吸血鬼は淫魔の夢を見るか? 作:マスター冬雪(ぬんぬん)※休止中
■魂を賭けて
■死なずの男が見たもの
■夜闇に孕む
■酒と女と歌を愛さぬ者は一生阿呆で過ごすのだ
「ギャンブル、教えておくれよ」
約束したもの、ね?
京一郎に強請られて快く受け入れた。ダニエルは生粋のギャンブル狂なので、色々な人とより多くの賭けを交わせるのであれば願ってもいないのである。
「───そう。そこで更に駆け引きを持ち掛けるのです。言葉でも、仕草でも、挑発して……相手の動揺を誘う」
「ふむ」
「そも、賭けというのは相手に持ち掛ける前から始まっていて───」
「……何をしているんですか」
「ああ、待っていたよ」
「っと。おや、テレンスじゃあないか」
その声に京一郎が振り返る。
どこか呆れたような顔でこちらを見下ろすテレンスの姿が部屋の入り口にあった。
「やァ」
「やァじゃあありませんよ。急に軽食と飲み物を部屋に運んでくれだなんて仰るから、何事かと」
「私のじゃアないよ。彼にね」
「私にですか?」
目を僅かに見開いたダニエルに京一郎は鷹揚に頷く。
「そろそろ昼時だ。人間は腹が減るといけないね」
熱が入ると1食くらい抜いても構わないと思ってしまう。
どうせこの後も続けるつもりだったのだろうから先んじて遣いを飛ばしておいたのだ。
「いやはや、一本取られましたなァ」
「ふん。まあいいですけど」
「さっきの質問だけれど、ダニエルには賭け事を教わっていたの」
「……ああ。はいはい、いつもの
「ピンポーン。当たりィ。キスでもくれてやろうか」
「結構です」
クロッシュに覆われたそれに賭けをしようと京一郎はダニエルに投げ掛ける。
「ははあ、では何を」
「クロッシュの内側にある軽食の内容。賭物は罰ゲーム」
京一郎が勝ったらダニエルは京一郎と一晩共寝してもらおうか。ダニエルが勝ったら京一郎はダニエルと一晩賭博場巡りって事で。
「これは本気を出さねばなりませんな」
「やーんそれはどっちの意味で?」
「貴方の筋が宜しいので、とお答えしておきます」
「……」
テレンスは内心付き合いきれねぇと思っている。
間。
今晩賭場巡りが決定したところで、手にしたサンドイッチをダニエルが口にする。
「やっぱり兄弟だから以心伝心するのかな?」
「気色の悪い事を言わないでください」
「失礼しちゃうな……」
京一郎はテレンスにメニューを限定させる事も出来たはずだ。けれどそれをしなかったのは何故か?
「どうせなら俺も参加したかったし、勝負事はフェアじゃなきゃあ。……というのは建前で、イカサマはバレないようにしないとね。今の俺にダニエルを欺く技術は無い」
「……グッド。才能ありますよ、ミナセ」
慣れぬ内は冒険しないのがコツだ。けれど、スリルを楽しむというのも才能のひとつ。
培った自身の技で、全て賭して競り合うギリギリの感覚が楽しいのだ。
「場数を踏んで。他人から技を盗むのも経験になる」
「こんな風に?」
傍らのトランプをシャッフルして5枚引き。表に返す。
「手癖の悪い……」
「まだ荒いですが、この短時間で見事なものです」
「んふふ。稀代のギャンブラーに教わっているのだから、この程度はね」
何度も手を替え品を替え仕掛けられていれば、イカサマのひとつやふたつ覚えるというものだ。
黒一色のロイヤルストレートフラッシュを指で小突きながら、プレイヤーとして競り合って楽しいと思って貰えるように頑張るよと京一郎は笑う。
