不快を催すと思いますのでご注意をお願いします。
ボストンはニューヨーク州(想像する以上に東部としては大きな州)のお隣、マサチューセッツ州の最東部にある港湾都市だ。州の北はバーモント州とニューハンプシャー州、南にはロードアイランド州とコネチカット州、西は全部ニューヨーク州で東が大西洋となる小さな州だ。だけどアメリカの建国史に深く関わる、北東部ニューイングランド6州の1つであり、取り分けボストンは、ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学などの最高学府を擁する、米国の知性を象徴する都市でもあった。
「ええ。是非お越し下さい。オムニ・パーカー・ハウス・ホテルで最上級のお部屋をお取り致しますから」
リンさんもリサさんも、どこかモニカさんやミアータさんと違う。自分達の家でなくホテルを取るんだ?
「これだからコモンウェルスの人は……」
モニカさんの言葉だがナンノコッチャだろう。通常、州は『state』で表現される。だけどアメリカには『自治』を強調する『commonwealth』を名乗る州が4つほどある。その内の1つがマサチューセッツ州なのだ。後の3つはケンタッキー州、ペンシルベニア州、バージニア州だ。私でもケンタッキー州はともかく、マサチューセッツ州にペンシルベニア州やバージニア州と聞けば、『ああ、なるほど』と思う。それっくらい気質というか考えが独特だった。
そしてリンさんが言ったオムニ・パーカー・ハウス・ホテルは、間違いなくボストンで最高のホテルだ。なにせジョン・F・ケネディがジャクリーン・ケネディ・オナシスにプロポーズして、マルコムXがテーブルの片付け係をし、ベトナム建国の父ホー・チ・ミンがシェフを務めていたホテルなのだから。
本日は水曜日。いよいよ明日の『Thanksgiving Day』に向けて、皆んなが朝から忙しく動いていた。私もパミちゃんも、ワークショップで買ってあったツナギに着替えて家の内外を掃除していた。先程のお話はお茶で休憩していた時の会話だ。
フンボルト達は昨日今日と2日掛けて広い庭のお手入れだった。なにせ敷地が横も縦も道路から道路までの一画あるので、芝刈り機や草刈り機が庭の小屋に数台常備されているくらいだ。日本の一画でなくアメリカの一画だから、敷地面積だけでなら冬木のエーデルフェルト並みにある。
だと言うのに家は2階が客室6部屋プラス、バスとサニタリー。1階はリビング、ダイニング・キッチン、モニカさん達の部屋、主寝室(お祖父様のお部屋)に予備室(今はリサさんとリンさんが入っている)、それとバスとサニタリーだ。日本の家屋と比べると遥かに大きいのだが、お祖父様が別荘とか小屋とか言うのも良くわかる。どうしてもっと大きな家を建てなかったのだろうか?
それには実にアインツベルンらしい理由があった。この土地はあちこちにあるその他の土地と同じく、西部開拓時代にお祖父様のお父様(本当ならこの方がお祖父様に当たる)が、買って寝かせていた土地だったのだ。その昔は土地の区画がわかればそれで良いと柵しかなかったという。それらの土地をアメリカに渡ったブルーノお兄様が引き継ぎ、土地の転売や地下探査での油田開発で足掛かりを作った。その後も不動産売買と金融や鉄鋼で大儲けし、テキサスに広大な土地を買った。なので今はそちらがアメリカ・アインツベルンの本家だ。
それでここは一時ブルーノお兄様の長女が住んでいた。随分年の離れた姪で、私というか『エル』が養女に迎えられた頃には既にお亡くなりになられていた。だけどその息子さん達が交代で後を継ぎ、ここでは一昨年前まで末の男の子が住んでいたという。あちらでは『エル』が受け継いでいて、あちらでのモニカさんとミアータさんが管理している。
「ブルーノお兄様の末のお嬢さんはご存知でしょうか?」
「ええ。2年前にジュネーブでお亡くなりになられました」
ああ……。ここでは……。
「では、フロリダの家は?」
あの方は旦那様との思い出があるフロリダの家にお住まいだった。それを『エル』が買い取り、今はジュネーブの養老院で余生をお過ごしなのだ。
「ココアの家ですよね。それならブルーノ様のお孫の方が引き継がれています。今もどなたかがお住まいの筈ですよ」
そうか、良かった。あそこには思い出がたくさんある。親族がずっと住んでくれていると聞くとホッとする。『姉のイリヤ』と『エル』にはトラウマものの家だけど。
「お嬢様、トラウマとは?」
「いえ。『姉』も『エル』も射撃をしていましてね。レンジから帰ってきて手入れをしていたんです。その時、父と『エル』は庭で、母がメイドの人とキッチンでした。それでお手洗いに『姉』が行った隙きにまだ3歳になったばかりの末の妹が。セミオートの小さな護身用だったんですね」
「暴発ですか!?」
「はい。それも戻ってドアを開けつつあった『姉』の横を掠めて」
誰も怪我をしなかったのだが、父はこの時、初めて『姉』の頬を張った。張った手がとても痛そうだった。当時反抗期が酷くなりつつあった『姉』も、この時ばかりは美遊を抱き締め、詫びながら泣いていた。この後、『姉』は家族旅行に参加しなくなった。参加を再開したのは高等部に入ってからだ。
なおこの時の拳銃が『Kel-Tec P-3AT』だった。ちなみに『Kel-Tec CNC Industries Inc』の住所はフロリダ州ココアだ。新進気鋭のこの小さな銃器メーカーはご近所さんだったのだ。それで親近感が湧いたのか『エル』はあれこれと買っていた。中でも『SUB-2000』は9ミリが子供でも撃てるカービンなのでアメリカ中で大ヒットした。
危ない、これだからアメリカは。そう思う人も居るだろう。だけどアメリカでは18歳未満の学生や児童が年間80万人も失踪しているのだ。ほとんどが中・高校生による家出だと言われているが、小学生以下の子供の誘拐や人身売買も中に含まれている。それもアメリカの現実だ。
なお、『エル』のトラウマはこのエピソードではない。6年生の頃は庭に銀色に輝く大きなエアストリームがあったのだ。それは広いアメリカをお母様に見せてあげて欲しいと『エル』が両親に贈ったものだったのだ。内装は特注で、とてもゴージャスだった。両親と美遊だけならどこまでも快適な広さがあった。それを庭で鍛錬していたアルさんと正気に戻ったばかりのお兄ちゃんが、うっかり破壊してしまった。
