――影から影へと逃げるように走り抜ける。
日光に当たってはこの身体は朽ちてしまう。そうなってしまう前に、陽の光の届かない場所へと避難せねばならない。
「っ……! ぅっ……、くぅ……!」
建物の影から建物の影へと飛び移るように逃げ、たどり着いたのは墓地だった。まだここには陽の光が入ってこない。ここから先へ進めば森がある、ひとまずそこへ進めば……。
(っ……!?)
森への道を走っていると、横に墓が見えた。その墓に書かれている名前にはどこか聞き覚えがあった、しかし思い出せない。脚と止め、そこへ近づくと刀のようなモノが添えられている。初めてみる形の刀だ……、しかしそれなのにどこか懐かしい。
そして私は何かに誘われるように、その刀を手に取る。掴んだソレは、馴染みがあったかのように手の中に収まった――
◇
――襲撃から数時間後
炭治郎たちは蝶屋敷の一部屋に集まっていた。義勇や実弥、善逸や伊之助、アオイと自身を含めた六名で、今後の動きについて話し合うことにしたのである。その中にカナヲはいない。彼女の心情を思い、炭治郎はこの話し合いには参加させないほうがいいと踏んだのだ。今の彼女に禰豆子が付き添っている。
「……んで、あの鬼は胡蝶の野郎だったってのか?」
「はい。首を斬ろうとしたその時、あの鬼が喋ったんです。『たんじろうくん』って……。あの声色と呼び方はしのぶさんで間違いありません」
先の一戦で炭治郎の中の可能性が一気に確信へと変わった。どういう理屈で彼女が鬼となったのかはわからないが、彼女が『胡蝶しのぶ』であるのならすべてが説明づく。
「なぜ胡蝶が鬼となって、まだ存在できているかはわからない。しかし炭治郎の言うことも信憑性がある」
「あの鬼がしのぶかも知れねぇってのはわかったけどよ……この後どうすんだよ?」
伊之助の言葉に皆静まり返る。恐らく人を喰らっていない為に弱っているのだろうが、こちらの戦力を相手に立ちまわれるほどの力をまだ残している……今動ける者達総出でかかれば討ち取れるだろうが、炭治郎は別の手段を口にした。
「――彼女を人間に戻そう。幸い、アオイさんが作ってくれた薬があるから、これさえあれば――」
「ちょっ、ちょっと待てよ炭治郎っ! 仮にそれで人間に戻せるって言ったってどうやってそれをあの鬼に注入するんだよ!?」
善逸の言うことはもっともだ。昨夜でさえ炭治郎と義勇、実弥の三人がかりでも拮抗されたのだから、そこに伊之助と善逸が加わったとしても正直いって難しい。第一義勇は軽傷だったため支障はないが、善逸と伊之助にいたってはまだ傷が癒えていない。
「俺はあの鬼を殺す。胡蝶だろうが誰だろうが関係ねぇ」
「っ! 不死川さんっ! あの鬼はしのぶさんなのにっ……!」
「だったら俺が殺す前に、あの鬼を元に戻すんだな。俺はあの鬼を戻すのに協力しねぇ。今は『元』だが、鬼殺隊ってのはそういうもんだ」
「くっ……!」
実弥の言うことは至極当然のこと。鬼殺隊は文字通り鬼を殺す為の部隊だった。解散前に討伐しようとしなかったのは、明確に人間の意識が残っている禰豆子と、無惨への敵対を明確にしていた珠世たちだけ。今回の鬼に至っては、人間の意識がそこまで残っているとはいいがたく、こちらに明確な攻撃行動に出ている。
しのぶが想い人であった炭治郎はともかくとして、してやられた実弥にとっては今すぐにでも首を刎ねてやりたい相手でしかない。
