「え? 『エル』が来ているの?」
『王一诺』としての記憶を持つ、私という『人形』の回収に来たのかと少し焦った。が、大使館の制圧を終えた私に届いた念話は想像外の話だった。
〈今、分割していますか?〉
(はい。『シュラム』と『ボーデン』を出しています)
〈なら、手伝って下さい〉
内容はこうだ。この『現象』をより活かすために、日本に隠された結界をもっと強く作動するというものだ。それを『機内の五芒星』という。主に近畿圏を覆う結界で京都御所を守るためのものだ。設置者は安倍晴明と言われている。そしてこの巨大な五芒星は天地逆さまになっていて、現在は南の起点が熊野本宮大社だ。そこから時計回りに、淡路島の伊弉諾神宮、福知山の元伊勢・外宮豊受大神社、滋賀県の米原に近い伊吹山、そして三重県の伊勢内宮がその他の起点だ。
その伊勢内宮と元伊勢・外宮豊受大神社を結ぶラインを延長すると、冬木市の未遠川河口となる。これは御所や内裏に澱む穢れを冬木の地に送り込むためだ。つまり浄化装置だ。これを行ったのが晴明の弟子であった陰陽師初代・遠坂時貞だ。師の命を承け自らの郷里に『穢れを逃す結界』を造った。この時貞は本名ではない。元々名もなき青年だった。未遠村の◯◯、それで通った時代だ。そんな彼が、何があったかは不明だが今の京都に近い辺りまで旅をしていた。そこで偶然、狩りに出ていた源博雅と出逢いお供に加わった。そして京の都で晴明に紹介され弟子となった。この時から時貞と名乗るようになったらしい。
また、このトントン拍子の話には裏がある。それは時貞が異能者であったからだ。彼は目で見たものを裡なる蔵へ収め、自らの意思でそれを取り出せた。つまり投影魔術が使えたのである。そこで晴明は考えた。度重なる京への穢れの流入と御所の澱み。これは時貞を鍛えれば彼の郷里が使える事が判明した。そして日の本を日の本たらしめる歴代の帝が持つ宝物。これらを来たるべき災厄から護る方法。それだけが位の低い晴明には無理な事だった。
だが時貞の異能があれば。これを子々孫々まで伝えれば。そうして時貞は正倉院のみならず、御所にあった宝物庫の中もすべて見聞し裡なる蔵に収めた。その後別れの日を迎え師に見送られて郷里に帰った。この時に贈られた姓が『遠坂』だ。これは京から未遠の地への途中にある峠の名だった。そしてこの時貞を護衛し、穢れを流す結界の完成を促す監督役が『衛宮』のご先祖だ。勿論、衛宮を付けたのは源博雅の心遣いだ。
やがて時は下り、遠坂は時貞の異能を秘伝として受け継ぐ未遠一族と、それを守護する遠坂神社、更に異能を研究し発展させんとする庄屋の遠坂とにわかれた。この庄屋の遠坂が凜の先祖だ。そして衛宮士郎こと遠坂司郎の実姉、遠坂志保はその異能を色濃く継いでいた。なので幼少期に神社へ養子に出され未遠志保と名乗っていた。
こちらの世界には居ないが、私達の世界では健在で気の良い先輩だ。かつての弓道部部長であり、間桐慎二の兄、間桐慎一(彼もここには居ない)の前の生徒会長でもあった。
並行世界では血で血を洗い相争うアインツベルンに遠坂と間桐だったが、あの慎一さんや志保さんの居る世界だけは違った。慎ちゃんこと慎二クンは真面目だし、桜ちゃんも養子に出ていない。だから凜は魔法に届いたのだとも言えると思う。
そしてそんな間桐慎二と婚約した『エル(私)』は、この世界での浄化装置をもっと強力に動かすという。それも元伊勢・外宮豊受大神社と伊吹山を延長したラインにある巨大な起点をも動かして。元伊勢・外宮豊受大神社より西に延長すると、やがては出雲大社に突き当たる。逆に伊吹山から東に延長すると霊峰・富士山に突き当たる。この両起点の中間が小浜市のやや南にある。『エル』はそこに向かうので、『ボーデン』か『シュラム』を出雲に向かわせ、残ったもう片方を富士山に向かわせろと伝えてきた。
そして私には東京に残り東京中を騒がせ、その隙きに皇居に潜り込み、霊脈を繋げてしまえという指令だった。これは護国の祈りの通りが良くなるようにだ。この国に於ける神道のトップは歴代の陛下だ。昔は京都御所だったから通りが良かった。だけど明治以降千代田のお城に住まうようになってから、通りがとても悪くなっていた。なので天変地異がやたら多く、政治も不安定になりやすい。こんな事を国会議員は知らないし、今上の陛下もご存知ではないだろう。だから知っている魔術師が勝手に直してしまえとう考えだ。確かにこればかりは『現象』となってしまった彼女には無理だろう。
よって『エル』と念話で決行日と時間を決めた私は、『シュラム』に『ボーデン』達にこの事を話し、アサシンにも指示を出した。馬謖と、あのまま私が取り込んでいたセヴンには大使館に残って貰った。特にセヴンは、教会の目が気になたので倫敦で出してあげられなかった。なので、馬謖と東京見物でもしておいでと言ってある。そして配置は『ボーデン』と百貌の内の2名が出雲大社、『シュラム』と呪腕が富士山と決まった。残る私は他の百貌をグループに分け、新聞社と議員会館を襲うメンバーを選出した。前代未聞の会館内に於ける議員殴打事件だ。それと同時に左派系の新聞社や放送局も襲い、犯人が謎の殴打事件と強奪事件を引き起こす。これで世間を混乱させ、警察の動きも乱す。その間にこちらは皇居に侵入だ。
最初は左派系の議員のみを襲うつもりだったが、混乱を大きくするために、無差別で入院するほど殴れと指示した。死人は出して欲しくないが、骨の5~6本が折れようが半身不随になって議員生命が絶たれようと構わないと言ってある。アメリカに巣食う『あちら側』に頼まれたのかも知れないけれど、経済の停滞と重税に拠る搾取は島原の乱を見ずともわかる事だ。そして就職宛のない人達の不満は由比正雪の反乱の芽と同じく現代社会に燻っている。何百年経ってもそれが理解できない議員は無能だ。精々頑張れ。きっと九条バリアが守ってくれるよ。
その日、部活を終えた私は仲間を見送りながらカーテンを閉めていた。これは鍵係の近藤先輩を手伝うためだ。カーテンから差し込む光が、白い音楽室の壁をオレンジ色から真っ赤に変化する。今の時間が1番夕焼けが燃える時なのだろう。
「トロンメル、終わったか?」
「はい、こっちは」
すると楽器倉庫の方から先輩が手招きした。私はいつものように教室の鍵を内側から掛けた。いそいそと倉庫に入り、先輩と抱き合いキスをした。もう何回くらいしただろう。ファースト・キスが付き合い始めた翌日だった。その時は唇が触れるだけの挨拶みたいなキスだった。舌を絡めるようになったのはそれから3日後だっけ?
