺が置かれてある。欧州でも有数の旧家で、領地も多い元は貴族だったという。これはさもありなんだ。
我々は執務室のようなところへ案内された。少女は暫く待って欲しいと言った。
「ここは?」
「当主の執務室です。エルヴァの客人ですから、応接室でなくこちらにお通ししろと」
普段は親しい者しか通さないのだろう。生活様式の違いで違和感はあるが、その調度類などから品の良い方であると察せられる。そして親しげな笑顔で入って来た中年男性は、銀幕のスタアのようだった。そこに後から付いて来られた奥様も実に美しい。エルヴァさんの日本での養母と似ておられ、お二人は姉妹なのだと聞いていた言葉に納得した。
「こちらが当家の第9代頭首、エーベルハルト・フォン・アインツベルンです。そちらの女性がマアエモ・フォン・アインツベルン。エルヴァ・フォン・アインツベルンの両親です」
儂らは立って頭を下げたのだが、エーベルハルト氏はにこやかに握手を求めてきた。握手には武器を持つ利き腕をあなたに預けるという意味がある。そこから転じて挨拶の所作、親愛を表す行為となった。だが我ら日本人には利き腕を預けるという前に、穢れた手を預けて相手に失礼に当たらないかと、妙な感情が先に立つ。
しかし手を握ればわかることもある。この方は武器を使わぬ武人だ。一兵卒に収まる人ではない。何千何万もの兵卒を率いる将でもない。その将を何千と率いる帝王だ。多分儂は、一国を率いる首相や大統領に会ってもここまで怖気づかない。しかしこの人だけは……。弘三とエルヴァさんの件が無ければ、生涯会う事のなかった現代の皇帝だろう。
おそらくこの人には、少女のボディガードと同等かそれ以上の者が側に大勢いる。門弟全員を率いても少女には勝てないという信じ難い直感……。が、何故か不快ではない。世の中は広いという、当たり前の事を再確認しただけだ。そんな圧倒的彼我の差が苦さでなく、爽やかな風の如き清涼感を伴うのがこの御仁の人柄なのだろう。
続いて奥様とも握手した。養母もそうだがどこまでも抜けるような肌の白さが何とも。となれば健康的に焼けているエルヴァさんがどれだけ活発な人なのかもわかる。しかし単なるお転婆なお嬢さんではない。深く和の心と武の精神を識るところに、あの人の魅力がある。それはこの家の格の高さと伝統と歴史があってこそだと納得できた。
またとてもユーモアのある人で、文化の違いをこんな風に語ってくれた。
『実は私、今だに間違う日本語があります』
『それは?』
『例えば『枢軸国』と『枢機卿』と『数字狂』です』
漢字で書いてくれ、それで言いたいことが何となくわかった。最後の『数字狂』はこじつけだ。
『また、『沙悟浄』と『酢胡椒』も』
沙悟浄は西遊記に出てくる河童のような妖怪だったか。それを酢胡椒と……。確かに漢字に慣れん間は難しかったろう。そしてそこにエルヴァさんの努力と、儂らに溶け込もうと懸命な彼女の真摯さが見えて来る。
しかもご当主(一族を率いる頭首だった)と奥様は、エルヴァさんの恋愛については何も問題ないと仰って下さった。理由は調べがとっくに付いていたからだ。弘三を養子に迎える事も、道場の事も全部ご存知だったのだ。
ご挨拶を終えたところで、晩餐会まで寛いで欲しいと客間に通された。これまた豪奢な部屋で、妻と操さんには天蓋付きのベッドを押し付けた。儂は隣の部屋のこのフカフカな絨毯の上で眠る方が楽だ。
「お義兄さん、お義姉さん……エルヴァさんって……」
「正に降嫁じゃなぁ。しかし操さん。相手さんは弘三の事も、儂の道場の事も全部わかっておいでな上で、エルヴァさんを頼むと仰って下さった。儂らで若い二人を見守っていこう」
コーちゃんがお弁当を抱えて中庭に来た。いつも私の右に座る。私がそう仕向けているのだけど。
