018 人一人の不在が戦局を揺らがす時有り●
○秦始皇6年(紀元前241年) 合従軍大戦開始後 北狄草原地帯 東胡領内○
正月が過ぎて落ち着きも戻り、秦王嬴政に子が出来た祭事も終わった後に秦国を驚愕の国難が襲い掛かった。
楚趙魏燕韓五カ国による合従軍五十万超の大軍勢が侵攻してきたのである。
それに対し秦は軍の主力全てと大将軍級の人材を集めて国門函谷関での撃破を目論む。
「…う…わわわわわわ!? もが!?」
一方、その大事な時期に白漂は自軍の大半を率いて匈奴を討ち払うべく、その侵攻に晒されている去年に恭順したばかりの東胡の領内に進み、先行していた徐庶は河岸の岩場を猿のように飛び進みながらも時折りこけて転落しそうになる度に部下に止められて口を塞がれたりしていた。
「しー! 隊長ー! 幾ら先日のこの辺りでは珍しい豪雨で増水した川の音で馬蹄の音を消せてて河岸の段差で姿も隠せてるからって度を越すと幾ら弱ってるっても匈奴に気付かれちまウキよ!」
現在、白漂軍はイェスゲイ率いる東胡本陣と分かれて遊牧民があまり寄らない増水中の河川の河岸地帯を分散して進み、明かりも消して星明りと石隊や庶徐隊の隊員らを頼りに進んでいた。
「パーン、落ち着け。お前こそ声が大きいぞ」
その中で彼らと同程度以上に気象や地形を読み取る感覚が発達している白漂も混じっていた。
(…だけどー、それにしても昨年に城に現れてそのまま逃げられちゃった刺客はなんだったんだろう…)
時折り発見する匈奴の哨戒兵を葬りながら味方を案内しつつ、庶徐は昨年に現れた特異な槍の使い手である正体不明の刺客に付いて考えていた。
昨年にて白漂をその居城で暗殺しかけたその刺客は、厚い警戒網を潜り抜けたその隠密能力もさることながら身体能力の非常さも逃走で見せ付けた。
槍を用いて白漂の前世で言う棒高跳びの要領で低い壁を越え、武装した兵士を乗せた馬脚を振り切り、高所の壁を降りるときは脆い箇所を直ちに見抜いてそこを穂先で削り減速を掛けながら城壁を飛び降りて階段よりも早く降り立ち、中には素手で武装した兵士も殴り殺せる玲花の拳速も飛んで受け止めるとそのままの勢いで小さな水掘も越え、挙句には滝に繫がっている外郭の水掘に飛び込んでそのまま姿を消してしまった。
途中で槍は破損してしまうものの、その度に立ちふさがる秦兵を拳足で倒して槍や矛を何度も奪って逃亡を成し遂げたのだ。
当然、白漂兵を含めた秦国の治安隊は大掛かりな捜査を続けたが、結局見付からないままに此度の合従軍戦で有耶無耶の内に捜査中断となってしまった。
「庶徐、今はあの刺客騒ぎよりも匈奴を早く撃破することに集中して。僕がまだ若いからそこまで強くお呼びが来なかった事と、秦国征服目的の合従軍と違い旧領奪還を目論んで秦北部を荒らす匈奴への対処の必要があった事でこちらに眼を向けられていられるが、僕達も一刻も早く中央に参戦しなくちゃいけない状況には変わりは無い」
「あ、はいー。けれどもやっぱりー匈奴の偵察兵が前と比べて少ないですねー」
「まあ、イェスゲイたちにはまだ剣戟を本格的に交えるのはしない代わりに色々こっちが残した工作兵と共に眼をひきつけてもらってるからね。本格的な先陣はこっちに任せてもらえたし…ここに到着する前から事前に地形を調べて隊をいくつかに分けて分散してこの辺りに潜ませながら進ませていたのも大きいな…」
そう語る白漂の視線の先には第二陣を請け負った東胡の本陣があるが、河岸の上の森の向こうにあるそこからは煮炊きの煙が多く立ち上っていた。
○北狄草原地帯 東胡領内 匈奴単于本軍野営地○
「……………」
白漂たちが河岸を潜みながら進んでいた夜が明けつつある翌日にて、東の空に白みが強まりだしているのを背とした形で匈奴の単于軍野営地が存在していた。
雁門の戦いで衰えたものの、民族単位で見れば最大の戦力を持つ匈奴の本軍が座している戦場東側の丘より一人の少女が憂鬱な顔で対峙している東胡の野営地を見ていた。
「
一人の匈奴の老兵が心配げに声を掛けたその少女薙鍛は、昨年の朔方城での刺客騒ぎが起きた日の日中で譜孝に見付かって嫌な懐かしさを覚えさせた来訪者であった。