日本に残っていた『巫女の姉』がフロリダまですっ飛んで来て、アルさんやお兄ちゃんとともに土下座していた。何故ならそのエアストリームは、日本円で億に届かんばかりのプライスだったからだ。いつもなら宥めるのに必死になる私だが、さすがにこれはどうしようもなかった。
結局『エル』は違うメーカーのを手に入れて両親に贈り直した。アルさんもこの件に関しては平身低頭で、今もエアストリームを見たらドキッとすると話している。お兄ちゃんは言わずもがなだ。ほぼ自分から終身奴隷宣言をしている。これをして『守護者気質』と私は名付けたものだ。
「時にモニカさん。この家の設計はどなたが?」
2階は廊下を挟んで3部屋3部屋の対面。それで私の側は屋根が半分ある広いベランダがある。その下はベランダを屋根にしたテラスだ。反対のリンさんやフンボルトの部屋の側もその半分くらいのバルコニーがある。明るい緑と白いペンキの素敵な家だ。だけど妙に新しいのだ。
「その末の男の子、トーファー坊ちゃまがデザインなさって建築士の方に」
「え? そんなに子沢山だったんですか?」
「はい? あ。アインツベルン式の名付け順の事ですね? トーファーはクリスと同じでクリストファーの愛称ですよ」
「あ、そっか。英語圏……特にアメリカだと愛称が公式で使えるんでしたね」
「そうです」
『Christopher』だから、おそらく3男か3番目の子供なのだろう。『Chris』は知っていたけど『Topher』は知らなかったなぁ。一瞬20番目かと思って驚いてしまった。なお、これを話しているのは窓越しだ。私が外から脚立に乗って窓を拭いていて、中のキッチンでモニカさんがお料理を仕込んでいる。パミちゃんはフンボルトの指示で次々と刈られて行く草を大きなゴミ袋に詰め込んでいた。
こういう時に『刃の方に手を出すな』『僕の半径3メートル以内には近づくな』とフンボルトはきちんと言い聞かせる。またパミちゃんもちゃんと聞いているので安心して見ていられた。シロウさんも枝を刈り、リンさんがそれを集めていた。
「年末の大掃除さながらだな」
「ね? こんな事をやっている家ってあるの?」
「どうだろうなぁ。そういうのも家ごとに違うだろうなぁ」
そんな会話がかなり遠くから聞こえた。ちなみにアメリカの大掃除は年末でなく春に行われる。欧米では大抵そうだ。なので『Spring-cleaning』という言葉もある。では何故春なのか? これは暖炉と関係があって、お役御免にならないと煙突掃除ができないからだ。新年の神様をお迎えするために清める日本、生活器具の入れ替えで掃除する欧米(エアコン掃除も行う)。当然、揉めました。
『だから! 年末の掃除をせんとはどういう事だ!?』
『普段から掃除をしているのですから必要ないでしょう? それにこんなに寒く空気が乾燥する季節に水を使う掃除なんて。合理的ではありません』
お兄ちゃんとマアエモ・ママは最初すっごく仲が悪かった。生活様式が全然違うし、何よりマアエモ・ママもルオン・ママも完璧だ。障子のどこにもホコリなんてない。それにマアエモ・ママは屋内でタバコを吸うなとお父さんにズケッと言える人だ。それで家族を避けて縁側で吸うようになってくれたから、障子や襖が茶色くくすまなくなった。それでも障子は夏に張り替えていたけれど。
一方お兄ちゃんはお父さんに何も言えない人だった。おまけにママから正論で言い負かされてばかり。それがあんな仲になるんだから男女の恋はわからない。フンボルトとこういう仲になったからよけいに聞きたい。お兄ちゃんのどこが良かったのと?
それはさておき、シロウさんは倫敦で『Spring-cleaning』を体験している筈だ。だから疑問を持つなら何故この秋なのだとならないとおかしい。だけどそこから頭を巡らせて、個人主義だからと考えた? 正解はこれがアインツベルンの風習なのだ。暖炉掃除を伴う大掃除を春に行い、家周りを秋に行う。庭師は草刈りを夏前に行い、枝払いは秋だった。だけどこの家の何10倍も広い裏庭は、専用のトラクターで一気にやる方が早いだろう。多分だけど、この庭のどこかにきっとそういうトラクター用の小屋があるはずだ。フンボルトやシロウさんが使っている草刈り機や芝刈り機、高枝切り鋏は、この家の壁にくっついた道具入れのような小さな小屋にあったものだ。普段はこれで前庭だけお手入れをしているのだと思う。
「ボストンの家は小さいんでしょうか?」
隣の窓を拭きながら訊ねてみた。
「ええ、この家より小さいらしいです。それで敷地も家と同じくらいでクルマが2台でいっぱいだとか」
場所などを聞いて驚いた。街はボストンの北で、『Lynn』という名だった。リンさんの名は街の名前にちなんで付けられていたのだ。それでお宅はクルマで3km走った島、ナハントにあるという。よく聞けば天の橋立のような海道があって、そこを渡った先なのだそうだ。
ボストンは街の中央にチャールズ川が流れ、その北側のケンブリッジやサマービルに大学や庁舎などがある。川の南はビジネス街や住宅街だ。海に近いサウスボストンより少し内陸のサウスエンドは現在高級住宅街となっている。だけどお祖父様が別宅をお持ちのリンは、その昔は今のウクライナからの移民でロシア語が溢れかえっていたという。その後工場地帯となって、多くの移民で治安が乱れ『罪の街』と噂されるまでになってしまった。だけどその工場も廃れ再開発され、今はヒスパニック系が多いそうだ。
つまりそういう移ろいを、天の橋立の先から他人事のように見ていた訳だ。意地が悪い言い方だけど、魔術師が選びそうな場所だよね? それでもってこのマサチューセッツ湾にはこんな天の橋立があちこちにあって、その幾つかをブルーノお兄様のお孫さん達がお持ちなのだとか。つまりお祖父様はお持ちだった土地をほとんど譲ったかお売りになったかして手放されたのだ。唯一残したそのナハントと、このハンティントン・ビーチの家はエルヴァちゃんのためだ。
「この土地はここまで広いのですから。お2人の家を建てられてはいかがです? お館様もあちらのお嬢様も、きっと賛成なさいますよ」
「そんなの勝手に決めちゃ……?」
「いいえ、お嬢様。私もミアータもエルヴァお嬢様やパミお嬢様と離れたくないのです。どうぞここを第二の故郷として、フンボルト様とお暮らし下さい」
え~っ。それは嬉しいけれど、良いのかなぁ……。
ピンと来ない人も多いと思うが、こんなに自由気ままで長閑でも、ベトナムはそのフルネームであるベトナム社会主義共和国が示す通り、マルクス・レーニン主義とホー・チ・ミン思想を標榜する社会主義共和制国家だ。1975年4月30日にサイゴン(現在のホーチミン)が北に接収され(西側ではサイゴン陥落、ベトナムではサイゴン解放)、翌76年4月に南北統一選挙が行われ、7月2日に現在の国名になった。