「今度は油断したりしねぇ……。最初から全力でぶっ殺してやるっ……!」
「怖ぇ……」
怒りを募らせる実弥に、善逸は涙目だ。もう一刻も早くこの空間から解放してほしいという雰囲気を纏っているのが一目瞭然である。
「その前にあの鬼を探さなくてはならない。炭治郎、アテはあるのか?」
「いえ……これと言っては……」
しのぶとしての意識が残っているのならば、その記憶に残っている場所を訪れるだろうと考えた。しかしその場所である蝶屋敷に来た以上、他に思い当たる場所がない。
「……とすれば炭治郎の鼻が頼りだ。あの鬼に匂い、覚えているだろう?」
「は、はいっ」
といっても彼女の匂いはしのぶと同じ。その匂いを辿れば、いずれは彼女に辿り着けるだろう。後は、準備を整えることだ。義勇の持っていた日輪刀は、あの場で鬼女が投げ捨てていったから問題ない。善逸と伊之助が完治してからの方がいいだろう。
「……一度身体を休めよう。実弥も、まだ身体が痺れてるのはわかってるぞ」
「ちっ……」
まだ痺れ粉が抜けきっていないことを悟られ、実弥は舌打ちした。どこまでも仲が悪い二人に炭治郎も思わず苦笑いだ。しかし義勇の言うことは正しい。ここにいる全員が万全とはいいがたい、ひとまず話し合いの末、今日一日は休息をとり、翌日から行動することとなった――
◇
――その夜
蝶屋敷内にいる皆は寝静まり、虫の鳴き声が響くだけだった時間。
――炭治郎くん――……
「っ……!? しのぶ、さんっ……!?」
ふと脳内に響いた彼女の声に、微睡へ落ちかけていた炭治郎は意識を覚醒させた。驚き、周囲を確認するも、その声の主は姿形も見当たらない。空耳か、あるいは勘違いか……そう思ったが、炭治郎は即座に否定した。空耳でも、勘違いでもない。だが、呼ばれているような気がした。
行動は夜が明けてから、日中の間に匂いを辿り、居場所を見つけてそこを叩く予定だ。しかし、それじゃ駄目な気がした。彼女の元へは、自分一人で行かなくてはいけない――そんな気が。
「……」
炭治郎は横で寝ている禰豆子を起こさないようにし、身なりを整えると日輪刀を手にこっそりと部屋を抜け出した。バレないように、抜き足、差し足、忍び足。音を立てぬように細心の注意を払う。
玄関に辿り着き、草鞋を履いてゆっくりと外に出た。空を見上げると、雲一つない星空が広がっている。
「――一人で行くの? お兄ちゃん」
一人で行こうとした炭治郎の背に声がかかる。それは間違えることのない、大切な大事な妹の声。
「うん……」
「私が何を言っても行くんでしょ?」
「……うん」
言葉少ない返答。禰豆子は兄がなんと返すかもわかった上で、あえて問いかけた。こうなった兄を止められないことを、、例え実妹の言葉であっても止められないと一番よく知っていたから。
「一つだけ約束して……。必ず……帰ってきて」
「大丈夫、禰豆子を一人にはしないよ。必ず……帰ってくるから」
そう言って兄は走り出す。徐々に小さくなっていく兄の背を禰豆子は不安そうな、それでいて呆れたような顔で黙って見送った――
◇
(匂いがどんどん強くなってきた……! こっちだっ!)
昨夜女鬼が残した匂いを辿り、静まり返った夜道を駆けていく。微かではあるが、まだ匂いは消えていない。匂いが消える前に、なんとしても辿り着かなくては。その匂いを辿っていくと、数日前に自分が訪れた場所に出た。
(っ……ここは、墓地? ここを通ったのか?)
