○秦始皇5年(紀元前242年) 山陽攻略戦決戦6日目早朝 魏国西部
「…………………」
遂に決戦の日が来た事が肌でも如実に感じ取れる
「お、おい…何だか昨晩に帰ってからしょっちゅうあの調子だぞ?」
「だ、大丈夫か?」
その事に秦兵達が言い表せぬ不安に陥る中、それを自身の陣幕の隙間より王京が溜息を付いた表情で見守っていた。
(…はぁ、ステラさんったら静かな顔してやる事は意外と大胆ね…それに、漂様に紅華さんも昨晩に情を交わすなんて…余裕があるというか……)
自身の天幕の敷き布の上で、乱れた夜着より見える肌はしっとりとした汗に包まれていて足の付け根に少量ながら湿り気を覚えつつ王京は天井を見上げていた。
正直に言うと、昨晩に白漂に伝言を伝えるべくその陣幕に入ろうとしたら、妓楼を出てから久しく見ていなかった情事を彼と紅華で見てしまった興奮が何故か未だに収まっていなかったのだ。
一方で、それで生じた戦からやや離れてきた余裕は天幕の隙間から見える朝日も重なって王京の記憶を深く刺激していく。
(…城を焼け出されて…共に馬車に乗って逃げた姉との最後の朝も…ここと同じように戦場とは思えない綺麗な旭に大地が金色に照らされてたわね…)
王京は陣幕越しに徐々に増えてきている味方のざわめきの高まりに比例して、意識が過去の記憶に上っていく。
それは、父の王齕の死を聞かされ、更に信陵君率いる合従軍に領地と居城も滅ぼされた日に、自身を命懸けで逃してくれた齢の離れた姉の最後の場面。
『…京、私はこんな最後で父の罪の対価の一端を受ける事になりました。あなたがこれから生き延びてどのような道を歩んだとしてもこれだけは覚えなさい』
『…何…ですか……?』
『……七国の人間の何れも…いや、我々の多くが勝手に蛮夷と蔑んでいる異界の者達ですら…同じ…天下の一部に違いない…』
『……天…下…?』
『…例え、避けたら前に進めない道を進んでいたとしても…健やかに…どうか…こんな時代に染まりきらない……よう…に…』
そのまま、涙に濡れて視界が朧な自身の前で、何本もの矢を背を受けた後にも関わらず姉は泣き言や悲鳴の一つも吐かないまま静かに目を閉ざした。
それから、数少ない生き残りである万督が親代わりとなって、今に至るまで命を繋ぐ事が出来た。
(…その言葉のためか、万督や皆の廉頗に対する血気溢れる表情を見ると…自分に違和感を覚えるのよね…いや、私もあの方に出会う前に出く儂ていたらどうなっていたか…んんん、今はそんな事を考えている場合じゃ…!!)
されど白漂にまで考えが及ぶとやや胸焼けするような胸騒ぎを覚えると、それを振り払うかのように勢い良く敷き布から身を起してテキパキと戦装束に着替えた。
○秦始皇5年(紀元前242年) 山陽攻略戦決戦6日目朝 魏国西部
「急げ! もうあと少しで中央軍の戦が始まるぞ!」
双方の中央軍が決戦のために陣形を整えつつあるその頃、そこへ参戦すべく森の中を駆け抜けている重量級の騎兵の五百人隊があった。
彼らは魏軍中央軍先鋒主将輪虎の要請に応じた魏軍左軍将軍介子坊が送り出した重騎兵隊であった。
「くそ! まさか大殿の復帰戦でここまで煮え湯を飲まされるとは…!」
「そう嘆くな! 我々が加われば中央軍もこちらに傾く―――!?」
だが、彼らの先頭が森を抜けられる証しの光を目にしたその時、ばね板のように跳ね上がった無数の竹やりを縛り込んだ荒縄の壁が茂みより飛び出て、更にその勢いで板から大量の粉塵が巻き上がった。
「な、何だ…目、目が猛烈にいてぇぶ!?」
「ぐは! 急に止まるば!?」
その粉塵が両眼に触れた先陣は猛烈な痒みと痛みに襲われて、視界が閉ざされて勢いのまま竹やりに突き刺さっていき、森と段差の中の狭道であったために密集していた後陣も彼らに次々と追突していく。