「その時を楽しみにしていますね」
「余裕ぶっているのも今の内かもね?」
では、次に本気でする時には─────“魂を賭けて”。
★
DIOの住まう屋敷の中には、碌に名前を呼ばれもしない、1体の吸血屍生人がいる。自分には──という立派な名前があるというのに、皆が皆、ヌケサク、ヌケサクと呼ぶ。主人であるDIOですら。
スタンドを持たず、戦闘力も碌にない、怪我も治らない、DIOの戯れで生み出された屍生人。身体の裏面に女の身体があるだけの、非力で間抜けな。けれど憎めない。
「──」
けれど唯一、彼を彼の本当の名で呼ぶ人間がいた。……いや、正しくは人間では無い。吸血鬼とも屍生人とも違う、元人間の淫魔だという男。名前を水瀬京一郎。名は極東の国のものだが、その顔立ちは西洋人のものをしており、肌が黄色でなければ彼の血の中にアジアのものが入っているなど考え付かないだろう。
DIOに見初められ、屋敷に招かれ、食客としての扱いを受ける同僚(仲間)。淫魔に相応しく、DIOとは違ったカリスマと色気を醸す───魔性の男。
「──、──。いないのかい」
「……ハッ!こ、此処にいますッ!」
「ああ……そんな所にいたのか」
確りと筋肉の付いた身体であるのに、目に毒な程にエロティックな。見せ付けて誘うかのように上半身に何も身に付けていない京一郎に、──は視線を僅かに下に下ろして窺う。見てはいけないものを見ているかのような、そのような神聖さが彼にはあるからだ。
「ねえ、少し頼み事をしたいのだけれど……頼まれてくれないかい」
「え、ええ!勿論です!何でも仰せになってください!……あ、いや……太陽の下に出ろとかそういうの以外なら……」
「あは。そんな酷い事、キミにさせる訳ないだろう?」
指先、髪の一筋すらも輝かな美が──の頭に触れる。頭を伏せる──に、彼の息が吹きかかりそうな程にまでの近さ。ふわりとスパイシーな甘い香りが鼻先を擽った。
「キミだって、かけがえのない……彼に仕える者のひとりじゃあないか」
「み、ミナセ様……!」
甘く、爛れ蕩けたような声が暗幕のように降り注ぐ。彼は夜だ。夜の闇だ。日の光を忌避するこの身からすれば、まるで母親の胎の中のような安らぎだ。
「キミ、よく彼の吸い残しをおやつ代わりに糧にしているだろ」
「!……は、はい……も、申し訳、」
「え?いいんだよ、彼も気にも留めていないさ。……その死体だけど。……健康そうなのひとり、2階の空き部屋に持ってきてほしくって」
「は……え、えっとぉ、ミナセ様も食べられるんで?」
「……うふふ。私、死体は食べられないよ」
理由は聞かずに、ね。語気の鋭い言葉に震えをひとつ。──はYESと返事を返す。
「ありがとう。あとあればでいいから、工事用の大きいブルーシートも持ってきてくれないかな。大きく広げて、その上に、女の死体を置いて」
「しょ、承知致しましたッ!直ちにッ!!」
「ゆっくりでいいよォ。しないといけない事があったらその後でもいいからね」
“そうしたら、チョットだけ。私の血を吸わせてあげる”。
甘く、淡く、しどけなく。そのように耳元で囁かれる。
──は歓喜した。彼の血を吸うのは主人であるDIOだけだ。彼の身体に触れるのも、それを許されるのは、言ってしまえば有用なスタンド使いに限る。それもこれもDIOと京一郎の目溢しに過ぎない。だが自分は許可された。他の誰でもない、京一郎自身に!