日中とは違い、夜の墓地はどこか不気味な雰囲気を漂わせている。しかし炭治郎はその雰囲気に圧されることなく、走り抜けていく。と、
「しのぶさんのお墓……。っ、日輪刀がなくなってるっ……!」
横目に見えたしのぶの墓。そこに添えるように置かれていたはずの日輪刀がその姿を消していた。盗まれた? それとも墓荒しにでもあった? この状況と時期に日輪刀が盗まれるなんてあまりにも話が良すぎる。なによりあの鬼の匂いがこの墓前に残っているのだ。
なら……しのぶの日輪刀を持ち去ったのは――。
「……行こう。待っている……あの人が、しのぶさんが俺を呼んでいる……」
ここで立ちすくんでいるわけにはいかない。気持ちを切り替えて炭治郎は、匂いを辿る。
墓地を抜け、月夜が照らす道を駆けていくと、思い入れのある場所が見えてきた。
「あれは……藤襲山……!」
最終選別を行ったあの藤襲山だ。当時は野良鬼を捉え、試練として生かしていたが、その鬼はもういない。鬼滅隊が消滅したことに伴い、あの山は今一般開放されている。
『藤の花』――彼女を連想させるその単語に、炭治郎は確信する。彼女はあの山にいる、と。
山の入り口に辿りいた炭治郎は周囲を見回す。以前は立ち入りが禁じられ、見張りが立っていたが今は誰もいない。人気のない山に咲き誇る藤の花がなんとも幻想的だ。そしてあの女鬼の匂いは、この山の中に続いている。炭治郎は意を決して山を駆けあがっていく。
しばらく昇ると、開けた場所に出た。ここはあの選抜試験の前に他の隊士志願者たちが集まっていた場所だ。数年前のことがついこの間のように思い出せる。しかしあの時とは違う。たくさんいた隊士志願者たちはおらず、産屋敷の二人の姿もない。いるのは――いるはずのない鬼……あの女鬼だ。
「……どうしてわたしがここにいるとわかったのですか?」
背を向けて立っている彼女が炭治郎へ振り替える。女鬼の手には、あの人の日輪刀が握られていた。それを見た炭治郎は、やっぱり……と息を吐く。聞けば聞くほど、彼女の声色はしのぶのものだ。聞き間違えようがない。
「貴女が……俺を呼んだんです。だから、俺はここに来れました」
「……」
「やっと、話してくれましたね」
炭治郎はニコリと笑う。彼女が呼んだのではないだろう、しかし彼女の中にある残留していたしのぶの思念が、炭治郎をここに呼び寄せたのだ。
「……わたしは貴方のことは知りません。貴方の名も知らない……知らなかった。なのに、何故あの時、咄嗟にあの言葉が出た」
「……」
「記憶がないのに、どうして……。わたしは……誰なんですか?」
まるで呟くように、自分自身に問いかけるように零れたその言葉。炭治郎は彼女に自分の知っているあの人のコトを諭す。
「貴女は元鬼殺隊の柱の一人、蟲柱『胡蝶しのぶ』さんです。そして……俺が好きだった人」
「……貴方がわたしを……?」
「ようやく、言えました……俺の想いを。俺は、貴女を一人の女性として思っています。それは、今も変わりません」
彼女が殉職してしまったが為に伝えられなかった言霊。それを伝えられ、万感胸に迫る。
「……先ほど言いましたが、わたしは自分がどこの誰だかわかりません。ですが――貴方を傷つけたいと思ったのは確かです」
「……!」
「傷つけたかった、血を流してほしかった。理由はわかりません。ただ……そうしたい。ですから、そうします」
空気が変わる。ピリピリと肌がざわつくこの感覚、鋭い敵意を感じ取り、炭治郎は日輪刀を構えた。それに対するように、女鬼も獲物を構える。二人の間を夜風が通り抜けていく。
「俺は貴女を人間に戻します! 鬼じゃなくて、人間の胡蝶しのぶにっ! その為ならば、俺は貴女であっても傷つけます!」
(っ……)
傷つける――その単語が自分に向けられたその時、背筋がゾクゾクと震えあがった。寒さからではない。恐怖からでもない――喜びだ。理由はわからない、だが、彼がそんな感情を抱き、自分に向けていることがなぜか喜ばしい。胸が熱くなる。
「なら傷つけ合いです。互いに血を流し、血に塗れるとしましょうか――」
「――いきますっ!」
互いに刀を構え、突進していく。次の瞬間、その場に鋼の打ち合う音が周囲に響きわたった――
「どうしました? 片目と片腕の分を差し引いても弱っているわたしに届きませんか?」
確かに今の女鬼は、初戦に比べて明らかに弱体化している。血を摂取できていないのか飢餓状態に近く、炭治郎一人でも相手ができるまでになっていた。しかしそれはギリギリ相手にできるだけ。現に今、彼女の動きに翻弄されている。隙の糸が一瞬見えても、次の瞬間にはそれが切れてしまう。
この場には善逸も伊之助も、カナヲも義勇も、実弥もいない。正真正銘の一対一の勝負。純粋に自分の力が届かなければ、それは敗北を意味しているのだ。
「くっ……! 水の呼吸! 壱ノ型 水面斬り――」
「見えていますよ」
(っ! この技は――)
彼女の突進に、まるで蝶が自身を飛びぬけていくような光景を幻視する。ゾワっと肌がざわつき、頭の中が危険だと警報を鳴らす。
(くる――!)
