――これは誰かの目線。
陽の高い時間に屋内の廊下を歩いている女の視界。歩いていると、ふと視界の奥に見知った模様が映る。すると、心の中が温かくなり、口元が思わず緩む。声を掛けようと近づくと、あの額に火傷跡を残すあの羽織を着た彼の顔が見え、その隣には蝶飾りをしたあの娘の姿が見えた。
(――……)
楽しそうに談笑しているその光景を見て、急に胸がぎゅうっと締め付けられた。苛立ち、胸が苦しくなって、ざわつく。温かくなっていた心が、一瞬にして冷えていくのがわかる。
彼が、あの娘が誰だかわからない。知らない。思い出せない。なぜ彼の姿を見て心が温かくなったのか、なぜ彼らの姿を見て心が締め付けられたのか、理解できない。
(あの子にはお似合いですね……自分よりも。第一自分は――)
まるで自分に言い聞かせるように、諦めるように、この視界の持ち主がそう心の中で呟いたその言葉。この胸の苦しみを無理矢理無視し、自分に言い訳をしながらもそれでも、羨ましい、諦めきれないという思いでその光景を寂しく見つめるこの身体。
誰かの視線を介して見せられ、その想いを感じさせられているかのよう。一体この視界は誰の物で、抱いたこの想いは、この感情は、想いは何だったのだろうか。
◇
「はぁっ! はぁっ! ……いたっ!」
――匂いを辿り、炭治郎は外に出る。鼻を利かせ、周囲を見回すと建物の屋根――浮かび上がった月に重なるようにあの女鬼が立っていた。相変わらずぼんやりとした様子で。
「っ……どうしてここに来た!? みんなは……やらせないっ!」
視線が交差する。女鬼は何もしゃべらず、無言のまま炭治郎を見下ろす。炭治郎は刀を抜き、彼女に構る。その時、彼女の口が微かだが動いた。
「――――」
(喋った……? でもなんて言ってるか聞こえな――)
「ぇ――?」
女鬼が飛び降り、炭治郎のすぐ目の前に現れる。女鬼の口の動きから言葉を読み取ろうとしていた炭治郎は、反応が遅れてしまった。今にも奴が無感情な目でこちらへ向けて手を伸ばしてきている。
(しまったっ! 反応が遅れたっ! 刀を振るのが間に合わない――!)
炭治郎へ向けた伸びてくる手を払えず、避けようにも動きが間に合わない。そのまま鬼に捕まれる――
「――水の呼吸 漆ノ型 雫波紋突き――!」
「――風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹――!」
「っ!?」
「――!」
二方向から放たれる攻撃。女鬼は瞬時にソレを察知し、炭治郎の前から飛び退くと、先ほどまで彼女がいた場所を斬撃が襲った。炭治郎は自身の耳に届いた声にハッとする。この技と声は、まさか――!?
「ちっ! 本当にいやがったか!」
「炭治郎、無事か?」
「義勇さんっ! 不死川さんっ!」
現れたのは『元水柱』の冨岡義勇と『元風柱』の不死川実弥の二名。彼らは当初の予定を早め、蝶屋敷に到着できたのだった。前に実弥、後ろに義勇が位置取り、彼は炭治郎を庇う様に立つ。
二名ともまだ鬼がいたという事実を目の当たりにしつつも、女鬼に相対する。予定よりも早い到着に驚きつつも、炭治郎は安堵の息を漏らした。この二人がいればこの状況を打開できる。
「話には聞いてたが、こいつぁマジで胡蝶そっくりだな」
「ああ、俺も驚いている」
女鬼の容姿が『胡蝶しのぶ』に酷似しているという話を事前に聞いていた二人は、改めて彼女の顔を見てそう漏らす。義勇も実弥も女鬼を注視しているが、攻めてはこないものの、隙がない。
「冨岡ァっ! テメェは下がってろっ! コイツは俺がヤる……!」
「いや、不死川、侮るな。……俺も戦う」
「あぁ!? 利き腕の無ぇお前は足手まといだっ!」
戦闘への参加を申し出た義勇に、実弥は怒鳴声を上げる。実際義勇はあの大戦の最中、利き腕を無くしてしまっていた。隻腕となっただけでなく、利き腕でない義勇は全盛期に比べ遥かに弱体してしまっているのは否めない。実弥と互角で稽古をしていた頃に比べ、今の二人の実力には縮められない大きな差が開いてしまっている。