男物の衣装だが腰まで伸びた光の辺り加減で赤紫色に輝く腰までの長髪と赤色の瞳を持ち、西方系の血筋も感じさせる白い肌に包まれた長躯は女性らしい凹凸が付きつつも狼を思わせる筋骨と長く引き締まった四肢を持ち、その右手には通常に比しても倍以上はある朱色の長槍を掴んでいた。
「…二日前の晩から向こうの篝火に昼間の砂塵が増えていることと、昨晩は特にそれが強まって大規模な夜襲の可能性もあると単于様に奏上したら女が図に乗るなといわれてな…まあ、元から夜間も、向こうから戦場西側辺りで仕掛けてくる弓兵による強烈な毒矢がしょっちゅう来ていたから警戒して起されている兵も多く杞憂で済んだら良かったが…あの昨晩から続く煮炊きの煙の量が多いのが気になる…まあ、向こうの川を挟んで見える砂塵と湯気から微かに見える移動を進めている人数からしてあそこに大半が集まっているのは確かだが……」
「まあ、こちらは頭曼様のお父君の時代のお家騒動で今の単于本家には疎んじられておりますからね―――」
「て、敵襲だーーーー!!」
「―――え…!?」
初老男性の部下と苦渋の表情で薙鍛が話し込んでいたその時、太陽が昇りつつある森に面した背後から危急を告げる警告が発せられた。
「背後からだと!? 馬鹿な! 昨日と今朝から向こうから大軍が出た気配など無い…!?」
それに鋭敏な五感とそれを生かせる才気を持った薙鍛が背後に気をやりつつも疑いの視線を西に向けたその時、彼女は急に薄れだした湯気と土煙より現れた整列を終えた東胡の軍勢と、その背後に見える無数に詰まれていく人型のそれらの正体に彼女は答えを得た。
○北狄草原地帯 東胡領内 東胡本軍野営地○
「イェスゲイ! 匈奴の背後から白漂将軍達が突撃に成功したようだ!」
その匈奴を襲った危急は対岸に陣地を構えている東胡達も容易に見て取れた。
彼らがいる陣地内では無数の大釜の中身が沸騰して湯気を立たせており、その視界が閉ざされた陣地内を杏橋隊を中心とする秦軍工作隊が忙しく動いていた。
「…しかし森の中に篭って枝を集めてそんな案山子の紛い物みたいなものを作っていたときには笑ったが、まさかこんな使い方があるとはな…」
クビライが野営地の櫓より見下ろしている杏族の兵たちは、葉がついたまま縛られて人型にされた案山子を幾つも付けた天秤棒を担ぎながら陣地中を動き回っていた。
総攻撃の鋭気を養うための昨日の晩飯や今朝の朝食のための大量の煮炊きを装った湯気と、東胡が先手をしない代わりに白漂の提案でしていた騎馬隊による煙起しによる視界不良の状況と重なれば、対岸に離れて陣を置いている匈奴には煙に紛れて全主力を集めて陣形編成を進めているように見えるのが自然であった。
更に越達が視界不良の中を探ろうとした匈奴の偵察兵を消して回り、東胡兵達が近づかぬよう遠ざからぬようの距離で、白漂軍から提供された毒を用いた射手攻撃による小規模な戦闘を起こし続けていたことでそちらに意識が削がれてしまい、匈奴にとって背後からの白漂軍の突撃は完全な不意打ちになってしまった。
加えて追い風のタイミングで昇ってきた太陽の朝日を背に攻撃を掛けてきたので、先の李牧との戦いで猛者を多く失っていた匈奴は残された切り札の射手攻撃も生かせずに押されっぱなしとなった。
「おお、白漂達がもうこちらにも見えるまで敵勢を分断してそのまま背を向けてまた内側に戻っていったぞ」
「よし、我らも川の浅瀬を通って突撃に加わるぞ」
それを見た東胡達も主力の準備も終えていたことも手伝い、白漂達の背を追う形で匈奴目掛けて突撃した。
○北狄草原地帯 東胡領内 匈奴単于本軍野営地○
「く! まさかこんな事態になろうとは…この前の晩の痴態で過小に低く見積もりすぎたか!」
秦・東胡連合軍にまんまと詭計を喰わされた事に気づいた薙鍛は、苛立った表情で白漂の背を追うように突撃を掛けてきた東胡に長槍を豪速で振るい続けていた。
昨年に彼女は単于の命令で正体を隠して朔方城に忍び込み、白漂を暗殺すべく刺客となったがそれは思わぬ現象で失敗に終わってしまった。
(…貴族でありながら野外で女性らとあんなふしだらな事をしている男にここまでの策略を打たれるとは…!)