面白いのは建国の父ホー・チ・ミンが国民にどこまでも慕われ、残った側近達もホー・チ・ミンの理想を曲げてはならないと妙に真面目なので、中国のような官僚や行政の傲慢さや腐敗はないし、賄賂国家や圧政国家になっていない。この地は独特の気候のせいで曇天が多いのだけど、街には笑顔が溢れ、晴れ晴れと人々が暮らしている。共産党の一党独裁でこれは大変珍しい。奇跡に近いと思う。
ロシアも中国も多民族国だった点。それ故に指導者側が恐怖を抱え弾圧を加え続けた点が同じだ。弱い奴ほど徒党を組みたがり、他者を排除する傾向にあるのは中学生でも気付ける事だ。私はスターリンであろうと毛沢東であろうと、焼きそばパンを買いに走らせられる自信があるが、相手は既に土の中だ。だけどこの私が一度会って話してみたかったと考えた人物がホー・チ・ミンだった。
バリバリ働いて稼いでナンボな私が共産主義思想を懐く事は断じてないが、自分で鍋を振って焼きそばをご馳走しながら話を聞いてみたかった。と言うのも、どちらが正義だ悪だと言わないが、支配国フランスに勝ってしまったところが凄い。これがあるから私にとってのフランスは、カッコだけのモショモショムシャムシャ野郎になってしまっている(第一次インドシナ戦争)。そしてフランスに泣きつかれ(『あちら側』の思惑もあるが、朝鮮戦争のように行かなかった)、しゃしゃり出て来たアメリカにも勝ってしまった(第二次インドシナ戦争、別名ベトナム戦争)。
とにかくホー・チ・ミン率いるベトミンの強いこと強いこと。犠牲者も多いが折れないし挫けない。これがアメリカにどれだけトラウマを与えたか。映画の中でイキがるしかできない有様だ(『ランボー/怒りの脱出』など)。あまりに強いのでショッカーのような組織に改造されている戦闘員ではないかと疑われる始末だった(『サイボーグ009/ベトナム編』。この漫画は『あちら側』の一部である兵器産業の野望を描いている。009達もその犠牲者であり兵器だった)。
またアメリカが支援した南側の傀儡政権とグエン・バン・チュー大統領が最悪だった。北が何度も統一選挙を呼び掛けているのにこれを拒否し、政府高官を身内で固め、国民や仏教徒を弾圧していた。その圧政と戦うために産まれたのが南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)だ。アメリカもこれはアカンと最後はグエンを見捨てた。グエンは自らの汚職や腐敗を棚に上げ、自由主義をアメリカが見捨てたと喚き立てたという。そのくせ大量に溜め込んだ金塊を持って台湾に逃げ、その後アメリカのお情けでマサチューセッツ州に移り住み、そこで2001年に客死した。
対するホー・チ・ミンは今も『ホーおじさん』として民から愛されている。それは彼が生涯私欲に走らず民族の自決(自主決定権を持つという意味)と、真の独立を民とともに目指し、それを勝ち取ったからである。勿論、功だけでなく罪もある。1953年の土地改革に於いてはのパオダイ政権下の農民の蜂起を武力鎮圧し、1万5千の犠牲者を出したりもした。だけどよくよく調べると、親フランスのパオダイ政権での農民は、学もなく地主に搾取されるばかりの小作農ばかりで、メコンデルタの開発と農地改革を行えば、自分達の土地が社会主義政府から永代貸与されるとは理解できなかったのだ。
その後この改革で収穫率が、ベトナム全土で大幅にアップした。毛沢東と違い、ホー・チ・ミンは海外でしっかり学んだインテリだ。だから中国の支援を有り難く受け取っても、支配下に置こうとする思惑は見破っており、人民解放軍は追い返していた。受け止め方もあるが、こういうエピソードを知れば、彼はカストロと同じ民族主義者であって社会主義思想も手段のひとつでしかなかった気がする。ベトナムもキューバも調べれば。大国に翻弄されるばかりの民衆を救いたい一心だったのが良くわかる。どちらも指導者が不当に私腹を肥やさなかったし、ホー・チ・ミンに至っては清貧なままだった。
今後のベトナムの最大の懸念は側近達の高齢化に拠る世代交代と、民にいつも寄り添っていた生前のホー・チ・ミンを知らない世代が増える事だろう。だからサイゴンをホーチミンにしたのだと思うし、民族の精神を忘れぬために学生はアオザイを着ろと指導が入るのだろう。
とは言えハノイでも、ごく僅かだけどブラウスとスカートの学校はある。だけど小・中学生は白いシャツの襟に、赤い三角スカーフを校内では巻いている。これは昔の中国や旧ソ連、今の北朝鮮にも見られた光景だけど、そこまで煩く言われないようだ。特に南のホーチミンではほぼすべての学校がブラウスとスカートでアオザイなんて日本の振り袖と同じ扱いだ。かくいう私もチューリッヒのミーデル(民族衣装。ほぼ方言で通常はディアンドルで通じる。このアルプスのドイツ語圏での民族衣装を一括で指すならベルナートラクトという)なんて、もう長い間着ていないのだけど。ちなみにこのミーデルはバイエルンやチロルのディアンドルと似ているが、あそこまでブラウスの胸元は開いていない。それと都市や街単位でなく、村や谷単位で衣装の柄が違うので、見る人が見れば一発でどこそこ谷の何々村の人だとわかる。
この民族衣装を『姉のイリヤ』は大変嫌っている。それは南西ドイツの黒い森、あの一帯の衣装が黒くて、帽子というか髪飾りが変だからだ。
『それも伝統でしょうに?』
『そんな伝統知らない。私は日本人なの。そのために書もお茶もお華も学び、弓道を学び、和食を学んできたのよ?』
確かにこの『姉』は、そこらの日本人が裸足で逃げ出すほど日本の伝統を知り抜いている。きちんと着物を自分で着付け、お茶会やお華の教室に通い、部活では弓を弯(ひ)く。47番がお兄ちゃんの能力を得て全国一になったそうだけど、あれは弯(ひ)いているんじゃなくて彎(ひ)いているのだと思う。『弯(ひ)く』の旧字体が『彎(ひ)く』だけれど『糸』の間に『言葉』が挟まるこの旧字体の方には、弓だけでなく物事を曲げるという意味がある。
つまり湾曲(彎曲)させている。お兄ちゃんが持つ『道理』を自分のものとして曲げている。それも才能ではあるけれど、『姉』は自分で自分の弓を弯(ひ)いている。47番はそこにどう折り合いを付けているのか。そこが気になる。それでなくとも私(達)の中で1番繊細なタイプだった。今、どうしているのだろう?