まだ身体は許していないけど、先輩となら遅くとも2年になればそういう関係になりそうな予感があった。と同時に、長続きしないだろうなとも。勿論、先輩の事は好きだ。正直、あの試験の最終日に告白された事は嬉しかった。以前から好感を持っていた人だし、断る理由もなかった。要はマイナス要素がまったくない人なのだ。それでもこの人とは同じ学園生でいる間の関係だと、半ば確信めいたものがあった。それはどうしてだろうと考えてみてわかった。
それは先輩より先に、私の心に姉さんが居たからだ。これだとエルマをバカにできない。それも一緒に暮らしている姉さんでなく、アメリカでお住まいの姉さんなのだから尚更だ。思うにこれは、多分だけどお2人を混同してしまっている。つまり日常の姉さんとメールでやり取りする姉さんへの、本来は個別の好感度がミックスされている。
お世話になっているのは、断然エーデルフェルト邸で一緒に暮らす姉さんなのだ。だというのに部屋に戻ってすぐに起動するパソコンに、メールが届いていないかどうか真っ先に確認する自分が居た。私は姉さんが好きだ。でもそれは妹としての感情だった。家族としての感情なのだ。何より好きになれる理由も尊敬できる理由も、いちいち説明しなくとも誰にでもわかって貰える人だ。なので生活態度や日本ならではの作法など、いつもお手本にさせて貰っている。
だというのに胸が締め付けられるくらい、私はアメリカの姉さんが『好き』になっていた。エルマには話していないし、きっと気付いていないだろう。だけど姉さんには見透かされている気がする。『再来週、スイスで結婚式だね』なんて言ってくる。お相手のフンボルトさんは、姉さんにとっての吉川先輩と同じくお似合いだと思う。だからそこに何ら不満はない。だというのに何故かモヤモヤして……。そんな矢先に近藤先輩に告白されたのだった。
代替とか替え玉とか、そんな風には思っていない。近藤先輩に好感を持っていたのも事実なのだ。だけどどこか隙きを突かれた感が否めない。だからだろう。近藤啓司とフルネームも知っているし、軽音楽部で公認の仲になったというのに、まだ私は先輩を『彼』とも『啓司』とも呼べずにいた。少し興奮した先輩がベストの上から私の胸を擦って来る。それを拒否するでもなく、舌を絡めながら私は先輩の膨らんだズボンを撫でていた。だけど……。
「イヤ」
「ご、ごめん」
先輩の手が私のスカートのファスナーを下げようとしたのだ。この先に進むのは別に構わない。きっと私は先輩にヴァージンを捧げるだろうし、その事を後悔しないだろう。でも付き合ってからの時間が短過ぎると思うし、場所も良くない。
「先輩、まだ早いです。少しずつ進みましょう? それと私も女の子です。場所も選びましょうよ」
「そ、そうだな。ちょっと焦った。ゴメン」
「いいえ。興味本位で撫でちゃったから。私もごめんなさい」
そうしてもう一度キスをして、今度は外から戸締まりをして音楽室を出た。ギターバッグを担いで並んで階段を降りていた。その時、ゾワッと鳥肌が立った。強烈な魔力震だった。この感触は……誰かが街や市を飛び越える程の強大な魔術を使った。違う。市や県のレベルじゃない。日本列島の西日本を覆うくらい……?
魔術師である事は秘密なので地面に手を付けない。だから足元に集中した。西は山口県か島根県だろうか? 東は……ああ、富士山か。どういう魔術だ。いや、そもそも魔術なのか? どうも私の知らない術式が起動した、そんな気がする。この国にはこの国に古来から伝わる神秘がある……。何となくだけど、そっちの線のような気がした。これは帰ってから姉さんに訊くしかないだろう。
「日に日にサマになっていくね」
本日の女子担当は、何か用事のあるらしい美綴部長でなく、白石祐子先輩に瀬尾美咲先輩だった。そんな先輩がアルトリアを褒めていた。これは私も感じていて、このところのアルトリアは調子が凄く良い。元英霊なだけに、元々センスはある。だけど『一皮剥けた』感がとても強くなった。私や桜では追いつかない。姉さん(お姉様)並に腕が上がったように思う。
そんな今が一番伸びていて調子の良いアルトリアに付き合って、本日の部活は押せ押せで長引いた。試験休み中なのだから、さっさと終えても良いのだ。だけど先輩方も私達も、皆んな残っていた。練習を終えたのは枯れた矢道が、夕日でオレンジ色になった頃だった。そこから男子とともに戸板で射場を閉めた。この間に係の数人が、的を回収しつつ監的や裏手の巻藁小屋の戸締まりをしている。
もう係をフラれても迷う1年生は居ない。それくらい長い時間が過ぎた。回収係の男子が矢を配ってくれた。それをありがとうと受け取る私達は床磨きを終えて神棚の前で正座していた。そして全員で挨拶した。
その時だ。猛烈な魔力震を感じた。ピクッとしたのは桜と多分衛宮先輩で、私とアルトリアは一瞬視線を交わすだけに留めた。それは他の誰も気付いていないし、おそらくこれは私達西欧魔術師とは関係ないと思えたからだ。多分だけど神道や陰陽道、そういう類いのものだ。なので何もなかった顔で弓具を片付け、更衣室に入った。
長い部活を終えて、仲間と自転車置き場で別れた。アルトリアには『後で』と言ってある。桜とバス停の方へ向かう時、校舎の方から背の高いバッグを担いだ男女がやって来るのが見えた。トロンメルと近藤先輩だ。ったく、どいつもこいつも……と、何をしていて遅いのか知りもしないのに、勝手な想像(妄想)でトロンメルを睨んでしまった。だけどトロンメルは私の顔を見付けるやいなや、意味深に頷いた。先程の魔力震に付いてだろう。
