吸血鬼は淫魔の夢を見るか? 作:マスター冬雪(ぬんぬん)※休止中
■爪紅の話
ひらひらと手を振り扉から入ってきたナミセの指が真っ赤なマニキュアで彩られている事に気付く。
本の頁を捲る指先を、なんとはなしに目で追っていた。
整えられた荒れの無い滑らかな象牙の白。
「フフ……視線が擽ったいね」
部下に強請られたのだとナミセは言う。
白く細い指に映える、ムラなく丁寧に塗られた赤い紅い爪紅。
「……そうだ、少年。お前にも塗ってやろう」
「いらん。……おい、聞いているのか。やめろ、」
黒く塗られた指先に、ナミセは唇を落とす。
白皙の吸血鬼には鮮烈な紅と、相反する黒がよく似合う。
■天国の話
天国とは何か?
生の先にあるものとは?
進化・成長と昇華の違いとは?
生きる意味とは?
人の形と神の関係性は?
何故神は人の繁栄を赦したのか?
人は何故未完成なのか?
人の可能性とは何か?また、吸血鬼に可能性は存在するのか?吸血鬼の先には何が存在するのか?
可能性を足し算すれば、人や吸血鬼は神、或いは運命を左右する力を得られるのか?
「人の心に地獄はある。人は心によって感情を感じ取り、自ずと灼け付き凍て付くような苦しみを味わう」
―――ならば天国の場所とは何処か?
「さあ?」
地獄があるならば、逆説的に天国もあると云えようか。
「それはきっと地獄の中にあるだろう」
―――生の先にあるものとは?
「生の先にあるものと死の先にあるものは同一だ。無。無がある」
自分とは、自己とは、唯一無二のものである。同一個体は平行世界であろうと存在しない。あるのは限りなく似た別人だ。
故に個を忘れた時点で忘れる前の自分とは別のものとなる。
なれば生死の先にあるのは無だ。
神は人の繁栄を“赦した”のではない。“止められなかった”のだ。
何故なら神は人の形をしていたから。
何故なら人は未完成だったから。
人は可能性の塊だったから。
―――神を信じるか?
「神。神ねぇ……」
神とは己自身だ。誰もが神に成り得る可能性がある。神は嘗ては人だった。人の進化の果てにある可能性の一つが神であるから。
可能性の一つでしかない、という意味で。
『吸血鬼は夢を見るか?』
吸血鬼は夢の先を見られるのか?
さて、はて。
■化け物と人間と精神と肉体の話
人並み外れた精神を持つ人間と、未だ人の精神を持った吸血鬼。
「どうすればおれは到れると思う?」
本の頁を捲りながら少年は言う。
「到る?」
「ヒトの精神のままでは“駄目”なのだ」
そちら側に到れば、成り果てる事が出来れば、きっと今一歩先へ進めると思っているのだ、少年は。
「肉体はヒトを超越した。魂はそれに相応しいものだ。足りぬのは精神だ。それを得るには、今度は何を奪えば良い?」
夢の中は鮮烈で、褪せている。虚でありながらも実が存在している。
安寧でありながら焦れったく、安心しながら恐怖を抱く。揺り籠のような場所で。
少年は頁を捲る。手持ち無沙汰に、思案に落ちながら。
これはきっと自身の考えを整理する独白だ。返答などあってもなくても構わないのだろう。
必要があれば奪い、それを手繰り寄せ、得ようとする。……彼は考えにないのだ。何かを得るには時に、何かを失う必要がある事を。
俺が彼に抱くのはどういった感情なのか、俺自身も分かっちゃいない。
懐古、憐憫、感傷。情と共感。どれもが当てはまり、どれもが的外れだ。
ふと口を開く。
こちら側には来ない方が良いと俺は言う。
「何故だ」
底知れぬ怒りを滲ませた彼を笑う。
これは愛だろうか。それとも只の哀だろうか。
俺はそれを失って欲しくないと思っているのか、否か。
少なくとも彼が抱く願望の否定ではない。
「おまえは今まで失った多くを補填する為に獲得してきたね。今のおまえは失わない為に得ようとしている。おまえのやりたい事はそんなもの?」
「貴様におれの何がわかる。多くを得て妥協し、更に上を目指す事無く。失ったものを失ったままにする空虚な臆病者が」
「確かに俺は多くを失ったように見えるだろう。違うね。俺は失ったと気付いた時に捨てたんだ」
向上心、目標、恐怖、悲しみとか、そのあたり。
地に落ちた飴玉を拾って洗って食べようとするか?俺はしない。俺には飴玉のような価値しかないが、人によってはそれが宝石に見えたりするのだろう。
それが俺を今、俺たらしめる―――彼が逸脱した精神性というものの正体なのだ。
仏の道に進むものは煩悩を捨て、縁起を把握し克服する事を求められる。
厳密に言えば違うのだろう。だが俺は人の本能に逆らい“到る”事とは即ち人間性を捨て去り人ではないナニカに成る事と思う。
果たしてそれは完全と言えるだろうか。彼にとって、望んだ結果に成り得るだろうか。
良い気分ではないよ。少なくとも人間の世界で生きる俺にとっては。
神になる道がそのようなら、きっとこれ以上に失うのだろう。
その果てに俺は俺のままでいられるか?―――少年は、少年のままでいられるか?
