翌日の夜、ドレスやテールコートでキメ、ホテルで待つ私達のもとに亡命政府側の人達がやって来た。話は少しだけ難しく厳しい面もあったが、予想を遥かに超えた、前向きで友好的な回答を得られた。年内に双方の予定を詰め、年明け早々のトップ会談に向けて動くとの交渉が成立したのだ。
普通、国家と国家のトップ会談ともなればこんな短期間で話が進むはずがない。外交官や官僚が1~2年は根回しをして、政権の事務方が半年は掛け、そこで漸く道筋が見えて来るものだろう。瓶詰めのジャムや缶詰を売り込みに行くのではない。当面のお試し半ダースでなく、いきなり10万ケースは売った気分だ。
「良しッ! 良し、良し、良しッ! ヒャッホ~~~~イ!!!」
使者を見送った後、思わず声が出た。新政権を疑っている人も居た。当然だと思う。それでも真摯に耳を傾けてくれた。当然私はチベット語もヒンドゥー語も話せない。なので双方英語だったのだけど、何とかこちらの立場を理解して貰えた。私は『現象』の奇跡に感謝した。と同時にこのデリーで情報収集にあたっていた、あの凸凹3人衆にお礼の念話を送った。彼らの事前調査で亡命政府側の現状の立場や、今回選ばれた事務方メンバーのパーソナリティーが知れたのだ。だから問題を切り分けて考えられる相手だと踏み、今回の話の進め方を考えたのだ。
また、シエルの出没を掴んでくれていた。これも大きい。そこから彼女を釣る計画を立て、予定通り当面の制圧ができた。交渉中に乱入されては堪らないからね。そういう空気が読めない人外の集まりが埋葬機関だから。
結局というか、全員の希望で帰りの飛行機は香港行きだった。暗く嘘っぱちの、歴史とも言えない道化の残滓、それが色濃く残る北京への帰着を延ばしたかった。と同時に、少しゆっくり考えたかったのだ。それは日本に居る『エルヴァ』の察知した無意識の感覚。それに気付いたからだ。
彼女は学園祭で『The Beatles』を演った。その理由が何となくわかったのだ。デビュー翌年の63年からライブを辞める66年の夏まで、彼らは魔術も使わず、その才能と時代とのマッチングに拠って生身でありながら『現象』に至った。それは今回の『現象』とは規模や範囲に方向も違う。なので同列で語るべきものではない。だけど、彼らは時代を取り巻く人々の意識改革を促す役目を振られてしまった。
特にアメリカが酷かった。人類が月へ行き。大統領が暗殺され、黒人の公民権運動が盛んになりつつあった頃だ。それがどれだけ若い頃の彼らを傷つけ苛んだか。だからこそ、今も『Rubber Soul』や『Revolver』に癒やされるのだ。
ライブを行っていた頃の最後のアルバム。『Help!』に聞けるジョンの本音。『The Beatles』でなく『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』を名乗りたくなった彼らの全員の気持ちにも共感できた。私もそうだからだ。エルヴァでない誰かになって普通の人生を歩みたい。だけどそうは行かない。
『エルヴァ』は無意識だったと思う。あの激動の時代の彼らへの共感も私ほどじゃないはずだ。それでもあれらの曲をメドレーで演奏したのは、無意識で『彼女』の心に触れたからだろう。
そんな事を考えているうちに飛行機は香港に到着し、先日も使ったホテルに私達は入った。それで着替えた後に庁舎に向かい、帰着の報告をした。迎えてくれたのは魯粛さんと周瑜さんだった。私は周瑜さんと初めて会ったのだが、文献に残る通りの美丈夫だった。これは奥さんも美人だったというのも本当かも。
ただ懸念事項もある。その奥さんの小喬さんには仲の良い大喬という姉が居て、そちらは主君の孫策さんの奥さんだ。でだ、孫権さんが居るのに孫策さんも召喚されているのか? もしかしたら父親の孫堅さんも? 三国時代の英傑が喚ばれるならここまで含まれる。それってマズくない? 恐ろしいので、実はそこを確認していないのだ。また、こちらから尋ねて妙な波風を立てたくないのもあった。ともあれ現段階で呉の陣営が乱れているとは聞かないので、上手く行っているのだろう。
「報告は以上です」
「わかり申した。内容は直ぐさま北京に知らせましょう。フフフ……」
「え?」
「いえ。あなたは北京でなく、こちらに戻るだろうと孔明殿が読んでいましてな」
応対してくれているのは魯粛さんだが、周瑜さんはその後ろで笑っている。何かあるの?