優越感が身を包んだ。彼に最も必要とされているのは自分なのだ!、と。
「頼んだよ」
「はいッ!!」
未知を既知へと変える作業は蟠りを解き1本の糸にするかのような快感と達成感を味わわせてくれる。
なまじ人も物も欲すれば手に入るような立場を持っていたので、他人よりも未だ経験していない未知というものも少なかろう。
現代日本に於いて、水瀬京一郎が知らぬ事は他人より少ない。持っておいた方が良いもの、欲しいと思ったものは全て周りから齎された。
「さて。レディ……はじめようか」
傍らに浮かび上がる人形の女は、常より変わらぬ慈母の笑みを浮かべて男の掌にその手を乗せる。
「年齢は……10代後半から20代前半かな。死後硬直が始まって間も無い。微かに温もりすらある……肉付きは平均的、持病は無いとして考えておくか……」
吸血屍生人の嗅覚を信じよう。
京一郎の手が女の腕を持ち上げ、ぱたりと手が離される。
皮膚の感触、肉の付き方。血管の形、首の下の動きを止めた動脈と、背面に裏返して脊髄から後頭部にかけて。
「レディ、手伝っておくれ」
こくりと頷いた人形女はズッ、と腕を死体の内部へと沈ませる。
「はぁ、人間の内臓はこうなっているのか。此処が腸、此処が心臓、此処が肺……頭蓋の中も……こうなっているのか」
スタンドの見えない者からすれば、男の掌の下、女の死体の皮膚の下がひとりでに蠢いているように見えるであろう。
掻き混ぜ、けれど破らぬように繊細に。
「最後に……此処も、見ておかなければ」
下腹部。男には無い器官。子を孕む、女を女と呼称する象徴───子宮。縦長い袋状の内臓。血の塊に覆われる三角の空白部分に、子が宿る。よくよく感触を嬲り、確かめ、腕を引き抜く。
「ウン。充分だ。───
傍らに置いていた腑分け用の牛刀がギラリと光を反射する。
「やっぱり実物に勝るものは無いと思うんだ。視覚というのは明確に情報を齎してくれる」
女の白い肌に赤が浮き出る。全身の血を抜かれたとはいえ乾涸びる程では無い為か、まだ僅かに血が溢れる。
身体の中央から下腹部にかけて、丁寧に開かれていく。
「解体新書の杉田玄白もこんな気分だったんだろうか?」
首の下から顎先までをズッと刃を入れると、でろりと力を失った舌が血と共に溢れた。
「ああ、食道と気道まで裂いてしまった……これが……肺に繋がっているから気道だね。こっちは胃に繋がっているから食道だ」
肋を押し開き、青く赤く白い内蔵と肉を掻き分ける。
心臓付近の血管を切った時にぷしゅりと顔に血が飛び散る。
「ンう。……生臭くて鉄錆臭い」
べろりと舌でそれを拭う。
そのまま、縄状の腸を取り出していく。これがまた長いのだ。これだけの物がちっぽけな一人の人間の体に詰まっていたとは、生物とは実に神秘なものだと思わざるを得ない。
解剖医の真似事。ごっこ遊びにしかならぬ暇潰し。
邪魔な骨を割り、ゆっくりとそれを取出す。
「ン〜……成程」
中身を潰してしまわないように、それを縦に切り分ける。
体液に塗れたその指が、二つに分かれたそれをなぞる。
「……ふん。次は頭蓋骨を割って脳味噌でも見てみようか───」
その部屋を開いた時、むわりと噎せ返るような血と死臭が鼻をついた。辛うじて換気の為か窓が開けられていたものの焼け石に水だ。
調度品も何もかも壁際に寄せられたその部屋の中央で、安っぽいビニルのブルーシートの上で、京一郎は血塗れで座り込んでいた。
ぐちゃぐちゃと、水気のある掻き混ぜるかのような音。ぷちゅんと何かが潰れる音。ちらと見えた握られる刃物は血脂に絖って最早刃物としては使えまい。
「……京一郎」
「あ、少年。いらっしゃい」
くるりと何事も無いように振り返って見せた京一郎の貌には、白い肌に酸化して変色した赤茶の血がこびり付いている。
「一応聞くが……何をしている?」
「……うふふ。人間の、更に言えば女のナカミが知りたくて」
からりと牛刀を手放した京一郎は体を起こして立ち上がる。
「もうコレは要らないな。後で焼却炉に入れて貰おう」
ブルーシートの端と端を結んで覆い、更に麻布にそれを入れる。
「──には感謝しなくちゃア。これの処分も頼まれてくれた事だし」
「──?」
「おまえがヌケサクと呼ぶ吸血屍生人だよ」
「……ああ、アイツか」
実験も兼ねて生み出した屍生人。魂の無い動く死体。男と女の2つの生命体を合体させた、過去に行った最後の実験体。
「彼は死体で魂が無いから、お前が本当に望んでいた結果とは程遠いものだった」