「随分と遠くを見ていますね?」
「ええ。少し考え事をしていました」
私達は1両日だけ休暇を取った。それでこのハロン湾まで来て、風光明媚な景色をぼんやりと眺めていたのだ。正直参っていた。知っていたのに改ためて聞くと、そのおぞましさに身体が震える。北京から成功したと連絡があったのだ。
なんの話か。それは生体臓器移植の話だ。事の発端は、いわゆる307病院と呼ばれる中国人民解放軍の病院での事だった。北京に居た間にアサシンに潜り込ませたのだ。そして思う通りのものが見つかったので、続いて天津第一中心病院、上海第二軍医大学長征病院、広州中山病院、重慶の第三軍医大学西南病院、済南軍医総合病院などを調べて欲しいと頼んであった。その報告を受け、私は宝具を開いた。そこには容器に収まった大量の人口内蔵が用意してあったのだ。
1999年から活発化したここの中国の臓器移植は、翌年には10倍、この2004年には26倍にも増えていた事が確かな数字として判明した。肝臓や腎臓の移植ができる病院は、20ヶ所弱から400ヶ所以上に増えていた。本当の意味での政治犯や重犯罪者なんてごく少数だ。死刑囚への死刑執行は年間1500人。移植手術の適合率は6.5%。病床の増えた病院は年に数千件もの移植手術を行っている。
それらほとんどの人が、人民解放軍が捕らえたチベット人に、610弁公室が捕らえて来る法輪功学習者だった。総じて高地で住むチベット人は暴飲暴食をしないので内臓が健康だ。法輪功学習者もその健康呼吸法の実践者ばかりだから健康だ。ほとんど嘘の『悪魔の飽食』や、戦勝国が罪を着せ事実を歪曲した可能性も含まれる『ナチスの罪』どころではない(私が考えた法則にこういうのがある。『誰かの罪を声高に叫ぶ者はその先駆者か、もっと酷い事をしている者だ』だ。つまり他人にドロボウと真っ先に叫ぶ者が強盗だった、なんて良くある話だ)。だけど、この臓器の話は厳然たる事実なのだ。
今の中国では48時間以内に適合臓器を用意できるとのリポートも出て来た。間違いなく収容所に囚えられた人達のDNAや血液型を事前に調べ、臓器バンク・ネットワークを全土に広げ、処刑という名の内蔵摘出が行われていた。それは私の元の世界より酷い数字だった。そうやって海外の金持ちや政治家、或いはその家族を延命させ、それを理由に言う事を聴かせるのだ。そして民間交流と称して中国に親近感を持たせつつ、大学などと提携し学生を送り込む。その人達は必死に勉強する。勉強して卒業後に大きな企業に入らなければならないからだ。そうして数十年後に技術と研究成果を手に入れて中国に帰る。そこで初めて親や家族の命が保証されるのだ。
学生や研究者だけではない。大使館の職員も軍人もすべてそうだ。逆らえば、家族が生きたまま内蔵を抜かれる。そして死を迎えた肉体には、プラスチックが注入され、嬉しくもない死後の世界旅行が待っている。あれだ。『人体の不思議展』だ。お腹に胎児のいる妊婦の標本を見て、どうやってこの人体を手に入れたのだと頭に浮かんで来ない者は、カウンセリングを受けた方が良い。社会人として可怪しいかサイコ予備軍だから。
以上のラインから、これが共産党だけのアイデアだったのかどうか、一部の『あちら側』が絡んでいないかどうかは考える必要があるだろう。もし、ナチスよりヒドい事に加担しているのが『ユダヤ』なら、そいつらも滅ぶべきだと私は考える。だけど普通はそうは上手く行かない。これはあちらでも無理だったのだ。だけど、この世界では幸いそういう者と思わしき人物達が昏睡状態に陥っている。十把一絡げだが、これもチャンスだろう。
そして次に来るのはウイグル人だ。ムスリムの彼らはハラールしか口にしない。つまりハラール臓器だ。私はこれらの事が明るみに出ても、アラビア諸国は黙して語らないと睨んでいる。むしろ供給源を断つなと陰口が出るだろう。
だからこそ自分の世界ではクローンとホムンクルス技術を最大限に使った。移植を受ける人には必ず『口外できない呪い』の入った契約書にサインさせた。それで言語障害を負ったり、白痴になる人はごく僅かだ。つまりそれだけ口が堅い。なので証言者は望めないとわかっていた。だから適合も温阻血時間も拒絶反応も考慮せずに済む、ホムンクルス鋳造技術を転用したこれらの臓器をできる限り用意した上で、それら記憶にある病院を調べて欲しいと頼んであったのだ。
そうしてその成功の報告を受け、考えていた。ロシア人の場合は共産主義が悪しき思想として悪い方に出た。ベトナムでは皆んなが平和に暮らしている。なら、中国では? 憎むべきは共産党だけか? 自分さえ良ければ他者を何とも思わない、そんな悪魔のような思考は……元からなのではないか? やはり強制的に掌握するしかないのか。香港の日々はあんなに楽しかったのに。嫌な人もいた。でもそれはごく少数で、大勢の人は気さくで楽しい人達だった。内陸の人もそうであって欲しいと願っていたのに……。
元の世界で1年革命を起こしたのは4年以上も前の事だ。その4年のズレでここまで犠牲者が増えていた。そして今臓器移植をストップすれば確実にどこかの要人が死んでいく。宝具の中のストックが保つのは数ヶ月だろう。決断した私は、ホテルの戻りお祖父様に電話を入れた。何故なら私もアインツベルンだからだ。ドナーを待つ患者のリストは手に入れている。人道も取るが世界も取る。今がチャンスだと、行動するのは今しかないと、そう決意したのだ。
その臓器移植の実態を探っていた頃は、まだ北京に居た父達の報告もあって、お祖父様も準備に動けた。そのお陰で今は部下である魔術医療の専門家とスタッフが、各地の病院を転々としている。この『世界の改変』があっても寝たきりにならず中国まで来れた患者は救けよう。だけど寝たきりとなって来れなかった者達は遅かれ早かれ『死』が待っている。それでも生き残りたければアインツベルンにすべてを差し出すしかない。お祖父様はハイペースで要人の姿そのままの、生殖機能を持たないホムンクルスを造っていた。それらを本物と年内に入れ替える。電話で申しつかったのはそれの手伝いだった。この東南アジアの旅を終えれば、その入れ替え作業のスタッフと合流しなければならない。時は待ってくれなかった。
明日はホーチミン、その翌日はプノンペン。それを終えれば、予定だとミャンマーだけど。これは孔明さんと相談だな。そう考えて、私は置いた受話器をもう一度手に取って北京へ電話を掛けたのだった。