「暫くはここ香港で羽を休めてくだされ。次はベトナム(越南)です」
そうして私達のベトナム行きが決まった。人使い荒いな、孔明さんは。次に周瑜さんが北京の現状と、北京側で把握している現在の情勢を教えてくれた。概ねは想像通りで特筆すべき点はない。強いて言うなら北の崩壊で南と日本の一部勢力が慌てふためいているくらいだ。3年以内のウイグルや内モンゴルの独立とチベットの独立、更に澳門や香港の1年以内の独立、年明け早々の台湾の国家承認を既に発表しているので世界はそちらの方に耳目が集まっていた。亡命政府との話が進んだのもそれがあったからだ。
なお、当面の道筋が付いたとして、お祖父様の部下の人達は帰国した。お父さんも北京から離れ、スイスに戻ったそうだ。ただし、エルマが魔力を送るランサーと『エルヴァ』がマスターのランスロットは、ヘラクレスともども残っていて、国内を廻っているらしい。前政権でダレた軍や役人にカツを入れているそうだ。
報告の帰り、私達は『豉油皇炒麺(チーヤウファン・チャウミン)』を食べにお店に入った。一言で言えば『焼きそば』だ。だが、この香港は中華八大料理の広東料理に属し、飲茶発祥の地、広東市の影響や仏山市順徳区を中心とする順徳料理の影響を諸に受けている。しかも海に近い潮州の潮州料理の他、国を渡る客家(ハッカ)達の客家料理をお手本に、台湾料理を含む、同じく八大料理である福建料理や上海料理を含む江蘇料理の良さも取り入れていた。
また新鮮な素材が手に入る土地柄というのもあって熱心な料理人が多いのが広東料理の特徴だ。『食は広州(広東)にあり』とはそれを指す。例えば『炎の料理人・周富徳』さんもご先祖が順徳の出身だ。なお、日本に四川料理を広めた『四川料理の父・陳建民』さんや、その息子さん『中華の鉄人・陳建一』さんに、先の周富徳さん達が居たから、本格中華料理と『優しい嘘(日本人向けにアレンジされている事を指す)』が入った中華料理との違いが日本人に広く知られるようになったとも言える。
そんなワケだから、香港で大抵の料理が堪能できる。以前は日本の観光客だと料理が口に合う人と合わない人が居たものだけど、最近はそうでもないらしい。それだけ観光客の舌が肥えたのだろう。だけど八大料理のそれぞれの場所が大雑把でも頭に浮かべば、より楽しい旅ができると思う。だって幾ら有名な料理だったとしても、香港で揚州炒麺は無いでしょう? あれは江蘇料理の中の淮揚料理の一品で地元の川で獲れるエビが入ってこそなのだ(エビ入り五目チャーメンではない。エビだらけ五目炒麺だ)。
そして香港名物とくれば、大きなカマボコ入りウドンの『魚蛋河(ユーダンホ)』、野菜が詰まった餃子が浮かぶ汁ビーフンの『水餃米粉(ソイガウ・マイファン)』、それとこの『豉油皇炒麺(チーヤウファン・チャウミン)』は外せない。汁ビーフンは厦門(アモイ)の焼きビーフンと並んで美味しい。これ以外なら中国のどこででも食べられる『雲呑麺(ワンタンミン)』だろうか。
ちなみに私は飲茶の点心があまり好きではない。こんなに小さな蒸しカゴをたくさん使って、誰が洗うんだと腹が立つからだ。写真入りのメニューでこれとこれって具合に選んで、ワンプレートで良いじゃん。私は食料品会社を営みつつ、暇さえあれば新しいレシピを考えるほどのお料理好きだ。でも小売のスーパーや料理店は経営していない。その最大の理由がこれだ。『無駄』が我慢ならないのだ。
白菜は根まで、ピーマンはヘタまで。人様に出さずともピリ辛の炒め物やお漬物にしてしまう。大根は葉がワシャワシャ付いてないともの凄く損をした気分になる。だからスーパーでなく、必ずマウント深山の八百屋さんで新聞に包んで貰うのだ。ついでに棄てる葉っぱを貰って帰るくらいだ。どうするのかって? ゴマ油で炒めて一味と醤油で味付けすれば、お弁当のおかずに最高ですよ?
「これはイケますな?」
顔を上げた呪腕の一言だ。飛行機に乗る前に一度、ザイードやアサ子達は百貌のリーダーに戻って貰った。香港に入ってから出して貰い、3人には好きに遊んでこいとお金を渡してある。アサ子とフランクは、百貌とともに横のテーブルだ。こちらのテーブルには私と呪腕と馬謖が座っている。
「でしょう? 日本のソース焼きそばも捨て難いですが、この具の少ないシンプルさと優しい醤油味がなんとも言えず。私の中での三大焼きそばの一つです」
「三大焼きそば?」
「ええ。中華三大焼きそばと言えば、上海炒麺(オイスターソースと醤油で味付けるソース焼きそばの元祖)、両面黄(蒸し麺を広げて両面に焼き色を付け、アンを掛けた五目あんかけそばの元祖)、揚州炒麺(かた焼きそばの元祖)ですが、私の中では日本の屋台のソース焼きそば、インドの屋台のマサラ焼きそば、そしてこの豉油皇炒麺が三大焼きそばです」
東南アジアの三大焼きそばは、パッタイ(タイの米麺(乾麺)を戻して炒める焼きそば。美味しい)、ホッケン・ミー(シンガポールやマレーシアで供されていて、名のホッケン・ミーは福建式という意味らしい。中華らしさが残るシンガポール式と魚粉と黒醤油で仕上げるクアラルンプール式などがある)、ミーゴレン(主にインドネシア。わかりやすいエスニック味の焼きそば。ナシゴレンともども同じスパイシーさを求めるならインドに負けている)だ。
だけどこの東南アジアの焼きそばは中華に確実に負ける。何故ならパッタイを食べると厦門の焼きビーフンを思い出し、ホッケン・ミーを食べると上海炒麺などを思い出し、ミーゴレンを食べるとインドのアレを思い出すからだ。考えてもみて欲しい。誰が焼こうが、少々具が半生であろうが、すべてを覆い隠す『ソース』と『マサラ』。なまじ粉モノにも触れる機会が多かったので、日本のソース文化が侮れない存在だと身を持って知っている。どろやら濃厚やら中濃やら、ウスターやらトンカツやら、どうしてそんなに多いのだ? 姉達とブルドッグかオタフクか、はたまたイカリかオリバーかで口論したのも懐かしい。だけど今は皆んな魚フライにはリーペリンだと思うし、カツにはヘルメスだと思っている。
インドのスパイスもそれと同じだ。調理中に追いマサラや追いトウガラシなどなどをして自分好みに微調整する。あれが良いのだ。魔術師ならハーブだけでなくスパイス・ラックの充実度も大切だ。たった1人前のカレーを、レトルトに頼らず中華鍋やフライパンでさっと作れるのは、家では私だけである。
「では、エルヴァ殿。あなたが今まで試した中で最高と思える焼きそばとは?」
私はニヤリとしてある作り方を解説した。
「麺は蒸し時間の極端に短い蒸し麺で、しっかり円盤状の丸さが残る段階で、端っこの一部を直火で炙ります。それをこれまた短時間で油通しして、お皿に盛り付けアンを掛けて出来上がりです」