いつものバス停で桜を見送り、家に戻った私は荷物を部屋に置くと、着替えもせずに玄関に出た。そうしてお買い物用の自転車を借りて門に行くと、トロンメルとアルトリアがちょうど戻ったところだった。
「アルトリアの家に行く?」
「ここで良いでしょう? 凛さんやルヴィアさんも気付いているだろうし」
「そうね」
ならと、自転車を戻し皆んなで家の中に入った。いつもの食堂で凛さんが私達を手招いた。やはりという感じだ。そして凛さんがこの食堂に設置されている、普段は誰も付けないテレビを指差した。それをルヴィアさんと士郎さん、そしてアーチャーさんが食い入るように見ていた。有名なアナウンサーが顔中包帯だらけだ。
「何ですか、これ?」
「東京のテレビ局と新聞社、そして国会議員の集まるところが何者かに襲われたのよ」
「テ、テロですか?」
「多分ね。わかっているだけで、被害者は千人以上だそうよ。でも、誰というより組織よね? それが何のために、しかも証拠も残さずにこんな事ができたのか。そこがまったく不明なのよ」
もう少し詳しく言うと、襲われたのは東京のキー局、それと大手新聞社に議員会館だ。なので出張中やたまたま外に出ていた人に被害はない。だけどこんな人の目の多い場所ばかりなのに、目撃者が皆無なのだ。現在東京では各病院がパニックだというだという。警察も動いているが襲撃場所が余りにも多過ぎて目星も何も付かない状態らしい。
「こう言うと何だが、可能なのは英霊……それも百貌のアサシンだろう」
私は思わずアーチャーさんを睨んだ。確かに彼らなら可能な気はする。だけど場所が多過ぎる。幾ら何でもこれは無理だ。おまけに私のアサシンは現在そのほとんどが中国だし、残りは冬木の森から出ていない。気になったので確認を取ったけれど、返って来る返事は案の定だった。誰も森から出ていない。
「エルマ、君以外にもアサシンのマスターは居るだろう? 君よりも多くを従える者が」
『エル様』? まさか……仮にこちらに来ていたとしても、こんなテロ行為から1番縁の遠そうな人なのに……? そこで電話が鳴った。子機を取ったのはルヴィアさんだ。
「はい、ルヴィアですわ……ああ、エルヴァさん。ええ、ええ。え? そうですか……はい。わかりました、伝えておきますわ。ええ、勿論です。お気をつけ下さいまし」
そうして子機のボタンを押して通話を切った。この番号はルヴィアさん専用だ。エーデルフェルトのそれではない。なので電話帳にも載っていないし、知っているのもごく少数に限られていた。それは本国のご両親やリューリィさん、或いは姉さんだ。それ以外の、例えば学園の友人などはエーデルフェルトの番号に掛かるし、メイドさんかオーギュストさんが先に受けている。士郎さんは私達と同じで携帯電話の番号を知っている。つまり専用の番号に掛けて来たというのは、それだけの内容だと言うことに他ならなかった。なので私達はルヴィアさんの言葉を待った。
「結論から言いますわ。犯人は『エルさん』の別人格だろうとの事です」
「もしかして中国の?」
「かも知れませんが、違うかも知れません。また『現象』となったあちらの『エルさん』の別人格も考えられるそうです。なのでそこは現在不明です」
あ、そうか。『現象』の別人格、その線があるのか。
「と、同時に『エルさん』もこちらにいらしていて別で動いているそうです。真相というか意図ですわね、それがまったく以って不明ですので、エルヴァさんは取り敢えず『エルさん』と合流するそうです。また、西日本に元々備わっています結界がありましてね。リンは以前一緒にエルヴァさんから聞きましたでしょう? 例の京都を中心とした五芒星」
「冬木の五芒星の大元ね。こっちに穢れが流れているんだっけ?」
「ええ。それを一気に浄化するくらい回転率が上がったそうです。おそらく夕方のあの魔力震はそれですわ」
「んと……つまり、冬木が浄化されたって事なの?」
「ええ。ですが、ついでというか、結果としてそうなったと言うか……」
「ああ……計算もあったかも知れないけれど、本当の目的は大元の結界の活性化って事ね?」
「のようです。その真意を探るべく、エルヴァさんは『エルさん』と合流するという事ですわね。ですので、私どもは連絡が入るまで動かず待機して欲しいとの事でした」
そっか……今は待つしかないか……。テレビは緊急特番になっているのだろう。ほとんどCMが入らないし、番組が始まらない。そこで臨時ニュースが入った。金融担当大臣が行方不明で、総理大臣が何者かに狙撃されたとアナウンサーががなり立てている。
そして大写しされた犯行声明文には……。
『ひさしぶりやな。アホども諸君、元気やったか? お菓子のメーカーを許したってからン十年。世の中ちっとは良うなったかと思っとったけど、何が劇場型やねん。何が聖域なき構造改革やねん。ふざけんな。若いもんの仕事を奪い、デフレで出生率は低下。このままやったら日本人、おらんようになるで。嘘しか書かん新聞はいらん。嘘しか喋らんテレビもいらん。何より国民のために命かけられへん政治家はもっといらん。今度は世直しや。また付きあってや。ほなな』
最初は何の事かわからなかった。だけど包帯ぐるぐる巻のアナウンサーが言った。
『こ、この犯人はグリコ・森永事件の……?』
ナンノコッチャと首を捻っていたら、トロンメルが自室に駆け出した。
「トロンメル?」