そう、確かにあの刺客騒ぎの番に彼女は闇夜に紛れてその素早さを生かして朔方の奥まで忍び込めたが、そこで野外にて女性に自身の股間を奉仕させている白漂の姿を目にした。
その血筋ゆえに男と性的な接触を堅く制限されている薙鍛には衝撃的過ぎて、思考が発情と混乱で崩壊した彼女の槍は照準がずれて彼の股間の陰嚢に小さな傷を付けるに留まった。
だが、それで歴戦の玄人らしい愛妾の女性達が瞬時に起きて警報を発した事で瞬く間に警備に集まられてしまい、彼女は逃走を余儀なくされてしまったのだ。
「薙鍛様ぁ! だ、駄目です! もう白漂軍に完全に不意を突かれて押されている状況で更に東胡も朝日を避けて左右の森から挟撃を掛けてきてもう総崩れ寸前です!」
「止むを得ん! 皆で私のところに集まれ! 殿をして味方をより多く逃すぞ!」
「は、はは!」
その後、圧倒的不利な戦況を悟った薙鍛の奮迅で彼女の隊とそれに近しい種族の者達はどうにか退く事に成功した。
○秦始皇6年(紀元前241年) 合従軍大戦函谷関攻防戦一日目昼 秦国中央部 函谷関○
「しっ!!」
北の地で匈奴が敗走戦に追い込まれていた頃、南の秦国中枢部では秦軍と合従軍の死闘が繰り広げられており、そこに信三千人隊も参戦していて、その中には玲花の姿もあった。
馬上でも雑技団のように手を駒の軸代わりにして逆立ちし、左右に大きく開いて回している両脚の長靴から延び出ている刃が対峙している趙兵の首を草を薙ぐように斬り飛ばしていっていた。
「うっひょお! あの嬢ちゃんの武道と舞が合わさったみたいな動きすげえ!」
「我呂ぉ余所見するなぁ!」
その血飛沫を浴びつつも演舞を舞うような戦技に、信三千人隊含めて郭備軍と共に趙軍と戦っている麃公軍兵士らも軽口を叩きながらも感嘆していた。
玲花は身の凹凸が分かる甲冑で四肢は先日に朔方でも付けていた籠手と長靴をつけており、露出こそ少ないが長袖の衣服も身に張り付くタイプで四肢の健康的な引き締まりを見せ付けていた。
「腕ががら空きだぁ! 秦の若造がぁ―――」
「はい!」
「―――あが!?」
玲花が馬の鞍に片手を置いて着地しようとした所、趙の騎兵がそこを真横に両断しようとするが、そこで彼女の籠手から長剣が勢い良く伸びでて拳を放つような動きで鎧ごと穿ち抜かれてしまう。
玲花のその箱付き籠手に長靴は、彼女の演舞的な武術を反映させた杏橋設計のジャマダハルに似た伸縮自在の隠し刃付きの特注品であった。
「これより騎馬隊、突撃する! 俺の元へ集まれ!」
その最中に信が麃公軍の動きに呼応しつつも彼らの進行方向とは別の方角を見据えて号令を掛けた。
「皆、信を前面中央に配する形で錘行陣を編成して! ステラは後部前方から狙撃をお願い」
「はいはい了解~、皆ー的って旗の趙部隊の方がまだ隊長死んだばっかでこっちに構えないからそこを拠点代わりにしてねー」
「はい、騎兵隊は信殿に集まり直せ! それと重装歩兵隊はステラ殿らを守備だ!」
信の勘が働いて下された指示を玲花にステラと渕ら副長らが細かく指示を下す。
「おい! あそこで白漂の懐刀が留まって編成しなおしてるぞ!」
「舐めた真似をしおって! 者共ぉあいつらの乱れてる横腹を突くのばぁ!?」
それに気付いた趙軍将校の何名かが気付くが、それらは瞬く間に矢で射殺された。
その根源に目を向けると、そこには特殊な形状の大きな弩を構えた馬上のステラの姿があった。