呂布は憤怒していた。いきなり立ち上がって椅子を蹴飛ばしたのだ。理由はある。北京の病院から掻き集めた資料に目を通しておけと私が命令したからだ。実にわかりやすい男だ。最初は『面倒臭い』と思っていたと思う。それでも渋々読んでいた。内容はこんな具合だ。
『食事に手を付けず、ストライキ状態だったので鼻を摘み強制的に牛乳を飲ませていた。それでも体重は1週間で7kgも落ちた。これ以上過ぎると内臓の健康状態を維持できないとして適合患者の照会を急いだ。やがて他市で患者が見付かりドナーの女をそこに移送した』
『◯月◯日、中央から来たドナーをすぐに手術室へ連れて行った。患者の様態が厳しいからだ。執刀医は麻酔の時間も惜しいと言った。なので連行してきた軍人と一緒にドナーの手を押さえつけた。執刀医はベテランだ。消毒が済むとTの字に一気に胸を切り開いた。色鮮やかな肝臓。これで患者は助かる』
『あの女の叫び声と呪詛の声が耳にこびりついて……この話はどうか共産党には内密に願います(元病院勤務の警備員)』
そして読み終わった後に、呂布は立ち上がって椅子を蹴飛ばしたのだ。
「なんだこれは!! これが人のやる事なのか!?」
そうだ。この国を支配していた者は、生きたままの女の胸を切り開き臓器を奪ったのだ。女が息絶えたのは心臓を取り出す段で、血管を切った後だという。オリュンポスの神々よ、それを命じた者を我が下に。冥府に居るなら蘇らせよ。ヒュドラの毒を塗った矢を射ても、この怒りは鎮まらんであろう。だが……。
「我らとて人をこの手に掛けて来たな?」
「待ってくれ! それはそうだが、民を無闇に傷つけた憶えはない! 相手はいつも敵の将だった」
「そうか……なら来い。その怒りが本物なら」
そこで私は、呂布と魏延をすぐ近くの収容所に連れて行った。そこには解放を待つ人々がいる。取り敢えずの健康を取り戻すまで留め置かれていたのだ。その者達を今から開放する。見舞金も出せない。今後の生活も保証できない。それでも、必ず住みよい国を作るので耐えて生き抜いて欲しいと言わねばならない。
『民族浄化』────。圧政や弾圧、殺人は我らの時代にもあった。だが、断種などという狂気に染まった者は、近いところでヘロデ王以外居ないのではないか? 私は故郷へと走るトラックに乗り込む人々を静かに見送った。あの中の何人が断種処置をされたのか。実態はわからない。収容所はここだけではない。その総数はいかほどか。
「真に滅ぼされるべきは我らか……」
魏延の呟きに呂布が頷こうとした。
「いや、そうではない。圧政に目を奪われ、その圧政の中で生まれ育ち何も知らぬ民は大勢いる。我らはそんな彼らに平穏となった国を返さねばならん。その日が来るまで落ち込んではおれんぞ」
「はっ」
「はい」
そうして私達は庁舎に戻った。
お父さん(切嗣さん)とイリヤ姉さんの誕生日というイベントが終わると、私達学生は再び忙しくなる。それは何かというと2学期の期末試験が来週から始まるのだ。なので今週は部活が休みとなる。しかも本日は勤労感謝の日で国民の休日だ。だから私は午前中から桜達と集まって勉強会だった。
勤労感謝の日が本来は収穫祭であり、日本では『新嘗祭』というのだと教えて下さったお姉様は、試験となると危険水域に沈もうとする吉川先輩とこれまた勉強会だった。相変わらずラブラブだけど、吉川先輩という人は幾つか苦手な教科があって、お姉様はそれを普段からみていた。とてもじゃないが、イチャイチャする雰囲気ではないらしい。それにお2人は、デートとなればお互いの家ばかりとなる。一度新都に映画を観に行ってえらい目にあったからだ。有名税と言えばそれまでだけれど、本当にお気の毒だ。
なので本日はクルマに乗って冬木市から出て、県立図書館の自習室だそうだ。帰りはそのままホテルにでも入ればいいと思うのだけど、真面目なお2人はそれもできずにいる。
『大丈夫ですよ。そういう気分の時はトロンメルにお相手をお願いしていますから』
真顔で言われた。勿論、私をからかっていらっしゃるのだ。お姉様は思ったより余裕がある? そのお姉様のお相手らしきトロンメルも本日はアルトリアの家で勉強会だ。最近の私とトロンメルは別行動が多いけれど、それはそれぞれの友人との交流があるからだ。特にあの子は慣れないアルトリアを気に掛けていて、一緒に勉強をしている事が多かった。
この頃は次期部長としての自覚が出て来たのか桜も積極的になっていて、あの子の家に招かれた人も徐々に増えていた。今日は別の子の家だったが、和気藹々で勉強できた。そんな集まりを終えてのバス停からの帰り道、目の前にクロエちゃんとイリヤちゃんの後ろ姿が見えた。休日だから遊びに出ていた帰りだろう。
「今、帰り?」
「あ、エルマお姉ちゃん。お姉ちゃんも?」
「うん、勉強会の帰りだよ」
「試験が近いんだよね?」
「そう」
それからテスト、高校生活、中学生になったらどうなのかという話に変化していったけんだけれど。どうも2人は、何かで迷っているような気がした。
「どうしたの? 何か相談事があるなら聞くよ?」
「う、うん……」
それで2人は本当に迷いながら、口外しない事を約束させた上で話してくれた。そういう事か……。話の内容はアメリカに居る、もう1人のお姉様に関してだった。どうやらお向かいにも、スイスから結婚式の招待状が届いたようだ。これはこちらにも届いていて、私達3人も年末はスイスだ。とは言え、前々からスイス行きは決まっていた。何より2人は、フンボルトさんがお父さん(切嗣さん)に頭を下げ、結婚の許可を頂くシーンを見ている。
なお、先に説明するが、これに関して私は当初交際許可だと思っていた。ところがそれはアメリカで済ませていて、お姉様曰く『完全に結婚の許可を貰いに来ていた』『お父さんもお母様もお認めになった』そうである。ご自分が意図せぬ人とお付き合いし、結婚までするというのだからかなり複雑な気分だったとか。
以上のような情報から考え、2人の迷いはもう1人のお姉様の事だと思った。なので……。
「アメリカの姉さんの事?」
「……うん」
「結婚に反対……じゃ、ないよね?」
2人は首を振った。そんなのは2人の中でとっくに折り合いがついていると思えた。となると……なんだ?