この上海料理の『両面黄』の変形から、皿うどんや揚げそばが生まれたのは想像できるだろう。そう、これこそが日本人向けに作られた五目かた焼きそばの原型だ。そしてほぼ同時期に『八宝菜』などとともに、屋台の卵料理などが入って来た。それが『芙蓉蟹』や『芙蓉蛋』だ。その『八宝菜』をご飯に掛けて『中華丼』、ご飯の上に『芙蓉◯◯(本物の蟹を滅多に使わないし、蛋だと鶏肉になってしまうので敢えて◯◯)』を乗せてアンを掛けて『天津飯』とどんどん改造されていったのは有名な話だ。なお現在の上海では、名こそ違うが『中華丼』がある。
東南アジアと違って、元々中国本土ではワンプレートの文化がなかった。飲茶と同じで大量のお皿や器は、それだけ使用人が多いという自慢でもあったのだ。だけどご飯の上におかずを乗せる人は居た。その使用人のような、身分の低い人達だ。つまり『中華丼』という名ではなかったが、何かのうま煮や炒めものをご飯に掛ける文化はあったのだ。ただレシピなどに残らなかっただけで。それが賄いメシとして再発見されたに過ぎない点は知っておくべきだろう。
なお、日本には多種多様な丼ものがあるが、ご年配の方に忌避される場合も多かった。それはワンプレートが下品だという意識があったからだ。これは平成の半ばまでは確実にあった。それが認知されるようになったのは、うな丼と天丼、そして海鮮丼にある。決して牛丼の隆盛ではない。元々お重のお弁当の文化があり、そこにうな重からうな丼、或いは刺身定食やちらし寿司から海鮮丼へと増えたバリエーションが、お年寄りにも受け入れやすかったからだ。
この小さな意識改革を世代交代やネットなどに拠る情報普及にあると見做す間は、中々商売が上手く行かないだろう。その人が本当に欲しい物、つまり大きなウェイトを持つニーズとは、そういう部分に隠れている。そこを読んで商品開発するから、我社の瓶詰めや缶詰はリピーターが多く、確実に売れるのだ。決してそれ無しには生けき行けなくなったり、私財を投げ売ってでも手に入れたくなるような依存度がある訳では無いし、そういう魔術も使っていない。念の為。
また、上海や台湾には『八宝飯』というものがある(慶事の一品として四川などにもある)。これは甜点心に分類される軽食とスイーツのあいの子なので、『中華丼』と思って注文すると愕然とするから要注意だ。
「本当にお詳しいですね?」
「ですから、馬謖。ツバメの巣でも干しナマコでも食べてしまう、あなた方には言われたくないんですってば」
あのツバメの巣は、タイの海岸に多い岩の断崖に住むアマツバメの巣だ。その材料はほぼツバメの唾液でできており、土や小枝などは含まれていない。外敵から身を守るために高所に生息し、そういう習性を身に着けた稀有な存在だったのだ。よくもまぁ、そんなところの生物の生態を知り、食材にしようなどと思ったものだ。ナマコでもアワビでも貝柱でも干した方が旨味が増すのはシイタケでも明らかだが、こっちの方向にイッた時の中国人のポテンシャルは凄いと思う。
「馬謖はフグを食べた経験は?」
「食べられるのですか?」
「ええ。キモなど毒のある部位を除去し、その際にそれらを破かないように丁寧に捌けば。『てっさ』と言って生で食べる方法もあります。フグの鍋料理が『てっちり』と言うのですが、これらの『てっ』は『てっぽう』から来ていますね」
「毒にあたっているじゃないですか!?」
「場合もある……という意味です。今はきちんと免許制になっていてフグ調理師免許が必要です。ちなみに私は冬木という日本の市がある、◯◯県のフグ調理師免許を持っていますよ」
「本当ですか?」
「ええ、本当です。店舗の勤務経験がありませんので通常の料理師免許は持っていませんが、衛生管理士の資格などは持っていますよ」
その実店舗の勤務経験が無いわけではない。ただ絶対にカウントできないだけだった。それを思い出した。と言うか唐突にその時の記憶が蘇った。それは日本に行く少し前、7歳の頃の事だった。私はお祖父様のお仕事に着いて、この香港に来ていた。1993年の事だから、当時の香港にはまだ解体中の九龍城砦が一部残っていた。相手の人とは2年前にも会っていて、その時はあの威容を誇る怪しげな九龍城砦が健在だった。埋めたばかりの宝具があるからと1人で探検しに行ったのを憶えている。子供の私は高いところに登ったりする、頭のネジが数本飛んだ典型的なバカ白人だった。
それはともかく、表の顔が共産党とも繋がりのある起業家で、裏の顔が世界各国に存在するチャイニーズ・マフィアのとある有力組織のドンでもあったその人は私を随分と可愛がってくれた。それで滞在を1週間に延ばしたのだった。そうなると当然日中は暇だった。なので今みたいな素体、それもお試しで作った東洋人風なのを使って(ほとんど白人にしか見えない)、その人が経営する一流店に中華料理を学びたいと押し掛けてみた。当然、普通ならケンモホロロに追い返されるはずなのだけど、私は自分で書いた紹介状を持っていた。それでさすがに無下にはできないと、料理長の兄弟子のお店を紹介して頂けたのだった。
私はそこで半年でなく、5年間────実年齢7歳から12歳まで(見た目は21歳くらいからの5年間)、ミッチリ働いた。なので私は北京語こそチンプンカンプンだったが、この香港での言葉はわかる。何より先程から頂いているこの味こそが師匠の味だった。そう、このお店こそ並行世界の師匠のお店なのだ。2年住み込み、3年目でアパートを借り、順風満帆だったけれど、自分のお店を持ちたくなって円満退店した。
エルヴァである事は忘れなかったが、自分の名前『王一诺』にすっかり慣れてしまっていた。『王』姓は佐藤や田中と同じでメジャーな姓。『一』は当然1番の意味でアインツベルンのアインに掛けている。それで『诺』は『諾』の意味だ。『一诺千金』という成句もある。まぁ、簡単に言えば約束を守る事は千金にも値するという意味で、契約を引っ掛けている。つまり何でもしますよという真面目で受け身な女の子を演じていた訳だ。そんな『ワン・イーヌオ』がその頃の私の名だった。
だけど、ある日お店にふらりと本体が来て『帰るよ』と。私は番号を振られた意識(分割思考)ではないが、その後もこういう独立した活動ばかり担当していた。仮に番号を振るなら3番でも4番でもなく、3.5番くらいになる。なので本体と私はほぼ同じ意識だ。いや、この記憶を思い出さなかったら『エルヴァ』自身だと思い込んでいただろう。だけど日本で、47番の元気な姿を見たときにどうしてあれほど嬉しかったのか。それがこれだったのだ。
お店を持ちたいという夢は今もある。今も叶っていないので、いつか暇になったら自分のお店を開きたい。案外ここに残るのはチャンスかも知れなかった。もしお店が開けたなら、その時はシロウさんの下で学んだ和食の技法や、パミやミトから得た西欧料理の知識も全力投入だ。
