○秦始皇9年(紀元前238年) 秦国北東部 新領地 某不安定地域(現内モンゴル自治区中東部) 沿海郡(秦側予定地名) 黒竜江河口デルタ地帯○
「ヒョッヒョッヒョ、久しぶりじゃのう朔方侯」
「おー、これは先生。そのお歳でこんな僻地に来られるとか相変わらずの珍しもの好きですねー」
康熙が船旅に出てから数日後、彼女と何らかの打ち合わせをした蔡沢は現地の平定の為に到着した白漂を出迎えていた。
「色々面白い企みごとが進んでおるからのう。それに関わらせてもらっている以上はいくら老いていてもそれを忘れてしまうわい。特にお主には嫌と言うほど働いてもらわねばのう」
何度出会っても愉快そうに笑うその老人の様子に、白漂はまた嫌な予感を覚える。
「…それで先生、今度はどのようなご要人がここを通られて来るので?」
「そうじゃのう…お前さんの性格を考えると早めに言うといた方がよいじゃろうて…、実はのう…」
白漂の微妙そうな表情に蔡沢はいつもの愉快そうな笑みを浮かべつつもその腹を括らせるべく瞼を薄く開き、老獪な眼光を添えてこれからこの地を通るその要人の名を彼にだけ告げた。
「…なる程、それならそのご老体でここまで来られるのも納得です」
「何じゃ? 思っておったのと違って面倒くさがっては無くて嬉しそうじゃのう?」
「…ええ、ここ最近は少し遠出していたのが原因で皆にしこたま怒られまして…基本はゲルの中で机仕事ばかりが中心だったので、外に出られる良い理由が出来ました」
「ヒョッヒョッヒョ、それは良かったわい」
その名を受けて白漂が浮かべた面白そうな表情に蔡沢は意外そうな表情に変わると、背を向けてその場を後にすると入れ替わるようにして紅華がやってきた。
「白漂将軍、剛成君のお出迎えご苦労様です。次は―――」
「紅華、机仕事はいつもみたいに前線の陣幕で時間を見つけてやるのに戻す。長くても二カ月以内にここの治安を諸外国の要人を迎え入れられる状態にまで高める」
「―――!? それほどの大事が出来ましたか?」
「要件はまだ詳しくは話せないがそれくらいの要件が出来た。要人がこの地に到着されたら重要さが分かる。閨の子達への説得は任せるよ」
「了解しました」
いつもの調子で旦那をゲルに戻しにかかろうとした紅華だが、その白漂が大戦に出向いた時のような冷徹な雰囲気を纏うと敏感に感じ取ってすぐさま動き出した。
それから白漂軍は、総指揮官である白漂もまた前線に出向いて北涼地域東部の反抗勢力の鎮圧や恭順化を猛烈な勢いで進めていく。
すると、北涼地域は朔方郡を中心とした西部と、旧
○秦国中央部 王都咸陽 王宮○
「報告!北東部対燕国境地帯の靺鞨系諸族も恭順を表明して人質を差し出した模様です」
「おお! 前回の伝書鳩による報せから5日も経たぬ内に!」
「さすがは朔方侯だ!」
白漂と蔡沢の何らかの打ち合わせより1ヶ月後、大戦並みに本気を出した白漂の早くて且つ良い仕事の進め具合による影響は咸陽にも良い意味で及んでいた。
「他所からの干渉はどのようになっている?」
「燕国には朝鮮方面で先を越されたがかの国は元々の人口の少なさからそれ以外に気を回す余裕がない。北涼への干渉も対処許容範囲内を越しておらぬ」
「趙は李牧が楚に亡命した影響で今も現王派とそれ以外の政争で外に大きく目を向けられている余力はない」
「魏と韓はそもそも距離があり過ぎなのと国が小さくてそもそも手を回せる余裕はないな」
「楚の方はそもそも正反対に位置して干渉が難しいのと東方から倭寇の圧迫が強まり続けて干渉は困難だ」
咸陽で開かれている本営でも北方については朗報中心で言葉が飛び交っているのもその証左となっている。
「昌平君、このままこの3年の再編期間が済めばまず刃を交える国は?」
「「「「「!!」」」」」
その重臣達の会議を見ての嬴政のその言葉で、場の注目は秦の軍最高司令昌平君に集まる。
「…無論、今この中華で最も揺れている趙国です」
「「「「「!!」」」」」
「黒羊を中心とした王翦軍主体による太行山脈方面からの東進と、北涼平定後による白漂軍主体の南下による両面同時進出作戦で―――」