理由はある。殿方は写真などの第三者視点から見た場合、左に来るのが日本の慣例だからだ。嘘だと思うのなら婚礼写真を見ると良い。ドレスとタキシードの西欧では逆もあるが、日本で和装の場合は決まって男性が左に入る(※)。ただしお雛祭りのお内裏様は地方に拠って変わる場合がある。ところが随臣はお爺さんの左大臣(右大臣より偉い)が右、色白な若者の右大臣が左と決まっている。これはお内裏様=朝廷だからで、最上段から見下ろせば左大臣が左になるからだ。
※)着物の合わせなどの制約条件から写真用のポージングが編み出されたので、広くそうなったという理由もある。
濡れポケットティッシュ(最近は便利なものがある)を渡し、お弁当を広げる。持参したおかずは薩摩芋のレモン煮と、油通しした乱切りのニンジンにピーマンやタマネギ、そこに薩摩揚げと豚肉を加えた甘酢煮だ。薩摩揚げを加えた酢豚っぽいが、お弁当のおかずなので冷えても食べやすいよう炒め煮でなく、煮物として作ってある。
ご先祖が九州の人なので、そちらの食文化が根っ子にあるのは違いない。だからおせちもお雑煮も、お祝いの席の料理もそういうのが吉川家では今も伝え作られている。だけど食べ盛りの男の子ばかりだから、何でも食べるのだとか。
『好き嫌いもないし、エルヴァさんのお作りになられるお料理なら、弘三にはどれもご馳走でしょう』
お義母さんにご相談したら、そういう風に言って下さった。これが1回目のデートだった。街に出てのお買い物や映画は、あまりにも顔が知られ過ぎているので却下だった(ホテルを彼が拒否したのはここもあった)。そうとなると、まずは彼の家に行って、彼の部屋を見せて欲しかった。何も彼の部屋でエッチをしたいわけではない(ほんの少し期待はあったが)。だけどそれよりも重要なのは部屋の様子だった。きちんと整理整頓されているかどうか、掃除は行き届いているかどうかだ。
まぁ、防具の手入れや学園での生活態度から想像は付いていた。私が来るからと慌てて掃除した様子ではない。これは毎日掃除している。しかもお義母さんでなく彼だ。それは男性ならではの見落としと甘い点があったからだ。士郎クンには一歩届かないが、男の子にしたら十分立派だ。お姑さん(お義母さんという意味でなく)ではないが、私は男性にも几帳面さを求めるタイプだ。こういう性格になったのは、父が反面教師だからだろうなぁ。
その日は夕食もお呼ばれして、お義母さんレシピで豚の角煮を作った。残り汁で玉子と大根を煮て、中華スープで味付けしたチンゲン菜を添えてみた。
お義父さんに歓んで頂けたのは幸いだが、兄弟3人が奪いあうようにして平らげていたのが印象深い。タッパで持って行った、イワシの生姜煮もあっという間に失くなった。
『あら、これは……』
『うん、美味しいな。我が家の味を覚えようと考えてくれるところも嬉しいが……』
『元々の味付けが美味しいわ。私がエルヴァさんから教わらないと』
勿論この生姜煮はお母様のところへも先に届けてある。ともあれそんな事があって、それから時々、彼と会わずとも時間が空けばお義母さんから吉川風鹿児島料理や熊本料理を教わっていた。
本家(伯父様の家)にも1回お邪魔している。道場の見学をさせて頂き、伯母様のお料理も少し教えて頂いた。道場は少々遠いので、初心者マークを貼り付けたS2000で伺ったら随分と驚かれた。これが2回目のデートだ。コーちゃんを横に乗せてのドライヴだけど、家まで迎えに行ったらとっても面白い顔をされた。
『普通は居ないだろ? 高3で免許を持っている奴なんて男でも滅多に居ないぞ? それをお前は、こんなスポーツカーがマイカーって……』
さすがの私も、彼を横に乗せてモーテルに連れ込もうとは考えていない。ただプライベートな時間は人目を避けたかっただけだ。クルマだと好きなことを話せるしね。
『親に買って貰ったのか?』
『半分だけ。自分の貯金も出していますよ』
『それでも高いだろうに。普通はもっと小型のか、軽自動車だろ?』
まぁ、初心者の女の子ならそういうのが多いのかな?
