○秦始皇9年(紀元前238年)
「…よーし、そういうわけでいつもみたいにどさくさ紛れの脱出作戦を決行する」
龐煖による突然の襲来と、その現場にレベロントと大源が居合わせていたことによる混乱が野営地全体に波及して軍全体に動揺が走っていた頃、拉致されていた秦側使節団員の白漂による脱出作戦が始まろうとしていた。
(…あいつらこの状況でやっぱり…すぐに連中へチクろう)
それを龐煖の突然の出現に気を取られていて、その場に駆けつけるのが遅れて少し引いた茂みの中より見ていたカイネは直ちに
「…色々とまー突っ込みたいところが多くある脱出作戦ですけど…本当に効果的ですけどこんな短時間でセコイ策をあそこまでスラスラと…」
故に、カイネが聞きそびれていた間に白漂から脱出作戦を聞かされた者達は、大きく感心しつつもそれ以上に微妙そうな視線を彼に送った。
それに構わず白漂は雪面にこの辺り一帯の図を描いて、脱出作戦の段取りをより詳しく説明しだす。
「それではまず羌瘣達はここから一番近い船着き場に向かう方角にある岸辺への人気が無い道へ向けてすぐにより多くの足跡を付けて、そこまで付け終わったら後ろ足でこの道で図に記してるここまで戻ってくること」
「任せとけ、家業からそういうのは得意だ。見つかったら龐煖のせいに見せて口封じする」
「そんで白漂軍で潜入班とかに配布してて今回の皆に配給してある非常用背嚢に入れてある、目くらまし用の煙幕剤をこの×印付けた印の所に配置して火を付け、向こうの見張りがすぐ気づくだろうけど少しの間だけ近寄れないようにする。それでー…」
白漂達が話し合いだしてから数分後、密告してきたカイネを案内役にして
『…まさか脱出して秦に戻ろうとしているとは…、この際に何名か唆したという理由で連れを処刑するか―――』
だが、その部隊長が秦側滞在地の視界に収めたその時、そこを囲むようにして秦側が仕掛けた発煙装置による煙が瞬く間にそこを満たすようにして立ち上り始めた。
『―――あってななな何だこの煙は!? 目や喉が痛くなってとても近づけん!!』
その煙は黒羊での猛毒の樹木を利用した兵器によるもので、燃え盛る時間はわずか数分ほどでしかないが、
『…ほ、報告ー! 煙が収まったので見てみたのですが…もう既に滞在地はもぬけの殻で…連中は足跡からして既に近くの船着き場に向けて抜け出したものかと!!』
(な!?)
『何だと!? 仕方ない! ブルサガ森の船着き場に連絡を出して兵を集めさせろ! すぐに足跡を辿って俺達で挟み撃ちにするぞ!!』
数分後に火は消えるが、夜目が効く
「……よーし、ほとんどが向こうに走っていったな…。それじゃー反対側の方角に向けて逃げよう」
「は、早く出よう…惜しくら饅頭で苦しい」
「さっきどさくさ紛れに私の尻を触ったのは誰ですか?」
「あ、シャンディそれ多分私だ。柔らかったけどお前の尻だったのか」
「え、羌瘣殿そのような趣味が…あぁ! 抓らないでぇ…」
その走り抜けていく足音と気配が消えると、焼け跡の近くにある大岩が伍鬼によって内側より退けられ、露わになった洞窟より白漂達が姿を現した。
「ま、待ってくれ。私の方はまだ助けなければいけない子がいて…まだ私はここに―――」
「大丈夫、とっくに詳しい特徴は前々から調べ上げてるし、これから向かう逃げ先の道中の近くに護衛兼監視付きで隠されてるのももうウチの地獄耳と犬並み嗅覚の二人で今晩の内に調べといたから」
「―――いってぇ…えむ!?」
そこから逃げ出し始めた一団に連れられている薙鍛は脱出を渋っていたが、白漂の口から出た催促の内容に思わず声が大きくなりそうになるも、近場を共に進んでいた紅武にすかさず口を塞がれた。
○
(……何なのだ…? あれは…?)