「本当にどうしたの?」
「私……悪い子だった。お姉ちゃんに謝りたい……」
暗い顔でうつむくのはイリヤちゃんだ。思わずクロエちゃんを見たら、正直に教えてくれた。それはこんな話だ。
2人とて祝福しているし、女の子として憧れもある。だから『寂しくても我慢』できる。でも『大好きなお姉ちゃん』は私やトロンメルと暮らしていていつでも会える訳だ。ルーマニアで移動中にたくさん話した事も、お世話になった事も憶えている。だというのに2人は、アメリカでどんな風に暮らしているのかすら知らなかった事に今更ながらに気付いて、申し訳なくなったらしい。これはわかる気がする。別人だとわかっていても、会えば同じ仕草で同じ話し方。無意識で混同していたのだ。
「もしかして、今までお手紙も書いていないの?」
「……うん」
そう言えば住所もアドレスも聞かれた覚えがないし、教えた記憶もない。これはアイリスフィールさん(お母様)もだな……。アドレスを教えてもメールを送ったりもできないだろうし。よし。
「それならお手紙を書かない? あなた達だけでなくママやセラさんにも。それと『お姉ちゃんの従姉妹』で良いからさ、衛宮先輩……じゃなくて、お兄ちゃんにも教えてあげれば? そうすると無駄に秘密にしなくて済むよ? どうせ、その秘密が祟って、頭から『もう1人のお姉ちゃん』の存在が抜けていたんでしょう?」
2人の顔がパーッと輝いた。勿論、お手紙は私が預かって宝具で送る旨を話した。
「そうだ。その宝具を持つ子が……」
そうして私はその子の存在を教えた。ただし、未だに名前を知らなかったし、聞けなかった。それはその子が『現象となったお姉様』の大切な妹だと気付いたからだ。私よりメールの頻度が多いトロンメルは知っている可能性があるけれど。
「じゃあ、その子をなんて呼ぶの?」
「わかった。文面のそこだけ開けておいて。聞いておくから」
そうして私は家に戻って即座にパソコンを起動した。
なんとか試験範囲の復習を終えた私達は、紅茶で一服付いていた。入れてくれたのはアルトリアだ。『エル様』だけでなく『イリヤ様』からもミッチリ教わっていたというアルトリアは、あちらでヴンダーといい勝負だったという。『エル様』から遠ざけられ、遠坂家に預けられていた私が一番辛かったのは、『イリヤ様』から教わる機会を失った事だった。
ほとんど記憶にないのだけれど、遠ざけられた理由は私が『エル様』に夜這いを掛けていたからだ。理由は私の魂のモデルがトントゥさんだったからだ。ここに来て、エルマに指摘されて気付けたのだけれど。そして姉さんとの出逢い。私は嫌われたのでなく、トントゥさんと共鳴する関係だった。そういう風に造られていたのだ。その共鳴で『エル様』はトントゥさんの心の傷を掘り下げ、治療に当たられたのだ。
それでこれ以上の共鳴は必要ないという段で遠坂に預けられ、私個人の未来のためにこちらへ送られた。残して来た仲間との事業は『エル様』が手を打って下さった。それにここでは、前の学園では作れなかった友人ができた。当初は恨みもしたが今は感謝している。
「トロンメル?」
「うん? ああ、ごめんなさい。あちらの世界で暮らしていた頃を思い出していて」
「そうでしたね。私とは入れ違いでしたが、あなたも元はあちらで」
「ヴンダーとは仲が良かったんですか?」
「ええ。たくさん教わりました」
だけどあちらには『自他ともに厳しいアルトリア先生』と、『厳しい方のセイバーさん』が居た。なのでアルトリアもこちらに来た訳だけど。ところがこちらのセイバーさんはとても親身で優しかった。なので揉め事などあろう筈もなく、『姉』のように感じているという。『エル様』だからああいうセイバーさんが召喚された。姉さんだからあんなセイバーさんが来た。それは何とも不思議な事だった。
セイバーさんに勤労感謝の日はない。本日もアルバイトのシフトが入っていていつもの喫茶店だ。お茶を飲み干すと、私はお暇する旨をアルトリアに伝えた。
「夕ご飯は? 用意しますよ?」
「ありがとう。でも、今日は帰ってしたい事があるから」
「そうですか。では、ありがとうございました」
「いいえ、どう致しまして」
そうして彼女に見送られながらアルトリアの家を出た。少し歩いて思い出し笑いをした。一昨日の21日の夜、セイバーさんからボンと12ピース入りバーレルを渡されたそうだ。しかもセイバーさんの手にはもうひとつのバーレルが。片方は夏に出たばかりのレッドホットチキン。2人で24ピースを黙々と食べたそうだ。その日のお昼の、私のお弁当のおかずが、前日の残りのフライドチキンだった。それを見て食べたいと思ったのだそうだ。するとアルバイト帰りに何故かセイバーさんが買って来たそうだ。その話がおかしくて。
家に戻ってその話をエルマにしたら呆れられた。
「その日はフライドチキンが日本に上陸した日だよ。それで『フライドチキンの日』と決まって、たぶんそのバーレルはキャンペーンか何かで安かったんだと思うよ?」
「そうなの?」
「うん」
私はこういうのが疎い。だけど凛さんも知らなかったしルヴィアさんも知らなかった。とは言っても最近出たらしいセヴンの『ミルクムースの雪もこ』にお2人がハマっているのは、姉さんどころかアーチャーさんまで知っている。元はルヴィアさんが水ようかんにハマり、そこから和菓子に幅を広げたからだった。その和菓子もエルマが見付けた新都の小さなお店の商品だ。私も近道を教えてもらい自転車で行ったが、確かに美味しかった。エルマの調べでは柳洞寺の御用達で、あの長い石段下の駐車場にあるお花屋さん(お線香やお茶なども扱っている)名物の草団子も、その和菓子屋さんが卸しているそうだ。エルマはこういうのを見付け、自分で調べるのが偉いと思う。
