213 地名が同じでも他も同じとは限らない●
○秦始皇9年(紀元前238年) 秦国中央部 王都咸陽 白一族宗家咸陽別館○
「…あれだけやった後なのに太陽がまだ白い、はー…職場の習慣でいつも早く叩き起こされるからなー…その割に夜の寝られる時間が少なくなってる一方だから…いつも寝不足になる…」
「その分、最近だと昼間の味方圏内での行軍中は影武者代わりにあいつを立てて荷車の中でぐーすかか寝ているから心配ないだろ」
韓の朝廷が秦からの長期同盟申し込みとその見返りの公開で大きく揺れた日から十数日前、対楚戦線への急参加を己が閨で告げるも妻に絞殺されかかった晩が明けての翌朝にて、白漂は目を覚ますもまだ眠そうな目を擦りながら同じように起きるもシャキッとしている信に愚痴っていた。
「攻めはともかく守りの方なら増えた人口の分と屯田の組み合わせでどの城も長く連携的に守れるから良いとして、動かせる精兵を集めてあの南の大国の要所を短期間攻略なんてどんだけ無茶かますんだよ。それでー率いる将軍はお前も含めて何人が来るんだ? 短期間且つそこまで多くない精兵集結軍で落とすとなるとよほど強力な将軍を何名か集めないと無理だろ?」
「…あー、まだ名前とかは言えないけどさー…ひっじょーに癖が強くて且つ極端すぎる面子が集まる感じ…?」
「いや、お前が人の癖の強さとかを言うなよ」
その愚痴の合間に隣の信から突っ込みが何度か飛んだりするが、白漂の表情は口調の軽さに相反して親近感を何処かにじませる憂いの色が薄れなかった。
○秦始皇9年(紀元前238年) 什虎攻防戦一日目朝 楚国北西部 対秦国境線地帯 西什虎平原○
白漂と信の早朝での愚痴と突っ込み中心のお喋りから数十日後にして、韓の朝廷での秦韓長期同盟に対する審議から一週間後、今回の什虎地方攻略軍の主力軍の本陣は紛糾が続いていた。
「…ちち…失礼! 大将軍! どうかお考え直しを! 什虎地方は大国楚の城ながらもその
その紛糾している場で今すぐの開戦に反対しているのは、この場に集う軍師や参謀達の中心になっている蒙毅で、彼の意見に他の幕僚達の多くも賛同の意を示していた。
「昌平君からの指令書では今日が什虎攻略戦開戦の日だという話は韓側にも既に伝わっているはずだ」
それらの抗議の意見を浴びつつも振り返りもせず、天幕の窓から遠方に見える迎撃のために来ているのが見える楚軍を見据えているのは、現秦国第一将にして蒙毅の父である蒙武であった。
「父上! せめてその機動力の高さからあと数日中この地でご到着して合流する予定の
「毅、よく見ておけ」
「!?」
その父に蒙毅は幾度となく食い下がるも、蒙武は振り向いて鋭さはないが熱い重さのある畏敬を呼び起こさせる威厳を見せて言葉を返すと、先端に巨大な錨風のおもりが付いた流星錘の鎖を掴み、それを回しながら再び対陣する楚軍を見やる。
「これがお前の父…蒙武の姿だ」
そう短く言い切った後、蒙武の腕はその錨風巨大流星錘を豪速で楚軍目がけてぶん投げた。
「ぎゃああああアア!?」
「「「「「か、加寧様アアアアアアアアァアア!!??」」」」」
そして、その巨大流星錘は対峙している楚軍の迎撃部隊の将軍を、それが乗っている船ごと粉砕し、此度の戦で什虎と共に主戦場となる、原作や正史と呼ばれる時間軸にはない巨大湖“青深湖”の藻屑へと変えた。
○秦始皇9年(紀元前238年) 什虎攻防戦一日目昼 中華南部 楚国 王都郢○