少なくとも俺はまだ、人としての生を愉しみたい。
「D、I、O」
どこぞの国では神を表す言葉。空にスペルを書きながら笑う。
「“少年は神になりたい?”」
ソファーに寝そべり、天井を見上げ、独り言ちるように。
その響きは愉しげにも、言祝ぐようにも、か細くも、憂うようにも、空間を微かに揺らす。
視界に彼の姿がのそりと現れる。
眉根を寄せ、如何にも不機嫌そうに。紅く深く輝く二つの紅玉が美しいと思う内にその顔が近付いて、唇に冷えた熱が落とされた。
「……お前と共に居たら此方の肉体が腐り落ちてしまいそうだ」
「フフ。そうしたら一緒に融けてしまおうか」
お前はそれを選ばないのだろうけれど。
その時が来るならば俺は手放してしまえるのだと、どこかで確信があった。
■白い部屋について
「夢の中ってある種、無防備なものだと思わないか」
ナミセがペンを置いて、此方を見もせずに言う。
「脳内、或いは精神、スピリチュアルで言えば魂。夢が自分の意志で変化するのは明晰夢―――脳が半分起きている状態である場合に限られる。……つまりそれは自身の本質、本心を赤裸々にしていると同義じゃあないか?」
ひとたび指を振るうと、白い壁がパッと明らんで、水中を映し出す。否、水中は水中でも光がキラキラと瞬く海中だ。魚群が渦を巻き、捕食者はそれを噛み千切って喰らう。厳しくも美しいコバルトブルー。
「やめろ」
「……フフフっ!そうか、おまえ、今海底にいるから嫌なのか!」
からから嬉しそうに笑って、ナミセは天井の、海水で歪む太陽を見上げる。
「それとも、太陽が気にくわない?」
ナミセの意思によって今度は満点の星空が映し出される。
星が命を燃やして放つ、何光年先にも届く光の河。
「これは明晰夢?それとも無意識に見ている夢?」
星明かりのみに照らされるナミセの顔は、吸血鬼の視界ではよく見えた。
■
“星を見るか?泥を見るか?”
地に堕ちよ、星。
―――“果てへはひとりでいい”
■影響の話
「水瀬さんの英語ってカナディアンかなと思ってたんですけど、どことなく違う感じしますよね」
「そう……かな?自分では気付かないものだね」
「うーん……えーとぉ、どこだろ」
「……、あぁ、イギリスでは?」
「あっ!そう!クイーンズイングリッシュだ!」
「……!」
「少年の話し方の癖が移ったみたいだ」
思えば少年とは長くはなくとも濃い付き合いだから、仕方ない事かもね。
「……」
考え方と咄嗟に出る言葉の癖が似通ってきているなど、それに気付いてしまった事など、此奴にだけは言って堪るものか。
■
―――だけどお前は全てを投げ棄てられる程、俺を愛しちゃいないのだ。
俺を愛しはしないのだ。
お前の瞼の裏にはいつも、遠く光る星がある。
いっとう眩しくて美しい星が。
■
みっともなく足掻くのが気持ちいい
踊ろうか 誰かの掌の上で
■逃避行 表
怖気が走る筈なのに安堵してしまう。嘔吐してしまうくらい拒絶しているのにどの女を相手にしても得られない快楽をもう一度欲しいと思ってしまう。
あんまりだ。もう耐えられない。気紛れに振るわれる鞭の痛みは、安っぽい飴玉に慣れた敦の精神を着実に蝕んでいった。
―――「“これ”、要るか?……ふふ、冗談だって」
―――逃げよう、今の内に。奴が本気でオレの脚を切り落とす前に。
幸いにして奴はオレを嘗めているので、逃げ出す事なんて考えていない筈だ。逸る気を抑え付け、錆び付いた脳味噌で計画を立てていく。先ず先立つものは金だ。金さえあればどうとでもなる。だが、奴が勝手に振り込んでくる金は使えない。借金するにもセンパイの目がある。……そう、それに、組の脚抜けには膨大な金が必要だ。奴に言えば肩代わりもするだろうが、行動を起こしたという事自体を知られるのは拙い。なら逃げるしかない。何もかもから、煙のように掻き消えるしか。
何処に逃げる?日本は駄目だ。少し窮屈で不自由しても、遠く離れた発展途上国がいい。
奴の知らない裏のツテを頼って偽造パスポートを用意して……外国で戸籍を新しくしよう。
初期費用は両親に頼み込んで、クレジットカードを使い過ぎたとでも言って30万程現金を貰い、怪しまれないよう慎重に行動を始める。
今までの行動を急に変えないようにして、僅かな隙を見逃さないように。
奴が視察だかなんだかで県外に離れた。今が最後のチャンスだ。オレは何でも無いように新幹線に乗り込み、バスに乗り。ビジネスホテルにチェックインして。
服を替え、荷物の殆どを部屋に置き去りに空港行きのバスに乗る。
空港まで辿り着き、周りを警戒しながら飛行機に乗り込み。離陸して漸く息を吐いた。
逃げれた。確信した。スマホにGPSが付いているかもしれないから、服に盗聴・発信器が付いているかもしれないから、スマホも服も置いてきた。これならもう、追いかけようがないだろう!
