(なるほどね……あの子は私を脅してるのね、いうことを聞かないと主人にバラすと……そういう事よね、これ)
テストの採点などを終えて道場に行く、剛志に先に稽古をするように伝えておいたにも係わらず、誰も稽古をしていなかった。
「豆田くん、職員室で先生が言ったよね? 私が来るのが遅くなるから先に稽古をするようにと」
「聞こえませんでしたー」
(かんっっぜんに舐めてるわね、よーし)
「みんな、素振りから始めて。豆田くんは私と地稽古(ぢげいこ)をしましょう」
地稽古とはボクシングで言えばスパーリングのようなものである、普通は稽古の締め括りに行われる、しかし佳代は剛志を戒める為にあえて最初に持ってきた。
手加減をするつもりはない。
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お互い蹲踞(そんきょ)の姿勢をとる、蹲踞とは相撲や剣道等においては、礼儀として試合をする直前に対戦する相手と仕切り線をはさみ、腰を下ろして向かい合う姿勢のことである。
また、茶道の場合は剣道と同じく蹲踞と書くが読み方は(つくばい)と読む、蹲踞(つくばい)というのは、茶道で茶室に入る前に手を清める為に洗う姿勢のことで、特別な空間に入る前の儀式だ。
剣道では蹲踞を見ればだいたいの強さが分かると言われる。2人とも、堂に入った揺るぎのない蹲踞。
剣を構え、スゥ、と立つ。
地稽古をする意図を勘の鋭い剛志は見抜いていた、自分にお仕置きをするつもりなのだと。
ならば……
1本や2本の勝負なら勝ち目はない、経験、技量ともに相手が上である、しかし体力勝負に持ち込めば話は別である。
剛志の強い要望で、この地稽古はどちらかが泣きを入れるまですることになった。
佳代は中段に構える。
中段こそ全てに通じる構え。攻撃にも防御にも適した、基本にして最強の構えであるはずだ。両手は正中線上。肩の力を抜き、左手はヘソから拳一個分浮かせ、肘は伸ばさず、少し余裕を持たせておく。心持ち、左腰を出すようにして体を正面に向け、動くときは膝から。そして剣先は相手の喉元。
一方の剛志は上段の構え。
中段に構えた後、竹刀を頭上に持って行く。別称を、「天の構え」とも「火の構え」ともいい、相手を焼き尽くすような、強い攻撃的な構え。
技量は佳代が遙かに上である、しかし体力は中学生ながら高校生のような剛志がかなり勝る。しかも2年生ながら主将を張る、この部のエースである。
男と女、この対戦、大番狂わせがあるかも知れない、そう思う部員も少なからずいた。部分たちは稽古をするふりをしながら、チラッ、チラッと佳代と剛志の対戦を気にしていた。
もし佳代が遅れを取るような事があれば、この先の指導にも支障が出るかも知れない、いくら剣道部顧問といえど、いくら東北の鬼ユリと呼ばれていたとしても。
中学生に負けたとあっては、何を言っても説得力に欠けてしまうだろう。
「おりゃりゃぉあーー!!」
剛志の気迫に満ちた声。
「はえぁーー!!」
佳代の高く美しく場を征する声。
剛志は紺の道着と袴、面布団は紺色、面縁は赤色。
面布団とは面の側面の大部分の事で、面縁とは面金(顔の正面の横金)と面布団の境目にある縁ふちの事である。
対する佳代はほとんど白である、白の、道着、袴、面布団、篭手。
面縁は黄色で、ぱっと見、金色に見える。
胴は胴胸が白色、胴台が濃い赤色。
胴胸とは胸に当たる部分の事、胴台とは、胴の面積のほとんどを占める、お腹に当たる部分で、ぼってりと膨らんでいる、まさにお腹といった箇所の事で、この部分が赤い胴を赤胴と呼ぶ。
この佳代の赤胴は独特のデザインがある、胴台の左上にハンコで押したような、金色の円の縁、その円の中に黒色で、崩した文字で「臍」の一文字が書いてあった、それは、よくよく見ないと何が書いてあるかは分からない。
剛志は上段に構えて間合いを詰める、佳代が下がる、剛志がなおも詰めると、佳代はサッと右側へ移動して間合いを保つ。
ならば仕切り直しと、剛志が間合いを開けると詰めてくる、要するに、この間合いが女の間合いで、この間を保ちたいのだと剛志は思った。
剛志がちょっかいを出す、上段からシュッとメンを放つ、しかしこれはオトリで、剣の先っちょを軽く佳代の剣先に当てての、篭手狙いである。
しかし佳代の剣は動じない、隙のない佳代に対して何もできないほど、剛志は柔ではない、こんな場面を何回も力で切り開いてきた。
(男の力を見せてやるよ、先生)
軽くメンを放ち、そのまま佳代に食らいつく、つばぜり合いになる。
(こうなりゃ、腕力が物を言うんだよ!)
エイッとばかりに佳代を押し離すと、佳代は少しよろめく、
(今だ!)
チャンスとばかりに声を上げ、メンを放つ、
「めぁあー」
しかし、よろめきを瞬時に立て直し、佳代がカウンターのメン、出だしメンを放つ!
「めぇあーーんんーー!」
見事な出だし面が決まった、そしてこの後は佳代の独壇場であった。
背中まで貫くような胴突き、右手親指のみを直撃する真上からの籠手打ち、この一撃で右手が馬鹿になった。
面を誘っておいて、左手小指のみを直撃した出籠手。
鎖骨に落雷のような袈裟掛け、剛志の飛び込み面に対し、伸びた脇下をすくい上げるような担つぎ胴を駆使され、剛志は足腰立たなくなるまで、文字通り叩きのめされた。
「ま、まいった」