吸血鬼は淫魔の夢を見るか? 作:マスター冬雪(ぬんぬん)※休止中
水瀬京一郎のターン
彼の不幸はいつから始まったのであろうか。
あの男に仕事を持ち掛けた時?あの男に自らの本心を聞かれた時?あの男を餌に愉楽を貪っていた時?
否。否である。彼の不幸とは、あの男と目を合わせて言葉を交わしてしまった幼少のあの時から始まっていたのだ。
あの忌々しくも爛れた一夜から程なくして、何もせずとも通帳に金が振り込まれるようになった。(彼はあの男に通帳の口座番号を教えた覚えはない)。彼はそれはそれはビクビクしていたもので、初めの内はどんどん桁を増やしていく記載が恐ろしく、いつ見返りを求められるかわかったものでは無いと通帳を戸棚の奥に仕舞い込んでいた。マア、とはいえ彼は懲りるという言葉を学ぶ機会すらあの悪魔のような男に奪われていたので、どんなものでも喉元過ぎればとやらであった。彼は碌に稼ぎ方も知らぬ。バイトも長続きするものでなし。あの悪魔からの干渉もはたりと止んでいたので。生活に困窮する事自体に慣れていないが故に。借金するにも“センパイ”の耳に入ればなんと言われるか。
嗚呼、ならば月1回手元に転がり込んでくる多額の金を、チョットだけ、いやもう少し、大丈夫、大丈夫、そんな風に使い始めるのも早かった。彼の自制は飢えた獣にも劣る。
さて、話は変わるが彼の父母は存命である。幾らクズといえど彼も人の子であるので、親がいるのも当然の事。色々と口を出されてウンザリはするが、だからと言って身体的に害したり、増してや精神的に殺したりなどはする程ではなく。暴言は吐くがそれだけで、彼が気侭な一人暮らしを始めた時もその後も何かしらの縁は続いていた。とはいえ裏の世界に足を踏み入れてからは殆ど疎遠であったし、あの男に自身の行動範囲の全てが把握されていたと気付いた時からは一人暮らしの家にすら帰っていない。友人の家かホテル暮らしが主である。小賢しくも転々と居を移して。されど住所変更などの手続きをする事なんてのは頭に無く。きっと郵便受けには郵便物が雪崩のように外に溢れているんだろうなとはチョット思ったがそれまでである。
ふらりと泊まっていたホテルを後にした彼は次は何処に行こうかと周りを見回して歩き始める。あまり遠くに行けばセンパイからの呼び出しに応じられないが、近過ぎれば瞬く間にあの男に補足されて最悪監禁なんて事になりかねない、などと自意識過剰気味に思い込んでいた。当たってもないが的外れでもなかった。
─────なんて事は無い。突如として彼の目の前に停められた黒塗りの車から伸びた腕が、彼を車内に引き摺り込んだのである。
「いってぇッ!?くそ、誰だテメ、ぇ、」
「よぅ。半年ぶりだなァ敦」
「な、ん……っ、京一郎……ッ?!」
目の前で長い脚を組み、うっそりと微笑む水瀬京一郎。
動揺する間に扉は閉められ、車は緩やかに発進する。
「これだけ尽くしてやっているこの俺を避けるなんて、お前は本当に酷い男だな」
いっそう洗練された佇まいといい仕草といい雰囲気といい、より美しくなった男に見慣れていた筈の彼も一瞬見惚れてしまっていた。それを認めまいと頭を振ると彼は恐れと警戒を滲ませて男を睨み付ける。
「なんで、なんの用、」
「買い物。付き合ってくれるだろう?」
拒否権などあるはずがないじゃあないか。さもそう言うような、いっそ甘美な程の従わざるを得ない傲慢であった。
それから敦はあちこちと連れ回された。