腕を真っ赤に染めるどろりとした血を、京一郎はじっと見下ろして、舌を這わせる。酸味と苦味と、鉄錆の甘ったるい味。
姿を現した真白い肌は、赤黒と対比して美しく見えた。
「もしも魂を複数その身に受ける事の出来る強度を持った人間を作れるとしたら」
ぴくりと、DIOはその言葉に反応を示す。
「俺は、魂を
服をたくしあげて、京一郎は自身の腹を撫でる。
皮膚の下、肉を掻き分けた先。白い胎に、血がべとりと張り付く。
天を仰ぎ、何も入っていない胎を抱え、その先に坐す神をも冒涜するような笑みを浮かべる様は正しく背徳的。血を纏って立つ姿のあまりに美しいこと。
まるで美しさを求めて処女の生娘の血の風呂に浸かったエリザベート・バートリーのように。
「俺には出来るよ、ディオ」
「ああ、」
1歩。目を見開いたまま、その真偽を見極めるかのように。
「構想はある。現実味はないけれど」
傍らに立ち、DIOは京一郎の胎に触れる。
「……試してみる?」
「……、……今はまだ」
「ウフフ!いいね、おまえの覚悟が決まったら、いつでも言って……」
その唇が触れ合う寸前。
「あ、あのォ……」
「……おや、──。来てくれたんだね」
つい、と京一郎のおとがいが逸らされる。
恐る恐る声を掛けてきた──に微笑み、京一郎はその血に濡れた指で麻袋を指差す。
「助かったよ。キミの御蔭で、色々と勉強になった」
「は、はぁ、それは良かったです……?」
「それ、焼却炉に。約束の報酬は明日の夜にでも……私の部屋においで」
「は、はい!……ヒィ?!」
──は身を竦める。苛立ちのような、殺気じみた視線が上から降ってくるのだ。
「こら。彼はちゃんと俺の言う通りの事をしてくれたんだから、見合った報酬を受け取るのは当然の権利だろう」
「……チッ、用が済んだら出て行け」
「もう……ごめんね、──。彼、少し虫の居所が悪かったみたい。気にせず俺の頼み事を終わらせておいで」
そうして、──は足早にその麻袋を引き摺って外へ逃げ出た。ちらりと振り返って盗み見た時、京一郎はDIOの首に腕を回し、踵を僅かに持ち上げて、DIOに撓垂れていたところだった。
★
「ここに、子宮を仕込む」
唇を離し、垂れる唾液を舌で拭いながら、京一郎は掠れたような囁きでそのように口にした。
「物理的には出来ない。俺はおまえのように治癒の力などないからね」
「ならどうすると?」
「スタンド。『ホワイト・ポニー』の夢の世界で空間を作る力を使えば。現実にもそれを反映する力があれば。それを胎に仕込む事が出来れば。……俺は現実でも孕む事が出来る」
子の為にそのような環境を保つよう部屋の調整を行い、実現させる───否、実現するという強い意志があれば、それが叶うのだと京一郎は強く言う。
「必要なのは、母体となるものの精神力───これはスタンドを十月十日保つ為に。子となるものの魂───器の中身がなければそれは生命とは呼べない。そして、魂と適応する肉体の元となる情報───魂、肉体が揃っていなければそれは唯の本能に生きる動物にしかならない」
夢の世界から現実に反映する力で、多くの魂に堪えうる肉体の強度を調節する。
京一郎は掠れた瞳を弧に歪ませる。
「子となる魂は全てを捨て、全てを母胎に委ねなければならない」
過去を手放し、現在を手放し、未来を手放し、肉体を手放し、精神を手放し、魂すら手放さなければならない。
「子というのは、純新無垢でなくてはならない」
「それは生まれる前の存在と同一ではないだろう」
「……うふふ。おまえがそう思うのならば、そうなんだろうなァ?」
揶揄でもするかのように、京一郎は淫蕩に微笑んでみせる。好きなように、望むように。京一郎はすべてをDIOに委ねている。
「摂理に抗い、天を嘲笑い、運命を引き千切る。そのようなもの。そうでなくては、おまえはさだめから逃れられない」
予言をおまえにさずけよう。
京一郎は声を低くしてそのように告げた。
「おまえの。その肉体に対する執着も。その精神に根付く野望も。その肉体に連なる血族の因縁も。その魂に張り付いた欲望も。全て。凡て。総て。すべて。断ち切ってこそ、おまえは神として再誕する事が叶う」
出来るのか?おまえに。
出来ないだろう。今も尚囚われているのだから。
出来ないだろうさ!だって、おまえはそれを出来る程、
「俺は妨げる者。阻む者。覚悟無くして先などない」
何故ならば俺はおまえが成り果てる事を望まないからだッ!
