○秦始皇9年(紀元前238年) 秦国中央部 王都咸陽 咸陽大学院○
「こちらにある “劇子言行録”についてですがー」
「あーはい、それなら北にある図書館にも写本がありますから-…」
再びあの男の女性関係で新たな局面が姿を見せ出してから数時間後、魏亶は咸陽大学院にある図書館で焼失したり、もしくは生き残った書籍の確認作業に加わっていた。
(…ふーーー、史記などで書かれていたほど秦法は極端なものでは無かったのはこの世界で分かりましたけど…、昔よりかはマシだけどここ秦ではこういう学術系は実用面での成果を出さないと軽視される風潮が取り分け強いですから…、早く復旧を済ませて研究を再開させないと…!?)
だが、その作業で他の学者達から偶々離れて焼け残っていた書籍を集めていた魏亶は知らぬ誰かの気配が急に生じて来たので困惑と警戒を抱く。
「…驚かせて申し訳ありません。ですが、戦場に立たぬ身の方でも気付かれるとは…策方侯は内外どちらも隙の無い方のようですね…」
魏亶が書籍を地面に戻した直後、彼女の傍にある半分焼け焦げた本棚の背後より一人の女性が現れた。
短く切り揃えた黒髪に鋭く整った面貌の持ち主で、この時代の女性にしては長躯である魏亶と同程度に高い背丈も上手く組み込んだ凹凸のハッキリした肢体を緑基調の旅人衣装で固めていた。
だが、それらの特徴を差し引いても目立つのがその右目で、緑基調の虹色に輝いている瞳は良し悪し問わず人目を集めるものをしていた。
「(何この目…? 前の世界の魔術師の家系の人に何人かいた魔眼のように見えるけど…)どちらの方ですか? 夫の事を知っているようですが…?」
「失礼しました。現在は遊説で生活しながら秦各所を回っている
「え…張禄…?」
その女性張星彩の自己紹介に混じる人命に魏亶は嫌な懐かしさを覚えるが、理由は解説の続きで判明する。
「今となっては
「…!?」
張星彩が出したその名に魏亶の顔は強張った。
先々先代秦王にして列国に“戦神”と恐れられた昭王の時代には秦国に多大な功績を残した二人の丞相がいた。
その内の前半期に置いて名を馳せたのが魏亶の祖父にして、昭王の母である宣太后の異父同母弟でもある魏冄である。
魏冄は白起等を登用して昭王期での秦国拡大に多大な貢献を果たし、彼自身も多大な軍功を上げたので相国にまで至ったが、その戦で出た利益を自身の懐に入れていってその財力はやがて秦王家すらも凌ぐ規模になったので、それが王権を脅かす可能性になると見抜いたある人物によって、隠居という形で失脚及び追放へ追いやられることになった。
「その顔からして警戒するのも無理はありませんね。ですが、だからこそ私の事はお憶えしてもらえると頂いて尋ねた所存です」
その人物こそが、今現在の魏亶の前に現れた美女張星彩が自らの父とする張禄こと范雎であり、彼が昭王後半期の秦丞相となって遠交近攻策という今現在も秦国の外交と軍事の基本方針となっている策を打ち出した存在である(張禄とは秦で仕える際に范雎が名乗った偽名)。
だが、その最後については白漂の前々世においても諸説があって謎が多い。
過去の伍子胥や商鞅等の傑物の末路を鑑みて早期引退して天寿を全うしたとする史書もあれば、当時の地層から発掘された一次資料には彼を推薦した王稽が敵国との内応罪で刑死した時期に、共に処刑されたと見て取れる文言もあったりしたためである。
ちなみに、范雎という名は秦に移る契機となった祖国魏国での怨恨を果たした際に明らかとなっており、それ以降は秦でも范雎という名が通例となった。