「よし、今だぁやれ! “刺熱袋”;」
「「「「「うおおおおおおおおおおおおおおぉ!!」」」」」
それから上がっていく悲鳴を皮切りに、案惹率いる歩兵隊が壁の裏と彼らを見下ろせる段差の上の茂みから姿を現し、その手で刺熱袋と言う小袋を次々と投げ込んでいく。
「うわぁ!? な、何だぁ!?」
「ぐぁ! 目が焼けるようにいてぇ!」
「き、汚いぞお前ら…ぐぁ!?」
その刺痛袋の中身は目などに入れば刺激が強い花粉や植物をすり潰して乾燥させて作り出した粉などが詰まっており、密集した状態で受けた介子坊らは次々と視界をやられて悶絶して悶えだし、そこに白漂兵らは矢や石器時代のアトラトルに似た投槍器を持ちいて槍や事前に切り出して尖らせた竹槍を次々に浴びせて仕留めて行った。
「いやー、以前に見せてもらった卵を道具なしに立てる方法とかで思ったけど…あの白漂って人って他が注目しない角度による簡単な発想から良い儲けを産む天才ねー。よし、今回の南方から取り寄せた新種の蔓を用いた縄の耐久性はばっちしね。藍蘭先輩の所の新種の劇薬の次はー…」
「小細工なんぞで調子に乗るな秦のガキ兵がーー!」
「お客様汚い手で触られると困ります」
「ぶぼべぇ!? あぐ…あーーーー!!?」
その状況を最新製の丈夫な紙の巻物で正確且つ高速で記録していく譜孝であったが、背後の段差を上りきった介子坊兵を振り向かないまま指を流星錐付き戈で指を切り飛ばして更に流星錐で鼻っ面を叩き潰して落とし、そこへ槍と矢が追い討ちを掛けて彼の断末魔の悲鳴が上がるも何事もなかったように再び筆を動かし始めた。
「……あんたこの状況でよく筆を平気に走らせられるな…」
「あ、兄貴ー…俺…下の連中が気の毒になってきた…」
それに尾兄弟がドン引きしたり、敵に同情し始めるも案惹ら大半は情けも容赦なく矢や槍を投げ込み続けて敵を減らしていく。
「「「…トホホ、これも人間の戦か…ぐふぅ……」」」
「よーし、生き残りがいないか調べつつも使えるものは早々に回収して中央の方の戦場に戻るぞー」
「「「…わあああああぁ……」」」
最後の介子兵の生き残りが盾代わりに被っていた味方の死体ごと投槍器で威力を増した槍に貫かれて何か悟った哀愁ある顔で絶命した後、案惹の指示と中央からの両軍の衝突を告げる喚声が狭道に降り注いだ。
○秦始皇5年(紀元前242年) 山陽攻略戦決戦6日目昼 魏国西部
「うおおおぉおおぉ! 秦の侵略者共を殺せぇぇぇぇ!!」
「魏兵を皆返り討ちにしろぉぉぉぉ!!」
「「「「「わああああああああああああああ」」」」」
中央では朝に始まった最後の激戦が正午を過ぎて空に雲が増えだした頃になっても続いていた。
白漂軍の狙撃戦法で指揮官や連絡役に戦車隊で大きく痛手を受けつつも魏軍は輪虎の突破力と勢いにも率いられて士気任せの肉弾戦を仕掛けてきている。
秦側も中央軍防衛線総指揮官の栄備が輪虎に討ち取られていたので、その場の指揮官の判断で動くようになっていて大きな決め手を欠いてしまっていた。
「っ!!」
「がはっ!?」
「た、盾ごと…!?」
その中には中央軍に戻りつつも夜間は隠れていた王京や王賁に蒙恬も、横陣の綻びを塞ぐべく既に参戦していた。
やがて曇天となり豪雨が降り出すと、弓兵も出来る王京がある変化に気付く。
「っ! 見て! あの魏の本陣を…!」
「あれは…この雨でも煙が…!?」
それは主力が出払っている魏軍の元中央軍本陣から上る黒煙であった。
白漂が放った伍鬼と尊舞の別働隊三千によって敵の本陣は落とされ、油も用いて本陣にあるもの全てから黒煙が立ち上っていく。
「な、何だと!?」
「では戦は…!?」
「いかん! かくなる上は…御免!!」