先ずは腹ごなしと完全個室のレストランで食事を摂り、幾つか服屋だの靴屋だのに立ち寄り、ぐるりと駅前の総合百貨店を回り、最後にハイブランドブティックへ。
「いらっしゃいませ水瀬様。お待ちしておりました」
「ん……頼んだ物は用意出来ているかな」
「はい。勿論でございます」
彼らを迎えた男へ目を向けて目を細めると、京一郎は敦の腕を引いて此方だと笑った。
「っオイ!?」
「着てみろよ。ホラ、」
京一郎から押し付けられた一抱えの箱。促されるままそれを持って広い試着室へと押し込められる。
「一体なんだってんだよ……」
途方に暮れたような顔で敦が閉められるカーテンを見つめるのを、京一郎は少女のような笑い声をころころと上げて見送った。
「ウン。存外似合っているじゃあないか」
見立て通りだな、と京一郎が薄ら笑みを浮かべる。
三つ揃えのスーツには金の釦とダークレッドのシャツに遊びのあるネクタイ。カフスは品のあるルビーで彩られ、敢えて緩く着崩させる。ストレートチップの革靴や細やかなアクセサリーまで、全てがオーダーメイド仕様であった。
「猿でも分かるブランド品で全身塗り固めるなんて……成り上がりの拝金主義丸出しな、センスと頭の出来を疑う格好よりはよっぽど良い」
マア、些か着られてはいるが。
余計なお世話だと敦は苦々しげに内心で吐き捨てた。こうして身に纏ったそれと比べれば、何を口に出して言えるでもなかったのである。言える言葉があったとて、敦が京一郎に言える筈もなかった。
「こっちに来い。髪、整えてやるよ」
適当な所で染めたんだろ?こんなに傷んでる。
お前は金より茶のが似合うぜ。いい所に今度連れていってやるからな。
ピアスも用意があるんだ……ん、コッチのが合う。ああでも、他に気に入ったのがあったら言えよ?全部買ってやるからさ……。
弓形にした笑みと甘く意識を蕩かすような声。触れる指先は繊細とも扇情とも呼べた。ぞわりと走るのは怖気と、僅かな快楽。
毒を流し込まれる明確な感覚であった。弾かれるように敦は京一郎の手を払う。
「ッッ!!」
「……、……フフ」
気付かれずに浸らせる事も出来た筈なのに、京一郎は敦に解るように触れた。幼子に言い聞かせるかのように、態と手を翳してみせたのだ。
馬鹿にしたように見下し、それでも溢れんばかりの愛で満ちた言葉を列ねて。憎悪で汚泥のように腐った瞳にはきらきらと光が瞬いていて。……その比があまりにおそろしい。気色悪い。
荒く肩で息をする敦の青くなった頬を京一郎の指が掠める。
「─────っふ、ははは!いや、冗談だよ。冗談だ。そう怖がるなって……チョット巫山戯ただけだろ?」
「……は、」
「いや、お前今日1日ずっとビクビクしてたから、つい。あー可笑しい」
けらけらと笑って敦の肩を叩く京一郎に先程までの影は無い。
「大丈夫だって。もうあんな事はあれっきりって約束したろ?」
今日は詫びのつもりだったんだけど。……少し強引だったか……?悪かったよ。
まるで、高校時代に戻ったかのような顏をしていた。
「着替え終わったし、時間もちょうどいい。行こうぜ」
「い、行くって……何処に、」
「何処って……お前ホントに家に帰ってなかったンだな」
だろうなとは思ってたから代わりに返信しといたんだが。フフ、笑って許せよ。
脅かし過ぎたな、と京一郎はにっこりと笑い、今度はしっかりと行き先を告げる。
「○×ホテル3階、開始は20時」
安心しろよ、高校時代の同窓会だ。
「久しぶり、お前篠原だろ?!全然変わってねー!」
相変わらず水瀬と連んでんだな!
