○秦始皇9年(紀元前238年) 秦国北部 朔方郡 朔方城 歓楽街 百華楼○
「……………」
妓楼を出ようとするも妓女の一人に抱きとめられて数分後、白漂は妓女達に絡んでいた暴漢の懐から零れ出た黒い粉を器に入れ、それを火で炙っていた。
「…この反応…やはり…」
それで生じる黒い粉末の新たな反応に、白漂は目をスッと細めて瞳から温かみが消えていく。
「…貴方、他の子達と共に夜伽の準備が出来まし…っ!?」
数十秒後、着替え終えた紅華達が部屋の扉を開けて姿を現すが、その時には既に白漂は姿を消していた。
○秦国北部 朔方郡 朔方城 歓楽街 某居酒屋○
「…でよー!」
「マジかー!?」
白漂が百華楼より姿を消してから数分後、そのビアガーデン風に夜空も楽しめる居酒屋は今も盛業中だった。
(…ぷっはー、前の前の生で台湾をやっと降伏させて統一を完成させた直後も、ここまで素直に喜んで集まっている酒場は無かったなー…)
その中に康熙の姿もあった。
彼女は先の秦燕共同大宴会の中止の理由となった北方国境地帯での水害で、自身の部族や友好勢力に被害がないのを素早く且つ正確に把握すると、梁渓に休暇願及びその内容を届けた後に、ここ秦国へ別人名義による行商として来ていたのだ。
「おーねーちゃん! すげー食いっぷりだなー! その山のように重なってる皿の全部をあんた一人で食い切ったのかい!」
「まーですねー! ここじゃー地元と違って思う存分に食べ放題ですしー!(前の人生じゃー研究所と戦地を行ったり来たりのレーションばっか、前々の時は最高権力者っつっても率いていたこっちが圧倒的少数民族なせいで世間体無視できなくてドカ食い出来なかったし…いやー本当に自由な身分っていいなー) ここは皆が
その美貌と見た目にそぐわぬ大食いっぷりから康熙は何度も他の客の男に呼びかけられたり、思うところがあるような表情を浮かべながらその度に上手く躱したりしていたが、途中から急に静かだが深い鋭利さを秘めた眼光を外に向け出した。
「…うお、ね、ねーちゃん? どうしたんだ? そんな物騒な目つきで他所を向いて…?」
それに戦働きもしている他の客は何かを感じて戸惑うが、康熙から彼にその答えは返されることはなかった。
その寂静として怜悧な眼差しの先には、高楼やそれを守る塀の上を時折り一つの影が駆け抜ける姿が浮かんでは、フッと闇夜へ溶けるのを繰り返していた。
「…で、どうよー今日の売り上げは~?」
「今度も景気良いぜ。いやーいい感じに売れるぜー」
歓楽街で紅華達が消えた夫に頭を悩ませ、康熙が居酒屋で大食いしながら何かを感じていた頃、歓楽街区画にある倉庫の一つで、見るからに正業には就いていない雰囲気の男達が下卑た談笑をしあっていた。
「いやさー、倭人が持ち込んできたこの“煙草”ってやつと
「ま、吸い続けたら山に小屋建ててる連中みたいになるけどな!」
「なーに! どうせ使い物にならなくなって死ぬのは秦の山猿だから構いや…!?」
だが、男達のその談笑はその内の一人の下顎が拉げる音で止まった。
「ぶぎゃあ!?」
「あぁ!? 何処のどいつだ―――!?」
仲間の一人が急に目の前で無残な姿にされて他が声を荒げるが、その原因に気付いた直後、彼らの怒りは瞬く間に別の感情に塗り替えられた。
「面白そうな薬を持ってるねー。僕にも聞かせてくれないかなぁ?」
(―――あ…終わった…)
その倉庫の入り口に姿を見せた星の光で形しかわからないその男の声を聴いた直後、荒事をそれなりに生きてきた彼らは“諦め”と言う感情に身を支配された。
○秦始皇9年(紀元前238年) 秦国北部 朔方郡 朔方城 内城 正門前○
「…ただいまー」
そんな夜が明けた次の日、妻や側近達の知る所からまたしても消えたその城主が自身の家の前にふらりと朝帰りしてきた。
「ちょっと城主様! 御身の強さは知っている身の一人ですがそれでも単独だと何か起きたら…って…この臭いは…!?」
それに正門前で掃除をしていた従者の一人が文句を言おうとするも、見た目こそ普段通りだがその身に付いた大分薄れさせられつつも濃度が高かっただろう血の臭いを放つ白漂に、いやな意味で慣れたゾッとさせられる感覚を覚えた。
「…いやー、昨晩は友人の家に行ってたんだけどその帰り道で怪しい薬を扱ってる人たちともめちゃってさー。今は歓楽街の○○番地にある
「ま、待ってください。奥方や侍従長にお伝えしますので…」