「っっぅっ……!!!」
六度――鋼を打つ音が響いた。蟲の呼吸 。カナヲを一瞬で倒した技だ。それをどうにか威力に圧されながらも、炭治郎は受けきった。カナヲがその攻撃を喰らう瞬間を見ていたからこそ、なんとか受けきることが出来たものの、今のが初見だったら恐らく受けきれなかっただろう。
(鋭い……そして正確だ。ちょっとやそっとではこの熟練さは身に付かない……!)
鬼女は記憶がないと言っていたが、身体が覚えているのだろう。柱の一柱であった彼女の技は恐ろしいまでに強力だ。一瞬でも気を抜けば、即座にそれが仇となる。
「そういえば……しのぶさんとは刀稽古したこと、なかったですね。稽古したことがあるって言ってたカナヲが正直羨ましかったです」
「……」
「俺、嬉しいんです。こうやってしのぶさんと打ち合えるのが」
炭治郎は表情に嬉しさを滲ませる。柱稽古の中で唯一辞退していたしのぶの師事を受けられなかった炭治郎。カナヲからその話を聞いて羨ましいと思っていたのは事実だ。しかし何故羨ましいかと聞かれれば、強いしのぶと刀を交えられたことが羨ましかったのだろうと答えただろう。しかし彼女への感情を自覚した今は違う。もしかしたら彼女が好きだったからこそ、カナヲが羨ましく、ほんのちょっとの嫉妬していたのかもしれない。
「わたしにはどうでもいいことです」
「でも、俺にとってはとても嬉しいことなん、ですっ!」
小競り合いをしていた女鬼を押し返す。炭治郎に押され、後方へ飛んだ彼女と空いた距離を一気に詰めて追撃を仕掛ける。
「水の呼吸 弐ノ型 水車――!」
「っぅっ……!」
互いに一歩も譲らない攻防。片目と片腕が機能していない炭治郎と、人食いをしていない為に弱体化が進む女鬼はほぼ互角の戦いをしていた。決定打を与えられず、拮抗する両者。自分は今、殺されようとしているのに、炭治郎の口元は緩んでおり、女鬼の口元もどこか笑んでいた。
「……やりますね」
「はは……『この身体では』だと思いますけど」
どこか楽しいと感じているのかも知れない。彼女とはこうして刃を交えることはなかったから。互いに間合いを測りつつ、攻め入る隙を伺う。そして、先に動いたのは女鬼のほう。
「ふっ――!」
「くっ! 水の呼吸――玖ノ型 水流飛沫 !」
両腕が使えたのなら受けきれたであろう技もこの身体ではできない。炭治郎は相手の攻撃を防御するではなく、回避に専念しているのもそれが理由だ。眼前にいる彼女は人間のときよりも、鬼としての身体能力の所為で力が増しているのだ。今は弱っているとはいえ、その力は今の炭治郎にとっては脅威となる。
(しのぶさんの呼吸は毒の効果を複合させた技って聞いていたけど、この攻撃は――)
女鬼の中にある胡蝶しのぶとしての記憶はまだ完全ではない。恐らく断片的に、微かに覚えている、身体が覚えているという程度。実弥との闘いでは痺れ粉を事前に調合して用意しておくという用意周到さはあったが、今は時間もたっていない上に身体を休めるのに精一杯だったのだろう。彼女の攻撃は毒を伴わない、純粋な剣技だ。
「水の呼吸――漆ノ型 雫波紋突き!」
「はっ……!」
それでも炭治郎の攻撃は相手に届かない。技を放てば必ず躱されるか、防がれる。このままでは時間過ぎていくだけだ。
(そうだ……不味いっ! 時間はかけられない……)
もし夜が明け、日が昇ってしまえば、彼女は消滅してしまう。周りに日を遮る遮蔽物はない。ある場所へ向かう前に身体は無に帰ってしまうだろう。それまでには決着を付けなくてはならないのだ。
戦いに夢中になっていたこともあり、今が何時かさえわからない。夜明けまであと何時間なのか。
(なら……ここで勝負に出るしかないっ……!)