悪意のない元同級生の言葉に顔を引き攣らせつつ、敦はグループに混ざっていく。
揃って会場に現れた上、細部は異なるが何処か似通った意匠のスーツを纏っていたのもあるだろう。グラスを受け取って薄らと笑う京一郎をちらりと窺い、掻き消すように頭を振って嘗ての同級との話に集中する。京一郎の纏う艶やか且つ淑やかな空気に当てられて、誰も彼もが視線を向けながらも話し掛けるのを躊躇っているようだった。アイツはオレにおっ勃てる変態なんだぞ、と喉の辺りまで出かかったが、グラスのワインで流し込むようにして呑み込んだ。そんな事を言ってしまえばヤツに何をされるか分かりきっていた。
「さこちゃん久しぶり〜!変わんないね!」「みこちゃん!?そっちは随分変わったねぇ〜、今都心に住んでるんだっけ?」「なあ飲み物足りてる?」「えー?」「これ美味ぇな!もうちょい取ってくるわ」「飲み過ぎんなよお前。誰も送んねぇからな」「薄情!」「皆呑んでるー?」「ね〜この後二次会行くらしいけど、ウチらで抜けよ?」「あはは!」「アレ?2組って人数これで合ってるっけ?欠席?」「なんか1人、数年前に死んじゃったんだって。交通事故で」「ちょっと、誰か一緒に水瀬くんに声掛けてこようよ、一生のお願い!」「玉の輿〜?それならもっと手頃なのにしときなよ、名取とかさ。水瀬くんは絶対倍率高いって。例の駅前ホテルの社長だよ」「それはオレに失礼じゃね……?」「滅茶苦茶デカいとこじゃんか……やっぱ持ってる奴は違うわ」「つーか一生のお願い何回使ってんのよ、アンタ」「聞いて?ねえ聞いて???」
アルコールに強い訳では無い。ふわふわと覚束無い足元に同じような足取りの級友。肩を組まれてヘラヘラと笑う。
酒に酔うのは好きだ。気分は高揚するし、大勢で呑むのは楽しい。
「うっわ顔赤っ!?酒臭ェ!」
「もう出来上がってんじゃんコイツら、笑い上戸と絡み上戸かよ!」
ぶつかった壁に凭れ掛かれば、それからは不思議と甘苦い匂いがした。酒に溶け込んで混ざって蕩けるにおい。顔に当たる柔らかい布。冷たい感覚が頭に当てられて心地良いような、そうでも無いような。入り込んだ風が思いの外寒くてぶるりと身体を震わせる。
「あー……、馬鹿笑いして散々べったべたに絡んだ挙げ句潰れるんだわ、此奴」
「ウゲ……最悪じゃん」
「水瀬くんかわいそ。誰かタクシー呼んで〜」
「ヤ、いいよ。此方で迎え呼んでるから」
「なになに職権乱用〜?」
「……フフ。あぁ、だから悪いけど、二次会はパスで。明日も仕事なんだ、俺も此奴も」
「えー?!水瀬カラオケ来ねーの?!勿体無ェ〜ッ!!」
「埋め合わせはするから……ホラ、敦。水飲めるか」
押し付けられたコップを勢い良く呷って噎せ込んだ。
「酒じゃねぇよ、少しは酔い覚ませってンだ……立てねェか?分かった分かった、背負ってやるからジャケット脱げ。皺になる」
仕方ない奴だなァ、お前は。
どこか遠くで、熱に浮かされたような上擦った、甘ったるいそんな声が聞こえたような気がした。
乱雑に此奴を車内に落として、反対側に身を滑り込ませる。
「出します」
「ん」
タイを弛め、体勢を崩して後ろに流れていく窓の外の景色に目を遣る。
「今日は一日、楽しめましたか」
「そこそこ」
「左様で」
「酔えればあの会場も楽しめたんだけれどね」
「……」
「ああでも本当に、面白くなかった訳じゃあないさ。どっちかと言うと午前に此奴で遊んでた時の方が心が動いたというだけ」
「……お疲れのようで」
「ふは。……疲れたよ。本当に」
壊さないように逃げられないようにするには酷く気を使うから。
……間抜け面で呑気に眠ってやがる。奴の前髪を片手でぐしゃりと握る。馬鹿だなァ、あんなに警戒して嫌っていたのに、どうしてお前は容易く無防備な姿を晒しまんまと拐かされるんだ。この頭蓋には何が詰まってんだ?