普段の気が抜けた様子だがそれとは非常に相反する血生臭い仕事の残り香を感じさせる白漂に、掃除人は即座に内城へ戻っていった。
「…お嬢様、あの方が例の将軍です」
その様子を内城に近い高級旅館の上階より秘かに見やる女性がいた。
赤毛のサイドテールをしていて、雀斑と合わさって快活とした雰囲気が似合いつつも荒事にも慣れた動きをしている美女だ。
「…そうね…でも、まだ彼の御仁と組むかどうかはまだ判断すべき時ではないわ。私達の仇は…私達だけで済む問題ではないもの…」
その美女に傅かれている部屋を借りているその主は、緑がかった黒髪と黄銅色の瞳で整いつつも、何処か深い翳を帯びた十代半ばとも倭しい美しい少女だ。
だが、その少女の瞳にはこの世の深淵に入ったものだけが見せられる翳を宿していた。
○秦国中央部 王都咸陽 咸陽大学院○
「…あーー、叛乱の時に燃え盛っている光景を見た時は…もう駄目だーって思ってましたけど…」
「何とか前みたいな活気が戻ったなー」
白漂が自宅に帰ってから数時間後、太陽が最も高くなった時間帯にて鍼濃とゼノビアが、建物の再建が終わった大学院の中庭で茶を飲みながら談笑していた。
「おお、お二方お久しぶりですね。身の方も大事が無いようで」
ちなみに、二人ともその腹部は同じ男を父とする子が宿っている状態で、大分膨らんでいるのが周りを行き交う通行人の目からもわかるほどだった。
「…いやあ、お前も宿したと聞いた時はまさかと思ったが…何せ後宮ではお前関連の浮ついた話は聞いていなかったからな…。ということはまさか…」
「じ、人体って…こういう人目にいつ気づかれるかわからない場所でこそ燃え上がる悪癖があるというか…!?」
ゼノビアのジト目に鍼濃は顔を赤くして視線をあちらこちらに反らして、この地で秘かに行われてきた情事を思い出してしまって更に顔へ血を集めていってしまうが、そこで厳重に封がされた大きな鉄の箱を乗せた車が入ってきたことに気付く。
「…? 何だ? あの車は―――?」
「ウぁアアアァアア!?」
「―――!?」
ゼノビアがそれに怪訝な表情を向けた次の瞬間、箱の内部から大きく爪で引っかく嫌な音と、深く澱んだ膿を思わせる悲鳴が鳴り響いて来て彼女にゾッとさせた。
「…え!? あの声って…まさか…!?」
一方、鍼濃はその声に嫌な記憶を刺激されたのか口元に手を当て、目元には静かにだが憤りの色を見せた。
「…こちらが各地での出生率と死亡率の報告書です」
その頃、大学院の別の一室でここの管理者でもある人物が口を開いていた。
「ご苦労。こういうのは数字を見るのが一番客観的だからな」
同じ部屋にいる嬴政に頭を下げているその人物の名は
ここ咸陽大学院の学院長を務めつつ、秦国で博士*1の長も兼任している人物だ。
「は、こちらに集めた各方面の方士や医者、地域を問わない医学書の研究と普及に務めまして…死亡率は大幅に軍民問わず即位前の平均の半分以下に減っております。そして、戦傷などで手足に欠損が出る事で貴士族以外の従来は職を失って浮浪者等になっていた方々にも、昨今の多様化した職で向いたものに配置することで治安もまた向上しております」
「そうか、それは良かった…で、
枢園ら現場の責任者達からの報告を直々に受けている嬴政は表情こそいつも通りだが、その意識はある要件を中心においており、それを問われた枢園達は重い表情を浮かべる。
「…人口当たりの密度で言えば、法整備が遅れている六国…特に三晋と楚に比べれば低いです。ですが人口が多い分、被害者の総数で言えばわかっている数でも楚に次いで酷いかと…」
(…人間は絶望が長く続くと大抵は長期的な展望を描けず、目先の利益や快楽を求める様になる。それを生んでいる身の一人で言うのもあれだが…昨今の戦の激化と大規模化で生まれているそうした人間に、地力が限られている三晋や旧態のままの楚が対処できなくなっているとみるべきか…? だが、それにしても回るのが早すぎる…。鎮痛剤としては効果が絶大なことからこちらでも西域式外科手術などで多く用いられるようになっているが…)
その重い内容の中心となっている
○秦国北部 朔方郡 朔方城 研究所○
「…それで今現在の秦の北東部方面の状況と地理の把握は?」
咸陽で嬴政が新たな闇の気配を感じて捜査を強めるかどうか思案していた頃、朝帰りしたことなど無かったように白漂は北の研究所で今後の北部安定に欠かせない机仕事に加わっていた。