「アルトリアをお願い! 株価が動く!」
あ、自分だけ……。だけどアルトリアの事を頼まれたら動けない。それにこの事件での株の値下がりは一時のものだ。大きく儲けるなら為替だろう。おそらく……この先、円安になる。そこを買いに出れば。
そして続報として、海外でも報道されている旨と、築地と千代田に本社を持つ新聞社社屋から、狙撃に使ったと思わしきライフルと銃弾が発見されたとその新聞社から警察に届けがあったと伝えられた。これは先々週あたりに、旧中国に加担していた新聞社や献金を受け取った議員などの名が暴露された件と絡んでいる。正にそこで名指しされた新聞社が警察に通報したのだ。嵌めに来ているとしてもお粗末すぎる。何よりこれだけの事が起きているのに、政府からの緊急事態宣言も戒厳令もなかった。きっとパニックになって出せる人が居ないのだ。だから自衛隊も動かなかった。これで完全に円安になる。長期的には金利も少し上がるだろう。
『誰が何のために?』。決まっている。中国の『エル様』の思惑に、『エル様』が乗って動いたのだ。怪我人は居るだろう。だけど死人は居ないはずだ。これは完全な演出だ。この先、日本中が……いや、世界が踊らされる。もし、死人が出るとすれば、一文無しになったアメリカや英国の一部投資家だろう。そうか、アサシンをそういう風に使うのか……。これは私じゃ無理だ。手が空けば中期で円を買おう。私には、そのくらいがお似合いだ。
「これは……完全なテロ行為だぞ? どうにかならんのか?」
アーチャーさんが声を出した。士郎さんの眉間にもシワが寄っている。
「中国にいらっしゃる『エル様』だと考えれば……13億人を拾うための手の1つではないですか? つまり……確かに報道にある通り、首相が狙撃され大臣が行方不明なのでしょう。だけど誰も死んでいないと思います」
この世で1番愚かな行為は戦争だ。それまでの貨幣経済を崩壊させるのだから。かつての日本でもあった配給制や節約米、代替品などの事例を数えるまでもない。その苦労をお年寄りの方々から聞いて調べていた『エル様』。あの方は初等部時代にある事がきっかけで終末期医療病院を知り、何度か訪れている。
『きょうちゃん……あんた、儂なんかのために来てくれたんか……。ありがたい……ありがたい』
その方は震える手を合わせ、涙を流しながら『エル様』を拝んで死んだ。黒髪のおさげで、セーラー服にもんぺの女の子。そんな、老人の思い浮かべるイメージ通りに幻影を見せていたのだそうだ。それも何度も。そんな『エル様』が他人の命を簡単に奪うはずがない。あの『不殺の誓い』は軽いものではないのだ。
「演出だというのか?」
「はい。結界の件との関連が見えて来ないですが、東京のこの事件は為替相場を動かすためと、ある特定のメディアと政治家を排除するためだと思われます。ですから表面だけを追えば……」
そうなのだ。あの方なら13億も1億2千万も両方拾おうとされる。目の前の事だけで正邪を判断できないし、してしまって本当の『善』を潰えさせるなら、それこそが『真の悪』だ。
「くっ……。では、何故今なのだと思う?」
「『現象』が抑止を押え込んでいるからだと。つまり現状、今とことんまで動いても、死後を英霊なんてものに縛られる事もない。そもそも私が百貌のアサシンを使うのは、私自身が死後囚われないようにするためです」
「そう、教わったのだな……?」
「はい」
おそらく日本中の人が、チャンネルこそ違えど似たような報道を見聞きし、ネットで調べている筈だ。世界は……日本はどうなるのだろう……?
チューリッヒのエルのところへ電話を掛けた。勿論、国際ニュースとして流れてきている日本の事に関してだ。すると『エル』からお祖父様にお話があったようで、お祖父様とエルは『エル』の指示通りに円を買い漁っているという。つまりこの事件そのものが陽動だ。その陽動に便乗して儲けようと言うわけだ。そしてその陽動の裏、真に隠したかった事とは。それは西日本の結界を強固にして、霊脈の中のマナの通りを良くする事と、最後は皇居にまでそれを伸ばす事にあった。
その西日本の結界を活性化させる3つの起動キーを、『エル』は中国に向かわせた人形に持たせていた。だから彼女は人形の身体なのに人格を幾つかと、それらを容れて動ける人形数体を最初から持たされていた。どうもこれは『現象』となった彼女と、ニューヨークで接触した時から練られていた計画だったのだ。
「『現象』の残滓である私はもう、外に出て行動できません。ですがこの計画の意図はわかります。きっとあなたの元だった『エルさん』に、代わって動いて欲しいと既に頼んであったのだと思います。だから中国にその人を派遣していたのでしょう。それと『私』も双子の姉や、末の妹が過ごした日本に思い入れがあります。この世界にもあなたの大切な方がいらっしゃるのでしょう? なので日本のエルヴァさんにも『エルさん』から連絡が入っていると思います。心配はご尤もですが、これは神秘のチカラを江戸時代頃にまで戻すためなのでしょう。そしてその神秘の回復に拠って信仰力を強くする。今、世界中で『祈り』が強くなっています。インドもそうですしイラクもバチカンも。その中国の方が通った後は全部そうなっています」
「それはどうしてですか?」
例の空間で、もう1人の自分を伴って残滓の彼女と話し合っていた。
「今月の25~27日に起きるかも知れない大地震を回避するためです」
地脈に溜まったストレス(エネルギー)を、神秘に変換する……?