「よし、これだけ接してる状況なら問題ないね。もっと矢と矢の装填時間を短くしたいけど…」
「いやいや、十分速いぞ」
重装歩兵になって弓隊の守備についている尾到が微妙な顔を向けているステラの弩は、右腕に被せる形で白漂の前世で言う針金風金属製銃床が付いていてペダル式ハンドルが生えており、下腕には腕に添う形で弓部分が三段重ねで付いていて、その上部には矢が詰まっているカートリッジも装着されていた。
ステラがハンドルを回すと弦が素早く引き絞られていき、ある程度絞られた所で彼女の右手の三本の指それぞれに付いた引き金が引かれて即座且つ個別に発射され、直後にレバーが戻されてハンドルを回して弦が引かれ直される。
その矢の装填速度と威力に飛距離は従来の連弩と比べて格段に高く、それによって信隊を囲む趙軍将校らの頭や胸は次々に射抜かれていった。
「突撃!」
そして、陣形変更を終えた直後に方向転換を終えた麃公軍の疲弊した後方を突くべく出撃した趙軍左翼岳嬰軍の横腹を信達が突いた。
「はいはい、横腹は任せておいて!」
「右の方は任せて!」
その錐の様に進む信隊の横腹で右側を玲花が迫り来る敵の首を四肢全てを用いて切り払うか細身に似合わぬ膂力任せで捻じ曲げて絶命させていき、ステラは左側の目ぼしい将校らしい的を射殺し、中には奥まで進んでいる麃公軍左側に面している趙兵将校も何人か射殺していく。
「でええぇえええい! この面倒な異様の蛮族共がー! ここで貴様らなんぞに長平の復讐を邪魔されてたまるか―――」
「邪魔!」
「―――あばぁ!?」
それにかなり上級らしい趙国岳嬰軍将校の一人が声を荒げて信の横腹を突こうとするも、そこで雑技団のように両脚の刃で趙軍騎兵の頭を足場代わりに突き刺しながら駆け寄ってきた玲花の健脚で馬上から蹴り落とされ、そのまま馬も奪われた。
「しゃああ! ありがとうよ玲花ぁ!」
「ぶば!?」
そのまま頭から落ちようとしたその将校を胴から信が横一文字に両断して討ち取ると、趙側から悲鳴が上がった。
「うわあああぁ! あの長平の数少ない生き残りである万哲様がぁ!」
「穴に連行される途中で恐怖で一度心臓止まって捨てられて後から息を吹き返して助かったものの物陰から生き埋めを目の当たりにしてしまった万哲様がぁ!」
「万極様が戦死した後は我らを纏められていたあの方がぁ!」
「おのれぇ! 秦の山犬共がぁ許さんぞぉばぁ!?」
それに悲しむ者や激する者の両方がいたが、信達は遠慮なく討ち取り続けていく。
「…ん? 何だかさっきの奴を斬ってからこいつらの亡者みたいなしぶとさが大分弱くなってあいつらから上ってた腐ったおっさん達の面みたいな煙が見えなくなったが…あーそういう事情ならあーだったのも無理ないか…」
信のその後の彼らに対する評価が示すとおり、別の時間軸とは違い長平で地の底から生き延びた男の不在は目立ちにくいが大きい影響を与えていた。
その後、不利を悟った慶舎の判断で趙軍は退きだすが、この場の秦軍は無論情け容赦なく追撃を掛け、兵数差では劣りつつも将兵の質に得意分野を生かした麃公・黒剛・郭備三軍が趙軍を大いに討ち削った。
今回は原作よりも早かったあのゾン極さんの死の影響を自分なりに本編と絡めながら描きました。
次回は一日目勝利後の信達の夜の宴と二日目以降の話です。