白漂達が脱出のために駆け出したその頃、その地は鮮血と怒号に悲鳴に支配されてしまっており、グエルードは腹部から漏れ出ている大量の鮮血とそれで赤く染まっている雪面よりも、その原因に朦朧とした両眼を向けていた。
『ギャアァアア!?』
『矢だ! 弓矢の雨を浴びせろ!』
『駄目だぁ! 大矛に死体を引っかけられて盾にされ…ぐふぅ!?』
『ガアアアァアア!!』
『!!』
その両眼には、周囲から迅速且つ統率された動きで集まるも次々と狩られていく味方と、それを生み出していく龐煖、同じ大矛を振って彼と雷鳴の如き轟音を鳴らし合う父であるレベロントの姿があった。
(……いかん…あのままでは…父が……もう…この終わりが見えた身が…止まる前に…)
余りの重傷ゆえの脳内麻薬の分泌と神経細胞損傷の為に痛覚が半ば麻痺していたグエルードは、その場に落ちていた剣を握り取ると零れ出ている己が腸には目もくれず、ヨロヨロと弱々しいが故に音のない動きで龐煖の背に近づいていく。
『……図に乗るな…人外気取りの…野人如きが…』
「!?」
そして、あろうことかその震える剣先は龐煖の太ももに浅くだが切り付けられ、それによる驚愕と憤懣がグエルードに向けられた。
『!? グ、グエルードォォォォォ!!!??』
次の瞬間、それに対して当然反応した大矛によって再び生じた鮮血の噴水が地面に降り注ぐ水音と、レベロントの叫びが辺り一帯の大気を震わせた。
○
「…ふーー、どうにか殆ど気付かれずに気付いたのも上手く封じ込んで脱出成功ー…?」
「まーせいぜいこっちは五十人程度の少人数だったからこそ素早く且つ目立たずに進められたのが大きかったですがね」
「………………」
「…ぅ…くぅぅ……」
その中で、薙鍛は安堵と一抹の不安が綯交ぜとなった表情で己が膝の上で寝ている一人の少年を見やっていた。
身形こそは清潔で質の良い衣服に包まれてはいるが、その四肢には長らく枷をはめられていた痕跡が見受けられ、骨肉の付き方も長らく最低限の食事しか与えられず、日常的に殴打に晒されていた後が目立つ肌付きをしていて、彼女と同じ趣深い赤みがかった紫の長髪が色あせて見える少年であった。
○
「なーーーーにーーーー!? ぬあんでレベロントのおっさん達が死んでんだーーーーー!!? 更にどうして話し合いに来ていたはずの大源大臣が死にそうになってんだー!?」
船での白漂達のそうしたやり取りから数十分後、どうにか
「……おい、これは何がどうなっている!? 説明しろ!!」
同じ頃、その梁魁が叫んでいる現場を見下ろせる野営地内の小山の中腹にある趙側間者の隠れ家で、ホノカを乗せた状態で爆走した子供マンモスに跳ね飛ばされて後遺症で今も腰を痛めている銀髪の青年が、声量こそ小さいものの動揺を隠せていない様子で声を荒げていた。
「…そ、それが…詳細はまだ不明ですが…先の合従軍戦より行方不明になっていた龐煖様が…数刻前に突如としてこの地に現れ…あろうことか右賢王を斬り殺したと…!?」
「「「「「!!!!!???」」」」」
それに対する答えは周囲を無言ながら騒がせるには十分過ぎた。
「ば、馬鹿な!? 何故この数年姿を全く見つけられなかったあの方がこのような所に…!?」
趙側間者の一人が否定を口にしようとした所で、妙な地響きが彼等に向けて近づいてくる音が生じてきた。
「付いて来いーーーー! あそこにある茂みに隠されたとこより怪しい匂いがプンプンするぞー!!」
空き巣や犯罪人に対して異様に勘と五感が鋭いあの眉毛が繋がるまで濃い警察官の様に、勘と木々の揺れ方だけで彼らの人の気配を覚えた梁魁が猛烈な勢いで山肌を駆けあがって来て隠れ家に近づいて来ている騒音であった。
「……すげーなおい…外界にはあんなのもいるんだな…」
その梁魁の姿を、別の小山の中腹より盗み見ている、羌瘣とよく似た風貌の女性に一団がいた。
「…あー、盗み聞きしてた内容からしてー多分ここの
「おい、ヤバいぞそれ、下手すれば報酬が貰えなくなっちまう」
麓の展開に彼女達の表情に面倒くさそうな色が浮かぶが、その中心に位置している羌瘣と衣裳だけでなく面貌も似ているが酷薄そうな雰囲気が目立つ少女が二っと笑みを浮かべる。
「大丈夫大丈夫、ここの連中が向こうと合流する前に戻ればいいだけの話だって。まーだ城下町の感じからしてこの子を拉致してここまで連れてきたのも瘣ねーの男とここにいるその取り巻き共にはまだ伝わってなさそうだし。それとー…戻るついでにちょーーっとあそこに落ちてるもんを幾つか借りて例の男にちょっかいを掛けに行こうか♪」
少女はそう言うと視線を梁魁から動かされているレベロントの遺体に視線へ移された。
○
「…ん、あれは…?」
レベロントの死やそれを齎した龐煖の襲撃など、
「朔方侯、どうやらあそこが追っ手を放ってきたようです。数はそこまでではありませんが…」
「ああ、船足を早めようか…!?」
右賢王側の追っ手が来ている事に気付いた一行であったが、そこで白漂はそれとは別に陰鬱としながらも深い殺意が巧妙に隠された状態ながら確かにこちらを見ている事にも気付く。