「はい。そのための起点を既に割り出し、魔術装置を設置済みなのでしょう。それで最後の仕上げがこれなのだと」
そんな事を『現象』となった彼女と『エル』は狙っていたのだ。そしてその仕事に見合った対価を儲けさせても貰う。どちらもとことんまで魔術師だった。また……世界中の誰も気付けないし、そもそもそんな未来の事なんて予測できない。だけど並行世界の『夢』を視る能力のある『エル』ならできてしまう。つまり『現象』の彼女も視てしまったのだ。きっとその大地震で大勢の犠牲者が出るのだろう。それを回避するために。
場所は教えてくれなかったけれど、どこかの沖合で起きる海底地震だと教えてくれた。
「『エルさん』は海底の霊脈を開発する事業を行っていたので、この海底地震を知らずに回避していたようです。ですが異なる世界では……」
何億トンもの海水が津波となって陸地を襲い、何十万人もの人々の生命を奪う……。その恐ろしさは波の高さではない。真に恐ろしいのは、その圧倒的な質量だ。溺死する前に自動車や電車を超える質量の瓦礫に潰される。そんな重いものを浮かせて運ぶチカラが『水』にはあるのだ。だというのに津波の被害は海岸線と限られる。なので体験した者以外は忘れ去っていく。
ノアの箱舟は神話というより寓話に近い。そしてそこに込められたものは教訓だ。当時は質量という言葉がなかっただけで、すべての生き物を番(つがい)で退避させないといけない程の災害なのだと。だけど神は動けない。だからノアに託した。そうだった。『エル』もそういう人だった。知らないなら仕方ないけど、知ってしまったら真っ先に動く。そういう人だ。だから私はもう何も訊かなかった。
「エルヴァ、スイスのエルヴァちゃんは?」
「ええ。夢で知っていた可能性が高いですね。だから先にあちらへ連絡を取ったのだと思います」
決して『日本円を買え』だけで済ませていないだろう。私と彼女はパミちゃんを残滓の彼女に預け、いつもの家でお茶を喫していた。話が話だっただけに脱力して何もする気が起きない。だけど2つの理由から性的に少し興奮気味だった。1つはこの世界の状況を更に深く知って危機感が高まっているからだ。早くフンボルトとの子供を作りたい、そう女としての本能が訴えている。と同時に彼の家も私の家も古い因習や価値観を持つ家だ。本来の私は結婚(契約)をまっとうしてからでないと、身体を許すようなタイプではないし、そういう価値観を持つべく躾けられていた。
だけど……フンボルトと散々そういう関係を持ちながら、それを棚に上げて、この数週間お互いに我慢していた。それは初夜を大切に考えているからだ。本当に今更だけど。それでもあの『Thanksgiving Day』を迎える前の週にして以来、何もしていない。『Thanksgiving Day』の次の日曜日、あのまったりした日に『恋人のキス』も我慢しようと彼から言ってきたのだ。彼も本来は、真実結ばれたいと考える人とは婚前交渉をしないタイプだった。だけど私の精神的な不安定さで彼を引き摺り、そのポリシーを捻じ曲げてしまった。
だからしっかりと話し合って、お互いに納得して我慢している。なのでフンボルトは彼女ともこの数週間逢っていない。
『君と彼女ならノーカウントだよ。行っておいで。それでよろしく伝えておいて』
そんな事を言わないで。でも、そういう理由で彼女には全部話してある。
「正解ですね。それがお互いの愛する心を、より高いステージに上げると思いますよ」
なのだと信じている。だからこそ、その初夜は3人で迎えたかった。
「私も? そこは2人で……」
「ううん。あなたも一緒に」
「あ、ありがとうございます」
そこで今事務所と相談中の家の事も話してみた。
「本当に? その家の中なら私も外の世界で……?」
「はい。それとその家とこの家をリンクするつもりです。本来はこちらの方が簡単なので」
そうなのだ。今いるこの家を外部に直通させる方が簡単なのだ。ただ、ここはパミちゃんの空間だ。つまりセキュリティ上の問題があった。だけど新たに家を建て、経路を絞れば。魔術的にも安全性を考慮しても、ほとんど問題ないと結論が出た。そこの相談もあったのでパミちゃんを連れてここに来ていたのだ。残滓の彼女の返事はオーケーだった。他に幾つかのアイデアも頂けた。やはり彼女は魔術の天才だった。私も、もう1人のエルヴァもポカーンとなるような考えを披露してくれた。パミちゃんにはまだ早い話だけれど、徐々にこういうのを聞かせて行こうと考えていた。またそんな私の気持ちを彼女もパミちゃんも汲んでくれていた。
「ですので、私が出張などで留守の間、彼のお相手をお願いします」
「承りました。御台所様」
プッと吹き出した。これ、日本史を学んでいないと出て来ない言葉だ。お公家さんが政治を行っていた平安時代なら、高貴な人の正室は『北政所』だった。それとは別に男性が外なら女性は家と象徴されるようになり、武家社会では『家の中=奥の事』を任せられる人という意味で、広く『奥様』と呼称されるようになった。だけど領地を持ったお殿様などの中では、公家さんに肖って『御簾中(ごれんじゅう)』という呼称もあった。それらが江戸の徳川幕府で明確に分けられ、一般の武士は『奥方・奥様』だ。若い間や新婚の場合は『御新造』などが使われ、民衆から武家の奥様を呼び表す場合はもっと様々な呼び方があったらしい。で、何万石もの領地を持つお殿様の奥様は、先にも言ったように『御簾中(ごれんじゅう)』であった。これも幕府からそうせいと言われていても家ごとに違っていたらしい。町人と同じく『内儀』と呼ぶ人もいたのだとか。そして将軍の正室を指す言葉が『御台所(みだいどころ)』だ。
台所。つまり家の中の奥の奥。勝手口に1番近い台所。将軍が安心安全に家族と接し素の自分を出せた場所。そこの一切合財を取り仕切るのが『御台所』なのだ。つまり彼女は自分が『側室』であると言い切ったのだった。今後もフンボルトは浮気しないだろう。だけど昔の貴族や騎士、武士に限らず、後継ぎのない魔術師はあり得ない。
だからお祖父様も数え切れないほど子供が居たのだ。『エル』の知り得た範囲で、50人以上だ。そしてそのほとんどの人が、認知もされず幾ばくかのお金を与えられひっそりと暮らしているか、既に寿命で死亡していた。つまりお祖父様の血を引けど、その魔術師として必要な才能は引き継いでいなかった。なので普通の人のように短命なのだった。お祖父様は歴代の奥様を愛しておられ、最初のスウェーデンの方とは2人のお子さんを儲けた。1番上がアルトゥル様で、2番目がブルーノ様だ。そして悲しくも奥様は病で倒れ帰らぬ人となった。やがてお祖父様はこの人ならと決めて再婚された。オーストリアの人で、現在はオーストラリアで牧場と農場を開かれているカールのお兄様と、もう1人女の子を儲けられた。この方は他のアインツベルンに嫁がれていて、ある意味『エル』にとって目の上のたんこぶ的存在だったりする。