「おいっ……どの口でほざきやがるっ……! テメェふざけてんのか?」
「? 俺はいたって真面目だぞ?」
「あんだとっ!?」
「ふ、二人とも! 鬼が来てますっ!」
数分と経たずして険悪な雰囲気なり、言い争いを始めようとした二人に炭治郎が叫ぶ。その声に二人が正面を向くと、女鬼が瓦屋根を駆け下り、こちらへ突進してきていた。
「上等だ……! ぶっ殺してやるぜっ!」
「し、不死川さんっ! あの鬼を殺すのは――」
「風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風――!」
炭治郎の言葉を聞こうとせず、実弥は女鬼と戦闘を開始する。彼が牽制で技を放つも、それは鬼女の蝶が舞うような動きで躱されてしまう。その事に舌打ちを打ちつつ、実弥は女鬼へと斬りかかっていく。
「あの鬼に何かあるのか?」
「義勇さん……、あの鬼は、もしかしたら……なんですけど、しのぶさんかも、知れなくって……それでもしそうだったら、人間に戻せるかもしれないんです!」
「あの鬼が胡蝶だという根拠はあるのか?」
「そ、それは……」
「――なら斬るしかない。例え胡蝶だったとしても、奴に胡蝶としての意識があるようには見えない。……鬼ならば斬る」
言いよどむ炭治郎に、義勇は冷静に答える。義勇にとってあの鬼がしのぶであるかどうかは関係ない。鬼である以上は斬らなくてはならないのだ。禰豆子のように人間であった頃の自我が残っているようには思えない。故に、炭治郎の言葉は聞けない。
「義勇さんっ!」
「炭治郎、今回は妹のようにはいかない。今あの鬼に会ったばかりの俺では、お前を庇うことはできない」
「っ……!」
以前鬼であった禰豆子を庇い、鬼殺隊の当主であった産屋敷耀哉に報告した時は彼女に人間の心が残っていると知っていたからだ。しかし、今は状況が違う。あの時のように炭治郎の懇願を聞き入れ、庇うことはできない。それを義勇は、炭治郎を諭すかのように告げる。
言い返せずに炭治郎は閉口し、俯く。義勇は改めて実弥と女鬼の戦いを観察しつつ、仕掛ける隙を伺う。実弥は連続で女鬼に風の呼吸を見舞っているが、彼女はそれを躱し、避け続けていた。
(不死川の技を悉く躱している……。あの鬼、なかなかに手強いな)
元鬼滅隊の中で最強の実力を持つ実弥の攻撃を躱し続ける女鬼。その実力を再認識し、義勇も前に出る。
「クソがっ! この野郎ちょこまかとっ……!」
「不死川、俺が奴の注意を引く。お前はそこを狙え」
「あぁっ!? うるせぇっ!」
義勇と実弥が同時に突撃していく。口を開けばすぐにコレだが、実弥は義勇の指示に同意したのか、義勇の後に続く。
「水の呼吸 玖ノ型 水流飛沫――」
踏む箇所を最小限にし、女鬼に迫る。しかし彼女は義勇に体勢を崩すことなく迎え撃つ。
「水の呼吸 肆ノ型 打ち潮――!」
「――」
(……やはりこちらの腕では不慣れだな……。動きのキレが鈍い)
(義勇さん……やっぱり利き腕じゃないほうの腕じゃあ……)
無惨との闘い以降刀を振るっていなかったこともあり、義勇の動きは全盛期に比べ相当落ちている。いざ利き腕でない方で刃を振るっても力が思う様に入らない。利き腕でない腕ではこうも違うものか、と実感せざるを得なかった。炭治郎の目から見ても、それは歴然だ。
女鬼はそんな義勇の動きを察し、躱した後に反撃を仕掛ける。
「ちっ……あの野郎……何が注意を引くだ。足手まといだってんだよテメェはっ! 風の呼吸 伍ノ型 木枯らし颪――!」
彼女の攻撃から義勇の動きを庇うように、二人の間に風の斬撃が飛ぶ。義勇への攻撃動作が一瞬止まった女鬼へ実弥は連撃を放つ。
「おらァっ!」
「――」
女鬼もただ防戦に徹することなく、蹴りや拳を見舞う。舞を踊るかのように羽織を翻しながら、素早い動きで実弥を攪乱させつつ、猛攻を繰り出す。負けじと実弥も風の呼吸の技を撃つも、それは悉く躱されてしまう。
(クソったれがっ……! 上弦の鬼に比べりゃあ余裕な鬼だってのによっ……! だったら……っ!)