「報告! 本日の今朝方にて侵攻してきた蒙武軍六万はすでに加寧軍を撃破して大林に入った模様! ですがその次の紀市も通過しそうな動きからしてやはり目標は什虎かと思われます!」
蒙武軍による開戦から数時間後、伝書鳩でそのことを知らされた楚国の朝廷は騒然となっていた。
「…まったく、朝廷へ戻れた途端に侵攻してくるとは…秦の早漏どもが…」
「しゅ、春申君…」
そうして騒然となっていた朝議の場に令尹*1に復位した春申君が口汚いいつもの調子で姿を現した。
「…それにしても秦はどういうつもりでしょう? 先の内乱の立て直しの最中で遠征にはそこまで大規模な兵力は回せないだろう状況でこちらに向けて侵攻してくるなど…。いくらこちらが倭寇の大規模侵攻やそれに呼応しようとしているように見える
「どうせ今ではうち並みにいくらでも集まる凡々共に国境線をデブみたいに厚く固めさせられている間に、あのウニ猪みたいなすぐ動ける戦馬鹿共を集中運用して短期攻略しようとの魂胆であろうよ」
「!? で、では蒙武以外の強軍もさらに来ると…!?」
どうやら国際情勢的にゆとりがあるとは言えない楚から見ても蒙武の行動は無謀なように大半からは見えるが、一人だけ春申君は忌々しそうな顔で秦側の今回の戦略を看破する。
「で、では今すぐに西部方面を任せている
「ガキみたいに慌てるな低能、どうせ
「「「「「……え????」」」」」
だが、その春申君の口から出たこの大国の顔役とは思えないセリフに、周囲の廷臣達は驚きよりも戸惑いが強く出てしまった。
○秦国中央部 王都咸陽 各官庁○
「南部の中心である成都方面からの既存の戸籍情報はこれで全部か!?」
「おい! 新規に加わった太行山脈方面のだが黒羊樹海のがまだか!?」
「西の山界に近い西涼*2方面の方での向こうとの折衝についてはー…!?」
秦の中東南部前線とその動きを受けて楚の朝廷が慌ただしくなっていた頃、秦国の中央各政庁は白漂の献策で取り上げられた、秦国全住民の戸籍作成のための激務に追われていた。
「ええい! 白漂め新たに急拡大して今も継続中の北涼方面の再編だけでも多忙なのに…それを全国にまで拡大させおって!」
「文句を言うな李斯! これすらも中華統一事業のためには欠かせない準備なのだ!」
「せ、成蟜様! 屯留東方の確樂ですが地元大地主層の抗議が激しく追い返されたと…」
「今は協力的な地域を優先して片付けて非協力的な地域は纏めて把握しろ! 場合次第では後者には俺が手勢を率いて発破を掛けに行く! あのデコにこんな無茶を承諾させるなどどういう教育をしたのだ昌文君!!」
「木簡や竹簡だとかさばりがひどくて運ぶのも苦労する! こっちの資料も紙に書き直せ!」
「各地方の資源の産出量も新しく出た図形式表記*3で書き直せ! 慣れればそっちの方がわかりやすくてー…!!」
そこでは恨み言や叱りなど様々な言葉が飛び交っているが、関わっているもの全員がこの大事業の大切さをわかっていたので全力で取り掛かっていた。
だが、この仕事へ熱を入れている彼らは知らなかった。
原作や正史と呼ばれる時間軸に比べて領域と人口が大きくなっている分に本来ならそれ以上に困難になるはずだったこの事業は、実は原作と同じスピードで進んでいるので能率さでは大幅に向上していたのだ。