私は精々『BOSS』のエフェクターの発売年を調べる程度だから、エルマとは随分と違う。他に気付いたのは『エル様』とトントさんがダンカン党だと思うのに、アメリカの姉さんが謎に満ちているところだ。例えば、私が『エル様』から頂いた青い『Studio Lite』は、そのHSH配列のピックアップはフロントがダンカンの『Jazz model(SH-2n)』、リアが『JB model(SH-4)』で、ミドルのシングルが『Quarter-Pound Starggered(SSL-7)』だと調べがついた。それと同じくトントさんから頂き、姉さんと交換したショップオリジナルのギターはフロントが『Little '59(SL59-1n)』で、リアが『'59 model(SH-1b)』だった。それもマグネットをアルニコⅤからⅢへと磁力を落としていた。
ところがアメリカの姉さんが下さった『Charvel Star』は、フロントが『JB Jr.(SJBJ-1b)』でリアが『JB model(SH-4)』だった。あれだけオリジナルな手巻きを作る人が、あの黒い『Charvel Star』だけ市販のダンカンそのままだったのだ。1ボリューム、1トーンにフロイドローズ・トレモロ。ネックはダンエレクトロ風のヘッドが付いたオリジナル。そんなホイホイと人にあげて良いものではないだろう。私が軽音楽部員と知って嬉しかったのだと思うが、姉さん以上にあの姉さんは音楽好きだったとわかるまで不気味に感じたくらいだ。
だけど何度もメールをやり取りしてわかった。『Charvel Star』はボディが叩き売りのタダ同然で手に入った事。ネックはジャンクのダンエレクトロをモデルに、姉さんの彼氏が練習で作ったものだった。それをドッキングして、ピックアップやトレモロを付けた。ところがタイミングが悪く、完成した時の契約では契約したブランドのと、そこの親会社のものしか使えなかったらしい。それが人前でなければ自由だと気付いたのは、私に寄越した後だった。今ならもっと違うタイプを自分で巻いていたとメールにあった。
また、『'51』と『Cyclone』用のピックアップも送られていた。『どういうギターでしょう?』『どう思われますか?』と送っただけなのに。これは私に買えという事なのだろうか? いや、きっとそうなのだろう。なので試験が終われば買いに行こうと思っている。エルマのアサシンに頼みたいところだけど、あの子のアサシンは少数の者が日本に残っているだけで(アメリカの姉さんからの頼まれごとや、陰で家族の護衛をしている)、残りは中国へ出張中だった。
その中国で『エル様』の分身が動いていて、アジアの他の地域ではマルガリータさんの姉妹も動いている。キナ臭い事は今のところないようだけど気になる。
さて、起動が完了したパソコンでメーラーを起ち上げ、懸念事項である少女の名を問い合わせる内容のメールを送信した。すると受信ボタンと連動している方を押したので新しいメールが届いた。何々……? 『Squier Stagemaster』を知っているかって? 何だそれ?
『『kramer』から、同じ名を使うなとクレームが来て数年前に廃番となったギターです。6つのバージョンがあって、基本はリバースヘッドでボルトオンのネック。ロングスケールで22フレット。ライセンスもののフロイド・ローズが付いた、ストラト・シェイプのメタルなギター・シリーズです。レギュラーには『HH』『HSS』『HSH』とあって、『SSS』や『HHH』もごく少数『V1』には存在していたようです。次の『V2』では24フレットになりました。『HHH』がなくなったのはそれででしょう。またこの『V2』には『V2.7』という7弦モデルもありました。また同時期にフロイド・ローズでなく22フレット廉価版の『V3』や、スルーネックになった24フレット、フロイド・ローズのデラックス・バージョン、『V4』なども出ていました。『V1』と『V2』は中国製で『V3』と『V4』は韓国製だったようです。それから特別バージョンとして24フレットのボルトオンで『V5』が出たのも同じ2000年頃です。『Mars Music(フロリダを拠点とする総合音楽ショップ)』のオリジナルだったようですね。その後バリトン・ギターも出たようですが、先の『kramer』からのクレームで2002年に『Showmaster』と名称変更され、今年で廃番となりした、現在市場に出回っているのは在庫のみです。時系列的には1999年に『V1』、2000年に『V2』と『V2.7』、『V4』、『V5』。そして2001年に『V3』です。先日、その『V4』の『HSH』専用色の『Emerald Green Metallic(571)』と、同じ『HSH』ですがレギュラーカラーの『Wine Red Metallic(575)』を投げ売り価格で手に入れました。画像を添付します。もし欲しいのなら、『V3』と『V4』はまだ新品が手に入ります。ものは、まぁまぁです。フレットにヤスリを掛け直す必要がないレベルはあります。色のリストとピックアップの組合わせリストも添付しますので参照して下さい。ただし、好みの色が売り切れている場合もあります』
待って下さい……。また、ギターを買えと……? 私は段々と、この方が1番人生を楽しんでいるような気がしてきた。
ともあれ、この件は姉さんに相談しようと思った。その理由は交換して姉さんのものとなったギターにある。あれもそうだったが、これもスーパーストラトではないか。もしかしたら何か御要望がお有りで、それを相談されたメールで今回の話が出て来たのではないかと考えたからだった。
ホーチミンで一泊した私達はメコン・デルタから遡ってプノンペンに入った。クルマは宝具に入れていたランクル。こういう場所では無類の機動力を持つ。ナンバーもデタラメなら免許もデタラメ。国境の検問所は魔術で暗示を掛け強行突破だ。