「不死川さんが腕を斬りつけて……!?」
実弥は不敵な笑みを浮かべ、日輪刀で自身の腕を斬り付け、血を溢れさせる。稀血である彼が上弦の鬼との闘いでも行った戦法だ。濃い稀血を持つ実弥、その血を嗅ぐと鬼は酩酊状態になる。過去、禰豆子は耐えきったことがあるが、それは強靭な精神力でなければ耐えられない。
女鬼も例外ではないのか、反応を示しだす。苦々しい表情を浮かべつつ、食いしばる口からは涎が零れ落ちる。一瞬足元をよろめかせ、女鬼は額に手をつく。まるでなぜ自分がこんな状態になっているか混乱しているようにも見えた。
(あれは……禰豆子にしたときと同じ……。不死川さんはアレで鬼の動きを鈍らせる気なんだ!)
「効いてやがんな。さぁ……首を跳ねさせてもらうゼ……!」
稀血が効いていることを確認した実弥は、今度こそはと猛スピードで女鬼に突進していく。動きが鈍くなった女鬼の首目掛け、日輪刀を薙ぎ払おうとした瞬間――
「――……!」
「っ……!」
(あ? 小袋……?)
女鬼が実弥目掛け小さな袋を投げつけた。拳大の大きさ程度のその袋。宙を舞うのは実弥の振るう刃の延長線上、女鬼の首と日輪刀の間。その袋の中身はわからないが、実弥はその袋ごと鬼女の首を刎ねようとそのまま刃を振るう。
ばふんっ!
「っ……!」
「!? 不死川っ!」
「し、不死川さんっ!?」
袋を日輪刀が斬り破った瞬間、黄色い粉末が霧散する。女鬼は袖で口元を覆ったのに対し、実弥は突然のことで思わずその粉末を吸ってしまい、炭治郎たちの心配な声が響く中攻撃を中断して飛び退く。、直後、身体に現れた異変に実弥は青筋を浮かべて女鬼を睨みつけた。
「テメェっ……"痺れ粉"たぁ小細工かましてくれんじゃねぇか……!」
「し、痺れ粉……!?」
「……あの鬼には痺れ粉を作る知能があるのか」
先ほど女鬼が投げつけた小袋の中身――それは痺れ粉だったのだ。それを少量といえど吸ってしまった実弥は、凄まじい身体の痺れに襲われる。なんとか怒りを原動力になんとか身体を動かそうとするも、身体に走るビリビリとした痺れは完全に無視することはできず、悔し気に膝を付く。
しかも痺れは身体だけではなかった。
(ちっ……呼吸する度に喉が酷く痺れやがる……! "呼吸"の対策をしてきたってのかっ……!?)