なお、魏亶が知人の史官より聞いた話によれば、この世界の范雎は王稽捕縛に連座して取り調べのために自身の館へ幽閉された後、自身の今後の末路を悲観して身内諸とも毒を煽って死して、館に火を放って遺体すらほとんど残さずに死んだということである。
その事もあって警戒心を強める魏亶に張星彩は表情を覗き込むように近づいてきた。
「貴女は聡明にして賢明な人間性であり、それ故に朔方侯もまた信を置ける傑物なのは見て取れます。いずれは私もこの国に仕える日がそう遠くないでしょう。そうなれば貴女方と再び顔を合わせる機会もあります。その日にまた…」
「………………」
そう言い終えると張星彩は魏亶の返事を聞くこともなく、そのまま背を向けて大学院を後にした。
「…そっちの資材は五番区画に運べー!」
「八番区画はもう炭しか残ってないからまず片づけを優先しろー!」
大学院で魏亶がそうして不穏な予感を覚えていた頃、咸陽の各所では今も復興作業が続いており、その一角に白漂がいた。
「うっわー、市街地の約三割がほぼ全焼で、残りの二割も半焼か…しかも王宮が本殿は焼失だなんて…」
「ええ、焼け出されて財産や家を失った市民も多いので、そうした人々への職の配布も兼ねて復興作業は大規模化しそうです…」
「以前から領域の拡大に伴って人員も増加して官庁街や王宮も手狭になって来たので、王都全体を含めての拡張計画は練られていましたが…」
「それで北部からの必要な資材について…」
「ああ、それなら…」
周囲で作業している官僚達が常にその周りを囲んでおり、白漂も国政、特に地元の利益や負担に関わる話なので手を抜かずに上がってくる報告を捌き続けており、それが一通り終わると白漂は咸陽での自分の館に戻ってきた。
ちなみに、王宮の残されていた区画も含めて無事な公共施設は嬴政の命令で焼け出された市民の仮居住区として開放されており、その一環で貴士族住居も幾割か解放されていていた。
「ああ、将軍様ありがとうございます」
「朔方侯、どうか大王様にお見えになられた時は我々のご感謝の言葉をぜひお伝えねがいま…」
そうした避難民と言葉を幾つか交わしつつ、白漂はその貴士族住宅地区に存在する咸陽での我が家を目指していたが、そこへ帰り道の魏亶とも合流して彼女から張星彩の事を話された。
「…范雎の娘を名乗る身で仕官をここへ求めて来たか…。話の信憑性はともかく会って信を置けるかどうか確かめた方が良さそうだな―――」
「天帝大栄! その子たる天子様の元に集い天力本願に励めば!」
「天下安寧! 来世永寧とならん!」
「平等互恵!」
「来世永福!」
「一天太平!」
「――—あ…?」
白漂がその秦国史に名を遺す宰相の一人の娘を名乗る新たな人物の登場に訝しんでいると、彼がいる館の二階から見える本通りを、何やら大仰な旗を掲げている老若男女が入り混じる群衆が突き進んでいた。
「ん? あー、あれは“天安教”と言って最近は秦でも戦災や自然災害の復旧が遅れている地域を中心に流行りが強まっていっている新興宗教らしいですよ。他の六国、特に三晋辺りでは尋常ではない広がりを見せているとの事で…」
「……………」
魏亶の説明を聞きながら白漂は、本通りを突き進むその信者達の戦災にも負けぬ前向きなエネルギーに人の強さを覚えつつ、同時に知識からくる不安もまた確かに生じさせつつあった。
○秦国中央部 王都咸陽 白一族宗家咸陽別館○
「…あーーー! やっと今日の分の仕事も終わったぜー!」
咸陽大学院で不穏な出会いが成された日の夕方、信が咸陽での借宿にしてる白漂の咸陽での館に隊員らと一緒に戻ってきた。
「…お疲れだ皆ー…あれだけ派手にやり合った後でよくもまあ毎日働きに出るなぁ」