その事に詳しい事情を知らない末端の魏兵に動揺が走り始めるのを見て、魏の将軍の魏良がまだ馬上で輪虎と一騎打ちを繰り広げている信に槍を向けて馬を駆け出させた。
「っ! いけない!」
それを間近で戦っていた王京は即座に反応して彼と信の間に割って入る。
「邪魔するなぁ! 秦の若造が―――」
「そちらが邪魔!!」
「―――あが!? ぐ…があああ!!」
「…な!?」
激高のままに馬を走らせてくる魏良を王京は槍ごとその腹部を掻っ捌くが、彼は腸が盛れ出ても構わず気勢を上げて信の背を今度は剣で穿たんと駆け続け、思わず王京は反射でその背を追う。
「そうはいかん!」
「がぁ!? ぐ…ぞおおぉぉぉ…!」
だが、燈騎の真横からの投槍で魏良は脊椎ごと喉を穿ちぬかれて無念のまま絶命して泥濘の上を転げ回った。
「良かった! これで次は―――!?」
それを視認して安堵した王京だが、馬を止めるのを忘れた彼女は偶然にも一騎打ちの間に入ってしまい、その殺気に反応して戦斧を揺らめかせてしまう。
「!」
「―――あっ…!?」
そこで輪虎は反射で王京を動いた戦斧ごと押し通す形で彼女を斬り付けた。
「っ! 輪虎ぉ!!」
その生じた一瞬の隙を見逃さなかった信の一刀で、今度は輪虎の胸から勢いよい鮮血が迸った。
「り、輪虎様ぁああ!?」
「や、やったぞーーー…!?」
明らかに致命傷であるその出血量に魏側の悲鳴と秦側の歓声が立ち上ろうとするが、そこで信の太股に深々と輪虎の曲刀が突き刺さった。
「し、信殿ぉ!」
「くぁ! 最後の足掻きか…いや!」
今度は味方から悲鳴が上がりつつも、信は剣で曲刀を太股から弾き抜いて距離とって睨み直す。
すると、馬上で胸の傷を押さえて上体から倒れ掛かっていた輪虎もまた向き直った。
出血で青ざめ始めているにも拘らず双眸の眼力は殆ど衰えてはいない。
「…殿との…約束がある…ここは…抜かなくちゃいけない…」
「…約束…?」
「た、隊長! まだ起き上がらないでください…!」
死期が近づきつつある人間の声音なのにとてもそうとは感じさせない言葉に宿ったその意志に、見た目と違い傷が深くは無い王京は味方に手当てされつつも落馬した身を起して聞き入り始める。
輪虎が語り始めた彼の戦者としての始まりは、戦災孤児で死のうとした所を偶々に通りかかった廉頗に救われた事であった。
それは王京にとっても経験した道で、この乱世では珍しくない始まりだった。
だが、それから輪虎が自分で語る内容は、本当に天の采配を思わせる戦の鬼才と天才が共に歩んできた道。
「…今も何処かで戦火と共に生まれて土に帰っている…名も知らない同胞と違い…天にめぐり合わされたあの人と共に戦で身を上げ…世を駆け抜けてきた日々は…僕にとって至上の宝物だ。だから…その恩の為にもあの人の元へ―――」
「ふざけんじゃねぇ! 今ここに至るまでの道を進んできたのは天とか運じゃなくておまえ自身の意思だろうが!!」
「―――っ…」
だが、それを運命と呼ぶ輪虎に対し信は自らの足で進んでいった結果だと反論する。
「…俺だってまあ、出会いに恵まれたおかげでこうしてここに立ててるが…少なくとも…今こことは別の場所で廉頗以上の大将軍への道を駆け上っているあいつと出会った後の進みは…俺もあいつと共に武将の極みへ上りたいって夢を追い続けたからだ…!」
「「「「「……………!!」」」」」
続けられる信の言葉は、その男である白漂と共に消えゆくだけだったはずの命を拾いなおし、ここに至るまで上ってこれた戦友達も戦いながらも深く染み入っていく。
「…それからそれ以上の尋常じゃねえ道を進む男と出会って…同じ奴は二人といない戦友達とも出会い別れ…俺達に確固たる“道筋”を探す術と大将軍の在り方を教えてくれた人達にも出会えた……」
戦友たちにも先の秦趙の大戦で出会い、帰天していった友らと大将軍としての在り方を教えて逝った王騎の姿が思い起こされる。