身体よりも喉が強烈に痺れ、呼吸が満足にできない。これでは実弥の風の呼吸もまともに放てない。
(まさか……調合した? やはりあの鬼は――)
あの鬼に『胡蝶しのぶ』としての知識があるのならば、痺れ粉を調合することは造作もないはずだ。どこかで粉を調達したとしても、あれだけの効果のモニを手に入れるのは難しい。寧ろ知識がなければ、あれほどの品は作り出せない……なら、あの鬼はやはり――。
そう考える炭治郎を他所に女鬼は実弥へと相対する。あの鬼がそんな好機を見逃すはずもない。女鬼は霧散した粉が落ちた頃を見計らい、痺れで膝をつく実弥に突進していく。
「くそがっ……!」
「――」
女鬼は実弥の顔面に拳を叩きこむべく、腕を振りかぶる。が、突然実弥と女鬼との間に何かの影が割り込んできた。実弥はその影に驚くも、女鬼は躊躇うことなく、その影に拳を叩きこんだ。
「ぐっ……!」
「冨岡っ……! テメェっ……!」
「ぎ、義勇さんっ!」
それは実弥を庇うように割り込んだ義勇だった。実弥を庇い、モロに拳を喰らった義勇はそのまま宙へ吹き飛ばされる。地面に叩きつけられる前に、なんとか受け止めることができた炭治郎は義勇の顔を覗き込む。
痛みに呻いているものの、意識はある。だが身体能力が人間よりも強化されている鬼の拳は、彼に相当なダメージを与えているのか、身体を動かそうとするも立ち上がることができない。そして、義勇の手には先ほど握っていた日輪刀がなかった。
「――」
「っ!? こいつっ、冨岡の日輪刀をっ……!」
(善逸と伊之助の時と同じだっ……!)
女鬼が飛ばされた義勇の手から零れた日輪刀を奪っていたのだ。奪った日輪刀を構え、彼女は実弥に切りかかる。がそのまま切られる実弥ではなく、さかさず日輪刀で防ぐ。
「野郎っ……!」
「不死川さんっ! あの鬼は女性なので野郎じゃないですよっ!」
「んなこと知るかっ!」
(んにしてもコイツっ……ただ刀振ってるだけじゃねぇ……!)
炭治郎のツッコミに苛立ちを募らせながら、実弥は女鬼と刃を交えていた。小競り合いをしつつ、実弥は女鬼の剣劇を観察する。ただ闇雲に刀を振り回しているわけではない、洗練された剣術だ。そこいらの鬼に出来る芸当ではない。
この鬼の元となった人物は、剣術に長けた人間だったのだろう。身体の痺れに苛まれながらも、実弥はそれを感じ取った。
「うっ……らぁっ!」
「――」
力で押し返し、女鬼を吹き飛ばす。相変わらず表情を変えず、無を貫く女鬼もイラつきを感じながら、実弥は痺れる身体を立ち上がらせた。が、身体の痺れによって動きが鈍く、日輪刀も満足に握れないこの状態では分が悪い。
苛立ちを込めて女鬼を睨んでいると、炭治郎が実弥の前にやってきた。
「あぁっ!? おい、そこをどけっ……!」
「不死川さんっ! 屋敷の中に解毒剤があるはずです! 俺があの鬼を引き付けますから!」
「っ! テメェっ……!」
ここは蝶屋敷、解毒の薬はあるはずだ。なによりここで戦って義勇を狙われるのは不味い。炭治郎は義勇を実弥に任せ、女鬼をここから離すことにしたのだ。
「こっちだっ!」
「――」
瓦を走りだした炭治郎の背を、女鬼は追いかける。彼女の眼には義勇も実弥も映っていなかったかのように、素直に炭治郎の誘いに乗っていた。痺れる身体を強引に動かし、実弥は義勇の元へと飛び降りる。
「ちっ……! おいっ! 冨岡っ!」
「ぐっ……炭治郎、は……?」
「今はテメェの心配してろっ!」
「っ! 水柱様、風柱様っ!? た、炭治郎さんはっ!?」
「っ……おい! そこのお前っ! 痺れを取る薬あんだろ!? それを持ってきやがれ!」
してやられた実弥は怒りを募らせつつ、報告を受けてやってきたアオイに、解毒薬を要求するのだった――
(――この場所は……!?)
