慧音は今日保護者説明会があるので、まだ帰ってこない。
彼女を抱く時間ぐらいはあるだろう。
「...ごめんね」
「...いえ、私の方こそ」
文が立ち上がる。手を貸してもらい、僕も立ち上がった。
「絶対に諦めませんから」
別れ際、彼女はそう言った。
「......」
まだ慧音が帰るまで時間があった。僕は彼女を抱くべきだったのかもしれない。
「狼、だって?」
僕の受け持ちの子供が、大怪我を負った。人里の外までゴミを捨てに行った時に襲われたらしい。子供曰く、その狼は隻眼であったと。
半狂乱になった保護者が喚いていた。ゴミ捨てになど行かせなければ、という後悔の念に呑まれているのだろう。何と声を掛ければいいのか解らなかったから、何も言わなかった。
狼はあっけなく捕まった。妖怪に成りかけていたが、なんとか人里の者でも倒せたらしい。
そして安心した。もう狼は出ないのだ。
その筈だったのだ。
配置薬を受け取りに行く。本来なら兎の子が持ってきてくれるのだが、何故か僕の家に来なかった。まぁ最近契約したばかりなので、恐らく忘れられたのだろう。
「ん?」
隣に見える竹林から音がした。大きめの何かが動いたような。
そこで止めておくべきだった。好奇心など抑え込んで、音がした方向を覗き込むなんて馬鹿な真似はするべきでは無かった。
「ぐあぁっ!」
狼だ。左の脇腹辺りに噛み付かれた。
痛い。どろっ、とした感触と温かい感触が伝わる。そして肋骨が噛み砕かれるベキリという音も聴こえた。
「くっ、くっ...」
痛みのせいで、上手く呼吸が出来ない。意識が霞んでいく中で、僕は狼の背を撫でた。
この狼は傷だらけだ。それも刀で斬られたかのようなものばかり。子供が狼に襲われた事件があってから、狼を危険として駆除しようとする運動が起こった。きっとそれに巻き込まれたのだろう。
だが、どうして子供を襲った狼を非難出来るだろう。捕まった狼は、みすぼらしく痩せていた。喰うために、生きるために子供を襲ったのは誰でも-それこそ子供でも-判る。
なのに何故、狼を非難するのか。だから僕は人間が好きじゃないんだ。
「ごめんね...」
それは自然と僕の口から漏れ出た、謝罪の言葉だった。人間のエゴなんかのせいで、沢山の傷を負わせてしまった。
「ごめんね...」
視界がぼやける。狼の毛並みも感じられなくなってきた。
ちょうどいい、ここで死のう。
そんなことを考えながら、僕は意識を手放した。
「師匠、急患です!」
「叫ばなくても聴こえるわよ」
屋敷の入り口から弟子の声が聴こえた。
向かってみると、知った顔が血だらけの男を抱えて来ていた。
「影狼。何があったの?」
よく見ると、涙の跡がある。
彼女が悲痛な叫びをあげた。
「この人を、助けて!お願い!」