「そういうのには偶然だけじゃなくもっとでけえ何かの采配とかがあるかも知れねえが……少なくとも天だなんて浮ついたもんとは思わねえ…! 少なくとも…今こうして立ってる俺達一人一人が…関わった奴らとの出会いを道として…自らの足で前に進んでいってんだ! だからよぉ輪虎…それらをあくまでも天頼みとかっていうんなら…お前はここで俺達の道になりやがれ!!」
「……ははは、よくこんな時にそんなに長ったらしく言えるね…だけど死ぬのはそっちだから…(まあ、反論しようが無いが…)」
そうして言葉を交し合った後、健常時には劣るものの両者は再び馬を近づけあって激烈に刀剣を交差させだした。
その最中に、輪虎は先程までの言葉とは裏腹に時代の変化と自らの近づきつつある旅の終わりを知覚していく。
「(…殿、僕らが趙を飛び出たその年に魏火龍七師最後の呉慶が逝き…更に昨年には王騎も李牧という新たな大物に討たれた…そして、今こうして対峙している秦にも白漂やここにいる若人達のように新たな芽吹きが出ている…。貴方との出会いと歩みを本当に大事に思っていたのなら…僕もまた天と言う言葉を止めて自分の意志に自らの道を任せるべきだったのでしょう…)っ!!」
それに比例して、やがて信に押され始めて小さくない傷を着実に付けられていく輪虎の回想は過去から今へと近づいていった。
「(…それを魏に移ってからもしなかった時点で…僕も自身の役目を自ら降ろしていたのかもしれませんね…。だから…代わりに…僕がいけない先の道を天はこの子に指し示したのかもしれない)結構に強かったよ…信―――」
「ルァアァァアア!!」
「―――!!」
そして、最後の言葉と同時に剣を向け合い駆け合った2人の刃は、信の頬を薄く裂いて続けて輪虎の心臓を深々と穿ちぬいた。
「「「「「今度こそやったぁぁぁぁあああぁ!!」」」」」
「「「「「輪虎様あああああああああああ!!」」」」」
その明白な決着に双方から歓声と悲嘆が土砂降りに勝る勢いで立ち上った。
「くそおおおお!」
「その小僧と邪魔した優男を殺せぇ!」
「まだまだだぁ!!」
それに激高した輪虎兵に侵略される側で士気が高いままの魏兵が信と王京に襲い掛かるが、すかさず周りの秦兵が2人を取り囲んで守る。
「信! 今度も上手くやれたな!」
「ああ! だが今回は燈騎お前と王京に助けられた! お前らがあの邪魔を潰してなかったらその槍を防げても逆にその隙でこっちが輪虎にぶった切られてた…いぃっ!?」
「喋る暇があれば大人しく治療されろ! 切れ方自体は綺麗だが深いから下手すりゃ足を切り落とさなくちゃいけなくなる!」
そのまま2人とも味方に介抱されて治療を受けながら後方へと運ばれ、それに乗じて輪虎の遺体も持ち去っていき、各所へ彼の討ち死にを声高に流していった。
それからしばらくした後、雲が晴れて光が差し込めだしてきたのと呼応するように、秦軍本陣へ後方から深く切り込みつつも自軍の決定的な不利を悟った廉頗の和睦の申し出を蒙驁が受けた事で停戦が成立した。
「…………あ、あ…ああ…勝ったのは…わかって嬉しいけど…北の地でしてきた戦の後のそれよりもドッと身が重くなってきたわ…あああぁぁ!?」
「…いやねー、そういう君の姿がせめてもの清涼剤になるのが良いね…っっ~~~~~~~!! い、今まで受けてきた傷の治療の中で一番染みる…!!」
その後、王京は信や蒙恬らと共に野戦病院へと運ばれ、今までの疲労と緊張から一気に解放されたショックで、なすすべなく横倒れしたところを扁鵲らに運ばれて、情け容赦なく針術で身動き出来なくされたところを今までにない激痛を伴う治療を受けている最中であった。
「…おい、何故俺の所にお前達がいる…?」
「…うるせー」