女鬼を誘い動いていた炭治郎はふと足を止める。この場所は……よく覚えている、思い出の場所。彼女と二人きりで話し、意志を受け継いだあの場所だった。
――
その時の記憶が脳裏を過る。彼女の声、切なさと悲観を滲ませた顔。大分過去の出来事だが、炭治郎にとっては決して忘れられない、昨日のように思い出せる彼女との思い出の一つ。
「……――、っ!」
気配を感じて振り向くと、そこには無感情な瞳でこちらを見つめる女鬼の姿。
「この場所……覚えてますか? 俺は……昨日のように覚えてます」
「――」
「あの時話したこと……しのぶさんの気持ちを受け継いだこと」
「――」
「でも、皆を傷つけるなら、例え貴女であっても許さないっ!」
改めて日輪刀を構えて、女鬼に相対する。正直勝率は極めて低い。素手でも厄介だったというのに、今の彼女の手には義勇から強奪した日輪刀が握られているのだ。それでも……負けるわけにはいかない。だが殺したくもない。彼女が『胡蝶しのぶ』であるという可能性が残っているのならば、この鬼は殺せない……殺すわけにはいかない。
しかしこちらに攻撃してくる鬼を殺さずに抑え込むのは至難の業。なにより自分より強いのならばなおさらである。でも――それでも、戦わないわけにはいかない。
「今度は俺が相手だっ! こいっ!」
「――」
女鬼が突撃してくる。日輪刀を握り直し、炭治郎も彼女へと向かっていく――
「くっ! 水の呼吸 参ノ型 流流舞い――!」
「――」
(また躱したっ……!)
炭治郎は女鬼へと技を放つ。が、先ほど実弥の猛襲を躱し切った女鬼は、それを悉く躱していく。この一件まで戦いから遠ざかっていたこともあり、炭治郎の腕が鈍っているのもあるが、見えない右目と動かない左腕を庇いながらの戦闘が、炭治郎を劣勢に追い込む。
なんとか女鬼の攻撃を避け、あるいは受けられてはいるものの、一撃一撃が鋭く突き刺さる。もう少し反応が遅ければ……と冷や汗が炭治郎の頬を伝う。その状況で、炭治郎は女鬼の様子が以前と違うことに気が付いた。
(なんだ……? 前戦った時よりも、動きが鈍い……?)
見ているだけではわからなかったが、実際に刃を交えているとそんな感覚が湧いてくる。僅か、ほんの僅かにだが、動きが鈍くなっているのだ。実弥との闘いでダメージを負ったのか、いや彼女は一度も刃を受けていない。
炭治郎は今一度彼女の行動を思い返す。そうだ、この鬼はまだ人を喰らっていない。……恐らくだが彼女は人を襲わず、獣の血で飢えを凌いでいたのだろう。獣の喰い跡も、被害者が出ていないことも、そう考えればすべて辻褄が合う。人を喰らっていないことが、女鬼の動きを鈍らせていたのだ。
――しかしそれでも、今の炭治郎では勝つことができない。
(どうする……!? 不死川さんが来るのを待つか? いや、あの人の場合殺しかねない! なら陽が昇るまで俺が耐えきるしかないっ!)
持久戦だ。体感ではもうまもなく夜が明ける時間。鬼である彼女とて命は惜しいはず。そうすれば彼女は撤退するだろう。しかし問題はそれまで自分が彼女の猛撃に耐えきれるかどうか。
「――」
「くっ! 見えない右側からっ!」
炭治郎の右目が機能していないことを察したのか、先ほどから女鬼は炭治郎の右側を責めてきている。かといってそちらに注意していると、今度はおろそかになったそれ以外の方向から攻撃を見舞う。炭治郎は視覚外から攻撃という厄介さを改めて思い知る。
「でもっ、負けられないっ……!」
「風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風――」
「っ!?」
刀の小競り合いをしていた女鬼へ風の斬撃が飛んできた。その攻撃を察知した女鬼は、瞬時に後方へ飛んで躱す。が、躱し切れず、斬撃を受けて吹き飛ばされ、瓦の上に背中から叩きつけられた。
「今のは……っ!? っ、不死川さんっ!」
「クソッたれ……! まだ身体が痺れてやがる……!」
「む、無理しないでください!」
攻撃の飛んできた方向へ視線を向けると、頭に包帯を巻いた義勇に肩を貸すアオイと、苦渋に顔を歪ませる実弥がそこにいた。炭治郎が女鬼を誘ってあの場から離れた後、実弥はアオイから解毒薬を貰い、症状を和らげたのだ。しかし急造の薬だったこともあり、完全に痺れは取れていない。それが一層実弥を苛立たせる。あの女鬼にも、心のどこかで相手を見くびっていた自分自身にも。
「おい竈門っ! とっととその鬼の首を刎ねろ!」
実弥は炭治郎に鬼の首を刎ねるよう促す。しかしあの鬼がしのぶかもしれないと考えている炭治郎は、その決心がつかない。彼女を殺せない。
「ま、待ってくださいっ!不死川さんっ! あの鬼はしのぶさんかも知れないんです。だから殺すのは――」
「まだそんなこと言ってんのかっ! 諦めろテメェっ!」
「で、でもっ!」
「ウダウダ言ってんじゃねぇ! そんなこと言ってると
(……!)