まぁそこにあるドラマは置いて、こんな風に跡取りは一族繁栄のためにもとても重要な存在だった。つまり『ラインの黄金』に拠る不妊は大問題だったのだ。それを回避するためのホムンクルス鋳造であり人形造りであり、分割思考や人格フィルターだった。だから本体の肉体には生理が来ない筈なのに、初潮を迎えたのには驚いた。あの時は人形を使っていたのだろう。47番である私の目を欺く程の完成度を持った。
ともあれそういう諸々があるので私は人一倍赤ちゃんが欲しかった。末の妹の美遊のオシメ替えも率先してやった。あれは『エル』だけでは無かったと思う。中にいる全員が同じ気持ちだった筈だ。だからおチビちゃんが熱を出した時に、寝ずに看病するのも、お粥を作るのも、寝汗を拭くのも当たり前のようにやった。実はあの時、クロエちゃんとも逢っていた。熱にうなされていた2人は憶えていないだろうけど、必ず出してあげると約束したのだ。そして翌日、熱が下がったのを確認してから美遊ちゃんに声を掛けたわけだ。
そんな風にパミちゃんも、風邪をひいたり、熱でうなされたり、成長痛で夜中に泣いたりしていた。旅に出ている間の事を本当に申し訳なく思う。だけど今は私か彼女達が見守ってくれている。モニカさんやミアータさんもいる。そして今のパミちゃんはいつかこの世に産まれて来てくれるレオポルドを心待ちにしてくれている。勿論、名前も性別も話していない。だけど男の子が欲しいとは話してあった。パミちゃんにも、当然彼女達にも抱っこしてあげて欲しい。
でも、これらが全部無理なら……? レオポルドの事も何もかも私の妄想で、子供が産めないなら? 歳を経て生理も止まったら? そこにもまた魔術師としての覚悟が必要なのだった。これでもまだ私はマシなのだ。1番気の毒なのはルヴィアだ。今の時代にはないと思いたいが、その昔は夫婦の褥に定評のある男性を招き入れ、4P・5Pは当たり前だったという。この定評とは簡単に言えば男性版禅城だ。対外的な夫は愛する人1人で良いが、家を護るため、子孫のためなら意に染まぬ相手の種をその身に受けなければならない。これが……女性が家督を継ぐ家の常識だったのだ。今はそうでないと思いたいが、ここに双子なんて魔術が絡むので何とも言えない。
また、リンさんがあれだけ毎夜毎夜パンパンと頑張るのは、何としてもシロウさんとの子供を儲けるという執念でもある。遠坂時臣小父様が禅城から葵小母様を迎え入れたのは、2人の娘に自由恋愛をして欲しかったからだと聞いた。嘘のようだが本当の話だ。一度禅城の血を受け入れれば、そこに生まれる女の子はそういう体質になるのだという。つまり魔術師の男性と結婚すれば、旦那様の才能と自らの才能を色濃く受け継ぐ子が生まれる。となると間桐慎二が無能でも、種さえあれば魔術師が生まれる。これをきちんと知っている臓硯はいない。どこの並行世界でも時臣小父様は黙っていなくなったのだ。だから私はリンさんにそれを教えた。
ただでさえ好きモノだった2人は、これを知り式を済ませばところ構わずヤッていた。庭の木陰で青姦している時は驚いた。玄関側にある2階の私の部屋からは見えないのだが、裏庭に面したフンボルトの部屋からは丸見えなのだ。でも1階からは全然見えない。つまりそれなりに場所は選んでいた。だけどどこかうっかりヌケるのがリンさんだ。唖然とした。私もフンボルトも契約が済むまではと我慢している状態だ。大きくテントを張ったフンボルトのズボン。それを見てトロンとなる私。ハッと自分を取り戻して自分の部屋に戻った。そして自慰に耽った。多分、フンボルトも同じだったと思う。
「それで私と逢って来いと……?」
「そう。同一人物ならノーカンだろうって」
「でも、それは都合のいい解釈だって我慢するんでしょう?」
「はい」
「ね? でないと見分けが付くはずないですものね。あなたは立派です。ある意味、本物は日本に居るエルヴァなのに。それでも真っ正直でありたいと願うあなたを、私が嫌うわけがありません」
そういう事なのだ。つまり彼女と私は今、お互いを褒め愚痴を零しあっていた。まぁ、女ってこんなものだ。江戸時代の大奥もこんなものだったと思う。
『糞螺子』
2人で付けたフンボルトのアダ名だ。なので私達を裏切ったら、腕に彫ってやろうと決めて笑いあった。『あ~あ、世界が大変なのにこんなので良いのか』と思いつつ。でもスイスでの結婚式が待ち遠しい私だった。
「地位も稼ぎも大事。だってそれがお腹を痛めた子のためだから。ですからお家のためなら、世良田二郎三郎元信を迎えられた側室の気持ちもわかります。でも、私達は魔術師。彼も子供も取りましょう。ね? エルヴァ」
私はもう1人の自分を、心の底から尊敬した。
良い時間になった。彼女にお礼を言ってからパミちゃんを迎えに行ってから外に出た。工房を覗くとフンボルトの姿が見えなかったので、アンプ裏の工房に入った。すると、居た居た。フンボルトは板に鉋(カンナ)を掛けていた。作業台には洋鉋と和鉋が幾つか出ている。これもお祖父様のコレクションだ。
以前、私の投影をお兄ちゃんが褒めてくれたけれど、あれも鉋と包丁のお陰だ。日本で和鉋と和包丁を知ったからだ。中華剣も西洋剣も押し切るものだ。鋸(ノコギリ)も鉋もそう。だけど日本では鑿(ノミ)と彫刻刀以外は全部引き切る。だから使い方が違うのは当然だし、刃の付け方も違う。それで私の干将莫耶は引き切るように改造してあって、基本骨子も構成材質も全然違う。骨子は包丁に近いし、材質は玉鋼を鉄で包んであり、そこに神秘を上乗せしている。つまり、ほとんど日本刀なのだ。
そうする理由は刀身を空気の鞘で覆い、鞘を滑らせながら抜いて使うからだ。要は居合抜きだ。これはシロウさんに教えていない。残酷だけど風の魔術が使えないと無理だからだ。だけどお兄ちゃんは見破った。空間を飛ばす方に目を奪われるのか、他のアーチャーさんの誰にもバレていないのに。ただセイバーとランサーは見破っている。さすがだ。