彼女が消滅していまえば、すべてが水泡に帰す。そうなってはすべてが遅いのだ。炭治郎は日輪刀を握り直し、彼女へと向かっていく。一刻も早く、この薬を彼女に撃ち込まなくては――
「炭治郎さん、これを」
「これは……?」
「しのぶ様が残した書類から作り出した『鬼を人に戻す薬』です」
義勇たちとの会議後、炭治郎はアオイに特効薬を渡されていた。出来るかどうかわからない……そう彼女は言っていたが、どうやら見事完成させられたらしい。
「本当!? ありがとうアオイさんっ!」
「頂いた禰豆子さんの血液も使った、最新の薬です。もっとも、試作品であることには変わりありません」
この短時間で作った薬、あの女以外に鬼がいない以上、本当に鬼を人間に戻せるかを試すことが出来ていない。人間に戻った禰豆子から提供してもらった血を使用したアオイ特製の薬。あの時は様々な要因が重なり、自分と禰豆子は人間に戻れたが……それが今回も正しく作用するかは未知数だ。
「それに……辛うじて作れたのはこの一つだけです」
「……そうです……か……」
手の中の薬を握り締める。出来たのはこの薬一つ……勝負は一回きり、失敗は許されないことを意味している。もっと時間と材料があれば作れただろうが、いつまでも彼女が消滅しないとは限らない。陽の光で消滅してしまう可能性もあれば、あの鬼に炭治郎が殺されてしまう可能性だってあるのだ。
あの大戦の時も、しのぶの薬はぶっつけ本番の品だったはずだ。彼女が作った薬ならば、今回だってうまく作用するはず。問題は、この薬を彼女に撃ち込めるかどうかだ。
人を喰っていない為に力は衰えてきているものの、鬼としての身体能力は健在だった。昨夜だって決定打を与えられず、逃走を許してしまった……今考えれば逃がしてしまったのはよかったかもしれない。あのまま戦っていれば、日光で消滅するか、実弥によって首を刎ねられていただろう。
「ありがとうアオイさんっ! 俺……必ずあの人を人間に戻しますっ!」
「礼には及びませんよ。私にできるのはこれくらいしかありませんでしたから」
「そんなことはないよ。これまでも、そして今もアオイさんには助けてもらってる!」
自身の力不足に視線を逸らすアオイに、炭治郎はそう返す。しのぶが存命中だった時も、彼女にはとても助けてもらった。戦場に出れない分、隊士の為に頑張って来た彼女の努力は決して『これくらい』という言葉では表せない。
「炭治郎さん……。ありがとうございます」
(アオイさんの気持ちを無駄には出来ないっ! 必ず撃ち込まないとっ!)
時間はあまり残されていないはず。炭治郎は決意を固め、呼吸を整える。
「日の呼吸 壱ノ型 円舞――!」
「っぅ……!」
あの大戦以降初めて放つ日の呼吸。すでに身体に疲労が蓄積されているこの状態での大技は身体に相当な負担をかける。しかしそれでも、それでも使わないわけにはいかない。彼女相手では使わないと、彼女を追い込めない!
「くっ……、っあぁぁぁぁぁっ……!」
炭治郎の攻撃を受け止め、女鬼も押し返す。歯を食いしばり、互いに技を放っていく。
「わたしはっ……私はっ……! 記憶に刻まれたかったっ! どうせ死ぬ命……ならば、生者の記憶に刻まれたかったっ!」
「それがっ……! それが貴女の本心なんですかっ!」
「そうですっ! 私は君に私という存在を強く刻みたかったっ! 他の誰よりも強く、深くっ! 一生消えない傷を私がっ!」
「っ……!」
「私を綺麗な記憶にしてほしくなかったっ! 癒えることない大きな傷をっ! 一生夢見る度に魘されるほどに私の事を覚えていてほしかったっ!」
涙が零れる。自分でも何を叫んでいるのかわからない。それは押し殺していた感情の吐露。もうこれ以上抑え込めないとでもいうように、それは次々と溢れ、口から漏れていく。
この想いを告げることさえ許されない、告げてはいけない。ならば、ならばせめて、彼の記憶に強く刻まれたかった。どんなに時が経っても、他の記憶が色褪せたとしても、自身が残したその傷だけは鮮明に色鮮やかに思い出せるほどに、彼の中に残りたかった。
(不味いっ……! しのぶさんは死ぬ気だっ……!)