『でも、後で買い換えるくらいなら、最初から好きなのを買うべきですよ』
『予算があればの話だけど、それはそれで正しい意見だ』
多分これがあって伯父様方のスイス訪問が早まったのだと思う。
相変わらず大盛りのご飯をパクパク食べるコーちゃん。
「部活の引退で運動量が減るなら食事を工夫しませんとね?」
「その分、道場での練習を増やしているから」
ちゃんと考えていたようだ。現実の引退は年が明けてからだけど、コーちゃんも私と同じで、このところは下級生の練習をたまに見るだけだった。
「なぁ、エルヴァ?」
「なんでしょう?」
「俺が行ってない日に、女子の2年が全員見学に来た1年に負けたんだ。レギュラーも居たのにだぞ?」
どう思うって意味だ。思い浮かぶ名はある。
「放課後、時間はありますか?」
「ああ、何だ?」
「今日の放課後に、見学者が来るので、弓道場へ顔を出して欲しいとエルマから。おそらくその子ですよ」
「なるほど。それなら俺も行くよ」
それで放課後、セイバーのアーチャーっぷりを見に行くこととなった。
「ここからスタートなんだ!?」
エルが素っ頓狂な声をあげた。入った空間の先には大きな門があったからだ。それはどう見てもチューリッヒの館の門だった。ここから歩くとなると……だけど私にも反応しているのなら。
「パミちゃん。その門の先が玄関ホールになるように念じて下さい」
要は私の念がパミちゃんの補助になればとの考えだ。この試みは上手く行って、門を抜けるとそこは玄関ホールだった。スイスも雪国ではあるけれど、多分宝具の中であるここは、トンネルを抜けようとも雪景色は見られないだろう。
「なるほど。『アインツベルンの遺産』を願ったからここになったのかな?」
「それと元々のイメージが館だったのだと。多分一つ一つの扉の中が宝物庫のような倉庫だったりするのでしょう。それで魔術関連の遺産が地下の工房かな」
「私もそう思います」
フンボルト、私、そしてエルの順で最初の印象を語った。一直線に地階に降りても良いのだけれど、私はパミちゃんの部屋に行くべきだと考えた。
「どうして私のお部屋なの?」
「『お姉さん』が、なんとしても逃したかったのがパミちゃんです。すべての遺産を継ぐのもパミちゃん。となると各部屋の解錠キーや、今後のあなたのためになる、知っておかなければならない事なども設置されている可能性が高いです」
「ああ、なるほどだね」
それで向かった廊下の先は、正しくエルヴァちゃんの部屋と同じ位置にあった。その手前の空き部屋2つはこちらだと私とエルの部屋だけど、パミちゃんのところではエルヴァとミトの部屋だった。大切な思い出が仕舞ってありそうなので、そちらは開けなかった(多分、開かないと思う)。パミちゃんの部屋には先にパミちゃんに入って貰い、中から招いて貰ってから私達が入った。こういう手順はとても重要だ。
中々思うようにモノは見付からなかった。だけどパミちゃんの宝箱の中に本人の憶えがない鍵束が、手紙と一緒に入っていた。ビンゴだ。
『数千年にも渡る私達アインツベルンが守ってきたすべての財産をあなたに。あなたを守ってくれる人以外には教えても見せてもいけません。そしてそのあなたを守って下さる人がピンチの時にこれらを使いなさい』
その手紙はパミちゃんのエルヴァが残したものだろう。『エル』や私にエルとほぼ同じ筆跡だった。そして箱の中には4本の魔杖があった。ルビーにサファイア、エメラルドにダイヤモンドだ。遠坂やエーデルフェルトに渡っていない。4本揃っているところにあちらのアインツベルンの在り方のようなものが見えた気がした。