まだスマホはおろか、携帯電話も普及していなかった頃の話。
中学校の教師をしている八重樫佳代(やえがし かよ)はショートカットでボーイッシュな美女である。
前の夫との間にできた一人息子、六三四を女手一つで立派に育て上げた。今は同僚の幹夫と再婚している。
剣道四段で剣道部の顧問をしている。稽古が終わり部員達を正座させている、今から稽古の講評を行うのだ。
とにかく怪我をしない事を話す、今日の稽古で危ない場面が幾つかあったので注意する。更に続ける。
「剣道の試合に限らず、物事の結果に無用なものはありません、勝利は自信を深めさせてくれ、負けても次への一歩を踏み出す力を与えてくれます」
顔を右端から左端へ向けながら話す。その様子をビデオカメラ片手に撮る男がいる、教師の黒崎である。
黒崎は中年の男で腹がでっぷりと出ていて顔からは吹き出物が多数出ている、とても脂臭い男である。
暇を見付けては、(もっともいつも放課後はぶらぶらしているが……)剣道部をもり立てたいとの理由で手伝いなどをしている。
手伝いと言っても、だいたいが今日と同じくビデオカメラで稽古の様子を撮るのが決まりである。
「これからも無駄な時間を過ごすことなく、前向きに稽古に励んで強くなってほしいと思います」
その言葉で締めて終わろうと思ったのだが質問が飛んで来た。豆田という不良である。
「先生、剣道の極意を教えてくれませんか」
他の生徒が豆田を睨にらむ、なんて不躾な質問をするのかと言うように。
部員たちは佳代の機嫌が悪くなるのではないかと一瞬思ったがそうではなかった。佳代はやや上を向き、目をつむっている。
(栄一郎さん……)
前の夫、夏木栄一郎と結婚する前、豆田からされた質問を佳代は栄一郎にしたことがあった。今も瞼に、質問に優しく真剣に答えてくれた栄一郎が浮かんでいた。
静かに瞼を開けて黒崎を見て答える。
「それはね、お臍です、剣道の極意はお臍です」
驚く一同に説明を始める。
「極意とは基本の事です、そして剣道の基本はお臍、お臍と剣道は切っても切れません、私は相手と向き合う時、背筋を伸ばしてヘソをまっすぐ相手に向けます」
ジェスチャーを交えて説明している。
「ヘソからビームがまっすぐ出て相手に当たるのをイメージします、そのビームに自分の竹刀を乗せる、剣先は基本通りノドの辺りで」
豆田のノドを指さす。
「右足を踏み込む位置を決め、竹刀で相手の中心を取り、取れたら即、打ち込む」
いーい? 分かった? とでも言わんばかりだ、まだ続ける。
「すべての技はお臍から生まれます、弓のように力を溜めて……弓なりの攻め、ヘソで攻める、ヘソを攻める」
真剣に聞いている生徒がほとんどだが、顔を見合わせニヤついている者もいる。熱弁がまだまだ続く。
「ヘソと気勢……お臍中心に構えます、動的な状態こそ注意して」
「ヘソと重心移動……臍下丹田を意識すると安定した重心移動になります、臍下丹田はチャクラとも言われるわね、場所はお臍から5センチ程度下辺り」
そう言って赤胴の下を手で触る。
「ヘソと残心……ヘソが引っ込んだ一本では残心の身構えはつくれません」
「これらは岩手の虎と呼ばれる剣の達人から教わりました、すべての運動は臍下丹田から発するが口癖でした」
「とにかくヘソ、ヘソ、お臍を意識して会心の一本を打って下さい、ヘソの力が左手を通って物打ちに伝わります、有効打突が増えるお臍中心トレーニングを常日ごろからやりましょう」
何か質問はありますかの問いに生徒達はもうヘソの話しは沢山とでも言うように誰も質問しないように思えた。
しかし1人だけ不謹慎とも言える質問をした者がいた、またもや豆田だ。
「ぜひ聞きたい事があります、先生のヘソはどんな形ですか!」
元気良く質問する豆田に皆が笑ってしまう。佳代は怒ることなく、人差し指を軽く曲げて鼻付近に持って来て、少し恥ずかしそうにしながらも。
「お答えします、私のお臍は縦長の綺麗なお臍ですよ」
そう言って茶目っ気タップリにウインクして答えた。
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豆田は高校生と見間違える体格の持ち主だ、顔はまあ普通と言ったところ。親は金貸しをやっている。そしてその客に、なんと! 佳代がいるのだ。
女手一つで六三四を立派に育て上げたのだが、やはり金銭面は苦しかったようだ。法外な金利もあり借金の額は膨れ上がっている。
妻が借金をしていることを夫の幹夫は知らない……
成長期の豆田は、佳代を抱きたいと親に頼んだ、とんでもない中学生であるが、親も輪を掛けたとんでもない人間であった。
単に佳代を堕とすだけでは芸がない、息子の六三四も巻き込もうと企んだのだ。そしてその目論見は成功を収める。