事実、あの女鬼が胡蝶しのぶというのはまだ可能性の域を出ない。だから、逆を言えばあの女鬼がしのぶでないという可能性もある。断言ができない、確実とは言えない。第一女鬼はこちらに明確な攻撃を与えている。
現に義勇が攻撃を喰らい、血を流したではないか。もしあれが殺す為の一撃だったとしたら、すでに彼は殺されていたはずだ。もし自分が最初から女鬼を殺ろうと、首を斬ろうと立ちまわっていれば、もっと犠牲は少なく、カナヲたちも傷を負っていなかったかもしれない。
あの鬼が明確に殺す意志を持っていなかったから、結果として『まだ助かっている』に過ぎない。あちらが最初から全力でこちらを殺しにかかっていれば、今無事だった何人かは確実に死んでいた。
「ふっ……ふぅっ、ふぅっ……!」
呼吸が乱れる。
女鬼が胡蝶しのぶである『かも』しれない――という可能性を信じたが為に、自分が、あるいは大切な誰か命を落とす。そんな夢うつつ事に囚われ過ぎた故に誰かの命を終わらせるだろう。あの大戦を生き残ったというのに、自分が可能性を信じた為に、その可能性によって誰かの命が殺される。そんなの――許されるわけではない。自分の勝手な憶測で、誰かの命を奪うことなどあってはならないのだ。
「そんな甘ったるい考えは――捨てちまえぇぇっっ!!」
「うっ……うわああぁぁぁあぁぁぁぁあああっっっっっ!!!!」
彼女を殺さなければ誰かが死ぬ――その考えに至った炭治郎は悲痛な叫びを上げつつ、鬼女へ接近して首目掛けて刃を振るう。
「水の呼吸 伍ノ型 干天の慈雨――!」
(せめてっ……せめて安らかにっ……!)
この鬼がしのぶであっても、そうでなくても、痛い思いはしてほしくない。だが、もし自分の考えが当たっていたら、自分がしのぶを殺すことになってしまう。だが所詮それも可能性、『たら』『れば』の世界の話。しかしそれで殺すのを躊躇えば、誰かが死ぬ未来があるかもしれない。そうなってはすべてが遅いのだ。
――そのとき、女鬼の口が微かに動き、その言葉を炭治郎ははっきりと耳にした。
「……たんじ、ろう……くん……」
「――!?」
女鬼の口から漏れた、初めて聞いた彼女の声色は――まさしく彼女の声。聞き忘れることなどない、聞き間違えるはずがない、透き通るような美しい美声――自身が焦がれたあの人の声。炭治郎の日輪刀が女鬼の首を斬る寸前で、ピタリと動きが止まる。
混乱で瞳孔が激しく震え、鼓動がうるさいほど大きな音を立てて早鐘のように打つ。なぜその言い方を知っているのだ。その声色はなんだ。まさか、まさか本当に――?
「い、今のはっ……! っ!? 眩しいっ!?」
炭治郎の目が強い光によって眩む。夜明けだ。射してきた日光に女鬼は堪らず袖で顔を隠しながら、撤退していく。建物の影に飛び込んだ女鬼は、そのままあっという間に姿を消してしまった。先ほどの戦いの音が消え、周囲は静まり返り、朝の清々しい風が吹き、静寂が訪れる。
残されたのは襲撃の爪痕と、可能性が確信に変わった炭治郎の大きな鼓動だけであった――
――大正コソコソ噂話
大戦後、しのぶの墓も立てられましたが、彼女は遺体がなく、代わりに墓の中には遺品が数点入れられています。
彼女の日輪刀も大戦後に見つかったので、お墓に添えられています。