甘く嬲ってやったあの夜、喘ぎながらではあったが生理的嫌悪で吐瀉物を寝床にぶちまけた癖して。染めた色が地毛に戻り始めて根元が黒くなっていた。強く掴んでいた訳ではなかったので、パッと手を離せばこてんと首が傾いて、髪の合間から大量に穴が空いた耳が覗いた。
此奴には時間を掛けて刷り込んだ。此処は全てが与えられる場所。此処は望みが叶う場所。世界でいちばん幸運な場所だと。
本能が乖離を起こしているから、吐き気がするのに安心してしまうのだ。分かっている。俺がそうした。だからこうなっている。わかっている。
その首に手を掛けて頸動脈を指で撫でる。此処。顎の下のこの辺り。どくどくと指先が鼓動を感じる。憎くて殺してやりたいと何度となく思って、今此処で殺す事は慈悲だと己を制止する。壊す事すら生易しい。狂おしいこの殺意は慕情である。俺は衝動に蓋をする。手放すには惜しい愛玩動物。溢れんばかりの殺意でお前は甘やかされ、愛でられて愛でられてそうして死ねばいい。知らずの内に俺に溺れて狂い死ね。愛は簡単に人を殺すのだから。そのやり方こそ、この俺に相応しい……。
「キミ。犬は好き?」
「好きでも嫌いでもないですね」
「私はね。嫌いではないよ」
「飼いますか?」
「躾の途中さ」
「成程」
次は飼い主の横を歩く事を覚えさせなくては。
取り敢えず此奴が持ってるピアスはある程度捨てさせようと思う。身を飾る程度のものを定める気はなかったが、これではあまりに品がない。少なくとも耳輪内側に使うスタッドピアスは幾つか捨てさせる。それに舌は良いが鼻は駄目だ。眉付近のそれもやめさせる。人にも寄るが此奴の場合は、虚勢を張って誰彼構わず唸るチワワのようだった。
犬は嫌いじゃないが、隣に置くならば愛玩されるだけの可愛らしいそれよりも、走らせれば獲物を狩ってくる猟犬が好ましい。
マア、期待はしていない。
それは、押し固められた絶望にも似ていた。
「犬は嫌いだ」
「嫌いかァ」
「大嫌いだな」
くつくつと喉で笑う男の口を塞いで呼気を吸う。この場所にいながら外の話を持ち込むなんて無粋にも程がある。外に出られないおれへの皮肉か?
細められた眦に揶揄が滲むのがひどく気に障る。舌に牙を立てようとするとぬるりと逃げられて上顎を舐め上げられた。鼻を抜けるような声が漏れて眉根を寄せる。
セックスをする時以外にも戯れに口付けを交わすようになったのはいつからだったか、何方からだったか。
「咬むなよ。アレは流石に痛かったんだ」
べろりと出された薄い舌は二股に分かれていた。少し前に“勢い余って”噛み千切ったのだ。
「マ、それだけ気持ち良かったって事だしなァ?」
「……減らず口を」
コレで舐め擦られるのは存外心地好かったりする。良かったな、お似合いじゃあないか。この淫奔蛇野郎。
「ん……スる?」
「……今日はいい」
「ふふ、じゃあキス」
ただ無意味に唇を合わせるだけの作業が胸の裡を僅かに疼かせる。
滑り込ませた舌が擦り合って、ぬるぬると絡んでは離れる。
性を煽るような口付けは、然れどセックスをしようとは思わせない。ただのキスで満足感すら覚えているのがまた憎たらしい。
「……─────お前はつまらない」
「おや」
「面白みのない人間だ、お前は」
「ふぅん。それで?」
「ん。……お前が来たところでこの退屈は紛れない」
にこにこと変わらず笑いながら相槌を打つヤツが心底気に入らないのだ。
「……嫌いだ」
「うん」
「顔も見たくない」
「フフ、そう?」
どうにかその面を歪ませてやりたくて、キスの合間に罵倒を混ぜる。
「……、」
「もう遊びは終わりかな」
“つまらない反応だ”と言うけどお前、まるで愛おしいひとに愛しているとでも言うような穏やかな顔をしているよ。
がじりと立てた牙は、獲物をぬるりと逃すばかりだ。