では、どうしてこんな工夫をしているのか。それは私が女で、しかも背が低いからだった。空手も手技より足技が得意なのは、その方が威力が増しリーチを稼げるからだ。こんな風に体格から来るハンデを、自分でどう捉えて工夫するのか。それを教えてくれたのがアルトリア姉さんだった。だから私はいつだって考えている。多分、それで考え過ぎるクセが付いたのだと思う。
「エルヴァ、ごめん。これの刃を」
木槌を手に取り、受け取った鉋の刃を調整した。裏金が少し引っ込んでいた。洋鉋は調整が簡単だけど和鉋は難しい。だけどこれができないと。と言っても私にしたって平鉋しか調整できない。それも自分で持っていたのは、刃幅65mmの寸六と、刃幅40mm弱の豆鉋だ。この鉋というものをじっくり考えると、ある事がわかる。それはその土地の植生だ。特に日本は良い意味でガラパゴスだった。だからこんなのが生まれたのだと思う。江戸時代までは柄の長い振り下ろして使う、ハルペーみたいな鉋だった。
それは体格もあったろうし、杉などの木材の種類や、日本家屋用の加工に向いた道具だった。では西欧はというと、ほとんどが石の家だ。木材なんて一部に使われるか、小屋を建てる程度だ。そして生えている木は硬い広葉樹ばかり。でも皆んなガタイが良いので押すことに苦労しない。それに、あのヴァイオリンの美しい曲面も押して削られている。つまりノミのように微妙な作業もできるという事だ。
だからどちらが優れているのかでなく、どちらがそのときの作業にマッチするかだと思う。でも、包丁やカミソリなどの刃物は日本製だろう。
だけど涼しくなったなぁ。芳香体質な私でも夏より匂わなくなったし、フンボルトも男らしい匂いが薄まった。本人も言うようにフンボルトは体毛が薄い。だからか夏でも日本人並に匂わない人だ。そしてこれは好きになった贔屓目じゃないけれど、脇の汗の匂いもイヤじゃない。ああ、男らしいなって思うだけだ。だから今時分の禁欲は意外と良いのかも。そう考えている段階でダメダメなんだけど。
そう自覚したのでフンボルトから意識を外して、横の作業台の上に置かれてあるギターを見た。珍しい。『Gibson Invader』だ。それも真っ赤な。これは80年代の迷走期に作られた1つだ。これの前が『Challenger』で、その前が『Sonex』だったかな? ともかくその頃は『Charvel』や『Kramer』に『Ibanez』などが台頭して来ていて、『Fender』も『Gibson』も苦しい頃だった。
それで『Gibson』は『Flying V2』に『Explorer 2』『Fire Bird 2』などで対抗しつつ、『Les Paul』タイプのボルトオンを出して低価格帯も押さえようとしていた。だから『Sonex』も『Challenger』も『Invader』も、どこか『Epiphone』っぽい。私はこの手の安っぽギターが好きだった。さすがに『Victory』や『Corvus』はないと思うが、シングルカッタウェイの『Les Paul』っぽいタイプは好きだ。なので先日も『Edwards Marauder』を日本のトロンメルから送って貰ったところだった。ただしこの『Edwards Marauder』は70年代の本家『Marauder』と違ってセットネックだし、ピックアップもビル・ローレンスでなくセイモア・ダンカンだ。だから値段も10万円近かった。
「どうしたの、これ?」
「ん? 今気付いたの? お手本って訳じゃないけど。君のSpecial II をね」
『Epiphone Les Paul Special II』の事だろう。
「それが?」
「コントロール・ノブ。あっちが2つでこっちは4つでしょう? だから『Studio』みたいにね」
ああ、私の巻いたピックアップと、ロータリー・スイッチに改造するんだ?
「違うよ? そういう風なオリジナルを作ろうとね。ヘッドもペグを4対2にしてさ」
ああ、つまり彼なりの低価格路線の新機種なんだ? だけど数が増えると大変だ。
「自分で作るの?」
「いや。外注に出したい。そういう機種を幾つか考えてあるんだ」
なるほど。多分きっかけはトロンメルが送ってきた『身に覚えのないギター』だ。私が間違って送ったのだと考えたらしい。だけど、どうもその『ES-175』っぽいホロウボディは中国製だった。間違いなく中国に『エル』か『エルの人形』が居る。そこから今日本で起きている『テロ』が陽動だとわかったのだ。まさかその真の狙いが地震回避だとは夢にも思わなかったが。
それはともかく彼女が居るなら、そういう工場を紹介して貰える可能性が高い。これは連絡を取るべきだね。
翌々日、日本中が騒然とした。与党がスパイ防止法案と憲法改正をいきなりぶち上げたのだ。これは狙撃のショックから立ち直った首相の肝いりだった。弾丸が逸れたのか幸い首相に怪我は無かった。が、官邸に入ったかと思えば政府高官を次々と招集し、この案をぶち上げたらしい。
それをすっぱ抜いた新聞社からは、盗聴器の受信機が発見され、続々と逮捕者が出た。その受信機を発見したのは、狙撃銃の通報があった新聞社2社を捜査していた警察だった。たまたまにしては出来すぎている。だけど証拠はバッチリだ。何よりその受信機から出た指紋と、ライフルの引き金に残った指紋が一致し、なおかつ記者の指紋とも一致してしまった。言い逃れは一切不可能だった。
また行方不明だった金融担当大臣が議員会館のトイレで発見された。本人は至って健康で、ただトイレに入っていただけだという。だが、彼がトイレに入ってから8時間も過ぎていた。その事実に驚いていた。その翌日から彼は目まぐるしく動き、財政拡大、公共事業復活を財務大臣に訴えた。首相がそれに賛同し、政府はほぼその方針で次(来期)の予算委員会までに指針を固めるという。こんな会期の途中での方針転換は前代未聞だった。
だけどこれらに反対する論調の新聞報道は皆無でテレビ放送も元気がなかった。そして何かに耐えていたアナウンサーが突如叫んだ。
「息子を……子供を返して下さい!」
そして写される犯人からの手紙。今度は名前があった。
「売国に忙しそうなアホども諸君。全部ぶちまけようや? アナウンサーだけちゃうで? カメラマンもディレクターもや。子供や家族、おらんようになったんやろ? お前ら国籍の怪しいもんの嘘で、苦しんだ人達の気持ちわかったか? これは続くで? そこの局だけちゃうからな。これは世直しや。代議士さんも報道関係のもんも、祖国を売る奴はいらん。この日本は、戦争の最中でも日本を愛し、日本のために尽くしてくれた人が残してくれたんや。そないな大切もんをわしらは受け継いどるんやで? GHQが残したアカいド腐れ教師や教授に踊らされんな。この国は日本を愛する国民のもんなんや。そこをもう一回、よう考えてや。ほなな。黄金バットの下僕より」