胸に去来するのは開放感と、蜷局を巻くような不安感だった。大丈夫だ、大丈夫。オレはおかしくなっていたから、奴におかしくされていたから、奴のそばにいないと落ち着かない気にさせられていた。だからこの不安は、奴から離れて暫くしたらきっと良くなる。
頬が緩む。やっとオレは自由だ――――
「可愛いだろう?アレで逃げられたと本気で思っているんだ」
現地に着いたと同時に強く肩を掴まれる。その姿には見覚えがあった。……組の人間だ。
あまりにも早過ぎるッ!オレは誰にも気付かれることなんてしていない、
「馬鹿な奴だ。“相方を騙して金を盗み”、その金で高飛びたぁ太ェ野郎だなぁ?」
―――京一郎……ッ?!!
「残念だったな。……おい、行くぞ」
■逃避行 裏
逃げるなら海外だろうな。アイツは世界は広いと思い込んでいるタチだから。
小賢しく服を替え、スマホも荷物も置き去りに出国なんて、アイツにしてはよくやったよ。
「全部読み切って掌で転がして。喜びから絶望に叩き落とすたぁアンタ悪魔みてぇな事すんなぁ」
“先輩”は目の前でグラスを手にニヤニヤと笑う。
「いいのかい?大事にしてんじゃなかったか?疵物になっちまうぜ」
「悪い事をしたら仕置きは当然でしょうに。いえ、この場合はケジメ、ですかね」
「ははは」
「小指一本でアイツが飼えるなら、私は別に構いませんし」
あくまでアイツは組の構成員でしかなく、組の所有物だ。満足に義理も通さず逃亡という最悪の形で“飼い主”の手を咬んだアイツが悪い。
組の構成員の手によって日本に連れ戻され、アイツは今、一室でケジメを取らされている。暴れ狂うのを無理矢理押さえつけられ。切り落とされる恐怖に泣き喚き。―――激痛に悲鳴を上げる。
「小指が切り落とされる程度で良かったなぁ、敦」
脚ではなくて。
“先輩”のグラスに酒を注ぎ、自身もグラスを傾ける。
「何処まで計算尽くだったんだ?」
「予想はしてましたので。それをちょっと突いて行動させただけですよ」
「可哀想になぁあいつも。実家に戻ったとて、手回し済みか」
「ちゃんと挨拶しましたよ。彼は自分の相方なので、“裏に関わった挙げ句海外に職場の資金を持って逃亡し掛けた”くらいで、見捨てやしませんってね」
警察官も一緒に来られれば信じざるを得ない程度には、彼の両親は善良な一般人だった。かの両親ならアイツを叱り飛ばして俺に贖罪しろと言い付けるだろう。裏に関わった証拠に、アイツの小指はさよならしているので。
アイツの敗因は善にもなれず、割り切った悪にもなりきれなかった事。中途半端が一番いけない。
「いっそスケープゴートでも用意して、人ひとり身元不明の死体でも作ってしまえば、まだ騙されたかもしれませんね」
「アイツにゃ無理だろ。自分で殺すどころか、自分が原因で人死にを出すのも尻込みすらぁ」
ああ、確かに俺は殺人だけは肯定しなかったしな。否定もしていないが。
アイツは俺を気味悪がって拒絶していたが、善悪の基準を知らず歪められていたとは結局気付かないままか。
暴力も窃盗も恐喝も陵辱もヤッたのに、いつもいつまでも被害者面して。
「では、これでアイツは組を抜けるという事で」
「纏まった金も貰っちまったしなァ。マ、これからもお前さんとは懇意にさせてもらうって事やから、特別にな」
「嬉しい限りです」
淑やかに、艶やかに微笑む。
ゲームはおしまいだ。態と自由にさせて嬲って甘やかしてを繰り返したが、もう酷い事はしないとも。
ちゃんと、骨の髄まで蕩かせるように。甘く甘く愛でてやろうな。
「随分と機嫌が良さそうだな」