「外交特使がこんな事を……」
「ベトナムには申し訳なく思いますがカンボジアはねぇ」
「ダメなのですか?」
そこで私はカンボジアとベトナムの関係、カンボジアに於ける共産主義運動、そしてクメール・ルージュとポル・ポトの話を掻い摘んで話した。ホー・チ・ミンもポル・ポトことサロット・サルも、若い頃に当時の宗主国であったフランスに留学している。そして留学先で共産主義思想を学んだ。両者とも本当に貧しい人々を救うには、社会体制をそうするしかないと信じた。ただし、ホー・チ・ミンは知性高く慈愛のある人物で、ポル・ポトは高校の授業に着いて行けず中退するバカだった。そして生涯、インテリや高学歴者を憎んだ。
こんな3流以下のカスが指導者になれたのは、偏に時の運だった。置かれた状況、取り巻く環境と時代。これらが全部、悪魔のイタズラのようにハマってしまった。大国ソ連にアメリカ、中国などの軍部は隣のベトナムに目を奪われていたし、アメリカやイギリスの投資家や『あちら側』もアンコールワット以外何もないカンボジアは眼中になかった。また元宗主国フランスを含む欧州各国も大戦後の東西冷戦幕開けの中で、欧州諸共同体を模索し締結にまで漕ぎ着けたばかりだ。
それに何より各国が自国内での共産運動や学生運動がピークを迎えていて、経済安定化と成長が先で他国に目を配る余裕がなかった。日本でもそうだが、フランスも68年に五月危機が起きたりして学生には頭を痛めていた時期だったのた。その後70年代を迎え、ベトナムは社会主義国となり米軍は撤退した。つまり3年にも渡るポル・ポトの民衆虐殺(76~79年)は、欧州のみならず世界の主要な国のゴタゴタが一段落し、先進国の人々が戦争を忌避した、まさに時代のデッドスポットの中で起きたのだ。
ただでさえ海外の情報が伝わり難い時代だ。ましてや話題に登るような知名度の高い国ではない。今現在でもカンボジアやラオスがどこにあるかわからない人が多いと思う。それは欧州やアメリカの一般人でもそうだし、ベトナムの横だと言われると『ああ……その話はナシにしよう』という空気ができてしまった。特にアメリカでは。だからなのかこの70年代半ばの時代は、南アフリカのアパルトヘイト問題に国連も人権団体も目が釘付けだった。
そしてインテリは国を潰すとして、医師も技術者も教師も、眼鏡の人も腕時計をはめている人も読書をしている人も殺された。当時、人口800万人居たかどうかの国で実に300万人以上の人が虐殺された。
「本が読めたらインテリですか!?」
「ポル・ポトが目指したのは原始共産主義でした。皆んなで畑を耕し皆んなで分かち合う。それをして彼は貧富の差も、身分の差も、知識量の差もない、理想社会だと信じていたようです」
「おかしいですよ!?」
「そうです。気違いに刃物より怖いのは、狂人が権力を握る事です。しかもあまりに荒唐無稽な出来事なので、命からがら逃げた人の話を誰も信じられなかったのです。これはおかしいとベトナム軍がカンボジアに進軍するまでは」
「何とまた……。それでその狂人は?」
「タイとの国境付近の山に逃げ込み、1998年までのうのうと生きていました。黄金の三角地帯とは少し離れていますが、何か関係があったかも知れませんね。清貧な農夫で生涯を終えたという話もあり、そこは謎です」
少なからず金銭欲に目が眩む人物ではなかったのだろう。ただ人口の年齢分布を歪に変えるほどの虐殺と子供(少年兵)を利用したところは最悪だ。今もポル・ポトの残した傷跡と思想が人々を苛んでいる。そんな歴史があるので、ミャンマー、ラオス、カンボジアの三国はとにかく起業家や投資家から避けられている。そこが益々中国幻想とアフリカ幻想を助長させたのだけれど。
それとこれも書いておこう。あまりにも寒かったり、暑い国では産業も工業も育たない。窓ガラスが割れ、荒れ放題の学校。おまけに暖房も冷房もない。そんなところで真面目に勉強できるのかという話だ。こう例えると、中高生の方が『ああ、それ無理』ってすぐに思うだろう。だけど他人を働らかせ、自分は楽をしたいと思う投資家や起業家はその観点がない。まして自分で動かない政治家は。ベルリン会議なんてそうだろう。インドにはお茶と香辛料があった。だけど東南アジアやアフリカには? 希少金属やダイヤが掘れる場所なんて限られている。そんな後進国の中で南アフリカだけが栄えたのは、白人でも耐えられる気候だったからだ。そこをわかっていないと失敗する。儲けたいなら環境ありきだ。
プノンペンを外れてメコン川を見れば、それまでと同じく川の水位が随分と下がっていた。ダムを1つずつ破壊するしかない。水利か発電か、見極めは人をやって調べて貰おう。たぶん資料もあるだろう。やがて予定通り、先行して貰っていたアサシン達が集まって来た。
「エルヴァ殿」
「異なるアサシンの気配?」
「はい」
これは呪腕だけでなく百貌達も感づいていた。
「デリーの者達か別働隊か。情報交換できれば良いですね」
そうして私達はクルマをそちらに走らせた。デリーとは別のミラビリスだった。デリーの方はネパールを越えてチベット高原だそうだ。
「自然環境に関しては、当方もできる範囲でお手伝い致します。その分、政治面を」
それで話が纏まった。随分とアッサリだがこんなものだ。だけど、聞けた内容は有意義だった。なので私は一旦香港に帰ろうと決めた。今度はお祖父様の仕事だ。
胸をT字に切り開かれる話は警備員のインタビューとして、法輪功の問題を追っている支援者のサイトに出ています。マジで麻酔なしだったそうです。
なお政治家の身内が、中国の臓器移植で生きながらえたという話はどこの国にもあるようです。
なお、公式には何も書かれていませんが、久宇舞弥はカンボジアの少年兵だったと考えるのが一番合理的ではないでしょうか。