この放送により日本中がパニックになった。
そもそも最初の事件だ。どうやって警備の厳しい議員会館に潜り込んだ? どうやってほぼ同時刻に部屋で寛いでいる議員を襲った? 犯人は何人だ? そんな大勢なら、警備が気付かないはずがない。なのに誰も気付かず、殴られ意識を失った議員も憶えていなかった。全員がだ。骨折や検査でまだ退院できない者も多い。それなのに元気な者と復帰した首相が次々と法案を纏めている。
警察はどうなっているのだと世論の声も聞こえていたが、テレビ局職員の家族の誘拐が明るみになった段階で声が静まってしまった。何が起きているのか、誰も認識できないのである。
そして港区のとある警察署内にある留置所から、居るはずのない外国人が発見されたのだった。その外国人はアラブ系で記憶喪失だった。それがアルカイーダのあの人物らしいとわかったのは更に翌々日後の事だった。
だけどその前にすべての学校が休校になり、子供や家族を置いて仕事などできないとの社員の訴えと、ようやくの政府が発した緊急事態宣言で大手の企業も年内の操業を停止した。
警察上層部(警視庁。東京都警)は半ば諦めていた。と同時に警察庁(全国の警察庁を纏めるトップ機関)も諦めの色が濃かった。何故なら余りにも常軌を逸しているからだ。証拠も何も残さず、目撃者もいない議員会館襲撃。そして放送局の家族の誘拐。どうやってこんなに大勢を一度に誘拐できた? そもそも監禁する場所すら想像付かない。一体犯人は何百人居るのか? 出入国を調べても怪しい人物は見当たらない。と言うかザルだ。どうして拘置所にあんな人物がいる? まさに人知を超えた所業だった。
そして犯人からの声明は新聞社やテレビ局だけでなくネットや他国の報道機関を通しても行われた。当然そちらを追っても誰にも行き着かなかった。当然ながら模倣犯も出なかった。誰も真似できないからだ。むしろ余りの規模の大きさと、神出鬼没な犯行が90年代のオウムの傷やその他のテロ犯罪行為を陳腐化させた。
何故なら犯人の言う通り『世直し』は、こんな目に見えるものだけでは無かったからだ。警察内部の汚職や天下りが暴露され、広域指定されている団体はその『信じられない暴力』で強制的に解散届を出させられていたからだ。ネットに上げられる歯を全部折られた組長のフェラ・シーンや幹部のレイプ・シーンはネット民を大いに沸かせた。相手は浅黒い肌だという以外不明だった。しかし口腔を犯され、アナルを犯される映像は海外にまで流れた。当局が消しても消しても流れる。人々は本物の暴力とその圧倒的な殘酷さ、そしてネットの怖さを思い知った。
何故なら、誰一人殺されておらず、生き恥だけを延々と晒さられていたからだ。メンツで生きている者にこれほど殘酷な事があるだろうか。自殺を選ぶ者、発狂する者が跡を絶たなかった。
「これ、日本の司法がひっくり返るだろうな」
新聞を広げ弘二お兄さん呟いた。
「どういう事だ、弘二兄ぃ?」
「考えてもみろよ、弘三。これって『ねずみ小僧』だ。『黄金バットの下僕』なんて名乗っちゃいるが、この世直しは世論が認めてしまう。現にそういう風になっている」
「義賊……?」
「そういう事だよ、エルちゃん。となるとそれを捕まえたい警察は悪になっちまう。また、こうまで見事に不正を暴かれちゃな」
私はコーちゃんの家で、弘二お兄さんを交え話していた。
「組織犯だとしか考えられないが、10人や20人じゃないだろう。この活動資金はどこから出ているんだ?」
想像付くが答えられなかった。おそらく誘拐された人々も安全で、どこか違う国か想像も付かない場所で発見されるだろう。この他国で開放するというやり口は『エル』の方法だった。パスポートやビザに金銭的な問題に追われ、足が付かないのだ。宝具で取り込めるからこそできる事だ。
そんな深刻な話をしているのにコーちゃんも弘二お兄さんも私とお義母さんの合作料理を食べ尽くして、お茶漬けを食べていた。あの某有名メーカーのものだ。少子化で若い人ほどお米を食べなくなったと言われるこの現代でも、脚気になるぞと言うくらい吉川家の男性陣はお米を食べていた。京都人から『ぶぶ漬けでもどないどす(早く帰れよ、バカと言う意味)』と言われてもお代わりしそうな勢いだ。それは1999年の伝説のCM(俳優でなく広告代理店の人の模範演技がそのまま放送された、いわゆる電話無視の『お茶漬け中』)さながらだった。
だけど物足りないのか2人は同時に立ち上がりジャーでご飯をよそっていた。お代わり無料のお店なら、吉川家が来襲すれば潰れると思う。それくらい食べる。さすがにおかずは、もうないのでフリカケと冷蔵庫に余っていた竹輪とお漬物を抱えてきた。う~ん……『姉のイリヤ』の自家製ぬか漬けを食べさせてあげたい(絶品だ)。
「弘三、竹輪取るな!」
「何を言う。そいつは俺の明日の弁当用素材だぞ?」
「チッ。もやしのピリ辛炒めで我慢しろ」
この弘二お兄さんは、弘一お兄さんと歳が近くい分、ひもじい思いを何度もしたそうだ。だからコーちゃんや、その彼女である私には優しい。だけど食べる事に関しては譲れないらしい。とは言え、高校生のコーちゃんにわかりやすいように、弘二お兄さんは食べながらもこの事件の解説をしていた。
「つまり迷宮入りの可能性もあると?」
「ああ。尻尾が掴めない限りそうなるだろうな。ここまで何の痕跡も残していないんだぜ? 俺には……ヘンな話だが、まるで犯人が幽霊にしか思えない」
いい線、突いている。
「幽霊って……」
「まぁ、そこは俺のいい加減な想像だ。けどな。ざっと考えても、千人居てどうかってレベルの話だぜ? だけどその人数が今度は違う矛盾を生む。目撃者がいない点と、発表されていないが入国の問題だ」
これも答えは『霊体化できるアサシン』と、そこに飛ばせる『エル』の存在があってだと答えが出てしまう。だけど言えないし、言っても信じられないだろう。魔術師の犯す犯罪のほとんどは、『何のために(動機)』は探れても、その方法……『いつ』『どこで』『誰が』『どのようにして』は不明となる。一般人なら尚更だ。
そして私は求めている答えがわかっているのに、その間の『過程』の意味が見えずに居た。陽動やついでの世直しのためだとしても、ここまで世間を騒がす必要があるのだろうか? だけど『ある』と思えたからそうしているのだろう。今の日本の置かれた状況は、もはや私の思考できる範囲の外だった。