あのドイツの2人も結局は私だった。素体を作って補助装置(礼装)併用で、イタリア料理とフランス料理を学んでいた。これらの知識を共有していたから、ミトの中華料理も美味しいのだ。そんなミトが『姉のイリヤ』よりも慕っているのが『巫女のイリヤ』だった。ご存知のようにこの姉はB級グルメ研究家で、冬木市振興協会会員だった。粉モノや屋台ものが大好きで、自分でも巫女をしながら、お祭りで屋台を出していた。あちらでの名物『アインツベルン焼き』である。
そんな姉に台湾人の友人が居る。その人は母親が日本人で父親が台湾人だった。それで大学時代母方を頼って日本に留学していた。そんな彼女のアルバイト先が姉がよく行くお店だった。そこで意気投合し、いつの間にやら台湾の家に遊びに行く仲になってしまった。箱入りのお嬢様から変わりたかった。散々荒らした冬木に恩返しをしたかった。弟(義弟。お兄ちゃんの事だ)の呪いを神社への奉公で消し去りたい。そんなアグレッシヴな人だったのだ。
そんな縁で私も『姉のイリヤ』も凜も、何度も台湾に行っている。あの有名な夜市は、台北の三大夜市は当然だし、主要な都市の夜市もほぼ全部に行ったと思う。勿論、『巫女の姉』やご友人の案内でだ。そんな中でも私が好きなのは『寧夏夜市』だ。『頼鶏蛋蚵仔煎』か『圓環邊蚵仔煎』というお店の『鶏蛋蚵仔煎(牡蠣のオムレツ)』は、『士林観光夜市』の『豪大大鶏排(デカいフライドチキン)』と並んで有名だろう。『阿婆飯糰』の台湾おにぎりもお腹が膨らむし、『方家』の『雞肉飯(鶏肉飯)』も美味しい。デザートはマンゴーのかき氷で決まりだ(インドのかき氷は雪合戦でもするのかというくらいガチガチに固められる。その方が量が増えてお客が喜ぶから。こっちはフワフワなかき氷が食べたいのに。そんなフワフワな氷の上に新鮮なマンゴーが乗ってくる。美味しいよ)。
また、この『寧夏夜市』界隈は有名料理店も多く、グルメの集まる場所として知られている。なので私はここが好きなのだ。この夜市はその昔、道路のロータリーのど真ん中にあった。だけど1999年の火事で今の場所に移転したのだ。『圓環邊蚵仔煎』の『圓環』はその名残りで、ここが最初に『鶏蛋蚵仔煎(牡蠣のオムレツ)』を出していたという。創業何年でなく看板に『老店』とある。これは古いという意味でなく美味しいお店という意味だ。『巫女の姉』に指摘されるまで知らなかったよ(あの人は台湾語(台湾閩南語)がペラペラだったりする)。昨年からテコ入れが入って、益々グルメな通りへと変貌している。とても楽しいところだ。
二番目は台北のお隣、基隆の廟口夜市かなぁ。海の側なので魚介が美味しい。天麩羅(サメのさつま揚げ)やカニのスープ、イカのスープなどなどがある。確か、ここにある臭豆腐は『姉』も食べていた。お店の人が名物だよと話していたカレー焼きそばは、インドが上だった。そこだけが残念だったけど後はたいてい美味しい。それと豚肉のチマキや饅頭などを食べないのは、厦門などでもっと美味しいのを知っているからだ。
「さぁ、ホテルに戻りましょうか」
奥の厨房から久々に師匠の元気なお声が聞こえた。並行世界の師匠の中での私は、21歳から26歳だっただろう。だから今は30数歳だと思っているはずだ。シロウさんと同じで、厳しかったけれど腕は確かだった。あの5年間があるから、ここで生きて行く事になっても全然平気だった。本気でお店を持とうかな。
本日は日曜日だ。コーちゃんの家でデートとお料理のお手伝いを楽しんだ後、S2000のハンドルを握ったのが夜の7時だった。バス通りを走っていると、ちょうどアルバイトが終わったのだろう、セイバーが歩道をバス停に向かって歩いていた。
「セイバー!」
「おお、エル。デートの帰りですか?」
「はい。送りますよ」
「フフ……お願いします」
そうしてセイバーを横に乗せて、ライトアップされた冬木大橋を渡り、深山町の洋館街に向けて走った。
「不思議です。明らかに世界が変貌しているのに、悪い予感が一切しない」
黙って聞いていると、セイバーが続けてくれた。
「愛です。あなたのような愛に世界が包まれている。ですから、エル。大丈夫ですよ」
正直、ホッとした。彼女はそういう風に感じているのか、と。やがてセイバーとアルトリアの家の前に着いたので、彼女とお別れして私は家に戻った。手を洗い、皆んなが食べ終える頃に食卓へついた。デートだと知っているので、詮索してくる人は誰も居ない。だけどエルマの眉が少し寄っているのと、凛の『何かあったら話して欲しい』という顔に気付いたので、首を振りながら笑顔で椅子に座った。
皆んなから数分遅れで食事を終えた私は、自分の食器を厨房に持っていき、自分で洗って後片付けをした。その後部屋に戻り、パソコンを起動しメールチェックをした。アメリカの彼女から入っていた。期待通りの返答だ。私の中にあったわだかまりがと謎が解けた。正確には全部解明とはいっていない。だけど添付されたリストと、熱い文章を見れば一目瞭然だ。『現象』からの影響とも考え難かった。それでも私達は何某かの影響を受けていると確信した。特にアメリカの彼女がヒドい。
Les Paul Special
Single Cutaway
1955–1958:Les Paul Special (Single Cutaway)
reissues
1974:Les Paul '55 Special limited edition
1974/1977(1978)–1981:Les Paul '55 (Special Single Cutaway Reissue)
1989–1998:Les Paul Junior II (Les Paul Special Single Cutaway Reissue)
variations
1996–1999:Les Paul Special SL (LPJS)
1999–2003:Les Paul Junior Special (LPJS)
2001–:Les Paul Junior Special Plus (LPJ+)
2001–2002:Les Paul Junior Special With Humbucker (LPJSH)
2003–:Les Paul Junior Special Faded With Humbucker (LPJSH)
Double Cutaway
1958/1959:Les Paul Special (Double Cutaway)
1959:Les Paul Special 3/4 (Double Cutaway)
1959–1961:SG Special (Les Paul Special Double Cutaway)
reissues
1976–1989:Les Paul Special Double Cutaway (1st Reissue)
1993–1995:Les Paul Special Double Cutaway (2nd Reissue)
variations
1994:Centennial Les Paul Special Double Cutaway