両手を組んで神に祈るように。
悪辣に嗤い神を嘲笑うように。
悪魔のように笑む。何故ならば京一郎は悪魔なのだから。他ならぬDIOが、そのように京一郎に望んだのだからッ!
「だけど俺はおまえを祝福しよう。おまえの道行きに幸多からん事をッ!」
夜の魔女だと定義したのはエンヤ・ガイルだ。けれどそれが、水瀬京一郎という男をそのようにした。
それ故に水瀬京一郎はそのように振る舞う。その後に自らの破滅を招こうとも。
「俺は言ったよ。おまえの予備案程度にはなったろ?諦められたら俺の手を取りなよ。場合によってはこの手を掴んだとしても振り払うけどな」
そうして、京一郎はDIOの胸元に懐きながら、機嫌良さげにその手の血を自分の服で拭った。さながら、“とってこい”が出来た犬が飼い主に褒めて貰いたくてしっぽを振るように。
「……はァ。お前は分からん奴だ」
「俺はおまえを愛している。おまえは何よりも、誰よりも
「扱いづらいとは思っているが?」
「ウフフ。正直者め」
だからこそ、DIOは思っている。
もしも京一郎が女であるならば、良い母親になるだろうと。
聖女にはならない。世紀で最もと言っていい、一際の悪女なのだから。
それ故に。このDIOに相応しい。
「褒美をやろう」
「わァい。何にしよう?炎天下での1日デート?」
「お前はこのDIOを殺したいのか?」
「ジョーダンジョーダン!……なら今夜、」
とびきり優しく抱いて。無垢な少女を
物足りなくなる癖に。半ばブーメランのような事を考えながら、DIOは何も言わずにそれを承諾した。
★
異世界の歌を。
京一郎は歌いながら、気持ち良さそうに酒を呷っている。
淫魔の身体は酔いはしない。元々、人間の頃も心を許せない人間と呑んでも酔わなかった。酒の味は嫌いでは無いので、けれど酒の席も付き合い程度に留めるくらいだ。けれど同行者がいる時に限り、京一郎は酒を嗜む。ひとりで水のように酒を啜ったって、楽しくもなんともないので。それを誰かに言ったりもしない。興醒めもいい所だ。
なら何故。ともなれば、単に場酔いをしているのだ。
本日の同行者はそこらに歩いていたオインゴである。引き摺られていく兄の姿を横目に、弟は眠たげに宛てがわれた部屋に帰って行った。無情。
珍しく盛況な屋敷のバーに目を見開きながら、いつもの席に座って早速ボトルを開ける。
チョット視線は集まったものの、京一郎が席に着いたと同時に何事も無かったかのように会話の続きに興じるスタンド使い達。オインゴは恐縮しながらも開けられたボトルの銘柄を見て嬉しそうにグラスを手に取った。
京一郎は機嫌が良かった。今日はとびきりに。これから数多の血が流れるであろう。これから数多の命が溶け落ちるだろう。
どれだけの人間と会えなくなるか、それは悲しい事だけれど。だけどそれが一等楽しいのだ。……歌でも歌ってしまいそうなくらいに。酔いの回った誰かが、囃し立ててそれを助長する。
初めは口遊むような音だった。ゆったりと流れるジャズのような───屋敷のバーにそれを流すラジオなどという洒落たモノなどなかったので───バックミュージックには丁度いい、耳触りの良い、歌詞の無い歌。
それから口を湿らせて、スタンド使いや人の生死に触れる彼らに相応しい、夜を薫らせるかのような安寧と闘争の歌。
そこからは