「きゅ、急報ーーー!!」
だが、昌平君が今の秦国の好況を反映しての再編後における大規模軍事計画について口にしていたその途中、会議が開かれている本殿にその叫び声が割り込んできた。
「―――!? その書簡とその封は…!?」
「は、はい! 蔡沢様からの書簡です! 朱と青の封! 国運に関わるほどのお報せです! これから1カ月後に北涼方面を通って国賓が咸陽に来られるので大至急その準備を成されるようにとの事!」
「!?」
「な、何が起きたのだ!?」
好況を反映しての気分の良い調子が続いていた本営にとって、その報せは反動もあって大きく場を混乱に叩き込んだ。
そして、その影響は咸陽から各前線へと波及していくことになる。
○秦国東部 著雍 同地大要塞○
「…いやー、王都で内乱が起きたり、北涼の地で旧
「ああ、これなら魏軍がどれだけ大軍を投じてきても著雍と山陽の奪還など出来まい」
咸陽に急報が届けられた日の翌日、色々想定外の事態が国内や隣国で起きた影響で遅延しながらも、遂に完成した著雍の大要塞にて玉鳳隊の面々が誇らしげに自分達の駐屯する完成したその大要塞を望楼から眺めていた。
「…お、性懲りもなく向こうの山の合間に魏軍の小隊が近づいて来てるぞ」
「よし、追い払いに行ってやるかー」
「いやいや待て待て、この距離だとこの前にここで設置したばかりの投石機を使ってみよう…!?」
そこから見える敵の動きにも何処か楽観を感じさせる声を遮るように、壁の内側に設けられた車輪付き大型円盤プレートが重厚な音を奏でながら動き、それに乗せられている大型投石機がその砲口を魏軍の偵察部隊に向けた。
「王偉殿ー、角度及び方向の調整は終わりましたー」
「よし、良いぞー。連中が山の合間を抜けてこちら側の入り口に入った所で試射だ―――」
「急報! 急報ーーーー!!」
「―――あ…ん?」
「うおおお!?」
それに携わっている責任者の一人である王偉も無表情ながら瞳に嬉しそうな色を浮かべて投石機の発射準備を終えようとしたその時、伝令が大慌てで駆けつけてきて彼女に怪訝な顔をさせるが、その弾みで投石機のレバーが驚いた砲兵の手によって引かれてしまう。
「「「「「のわぁアアアァアアアァ!?」」」」」
「な、何だぁ!?」
「し、秦の投石機だぁ!?」
「ヒイ!? この距離で!?」
「ひ、退けぇ!」
当然、投石機から巨石が発射されてそれは向けられていた魏軍の偵察部隊に直撃こそしなかったものの、その直前に着弾して轟音と大きな土煙を上げ、彼らを驚かせて瞬く間に退散させた。
「って何をやっとるんだ!?」
「…あ、いやあ…そっちの急な登場で驚いて思わず発射してしまってぇ…とりあえず向こうにも怪我人などは出ていないようだし…」
「そんな事はどうでもいい! これ以上は魏軍に対して手を出すな! 向こうから仕掛けてきた場合は防戦を認めるがこちら側から侵攻したら重罪だと咸陽からの指令だ!!」
「「「「「!!!!????」」」」」
それに声を更に荒げた伝令に王偉は少し気まずそうな表情を浮かべるが、伝令が続けた言葉に周囲は驚いた。
「若、これは…」
「ああ、王都も相当に混乱しているようだ…」
望楼からその様子を見ていた関常と王賁は只ならぬ気配を感じて表情を険しくさせた。
○秦国中央部 王都咸陽 王宮○
「「「「「……………」」」」」
著雍で王偉が珍しくバツの悪そうな顔を浮かべてから一月後、咸陽は大勢の将兵が集いつつも只ならぬ緊張からくる沈黙に支配されていた。
「お、おい…あの軍は…!?」
「ああ…白漂大将軍とその直下軍だが…」
「そ、それほどの人達が護衛しているなど…あの車の中には誰が…!?」
出迎えた側の王都軍の将兵達はその自分達の前を訪れた国賓とされる方が乗る車に注目していたが、その扉が開かれると彼らのヒソヒソ話は一旦止んだ。
「…大王様、咸陽の王宮へご到着しました…」
そこから降ろされた階段を降りて、中にまだいるだろう国賓が降りてくる準備をしたのは康熙であった。
(((((………誰だ…だが、この感じはいったい????)))))