「…病床足りないんだから我儘言わずに静かになさい」
「…お前だって傷がまた大開して悪化するまでやった後の癖に…」
ちなみに、そこには魏兵の雑兵の無茶な肉弾戦の津波を捌き続けたものの、その後遺症で輪虎に付けられた傷が開いて悪化した王賁も並んでいた。
輪虎戦死を受けて直ぐに四者は中央軍本陣の闘いに乗り込もうとしたが、山頂へ上りきる前に決着がついてしまったので、大人しく麓にあるこの野戦病院へ搬送となった。
勝利して死者こそ少ないものの、魏兵の必死な攻勢に多くの秦兵が軽くない戦傷を負わされていたので四人とも同じ病床が並んでいた。
「よーし、傷や疲労は浅くは無いがそれならそう遠くない内に復帰できるな」
「「何で後方のあんたが一番怪我してそうに見えんの!?」」
「「……………」」
そこで怪我してないにも拘らず、周りの負傷者がドン引きするレベルで大量の血を浴びている扁鵲の姿に、信と蒙恬らが声と身を思わず振り上げ、王一族二人は言葉を失う。
「手術で腸がはみ出てる腹をぬい合わせたり、負傷して壊死した骨肉だけを切り取ったり削り取ったりした後なんだから仕方ないだろう。あー、そんな堅くなるな。ちょーーーっとここを離れる前にお前ら四人に会いたいと言う爺さんがいてな」
「爺さん? 誰ですかそれ…!?」
扁鵲の言葉に蒙恬が嫌な予感を覚えた直後、天幕の外から驚愕と恐れが強く出たざわめきが生じてきた。
「おー、居ったかここにその二人が」
「「「「!?」」」」
あろうことか側近で四天王唯一の生き残りである介子坊を引き連れて廉頗が彼らの前に姿を現し、4人は四者四様であったが声も出ない驚きに包まれる。
「き、貴様ぁぁぁぁ…い、医者の分際でぇ何を考えてぇぇぇぇ…!?」
「せ、先生ぃ…どうかぁぁ蒙武様みたいな無理難題はお止しにぃ…!?」
ちなみにその背後には首の後ろ側などに針を何本か打ち込まれ、重い麻痺に掛かった状態の身を涙目で引きずっている番陽と胡漸の姿があった。
「…何の用かしら…?」
「まーそんな小難しい話ではない。こっちはこっちで話をつける必要があるからのう…何せお前に輪虎と姜燕を討たれたせいで負けたようなものじゃ」
「ってごらぁ! 実際にやり合って勝ったのは俺だぞ!」
「…お前よくこの状況でそんなの名乗れるなぁ…」
「それに後者も討ったのは蒼源殿だし…」
「………」
睨み付ける四人で真っ先に王京が静かな眼光を浮かべ、功労を間違えられた信が吼え、それに蒙恬が呆れて王京も釣られ、最後に王賁がもしもに備えて枕もとの槍に手を掛ける。
「まー冗談はその辺でよいとして…まさかこの戦を終わらせたのがまだ名が十分には上がっておらんこんな若造共とは…お前さんたちが居らんかったらここで負けても山陽で立て直して篭城して根気勝ちに持ち込むことも出来た…。ここでそのあやつらと前の合従軍の後始末も含めて話を付けたくてな」
「………!」
それから廉頗の言葉に重みが増すと4人、特に王京と信に緊張が重く戻った。
「…つまり、輪虎の落とし前と…王齕将軍の仇討ちの芽の潰しをここで済ませとこうって―――」
「ブハハハハハハハ! お前さん見た目どおりにこの四人の中で一番頭の出来が悪いのぉ! 儂らや王齕らがそんな小さい男に見えるか!?」
「―――っ!!?」
だが、信が口にした当然の懸念は廉頗本人にあっさり否定された。
「…じゃー内容は…」
漠然とだが郭備が廉頗のこの場に現れた目的に気付いたその時、彼の眼差しは信と王京を射抜く。
「王騎の最後の話は白漂より聞いた。それと王齕の方も生き残りがその戦斧を戦場から持ち去り、今のお前が継ぐ日を待っている事ものぉ。それは即ち奴らからそれぞれその証しを継いでその背を追わんとしている者だという証拠。その低い生まれや育ちや曰く付きなのが一目でわかる感じでのう…」