その信達の帰りを館で夕食の準備を進めていた面子が出迎え、それに混じる晳琭が呆れた笑みを向けていた。
「そりゃまー咸陽のあちこちで復興のための工事がやってるからなー。いい稼ぎ時というもんよー」
「まー真っ当な職に困らんのは良い事ではあるな。私達なんか碌な産業が無かったころの北の地で飯を食うためなら盗賊でもやるしかなったし、特に弟の晳琥は見た目通りに滅茶苦茶食うからなー…………ん?」
見た目によらない怪力で巨大中華鍋を振るいながら晳琭が感慨深い表情を浮かべているが、その途中で秦が何やら訝しんだ表情を浮かべていることに気付いた。
「ん? どうしたんだ信隊長?」
「…いや、その…弟って言葉を聞いた瞬間…思い出した…。弟じゃないんだが…確か…俺にも…下のが…妹がいたぞ…」
「「「「「……え??」」」」」
信が非常に悩ましそうな表情で口にしたその言葉に、周囲に集う面々から呆けた声が上がった。
「…ふう、たくさん食べる人ばかりだから買い物も多くなったわねぇ…あ―――」
その頃、買い出しに出ていた玲花達が館の正門を潜ろうとしたところで、彼女が持っていた籠の底が破れて中に入っている林檎が幾つか零れ落ちてきた。
「―――あぶな…!?」
両手が塞がっているために玲花は少し口元を歪めるが、地面に触れる瞬間に急に何処からともなく伸ばされた二本の手がそれ以上はある林檎をパパっと拾い上げてきた。
「大丈夫ですか?」
その林檎を拾いなおした手の持ち主は、中華とは明らかに人種が異なる白人系の青年で、精悍且つ怜悧という言葉が似合う風貌をしており、周りを歩く婦人たちの多くも振り返って二度見するものが多数だった。
(…この人…今先ほどの動き…明らかに荒事も含めた間者としての訓練を高度に受けた―――)
「玲花さーん、そろそろ夕食が出来上がるから戻りましょー」
「―――あ…ありがとうございます。また次にお会い出来たらお礼を…」
玲花はその場にいる者達の中で青年の異常さをただ一人で見抜いていたが、同僚たちに急かされたので拾ってもらえた林檎を入れ直すと白漂の館へ姿を消した。
(…あの女性、隠してはいたが一瞬ほど俺の本職に気付いた眼差しをしていた。あれが例の飛信隊の女副長の一人の玲花か…)
「ロイドさん、早く行きましょう。西市にある商館で皆さんが待っています…」
「ああ、そうだな…」
その青年であるロイドは玲花とその後姿を記憶に止めつつ、連れと思わしき色目人に急かされてその場を後にした。
○中華南部 ???○
この時代における中華の中心とは、経済的にも政治的にも夏や商と言った黄河文明が発生して栄えた中原、白漂達の言う趙魏韓の三晋が本拠地を置く黄河中流域である。
後代、ある時代で言う三国時代以降の開発で温暖な気候にも恵まれて経済力で逆転した長江流域は、春秋戦国時代では幾つかの史に無い変化を除けばうっそうとした森が広範囲に広がる未開の地が多数を占めていた。
「…ふう、久々に戻って来たな…“
「お前達も帰って来たか。俺達は秦からだ」
咸陽にて玲花がある意味で自分の嘗ての同類と接触した頃、そうした中華南部を広範囲に占める未開の大森林に囲まれたその地は、まるでマチュピチュを思わせる山岳を丸ごと改造したような多層的な大都市を構成し、そこの住民は秦に匹敵する多様な人種構成を見せて、奇々怪々な物品や言葉が行き交っており、秦など各所で暗躍していたあの墨字意匠の者達がその内部の通路を潜り抜けていた。
「お待たせしました皆様、
「うむ、ご苦労」
その中で案内役が現れると、墨字意匠の者達はそのフードを脱ぎ落して素顔を晒した。