当然、この場に集う将兵達は彼女のことなど初対面だし、名も素性も知らなかったが、何故か彼女からはその存在に自然と注目を引き寄せられてその言葉を聞いて意思を確かめたいと、静かにだが深いという注目が生じていく。
そうして不思議な性質に変わった沈黙に満たされた兵士達の合間を抜けて、此度の国賓の道中での護衛責任者を任されていた白漂が車の前に立って頭を下げた。
「全警備兵が守備の予定位置に着きました。どうぞお降りくださいませ」
「はっはっは、なかなか珍しい見物が多かった愉快な珍道中であったぞ白起の孫よ」
「「「「「!!!!!?????」」」」」
そして、車の中から階段を通って姿を現したその国賓の姿に、咸陽軍の将兵達はヒソヒソ声も失う衝撃に支配されていった。
「ヒョッヒョッヒョ、ここも大分様相が悪くない感じで変わったのう」
「おおー、これが中華最西端の王都か」
秦国最高外交官蔡沢と共に、斉国現王田建がここ咸陽へ足を踏み入れる姿を目にしたからだ。
そして、その光景をやや離れた位置から目にする一団がいて、兵士達と同じ驚愕に包まれている中で一人だけ別の意味で驚いているものがいた。
「…これは…斉国からだけ?」
「え…? 公主様…?」
自身の知識とは違う此度の斉王の訪秦の光景に、嬴司雪は思わずその困惑を口にして周りからの怪訝な反応も聞こえなかった。
(…私の知る史記や
自分の記憶にある前の世界での史書とも、別のある種の人間が呼ぶ原作とも違うその変化に、嬴司雪は答えをまだ見いだせなかった。
「…こ、これはどういう事ですか蔡沢様!?」
「独断でこのような勝手を!?」
「斉国の大王様をお連れなさるなど!?」
それから数分後、王宮の本殿で重臣達が混乱を露わにした様子で非難と追及の声を上げていた。
「それと朔方侯も何故お止めしなかったのですか!?」
「お聞きすれば斉王様が実際にご到着される前にお話しを聞かれていたというではありませんか!」
「お二人とも何のこちらに相談もなく!?」
その非難と追及の中心に居ながらも、蔡沢と白漂は涼しい顔を保ったままであった。
「ヒョッヒョッヒョ、発案は儂と
「…あの男…李牧か?」
「「「「「!!!???」」」」」
だが、その驚愕の嵐の中でいつもの平静さを取り戻した嬴政が蔡沢の言い方からその名を口にすると、場は新たな驚きに包まれた。
「いかにも、じゃがその当人は残念なことに隣にいる小僧のおかげで趙には居れんくなったからこの話は一度頓挫しかけたがのう」
「斉王が秦へ来るにはその中間にある趙を通らなければいけないのが従来の常道でした。ですが、その常道は仲人する筈であった李牧当人が今は楚に亡命しているので、今の趙を仕切ってる趙王と郭開の性格からして実現できなかったのですが…こちらが先々月に沿海郡を抑えて海路から斉と直接つながれるようになったので実現可能となったわけでー…」
「本来なら李牧も同行して別に大王と会見してもらいたかったがのう」
その問いに答えながらも蔡沢と白漂はいつもの調子である。
「何をそんな勝手なことを!?」
「お二方とも大逆罪ですぞ!!」
「まあまあ皆さん落ち着いて、会談が終わったら蔡沢先生が身命を持って償うとの事ですよ♪」
「「「「「ええええええええええええエエ!?」」」」」
「おいー!?」
「「…………」」
「おい、どの道
一方で、白漂がいつものクオリティでさり気なく面倒事を老人に遠慮なく押し付けようとして、周囲の群臣達はまた別な意味で驚愕の声を上げ、昌文君は唾を噴出させ、昌平君と嬴政は無言の能面のまま微妙そうな汗をかいて、蔡沢が苦笑いを浮かべて杖で白漂の脛を小突いてきたりした。
「…じゃがのう…」
「「「「「!!??」」」」」
だが、蔡沢が小さくも重みのあるその言葉を吐くと、一同に緊張が走ってその耳は彼の言葉の続きに集中していく。
「嘗ては
その言葉で周囲の意識を極限まで高めて集めながら、蔡沢の重く開いた両眼が玉座に向けられる。
「大王、戦国七雄を終わらせんとする王ならば、それを東端の玉座で迎えるだろう斉王とその意味をこの日の舌戦で語らずして、それは避けられぬと存じ上げます」
「………」
蔡沢の虚偽を許さない覚悟を問うその諫言に、嬴政は言葉こそ返さずとも答えは既に見出していた。
本作は主人公が色々やらかしたせいで、原作と違ってあの人がいない状態で此度の会談となりましたね…。