「…北東部に近い海岸線は以前から向こうの現地の部族に行商や帰化人と言う形で潜り込んでいたウチの間者達で幾らか把握しているわ。今現在は各間者達が寄せた報告の整合性を確認しているところよ」
「北の大地の東部は旧
その中心には地理学や気象学で、女性ながら当代で首位を争う逸材であるナミも加わっていたが、今現在の白漂は彼女を含めた周囲の言葉を正確に収集しつつも、前々世との違いや前世との類似性も思考に組み込んで今後の戦略を練り上げていく。
(…やはり、オホーツク海方面が前々の世界と違い、前世のように西側に大きく食い込んで行っていて、前々は東北部と呼ばれていた地域の多くが大きな島嶼郡となっている。前世の方では同地を襲った大規模な火山活動とそれに付随して起きた地震、駄目押し的に起きた隕石などで海岸線が大きく浸食されたという説があったけど…。この様子だとこちら側では秦がほぼ抑えている前々で言う内モンゴル東部…
思考の途中で白漂の視線は、前世における最初の友とも関りが深い満州とも呼ばれることのある地域に向けられるが、そこはハルビンやチチハルに遼陽や長春などと呼ばれた地域に相当する地はありつつも、その多くが大小多くの群島と化していた。
(…このためかこちらの世界における粛慎系民族…特に、満州と名乗っている者達の造船技術と航海技術は今現在集まっている情報から見ても、東海三国には大脅威と化している倭国に引けを取らない面もあるとみて良い…。その事は…こちらの“黒竜江”を遡ってくる粛慎や倭人の商人の話を照らし合わせても間違いない…)
次に白漂の意識は前々で言う中国東北部から、その西側に位置するモンゴル一帯にまで向けられるが、そこにも前々世にはないが前世にはあった地形の変化もあった。
後代ではアムール川とも呼ばれるその大河は東側がこの世界では海岸線に大きく押されているためもあってか、代わりに西側に大きく伸びて、途中で支流の一本に前々世には無かったテングリ湖と繋がり、白漂の記憶にある現代以降モンゴル国を南北にほぼ二つに横断するように伸びていて、その大きな支流の何本かが朔方郡も含めた秦北部もまた走り抜けていた。
「(…現在、前々世や前世にもなかったこの世界における華中の秦領部分でのある変化を生かし、表向きは水路や干拓の工事と言う形で、あの
「は、今すぐにでも可能です…」
「ならば、必要な人員として…」
多方面からの深い情報をパズルのように整理して且つ繋げた白漂は、それを言葉にして周囲へ適時適切な指示を下していく。
「…普段は机仕事中心にサボり癖や逃げ癖が目立つ人ですけど、やるとなると本当に怖くてそれ以上に凄い人ですよねぇ…」
「ああ、それでいていざという時に必要な情け容赦の無さもああ見えて持ち合わせている。今朝に見に行かされた“例の薬”の売人連中とかがな…」
「…ああ、あの…“人箱”と“人壷”ですねぇ。全員生きてはいて四肢は繋がっていましたけど…」
その様子に周りを守る衛兵達は主君に対して畏敬と畏怖が混ざり合っている複雑な表情を向けていた。
○中華北東部 燕国 某港湾都市○
「…よーし! 早く水揚げしろー!」
「さっさと血抜きしろ!」
「真水に付けて寄生虫を落とせ!」
秦国で白漂がまた何か大きなことを小事に見せての既成事実方式で進めようとしていた頃、燕国のその港では魚介類の大量の水揚げと処理が行われていた。
「…ううぅ…やっと今週も終わった…」
「趙にいた頃はめっちゃ高級品扱いだった魚なんざ…もう見てるだけであの地獄みたいな海を思い出すようになっちまってるよ…」
その港町の長屋の一角で、龍城で捕まって未だに燕側で働かされている趙人の集団がいた。
「…そういやー何人かまだ帰ってきてないな? まだ仕事中か?」
「いやー、確かあいつら-…他の商人が持ち込んでいる“タバコ”って言う薬を買いに行ってると思うよ。確かー…“
始めは脱出と趙への帰国を目指していたが、あまりに厳しい監視と管理で今を生きるだけで限界の彼らの中には、それを紛らわせる手段に対して特に考えなしに食いつくのも多くなっていた。
それらにも戦火をより深めていく闇の一端が浸透していることに、今の彼らに気づけているものは少なくともその場にいる面子にはいなかった。
何だか最後辺りで非常に危ないネーミングの植物が出てきましたが、果たしてどうなる事でしょうか…?
次回は、今回の描けなかった分も含めて、主人公による各方面への根回しも含めた大人向けシーンに入る予定です。