1999–2002:Les Paul Junior Lite (LPJL)
2003–:Les Paul Faded Double Cutaway (LPFD)
Les Paul Junior
Single cutaway
1954–1958:Les Paul Junior (Single Cutaway)
1956–1958:Les Paul Junior 3/4 (Single Cutaway)
1954–1958:Les Paul TV (Single Cutaway)
reissues
1986–1992:Les Paul Junior (Single Cutaway Reissue)
2001–2002:Les Paul Junior (LPJ-)
Double cutaway
1958–1961:Les Paul Junior (Double Cutaway)
1958–1959:Les Paul TV (Double Cutaway)
1961–1963:Les Paul Junior (SG-style)
reissues
1987–1989,1995–1996:Les Paul Junior (Double Cutaway Reissue)
variations
1990–1992:Les Paul Junior Hall of Fame Series (Double Cutaway Reissue)
Les Paul Melody Maker
Single cutaway
2003–:Les Paul Melody Maker
以上が彼女から送られたリストだ。彼女に『Gibson』のスチューデント・モデルに対して問い合わせたのだ。その回答がこれだった。『variations』とあるのは、それらのブリッジがオリジナルのバー・ブリッジと違って、チューン・オー・マチックとストップテールピースの組み合わせだからだろう。そしてその前のメールに添付されていた、彼女が持つギターの集合写真には、『2001–:Les Paul Junior Special Plus (LPJ+)』と『2003–:Les Paul Melody Maker』が写っていた。だけどトラ杢の美しい『Junior Special Plus』はハムバッカーだし、リストからオリジナルが割愛されている『Les Paul Melody Maker』はお店で見たのと異なる仕様だった。
予想するに前者のリストは末尾の型番が『LPJ+』であって、『LPJS+』でも『LPJSH+』でもない。おそらく『P-90』や『P-100』は存在せず、ハムバッカー仕様だけなのだろう。また、2PUの『Les Paul Melody Maker』はお店のオリジナルだと確認が取れている。
5本あって黒だけの展開だったという。1本売れて、残り4本全部を『私』と色白な『私』が買って帰ったそうだ。怪しまれないように口裏を合わせるのが大変だった。先日、トロンメルと寄った際のエピソードだけど、5本の内3本が『P-90』で1本が『P-100』、残るもう1本が『Jazzmaster』のピックアップだったとか。全部、近藤クンのお父様が巻き直した『近藤スペシャル』だそうだ。
偶然だと思っていた。店員さんを呼びに行ったトロンメルを待つ間、視線を動かしていただけだ。だけど私はチェリーの『Les Paul Melody Maker』に釘付けだった。頭をよぎったのは『この子にフロントを増設したい。チャーリー・クリスチャン……このボディの厚さだと無理か。ならミニハムならどうだろう?』だった。
厚みのあるレスポール・ジュニアのフロントにチャーリー・クリスチャン・タイプのピックアップを増設すれば、それはジョン・レノンだった。彼はスペシャルと同じようにセレクターを上に持って来ていたが、画像の『近藤スペシャル』はノブなどと並んで下にあった。
それはともかく、どうして彼女は『リッケンバッカー325』や『エピフォン・カジノ』を持っている? どうして私は学祭の3日目にあのメドレーを演った? 『All You Need Is Love』。それが『現象』となった『彼女』の願い……。漠然とそう感じていた。セイバーもそんな風に話していた。そうか、繋がっていたのか。なら、トロンメルのように乗るのが正解だろう。あのピンクのカスタム、良いなぁ。
その後、エルマに声を掛け、トロンメルを誘った。3人でお風呂と思ったからだ。ノックをしても返事がない。だけど、ノブを回せばドアが開いた。そこには腰を落として黒いテレキャスを肩から下げ、ピックを持つ右手を高く挙げて感極まっているトロンメルが居た。あなたはキース・リチャーズか。さすがにトグルスイッチをポッドと入れ替えたり、5弦にしたりはしていないけれど、どうやら『彼女』が巻いた音がすこぶる気に入ったようだ。
かくいう私も、満足していたバーンド・テレが実はスライドに向かないと知ってショックだったのに、あっさりそこから立ち直れた。そのくらい『彼女』の巻くピックアップは最高なのだ。あの『近藤スペシャル』を解析して、自分なりのアイデアも加味して、今も進化を続けているのだろう。
トロンメルがモニターを頼まれたピックアップは、他にハムバッカーサイズの『P-90』、ファイヤーバードと同じ、ツルンとしたミニハム、デラックスと同じポールピースのあるミニハム、リップスティックを2個繋げたハムなどがあった。だけどストラト用と『エル』が好きだったムスタングのピックアップがない。
「メールには『依頼されれば作るけれど、テレキャス以外のフェンダーはあまり作る気がない』とありました。何でも『不満な箇所も引っ括めての風味』だからと。『ストラトでやるなら、ファイヤーバードのミニハム3発の方が使い勝手が良い』そうです」
トロンメルも気になって尋ねていたようだ。ミニハム3発か……。添付されていた集合写真にはエピフォン版のファイヤーバードⅦが、白と黒に赤と3本も写っていた。レスポールのデラックスは本家の赤と黒の2本に、エピフォン版の赤と青に黒の3本があった。エピフォンにデラックスがあったなんて知らなかった。
「という事は、ファイヤーバードのミニハムって構造が?」
「はい。フェンダーに近いそうで、バータイプのポールピースが磁石で、その周りにコイルだそうです。ですけどデラックス用のミニハムの場合は、ポールピースがただの鉄で、下にバーマグネットが2本の普通のハムバッカーと同じ構造だとか。だから高音が違うんだそうですよ」
なるほど。あのいかにもフェンダーって音は、ポールピースがマグネットかどうかの方が大きなファクターのようだ。
「リップスティックは?」
「それですよ。バータイプのマグネットの長辺方向にコイルが巻いてあって、それをあのケースに」
ほとんどファイヤーバードのミニハムと同じだ。ボビンがあるかないかだけではないか?