「…皆、ちょっと隊を分けるぞ。これから言う何名かは僕と共に船団から分かれて二手で龍城を目指す」
「え…お待ちください将軍! 後続が来る可能性が高い状況で只でさえ少ない数を分けるのは…」
「いいから、まずは羌瘣、次に…」
「…え、ええ!?」
それらを受けての白漂の判断に周囲は驚くが、続けて発された人選は一行を驚かせるには十分過ぎた。
「……!? 隊長! 彼ら…茂みに隠れて二手に分かれてます!」
「…! あれは…白漂様と薙鍛様ら何名かが船より降りて…船団を囮にして彼の御仁らを戻すつもりか! こちらも別れるぞ!」
数分後、秦側の逃走者一行が離れた茂みの中に一旦姿を隠してからすぐに出るが、そこの茂みで僅かながら白漂と薙鍛を含めた数名が降りるのを見て、右賢王派の追跡部隊は船足と馬脚を早めた。
「……やっぱり船だけじゃなく騎兵もいるな。やっぱり…凍り付いてる地面の他にも浅瀬で島から島へ渡れる道が…それも龍城付近まで続くだろう範囲である…」
一方、その様子は浅瀬を伝ったり、島と島の間を飛び移って帰路を速めている白漂達も視認していた。
「よく一回連れていかれた際に見ただけでこんな隠し道を見つけられたな。だが、これなら上手く馬を何頭か奪って帰りをもっと早められそうだな」
「まあ、この面子と装備なら普通に可能だろうが、感じ取れる気配からしてあいつらは弱くはないけど脅威というわけでは…!?」
茂みの中より羌瘣もまた同様に近づきつつある右賢王軍の追っ手を見やりつつも、その表情は曇りが晴れないという様相であったが口が動いている最中にそれは強まった。
「……ん? 何かあそこ…襲撃を受けてないか…!?」
その直後、白漂は近づきつつあった追跡部隊に横の茂みから何者かが飛び出る形で現れ、瞬く間にその場を怒号と悲鳴に鮮血で支配していく光景を目の当たりにした。
「…? 何かあの急に現れたチンチクリン…? 何か羌瘣と似てるべ…!?」
だが、その姿に越が嫌な感じで懐かしさを感じた直後、羌瘣が緊迫した表情で茂みから飛び出て現場に向けて駆け出した。
『…ギャアアア!? テ、テメエ…何者だ…グブ!?』
「!? お、お前は…」
そして数十秒後、右賢王軍の追っ手の最後の一人がその乱入者に止めを刺された直後、現場に駆け付けた羌瘣は犯人の姿を見て愕然とする。
「………識!?」
長きにわたって行方を捜すも、近年姿を見せなかった同族の少女で妹同然である羌識がレベロントの首を片手に現れたのだ。
「…あ…ぐぅ…」
その足元に転がっている追跡部隊で一人だけ生き残っている者がいたが、それは何故か対立関係にある右賢王アルクサルトの娘であるエルサリアであった。
○
『…ウゥ…レベロント右賢王…ガイラエル様…グエルード様…どうか天上で安らかに…』
『まさか陣幕にご遺体を戻したら一瞬目を離していた隙に…首まで持ち去られてしまったなんて…』
羌瘣が必死に探しつつも長らく見つかっていなかった身内と最悪な再会を果たしていた頃、
北の民の世界では葬儀はこうした風葬が主流で、自然と身近に暮らしている彼らは死んだらその身は自然に返すのが普通だという考えから来ているものであった。
「おい! いつまでそんなしみったれた空気をプンプンさせとるんだお前らは!? お前らは葬儀屋じゃなくて戦士だろうが! だったらこっちに吊るしている連中とそれと組んでいる奴らに対してやるべきことは何だぁ!?」
だが、今回出た死者達の死因は自然死ではなく、その理由について葬儀を主宰していた梁魁の咆哮がそれに触れて思い出させると、場の落ち込んでいた空気は憤懣からくる交戦論で沸き立ち始めた。
『…おお! そうだ!』
『こっちの話を聞かないドレゲネとかふざけた売国奴を殺せぇ!!』
『裏でこそこそ舐めた真似をしやがったそこの連中含めた趙のくそ共もだぁ!!』
『ようし!! それこそ模範解答!! 儂がお前さん達と秦燕の今回来てる連中をあいつが戻るまでは纏めあげてやる!! セコイ真似しまくって
「「「「「……………………」」」」」
その空気を言い出しっぺである梁魁が更に煽っていくが、葬儀が始まる前に彼の異常な勘と嗅覚で隠れていた所を発見されて捕縛され、ギャグマンガの如く全身が打撲痕や青痣で膨らんでいる姿を持って、並の拷問より遥かに痛い梁魁の拳を生で大量に浴びせられた証拠を我が身で示している趙側間者達は無言の逆さ釣りで場の一部分と化していた。
(どうしてこうなった!?)
(…ど、どうして…何で……こんな事に…!?)
それを見守っている非戦闘員の後方要員たちも多くいたが、その中に混じっている正体がばれていないカイネはフードの下で唖然とした表情を浮かべ、それとは別にクヴェリアは焦燥と怯えを隠さない表情を向けていた。
何というか、大人気北欧海賊漫画のモロパクリみたいな展開で…それであっちとは違ってマジでグダグダになりそうな予感です…。
次回から久々に本当の実戦パートに入る予定です。