少年が平坦にそう口にする。
「そう見える?」
「気色悪い顔だ」
「ンン、酷い言い草。おまえ俺の事取り敢えずで罵倒するよな」
此方の顔を碌に見ていないくせに、この美しい吸血鬼は俺の中身など知ったものとして鼻で笑うのだ。
「大方、例のお気に入り関連だろう」
「フフ。あたり」
でもまァアイツは、お気に入り、ではないけれど。
アイツは俺の無聊を慰める為のオルゴールのようなものだ。生き物である事を加味すれば金糸雀といった所だろうか?なんでもいいが。
「逃げる姿もよかったけどな」
そう言ったきり口を噤めば、彼は趣味が悪いと吐き捨てた。
「見目が良い訳でも、鳴き声が美しい訳でもない凡夫を飼うなど」
「鳴き声は悪くなかった。少しクドかったがね」
満たされたか?などと、彼が似合わず言うものだから。言葉の意味も相まって思わず哄笑してしまった。
「ン……っふふ!ふ、は。あ―――、は、ははははッ!!ッけほ、」
「噎せる程笑うな」
「ふ、く……フフ!ふ……あまり声を上げて笑うのは、ふふ、慣れていなくてね」
満たされたかだと?……可笑しな事を。
「満たされる訳がないじゃあないか。アレは俺を煩わせる事も出来なかったんだぞ?」
「そうだったか?」
「過去に依存していたのは認める。それを疎ましいと思った事も否定しない。けれど結局アレは俺の前に立ち塞がる事も、側で虎視眈々と付け狙う事も、前と同じように媚びて甘い蜜を吸う事もせず、剰え抗う事すらやめたんだ。俺に愛玩される事すら烏滸がましい怠慢さ」
愛玩犬である事をやめ、野犬に戻る事も出来ず。猟犬にもなれず。なんて可愛らしくて可哀想なのだろうね?
「俺の価値はその程度か?……なぁ少年」
向かいに座る彼の脚に自分の脚を擦るように絡める。
アレが本当に俺に相応しいとでも?
彼は薄く嘆息すると俺を流し見、俺の隣に腰掛けるとそのまま両足を俺の膝に乗せた。
「少年?」
「……」
これはつまり、“そのくらい分かれ”、と言う事だろうか。
「ふふ……!おまえはこう言いたいのか?“おれの足置き程度には価値がある”?」
それともこうされるだけの親しさを与えるには評価している?
傲慢だ。この俺をして足置きだと?俺をその程度だと貶めているのだ、この男は。
嗚呼、それはなんて―――素晴らしい。
他の有象無象にされた訳ではない、この美しく強靱でしなやかな男にならば構うまい。完全を目指す、未だ人間性を残した美しい吸血鬼。完全を目指しておきながら、この俺に言葉無く隙を見せている。それはいつでも殺せる矮小な人間ではなく、俺の精神性をある種の指針として見ているが故の―――
「それは俺を懐柔したくてしているのかな」
「この程度でお前を懐柔できるのならば今まで苦労はない」
「懐柔したって“そこ”からおまえを出せるはずもないしなァ」
ギロリと強く睨まれてくつくつと笑う。
「だけど俺はおまえを愛しているよ」
「……嘘くさ……」
「ホントなのに」
「ならばお前はその世界を捨てられるか?このおれの為に」
その問いには曖昧ににっこりと笑っておく。それに回答をつけるには早過ぎる。
彼は今度こそ強く舌打ちした。
「飲むか?血」
袖の釦を外しながら言えば、彼はじとりと半目で睨みつつ、俺の胸倉を掴んで起き上がる。
そのままソファーに縫い付けるように覆い被さるとシャツのフロントボタンを引き千切って首に齧り付いた。
嗚呼、今日はしこたま啜られるなァなどと暢気に思いながら、その艶やかな金糸に指を滑らせる。
「明日は休日だから……たっぷり愛してやろうな?」
「……抜かせ」