「『P-90』の、というか『P-100』に近いのかな? ご自分のギターに付けているのは高さが倍以上あって、ポールピースが磁石なんだそうです。その上下一杯を使ってコイルが巻いてあって、7千と1万と1万2千でタップ線が出ているそうですよ」
なるほどね。彼女の作ったハムの片側と似た方法なのか。ハムでなければノイズが気になるけれど、そこは魔術を使ってどうにかしてあるのだろう。だけど集合写真には、『P-90』が乗ったギターが数本あったけれど……どれだった? 怪しいのはフロントがミニハムになった、たぶん最近の……赤いフェイデッドのダブルカッタウェイを改造したスペシャルだろうけど。あれはフロントのミニハムにも工夫がありそうだ。
「お預かりした分の中にはありませんが、バーンズのトライ・ソニック(ブライアン・メイのレッドスペシャルに使われたピックアップ)やグレッチのフィルタートロンなども、手に入れれば音を試した後に分解して研究したそうです。日本のテスコという昔のメーカーや、イタリアのエコーの旧型、最近のならドイツのデューゼンバーグに、英国のゴードンスミスのピックアップを探しているとメールにありました」
う~ん……。本当に向いていたんだ。同じスペックのMR-2で挑んでも負ける気がする。彼女の方が私より尖っている。その分、不安定になりやすいのかも知れない。『エル』にやられた。つまりハナから別人だったのだ、彼女は。
性格も見た目も、半英霊の能力も同じ。でも、私とは違う。その違いがよりハッキリとわかった。そもそも研究のためだとか、モデル活動の傍らセミ・プロとしても活動しているのかも知れないけれど、あの集合写真には30本以上のギターやベースが写っていた。どれだけ好きなんだと驚かされたものだけど。
「メロディメーカーか……」
何気ない呟きだった。頭の中にあったのはメロディメーカーとフェイデッドのスペシャルだった。そもそも彼女に問い合わせた理由が、店頭で見掛けたメロディメーカーが気になったのと、『近藤スペシャル』の存在を知ったからだった。集合写真にあった2PUの黒いメロディメーカーがそれだろう。増設されたフロントは黒いソープバーで、リアはメタルカバーのドッグイヤー。あれはカッコいい。
「今出ているメロディメーカーと、ダブルカッタウェイのスペシャルはお買い得だそうですよ。新品で手に入るうちに買わないと損だとメールにありました」
だろうね、私もそう思ったから。
「それとエピフォンのSG。ボルトオンの一番安いのが、ピックガードが大きいので、改造にはもって来いだとありましたね」
「それって良いの?」
集合写真にあったアレだな。赤いのと黒いのと、女の子の絵が入ったド派手なの。
「アルダー・ボディのマホ・ネックで、結構良いらしいです。配線材とピックアップを換えれば何でもアリだそうで、『P-90』も良いですが、ファイヤーバード用のミニハムをフロントに、リアに普通のミニハムを乗せれば手放せなくなるそうです。フェンダー系のシングルを乗せても面白いそうですよ」
「へぇ~」
価格が価格だからフレットの処理など細かいところが気になるけれど、そういうのは自分で良いようにするだろうし。ギターに限らず楽器というものは、誰しもがそこそこの上達を望めて、10年20年の長い趣味として続けられるものではない。大抵の人は運指で挫折して部屋の隅で埃をかぶり、最後はゴミに出されてしまうのが本当のところだろう。
中等部時代に『エル』が使っていたムスタングの中の1本も、初等部の高学年頃、フロリダの別荘に滞在中にゴミで出ていたのを拾ったものだ。70年代後半のものらしくやたら重かったのを覚えている(アッシュだったと思う)。パールのピックガードに黒いピックアップ・カバー。ローズネックでボディの色はナチュラルだった。日本にはその前から住んでいたので、97年頃にフェンダー・ジャパンのを2本手に入れていた。それが5年生頃だった。赤いべっ甲柄のピックガードが付いた、黄色っぽい白ボディとどこがブルーだよとツッコみたくなるほど変色したソニックブルーだ。高校生の今ならアイスグリーンやミントグリーンに近い薄さに退色していて、もっとくすんでいる事だろう。あのソニックブルーは本当に酷かった。
だけど『エル』がエレキに本気で目覚めたのは、あのムスタングがあったからだ。色落ちが酷かったのも、その頃住んでいた衛宮の家の縁側でジャカジャカ弾いていたからだと思う。そしてスクワイヤーのジャグマスターにビスタ・シリーズ。スーパーソニックやヴィーナスだ。あの嗅覚が鋭い。後年高く売れると睨んで全部買っていた。ヴィンテージのムスタングやミュージックマスターにデュオソニック、ブロンコにスウィンガーも集めていた。
その翌年の6年生でジャガーのキャンディ・アップル・レッド(マッチングヘッド)とフィエスタ・レッドのジャグスタングをを手に入れ、それまでのショートスケールでなくミディアムスケールのサイクロンやトルネードも買っていた。サイクロンはメキシコ製だけでなくUSA製のも手に入れていた。日本のスクワイヤーで出たJMQやJGQもそうだ。
サイクロンはSHとHHの構成に、シンクロナイズド・トレモロが付いた実戦的なモデルだった。私もこれが好きだった。今の彼女は3SのサイクロンⅡをレスポール・スタジオ・ライトM3(ピックアップがHSHという、これまた実戦的なレスポール)とともに使っている筈だ。
なお、このスタジオ・ライトM3は、元々M3というフェンダーっぽいギターに付いていたアッセンブリーを、レスポールに載せたものだ。M3がコケてパーツが余ったから出たギターだった(要はレスポールの看板で不良在庫を捌きたかった)。だけどそのスタジオ・ライトM3やサイクロンⅡに、アメリカの彼女のピックアップを付ければ? 最高じゃないの? う~ん……サイクロンⅡやスクワイヤーのJMQやJGQなら新品で手に入る。私も買っておこうかな?
ところで、この浴槽の中での会話に参加していないようだけど、当然エルマも居る。そのエルマがサックスを欲しがっていると先日トロンメルに聞いた。『エル』の記憶の影響なのか、楽器が苦手と話していたエルマまでが。ソプラノとアルトなら教えてあげられるけれど、私に何も言ってこないのは、今はまだ興味だけの段階だからだろうか。この子もまた何か違う部分がある。我が道を往くというか。
目覚めて最初に見たのは白い天井だった。駆けて行く看護師を目の端に捉えて、ここが病院であると認識できた。今は『いつ』だ? 何年の何月何日? 私はどうしてここに……? そうだ。英霊という規格外を率いるあの女に……やられたのだ。心の中で何度声を掛けてもセブンからの返答はない。私のミスだ。
斬り落とされた腕は生えている。その他の傷も癒えたようだ。いきなり動くのはよくなさそうだったが、これ以上の長居は詮索される素だろう。服は肘あたりから袖が失くなった、血の付いた修道服のみ。それと幾ばくかのお金が入った財布がロッカーにあった。それを着た私は迷わず6階の窓から飛び出た。
道すがら揚げパンを買って、それを食べながら考えた。どうやらあれから3日経っている事もわかった。あの言葉を信じるなら、あちらは既にこの国を出て中国だろう。どうしたものか。驚愕的な腕を持つ魔術師ではあるが、私が追うような異端ではない。先日の現場も通ったが、噂はゴミ箱からズタボロの女が救け出されたとあるだけだった。懸念していた神秘の漏洩などは一切ない。あちらは完璧に隠蔽してくれていた。つまり私の独り相撲で、自業自得の結果だった訳だ。
だけど、頭で納得できても個人の感情は別物だ。この御礼は必ず返す。ともあれどこかの教会に行き、本部に報告せねば。セブンを失ったのは痛い。メレムやナルバレックに何を言われるか、想像がつくだけに辟易とする。溜まったものではないが、兎にも角にも報告は大切だ。そして報告後に教会で部屋でも借りて休もう。そう考えた。そこでふと気付いたのだ。この憧れの地、インドのどこに基督教の教会がある?