「…ほっほっほ、ようやくお戻りですねぇ皆さん」
大禹廳の一角にある湖にポツンと浮かぶその小島型庭園の高楼に入室した者達が入る目にしたのは、大きく“墨”と書かれたマントで背を隠す眼光が鋭い男が窓より外を眺めている光景であった。
「…申し訳ありません。此度の秦及び北狄世界での混乱で予想以上に手こずりましたので…」
「無理もありません。例の白漂さんですが…まさかあのような手段でこちらも加わって進めていたあの策をひっくり返すとは…、個人として見れば同じくここで育って同志になって欲しかったくらいですよ…。呂不韋さん達に李完さん達が出し抜かれたのも納得です」
「笑い事ではありません。秦は商鞅の体制で我が学派の手が十分に浸透してるとは言えない状態であったのに、先の謀反制圧を受けて今の秦王に政治体制が一本化された事で更に困難になります」
その男である鉅子が楽しそうに喉を鳴らしているのとは対照的に、彼と同じ室内にいる者達は難しそうな表情を浮かべているが、鉅子は窓の外を見やったまま余裕が崩れる気配がない。
「…そう気に病むことはありませんよ皆さん、此度の秦の政争で敗れた形となった旧呂不韋派が占めていた派閥は秦国政界の半数を占めていました。もちろん秦王派は彼らをなるべく組み直して抱え込もうとするでしょうが…、それに紛れて新たに根を張り巡らせることは不可能ではありません。そして、全てを抱え込むことが不可能な以上は秦国内の不安定要素になります。浸透していく余地はいくらでも生じますよ…」
「ええ、問題は誰を侵入させるかですが…む」
鉅子の傍に侍る四伯翳達が顔を隠す覆面越しに眼下の町を見下ろすと、ある一人の女性に行きついた。
「…すみませーん、韓から戻ってきたヨルですー。任務対象の品を持ってきましたー」
「うむ、ご苦労。奥に持っていけ」
「はーい」
この時代の女性にしては高い170センチの長躯を黒基調の直裾袍で固め、黒い髪を後ろに流しながら前髪をヘアバンド風髪飾りで止めており、赤い瞳を中心に整っているが何処か抜けた美貌をした女性で、その身を優に越す大きなズタ袋を満載にした状態で建物へ入っていく彼女に鉅子達の注目が行きついていた。
「…お亡くなりになられた李瑤さんの娘さんのヨルさん…元々の名は李填さんですか。確か…子供の頃に戦災で生き別れて行方不明になっていたお兄さんが今や五千人将で、更に北のあの件で更に名を大きく馳せた主君の伝手で例の王とも懇意の仲のようですが…」
「あの者の腕は非常に立ちますが性格は抜けていますからな」
「普通以上に隊を編成して虎狼の国に送り込むのがよろしいでしょう…」
「裏社会にて梁城で名を上げた彼から適合した腕利きを何名か選出させて同伴させましょう…」
「今現在は“倭国”に潜入しているゆえに時間は少しかかりますが…」
今後の算段を進め乍ら、鉅子はそのヨルとも李填友呼ばれる女性を見やりつつ楽しそうに喉を鳴らし始める。
「…クックック、本当に人というのは面白い生き物です。この乱世においてすら文でも武でもしぶとく生き抜いて才という花を咲かせていくのですから。まあ、その花を剪定してこの中華を彩って統べるのは…我々を除いて他にはいませんが…」
鉅子のその言葉に、部屋に集う者達で自信深く静かな笑みを浮かべないものはいなかった。
はたして、今回の件で幾つか情報が出た彼らの正体は何者でしょうか…?
まあ、正直に言うと熱心な春秋戦国系作品ファンならバレバレかもしれませんけど…。
やっと原作で言う第一部、本作での第十四章が終わりました。
次回から原作で言う第二部突入…の前の息抜き回的な幕間に入ります。