まもなく夜が明ける。それにも拘わらず逃げようとしないのは、それを覚悟しているからだ。もとより死したも同然の命、覚悟していた死……今更消えるのは怖くない。より強く自身を炭治郎に刻み込み、そして彼の眼前で消える。それほど記憶に強く刻まれることはない。
「させっ……ないっ……!」
「そんなことっ……! させないっ! 禰豆子を、俺が人間でいられるのはしのぶさんのおかげですっ! お礼もまだ言えてないんですっ! 必ず貴女を連れて帰りますっ!」
「日の呼吸――」
「蟲の呼吸――」
ギィンっ! という鋼の音が鳴り響く。
「くっ……! 日の呼吸――拾弐ノ型 炎舞」
「っ……! 蟲の呼吸――蜻蛉ノ舞い 複眼六角」
連続で繰り出す技の応酬。誰にも踏み込ませる隙さえ与えない猛撃に彼らの熱が上がり続ける。
(圧されちゃ駄目だっ……! 圧されたらそこで止まるっ……!)
この勢いのままの連撃を放ち続ける炭治郎は、そう確信していた。どこかで失速してしまえば、即座にやられてしまう。そうなってしまえば彼女を人間に戻すばかりか、彼女は日の光を受けて灰になってしまうだろう。そんなことさせるわけにはいかない。
一歩さえも後ろに下がれば負ける――そう察した二人はただ我武者羅に刃を振るい合う。
「うわあああぁぁぁぁぁっっ!!!」
「あああああぁぁぁぁぁっっ!!!」
もはや呼吸法も、技術も何もない。ただ力任せに刃を振るう。体勢を崩せば、一歩でも後退りしてしまえばそのままやられてしまう……炭治郎は日輪刀を握る腕に力を込め、呼吸する間のないほど、呼吸する間すら与えないほどに刀を打ち合う。
互いに圧しも圧されぬ猛攻が繰り広げている中、一方が体勢を崩した。
「ぅぁっ……!」
打ち合いに負けた女鬼が体勢を崩し、後ろに一歩後ずさった。その瞬間を炭治郎は見逃さず、一点に狙いを定める。
「そこだっ!」
「っ!?」
キィンっ! と女鬼の日輪刀が弾き飛ばされて宙を舞う。
「覚悟してくださいっ! これで……貴女の負けですっ!」
炭治郎は日輪刀を放り出し、懐から特効薬を取り出す。片手が使えない炭治郎は、そうする以外に方法がない。女鬼に突撃して押し倒すと馬乗りになり、眼下にある彼女の胸元に薬を打ち込んだ。
「がっ……!」
「頼むっ……! 効いてくれっ……!」
――ドクンっ!
「ぐっ……ああああぁぁぁぁぁっっっ!!!」
鬼女の身体が大きく跳ねる。次の瞬間には、彼女の四肢が暴れ出した。撃ち込まれた薬液が、鬼の効力を消そうとする反応が身体に現れたのである。
「がっ……あぁっ! ぐぅぅううぁあああぁぁぁっっ!!」
「くっ……! しのぶさんっ、帰りましょうっ……! 蝶屋敷に、皆……待ってますからっ……!」
彼女の身体に覆いかぶさり、必死に抑え込む。拳や脚が身体に当たるも、その痛みを気にしている余裕はない。やがて、激しく暴れていた四肢が大人しくなっていく。そして――止まった。
「しのぶ……さん?」
炭治郎は身体を起こし、彼女を見下ろした。先ほどまでしていた鬼の匂いは消え、心の臓が鼓動しているのが伝わってくる。彼女の眼が薄っすらと開かれ、一筋の涙が伝い落ちていく。
「たんじ、ろう……くん……わた、し……私は……」
「はは……よかっ……た……。戻ったんですね、しのぶさん……」
思わず目に涙が滲む。涙を流す二人の姿を朝日が照らしだす。炭治郎はしのぶを人間に戻すことに成功したのだ――