『おいおい。どこかで落として、忘れてきちゃったんじゃないの?』
「忘れても自分の意志で付いてくるあの子が?」
『それはそうか。じゃ、その君をコテンパンにした相手が奪っていった可能性が高いね?』
「ええ。それしかないと思います。問題は……」
『外交特使か。しかも西欧人で、並の魔術師百人分の魔力量を誇る君を遥かに凌駕する……』
「いえ。魔力量なんて持久戦に於いての兵站がマシという程度です。通常、我々の仕事ですと」
『短期決戦だね』
「はい。その組み立てがやたら巧い。結界が巧妙過ぎて気付けないのです。終わって初めて、死地にいた事に気付けるというか……」
『そうか……。いずれにせよ、マズい相手だ』
彼もわかったようだ。個人でどうこうできる相手ではない。
『キナ臭い裏がありそうなのに、その裏の実力も本物で、表からも攻めて来ようとする。そうなると暗殺しか手がないワケだけど、それも難しいだろうなぁ……。ああ、問い合わせていたナルバレックからの回答が来たよ。君の口座に活動資金を振り込んでおくから、そいつを洗えだって。ただし手を出すのは厳禁だよ』
「わかりました。第七聖典については?」
『回収可能な相手かどうか。次の君の報告次第だろう。もしかしたらその報告次第で2人から3人体制だね』
「ですね」
『2人から3人』……。あの死徒二十七祖第七位、『生きた森・腑海林アインナッシュ』討伐の仕事で初めて2人で組んだ。他の部署や他の機関の者となら何度もあるが、埋葬機関のメンバー同士が組む事はまずない。それをメレムの口から『2人から3人』とは。ナルバレックは彼女が何者かを知っているのだろうか? 何故かそんな気がした。
そうして電話を切った私は、新しい衣類を買い求め、中国の地図を買った。外交特使なら北京だろうか? 私と同じくあの容姿だ。黄色人の間では目立つだろう。何れにせよ手掛かりは皆無だ。そこから探るしかないだろう。それとあの国にも基督教の教会は望めないし、銀行も怪しい。幸いここは自由主義国の首都なのでまだマシだ。ここで下ろせるだけ下ろして、現金で持ち歩く他はないのかも。
そんな事を考えながら、私は本場のカレーを堪能していた。何故ならここで食い溜めておかないと、次は中華料理ばかりだからだ。埋葬機関の仕事で辛いのはカレーのない国へ赴く仕事がほとんどなところだった。日本には独自進化を遂げたカレーライスがあった。あんな特異な民族は日本人しか居ない。志貴君のような人が現れるのも当然だった。
BSE問題が吹き荒れる日本で最後まで牛丼に拘っていた◯野家に、カレー丼やイクラ鮭丼、豚キムチ丼に焼鶏丼、マーボー丼や親子丼などなどが並んだのが2004年の新年早々だった。どれも400円前後だし味もまぁまぁ。だけどデフレ下の救世主であった、280円の牛丼には勝てない日々が続いていた。秋には牛鍋御膳を出して怪気炎を上げるかに見えたが、遂に10月の終わり、他のチェーンと並んで豚丼にシフトした。ところがここ香港では『和風牛肉飯』として堂々と生き残っていた。
香港への進出が1991年の5月だ。翌92年に北京、94年に遼寧、2002年が上海、今年2004年には先月10月に深圳店がオープンしていた(ちなみに台北の士林区1号店は1988年だった)。意外だと思うが、中国ではハンバーガーより牛丼の方がウケていたのだ。そしてチャレンジャーな呪腕は、泣いて許しを請う馬謖を引き摺って、そのオレンジの看板のお店に入ったという。
私と百貌達が坂の街・香港の中環至半山自動扶梯(世界一長いエスカレーター)を乗り継いで、ローカルマーケットのある場所で途中下車して目指していたのは、九記牛腩(ガオゲイアオラム)というラーメン店だった。ここの名物は牛バラ麺で、上湯牛腩粗麺(ショントンアオラムチョウミン)という。ここのところ似たような味ばかりで飽きたと呪腕はボヤいていた。なので咖喱牛筋腩麺(ガーレイアオガンラムミン)という牛スジ・カレーラーメンを食べに行こうと九記牛腩を選んだのだけど、彼はカレーでない、でも中華味でもない『何か』違う味を求めていたらしい。ならハンバーガーでも良かったのかも知れないけれど、私が何気なく言った『牛丼』というキーワードに彼のアンテナが引っ掛かったらしく、こうして二手にわかれている次第だ。
そして30分ほど並んで入ったこの九記牛腩は、香港では『四大奇食』のひとつとして数えられていた。とは言え、後年ロットごとに入れ替わり2時間待ちなんてザラになる、美味しくオシャレなお店であって決してゲテモノ店ではない。この頃から中華麺と米麺が選べ、その6時間は煮込んだというホロホロの牛スジ肉や大きなバラ肉は絶品だった(ただこの2004年頃は、改装前でコキタナイお店だった。値段もそこそそこで1杯50香港ドル前後だから650円くらいだ)。
ただ今回私がカレー味を避けたのは、せっかくの牛スジがカレーによって『謎肉』感が一気に高まるからだった。美味しいのは美味しいが、あのカップ麺と微妙に似ているのが堪らない(それだけに食べやすいとも言えるのだけど)。対する百貌とフランクはカレーの方を頼み、着丼後、微妙な顔だった。香港にあのインドのようなパンチはないから。私やアサ子にナナコみたいに上質なあっさりスープで頂くのが正解だよ。ちなみに香港『四大奇食』とは、澳牛光速餐、星座番茄面、新記芝士麵、九記牛腩の事で全部麺屋だったりする。私とアサ子はこれらを数日掛けて全店制覇するつもりだった。
「それに私も参加させて下さい」
彼女の声も姿も一般人には聞こえないし見えない。あの第七聖典にこんな精霊が宿っていたなんて。その蹄のような手でよく箸が持てるものだ。生い立ちはホテルで聞いたが、それこそ聞くも涙、語るも涙だった。理不尽にもユニコーンと少女が融合してしまっていて分離は不可能だった。なので少し同情した私は、こうして彼女を連れ歩いていた。