「生まれ育ちなんざ絶対じゃねえ!!」
その廉頗の重みのある語りに信が負けじと声を荒げると、廉頗もまた声を張り上げだす。
「ああ! そんなの二の次三の次でしかない!! それ以上に大将軍に必要なのは!! それぞれ百になる精神力! 知恵! 膂力! 技術! 経験! 勘! 人望! 幸運! それら全てを兼ね備えた趙国三大天に秦六将らは真に完全な時代を描き上げた!!」
「「「「「………………」」」」」
つい先程まで敵として殺し会ってきたにも拘らず、廉頗の言葉に秦の将兵らは静かな昂揚に満たされた。
「まーその論理で言うなら奴らとの勝負は今もこうして生き残っとる儂の判定勝ちということかのぉ…」
(あ、何か今始めて明確に憎々しくなった…)
(落ち着いて)
だが、続けて発せられた廉頗の自画自賛に周囲の大半は敵味方問わず微妙な沈黙に陥り、唯一険しい色をやや顔に浮かべた王京の得物を握ろうとする手を蒙恬が宥めにかかる。
それを可愛げに見やりつつも、廉頗は落ち着きが戻りつつも沈痛さを感じさせる眼差しで言葉を続けた。
「…故に若き頃の儂らであるお前さんたちに言っとくが、お前さんたちはもう肩を並べる事は愚か足元に触れることすら出来ん」
「どういう意味だ?」
そこでやっと再び口を開いた王賁の表情にも険しい色が浮かぶが、廉頗は意に介さず理由を述べていく。
「…中華全土が激烈な輝きを放っていたあの時代は如何にしても歴史から消せん事実。お前さんたちがどれだけ高みに至ろうと常に疑問を投げかけられる。この時代にあの彼らさえいてくれたらばと…」
「そ、そんなのその時にはいなかった俺らにはどうしようもねえだろ!?」
「そうじゃなぁ童信、じゃーから久方ぶりに負かしてくれたお前さんたちに敬意を表して唯一の解決策を教えてやるわい」
若人達の理不尽な困難さを知りつつの反発に廉頗はニッという深い笑みを携えて答える。
「儂らの時代では成し得なかった
「「「「「!!!!!!!!??」」」」」
そして、ニヤリという自信満々な笑みを添えたその解答は、その場にいた全員の昂揚を一気に押し落とす重圧となった。
「…そんなの…神代の…三皇五帝の時代でも成し得なかった大業…」
言い表せぬ不安で表情が歪む王京。
「まあのぉ、この五百年は続く戦乱で拗れに拗れた乱世でそれを成すには…常軌を逸した“武力”とそれを裏打ちする“強国”…何より儂らの時代も及ばぬ
「無理だ…そんな…商湯王や周武王も及ばない難行に挑む王が…」
(…いや、違うぞ蒙恬…! それをもう自分の道と決めているのが今の俺らの王様だ…!?)
信が周囲の大半に無理難題と評された廉頗の提示した課題に、思い浮かべた王と同じ顔が仮面付きながらひょっこり現れる。
「…だったらもう秦に隠居してその手助けをしてもらえません? 僕の祖父や短い間ながら世話になった王齕将軍と渡り合った貴方なら師事したい人は幾らでもいますよ?」
「漂!?」
「フォッフォッフォ、それは確かに隠居後の時間つぶしにも丁度良いわい。だったら儂が良い生徒を紹介しようか?」
「爺ちゃん!?」
山頂からいつの間にか降りてきていた白漂と蒙驁に信達が驚くが、廉頗はそれに荒く鼻を鳴らすと颯爽と部下と共に騎乗する。
「ふん! お前さんたちとの今回の話はもう山頂で済ませたわ。それにやるとしてもそれは生涯最後まで戦場でじゃあ!! 帰るぞぉ!!」
「「「「「ハハッ!!」」」」」
そして、廉頗が敗軍の将とは思えぬ剛毅な態度で戦場に背を向けて立ち去った直後、秦側から勝利の確定を祝う大歓声がたちのぼった。
どうにか本編で記されなかった山陽編での大見せ場を自分なりに描きました。
次回は、少々時を遡っての戦場に隠れて目立たず、されども欠かせない後方とも影響しあう場所、そこでの女性達の営みの話です。