そして、その能率の向上にはこの世界における戸籍編纂事業の言い出しっぺによる、単純だが現場では極めて効果的なある入れ知恵が大きく貢献していたのである。
○秦国 某辺境地帯 某山間村落地域○
「あ、あそこが二日前に我々が通りかかった町である缶歩の長が言っていたというマジェ族の暮らす村か…」
「村だが結構大きいな。女子供も含めてだが二千人くらいはいそうだ…」
「
咸陽で昌文君達が全国戸籍づくりの激務に追われていた頃、その手足となって各地方で動き回っているそのある文官達は護衛付きで、秦国内にありながら戸籍から漏れていた村落の一つを訪問していた。
「…あ、どうもー初めましてー。我々はーあなたたちの村を取り囲む形で存在する秦国から派遣されてきた文官のものですー」
「え? 何であんたたちみたいな大国のお役人さんがこんな辺鄙な村にまで来てるわけ?」
「実はですねー大事な話がありまして―…ここで立ち話をするのはちょっとなんですのでとりあえずこっちで机と椅子は用意しましたのでーこちらでー…」
そこで文官達は村の有力者たちに声をかけ、適当に会食に持ち込んでさり気なく本題に持ち込んでいく。
本来なら、戸籍に登録されるということは税や兵役など各負担が増える事なので、この時代では地域問わず庶民の大半は嫌がるのが普通である。
「…もぐもぐもぐ! な、何だこの甘藷*4というのは!? 変な形をしておるが甘くて旨い!」
「こっちの馬鈴薯*5はホクホクとしてどんな味にも合いそうだ!」
「こっちの高粱や玉蜀黍*6もー…」
だが、今現在の住民の関心ごとは机上に並んでいる外国由来の作物やそれを用いた料理に向けられていた。
「こっちはー今の我が国で広まっている西域由来の水が少なくて痩せた土地でも育つという作物でしてー…」
「この村が秦国なら種をお分けして育て方とかもお教えできるのですがねー…」
「…う、ううむむむ…」
そうして、初めて味わう風変わりだが美味な食材で未国籍地帯の住民達の心情を揺らし、文字通りその胃袋から掴んで原作と比べてスムーズに戸籍へ加えていったのである。
『『『『『あ、あの野郎…言い出しっぺの癖に食い物で釣るやり方だけを残して…この書類地獄から上手く南の前線に逃げやがって…!!!!』』』』』
一方で、咸陽の方はそうして早く且つ大量に現地からの戸籍情報が送り届けられていたので、原作以上に増した過労と激務で悲鳴とこの状況を招いた男への怨嗟が毎日絶えることなく立ち昇ったりもしていた。
○秦始皇9年(紀元前238年) 什虎攻防戦三日目昼 楚国北西部 什虎地方 西側陸橋地帯○
「ヌウウン!!」
「「「「「ギャアアアアアアアアアアアアアアァアア!!??」」」」」
咸陽で複雑な怨嗟と悲鳴が連日上がっている間も、蒙武軍は侵攻を推し進めており、今も蒙武が振るう剛力で多くの楚兵が悲鳴と共に骨肉交じりの血飛沫を巻き上げていた。
「蒙毅殿! まだ三日目ですが悪くはありませんな!」
「もうすでにあの什虎城へ続く湖中の道の入口の一つまで近づきつつあります!」
「…………」
その戦況が秦側に有利なことは山頂に布陣している秦側本陣からも見えていたが、喜色を見せる周囲と比べて蒙毅の表情はまだ晴れていない。
(…これまで我々が撃破してきたのは通常の楚人による部隊…。まだ例の什虎中央部に巣くうあの“狂信者たちによる軍勢”には出くわしていない…。あの集団が出てきた時にこそこの戦の本番は動き出すのだが…!?)