決して大きくない声であった。伴奏もない。声質は良いがプロには及ばない。気紛れに知識から引き出された、歌いたい曲をつらつらと。けれどバーにいた者はそれに聴き入り、時折拍手や野次、リクエストなんかを酒やツマミと共に差し出すので、京一郎はにこやかに快く受け入れて歌を歌う。
こういう時があったって良いじゃあないか。こんな素人の歌よりも、
望まれるのが自分ならば、それならそれに沿うだけだ。
京一郎は機嫌が良かった。それぞれが個々人で呑んでいたのが、いつの間にやらテーブルをくっつけて、カウンターに座っていた者は椅子を近付けて。まるで宴会だ。
酒と、歌と。ついでに女も加えておこう。それらを楽しめないのはその人生で損というものだ。
小さなリサイタルは暫く続いた。屋敷の主人であるDIOが顔を出すまでは。
思わず場が静まってしまったが、その中で京一郎だけは慎ましやかな佇まいでにこりと笑ってみせる。
「煩かった?」
「いや。その程度で目くじらは立てんさ」
「流石に眠っている時はしないよ。フフ、それとも枕元で子守唄でも御所望で?」
「要らん」
ころころと笑声を上げる京一郎は首を傾げる。
「何か酒でも注ごうか。それとも、おまえも歌をリクエストする?」
俺じゃあなくても声の綺麗な女はいるよ、ミドラーにマライアにネーナ。ラバーソールやホル・ホースも良い声しているし。
名指しされた各人はぴょっ、と身体を跳ねさせたり硬直させたり後退ったりした。
「……お前でいい」
「うふふ。承知致しました。……マライア、彼にお酌して差し上げて?」
「は、はい!」
緊張もあるが、少し嬉しそうにマライアがDIOの腰掛けた席の隣に座る。マライアはDIOの顔が好みなので。
「下手の横好きでお耳汚しを失礼。……では、1曲」
嘗て、白い部屋で。DIOは微かに覚えている。
海の底。意識を微睡みに落とし、動かぬ身体に苛立ちを抱えていた頃。
歌を聞いた。この声を聞いた。
特別上手い訳では無い。けれど、伸びやかに響くテノールは耳に馴染む。
海の底に沈む前。幼少期から。普段話す声と比べるべくもなく、歌唱の声は異なった。存外高く啼けるのは知っていたが。甘やかだが何処か酷薄な声音は夜が忍び寄るようだ。
子守唄。先程奴が言ったように、確かにそれは眠りに良いだろう。
「───。……ご清聴ありがとうございました」
ぱらぱらと拍手が齎される。DIOもまた、礼儀として手を打った。
「どう?」
「マアマアだな」
「だよなァ〜ッ。酒宴の場だからって事でお目溢しください」
困ったように微笑み、マライアに手渡されたグラスをぐいと呷る。
「はァ……楽しかった。もう少し呑んだら部屋に戻るよ」
すっかり出来上がったラバーソールがダンやオインゴに絡んで、陽気に歌っている。それに苦笑するダニエルや呆れるテレンス、デーボは我関せずと視線を逸らし。ホル・ホースはダニエルのイカサマにまんまと引っ掛かって賭けに惨敗して頭を抱えている。
壁の方に凭れていたンドゥールをアレッシーが手招いた。
「ミナセさん。お酒、お注ぎしますわ」
「ありがとう、ミドラー」
DIOは目を閉じる。今夜程度は、大目に見ようとでも。
最後の夜。
明日から、刺客達はジョースターを殺しにエジプトを発つ。
依頼が済めば金を持ってまた、何処へと飛び立つのだろう、或いはこれからも変わらずDIOに仕えるのだろう。達成出来ず命を落とす者もいる筈だ。
だから、今宵ばかりは。今宵だからこそ。
闇に生きる者たちは酒を酌み交わす。今この時、この出会いを祝するように。