「いやぁ~、美味かった。あれはイケますね」
合流場所で再会した馬謖はニコニコだった。呪腕も頷いていたので、よほど良かったらしい。意外だ。だけどそんなものかも知れない。この上海以南、中国南部の料理は全般的にアッサリしている。そこにお好みでトウガラシ・ペーストが加わるくらいで、牛肉麺は香港でも台湾でもこんなものだ。だからお酢で味変できる炒麺や焼きビーフンが、私は好みなのだった。このお酢を入れて味変を楽しめるラーメンは、日本のものだけだと思う。アッサリ味だとお酢に負ける気がする。
「日本のラーメンですか?」
ナナコは食べた経験があるという。
「それは美味しかったですか?」
そんなアサ子の問いかけに、ナナコはこう答えた。
「実はゆっくり味わった経験がないんですよ。いっつもマスターがカレーを食えって邪魔をして」
あの女、殺しておくべきだった。
「日本のラーメンは美味しいですよ。どうしてあの麺が海を渡るとこうなるのか。インド人もビックリでしょうね」
「ほぅ。牛肉飯も良かった。その日本式麺を食べてみたいものです」
涎を垂らさんばかりの馬謖だった。この頃はまだ日本のラーメン店は進出していなかった。日本式ラーメンは日本に行かないと食べられないローカルフードで、海外の人がほぼ知らない味だったのだ。後年の人気を思うと驚きだけどね。
食事を終えた私達は歩き飽きて近場の喫茶店に入った。香港にはあちこちに喫茶店がある。深圳まで行けばかの有名な『U.B.C上島珈琲』があるのだが(台湾資本の『UCC上島珈琲』のパクリと言うかリスペクト? 実は食事メニューが豊富で、日本の『UCC上島珈琲』よりお得感がある)。
この他、コンビニなどに入れば日本で見掛けるお菓子やドリンクの類似品が大量にある。リスペクトを感じさせるものもあれば、泥棒根性丸出しなものもある。まぁその辺は民族性だけど、驚かされるというか考えさせられるのは、どうしてパクリ元に日本製が多いのか、だ。民族が違うし食生活も異なるのだから、日本のものが必ず美味しい訳でもないだろう。だけどあの5年でわかった。中国人は心の底で自国の食べ物を信用していないのだ。ところが日本製と来ればその信用は絶大だ。つまり信用のアイコンが『日本っぽいもの』となっている。この悲しさは会議でも散々話した。
『中国にはブランドがありません。これは中国製でなければ、というモノが4千年過ぎても何一つない。いや、あったハズのものを文革で破壊し、共産党が棄てて来たのです』
これが現実だった。だから『中国製=安物、カス、別にどうでもいい』そういうものばかりになる。
これは同じように漢字などの文化を棄て、先人の残した文献を漁れなくなった韓国にも言える。そして伝統を守りつつ新しいものも取り入れて発展してきた日本が『憎く、悔しく、恨めしく、妬ましい』。恐ろしいのは国内向けプロパガンダを馬鹿正直に信じているところだろう。あの韓国の国旗には、その昔『大清国属旗』という文字が入っていた。『清が属国に与えた旗』という意味だ。漢字を棄てプロパガンダを鵜呑みにするとこうなる。まず、自国の政治家や教科書を疑わないか? 『他国を恨め』という記述のある教科書、どう読んでも世界史と辻褄の合わない歴史書。論理的に考えられるのならそちらを疑うだろうに。だけどそれができないところが、あの民族の憐れさだった。
こんな風に日本やその周辺諸国の実情を知り、海外の視点でものを見れば、日本のマスコミも政治家も『バカジャネーノ?』としか思えない。西欧史も血塗られているが、隠しはしていない。アジアで日本と台湾だけは、そんな西欧人と価値観が似ていて、共有できる部分があると思えた。
『ですから、『これは中国製でなければ』と言える製品や農作物を作って行かなければ。安い人件費だけを追うと、そのうち東南アジア諸国やインドに負けます』
そこで華僑だけに任せず、中華料理を再度体系づけ大々的に輸出すべきだとの案を出した。『料理を?』なんて訝しがられたが、本気で行かないといつか絶対にインドに負ける。それを私はムンバイで確信した。
漸く北京に入った私ですが、見立てが甘かった。空港でいきなり捕らえられ、太い鎖で拘束され逃げる事も叶わず、こうして連行されている有様です。まさかここまで英霊が居るとは。10人や20人ではない。押し込まれたクルマの窓から見える街のそこかしこに英霊が。一体全体、どういう降霊術なのか。
やっと降ろされ、見知らぬ建物に連れて行かれました。とある部屋のドアが開かれ、中には5人の男性が居ます。椅子に座る3人は西欧人で、真ん中の男性がやたら大きく、その存在は……私程度だと瞬殺だと思える相手でした。その両隣の男性も私を遥かに凌駕するでしょう。その3人の後ろに2人のアジア人が立っています。こちらも中々だ。
「私を一体?」
「埋葬機関の代行者。その第七位。名はエレイシアと書類にはあるな」
「どれどれ? ほぅ……ガリアのねぇ。一番強いやつを寄越せや。相手してやっから」
襟足の長い男性が、獰猛な笑みを浮かべながら、そんな事をこともなげに言う。相当腕に自信があるようです。大男を挟んで反対に座る長髪の男性は微笑むだけでしたが、この人物も只者ではない。
「まぁ、来ても魏延に呂布が居るから大丈夫だろう」
大男がそう言うと、後ろの2人が嬉しそうだった。彼らとて弱くは見えない。そんな彼らを手懐ける真ん中の彼。何者だろうか?
「あなたは?」
「私か? それを聞けば君の属する機関だけでなく、その後ろの組織にまで影響があるぞ?」
「え?」
「私は『神の子』が何であるかを知っているのでな」
どういう意味だ?