だが、そうして蒙毅が警戒を解いていない中で、対峙し交戦しているその楚軍があろうことか什虎本城方面に向けて動き出した。
「おお! 今回も退いたぞぉ!」
「蒙武様もすかさず追撃の動きに出ている!」
「我々も総大将に合わせて本陣を動かしましょう! 周囲への警戒を怠らないように!!」
それを見て蒙武軍の本陣も士気を上げながらすかさず蒙武本軍の後を追っていった。
「…什虎方面も予想していたより進んでいますなぁ…」
「これはひょっとして他の四将の方の到着を待たずとも攻略できるのでは…?」
「…いいえ、まだです…まだ、我々は…本当の意味での
「
進んでいく蒙武軍には意気揚々とした空気が強くなるが、何かを知っている風の蒙毅はそれを危ぶんで注意を呼び掛けていた。
「…け! 久々に陸へ戻れてせっかく五千人将になって初めての戦だってのに初っ端から黒星ばっかじゃねーか!!」
「うるさい! 皆それで肩を落としているんだからいちいち言うな!」
一方、その蒙武軍との戦いで押され続ける形で退いていっている楚軍にて、イラついた様子を隠さない項翼、それを注意する白麗の姿があった。
「おい! 隊長よあんまり騒がないでくれ! これから俺達が行く場所は色々な意味でやばいんだから! 以前にここへ出向いていた俺のダチがやかましくしたら何処からから
「はぁ? それってなんだぁ? 什虎の連中は妖術でも使うって言いたいのかぁ…?」
その項翼は道中で部下も含めた訳知り顔の周囲に注意を受けていたが、そこで彼らはあるものに気付く。
「…えーーーっと…白地にー…」
「下の棒が長くなってる…」
「…赤い縁取りの白い十字…が描かれた旗??」
「!? ついに連中の縄張りの中に入ってきたか…!!」
それはこの時代の中華どころか他の地域でも本来なら見られないはずの旗印で、楚兵の多くは奇妙に見るが一部の訳知り顔の者達は強張った顔を見せた。
「…蒙武様! 什虎城が見えてきました!!」
「…あれか」
そして、十数分後に蒙武本軍とそれに追われている楚軍はこの世界での什虎城が見える地まで進むが、それは彼らの困惑と警戒を駆り立てた。
「な、何だ…あの城は…!?」
「湖の中に大きな島がいくつかあって…それらが端や細長い陸地に繋がっておる…」
「城壁や建物の作りは見たことがないものばかりだ」
「その島々に築かれている城はいずれも高台に築かれておるぞ!」
巨大な淡水湖である青深湖と、その中に築かれているこの世界での什虎城の構造と周辺の環境に、それらを始めてみる秦兵達は驚きや困惑を次々と声音に上乗せする。
だが、それ以上に秦兵達の目を引いたのは、そこを根城にしているとされる者達の姿と雰囲気であった。
「…将軍、城の出来や周辺の環境もさることながら…」
「…そうだね、北の地では珍しくなくなっている人種だけど、それにしてもあれだけの数で纏まって…更に…」
それは蒙武軍だけでなく、他の森の茂みの中から進んでいるその軍勢からも見えていた。
「…こっちと同じくらい…“獣の雰囲気”を感じる…(というか、あの旗印に…服装の特徴とか…まるで…前の世界での僕の国に滅ぼされたあの…!?)」
その彼らが目を向けている什虎城及び周辺島嶼群に姿を現したその軍勢は異様であった。
「…な、何だぁ? あの“倭刀”の唾みたいなのが付いた帽子みたいな兜は…!?」
「鎧も…星や十字みたいなのが付いている青黒い妙なのが多いというか…」
「…それに…旗も…さっきの赤い十字以外にも…なんか、赤と白が交互に変わる線を背景にした
「まちまちだったり程度の差もあるけど、ほとんどがうちでよく見る色目人みたいに肌が白かったり瞳に色がついているのばっかだ!」
秦側のそうした驚きや反応は楚軍の多くも同様だった。
「な、何だ…あの異様な連中は―――!?」
「“
「―――あぁ!?」
その一人である項翼がその印象を口にしようとしたところで、かの墨字意匠の者達がヌッと姿を現して、本来の時間軸なら存在しないだろうその民族名を口にした。
「…数十年前に気配もなく突如として姿を現し、“
「「「「「………………」」」」」
墨字意匠の者達がその名を口にした本来存在しないはずのその異様な異民族に、楚兵達の多くはそれ以上の言葉が自然と止んでいった。
今回の最後に姿を見せた猩族とは何者でしょうか? 今回のお話の主戦場ではまだ少ししか出なかった彼は何か心当たりがありそうな顔でしたけど…。