〇秦始皇9年(紀元前238年) 什虎攻防戦五日目正午 楚国北西部 什虎地方 什虎城付近 白漂軍野営地付近某高所〇
白漂達が湖中の小島の一つにある断崖絶壁に追い詰められつつある少し前、そこを見通せるある茂みに包まれた高台よりその道中を視認していたある一団がいた。
「…報告、将軍は予定通り猩軍主力を引き寄せながら合流予定地へもうじき到達する見ようです」
「そうですか、それでこちらの全装備の状態及び全照準も大丈夫ですね?」
「は、風もまた影響の出る範囲ではありません」
「…そうですか。それは良かったです…」
それを取り仕切っているのは、表向きこそはいつもの真顔だが目元にやや苛立ちに近い翳を帯びた杏橋であった。
「あ! さっき予定の断崖に背を向けた白漂様達の前の猩王アンドリュー含めた什虎軍の大部隊が近づきつつあります!」
「よし、ではあの人達のための縄を、どうぞお三方」
「うむ」
「うん」
「任せておいてねー」
続けて寄せられた報告を受けて杏橋が指示を下すと、いつも通り渋い表情の蒼源、澄ました顔の藍蘭、気が抜けた表情の康熙を中心とした一団が銃座付きの弩砲を構えてその断崖を狙いすましていた。
それらの弩砲の大矢には先端に近い部分に縄が括り付けられていた。
「よし、あっちが撃つ前に俺達はこの弾をあの猩軍大部隊の先陣及び周りにこいつらを打ち込むぞ」
その一歩ほど後ろには小型投石機が大量に設置されており、そこには赤狼の者達が油の入った陶器を載せていっていた。
「…よし、ではまずは…?」
その数秒後、白漂達を断崖絶壁に追い込んだアンドリューが彼らを嬲り潰すべく命令を下そうとしたその時、彼らに天から炎に包まれた何かが近づきつつあるのが見えた。
「ん? あれは…!?」
墨字意匠の者がその気付いた時、それはアンドリュー率いる猩軍大部隊の先陣及び彼らの周りに着弾し、次々と炎と煙を立ち昇らせ始めた。
しかもそれらは陸地の小島だけでなく水に落ちても同様で、噴出し続ける煙は猩軍の外縁部、特に先陣部隊から苦悶の声を上げさせる。
「Aaaahh!?」
「My eyes!!!」
「It won't go away?!」
予想の範疇にない攻撃に猩兵達は混乱状況に驚き、大半が周囲の状況どころではなくなり始めた。
「す、すごい…話に聞いてたけど…水の中でも燃える油ってのは本当だったんだ…」
「…うわぁ、前よりもさらに水気のある場所でも燃え盛るようになりましたなぁ。殿…!?」
それを始めて見て驚く桓騎兵達と何度か見たことはあるが半信半疑とした断崖を背にしている白漂兵達であったが、彼らの頭上を何かが豪速で飛び越し、断崖絶壁の上あたりに着弾して周囲に轟音と小石を撒き散らした。
「ひえぇ!? な、何だぁ!?」
「さー、逃げ道が出来た。さっさと登ろう皆」
驚く周囲に対して知っていた顔の白漂が見上げたその正体は、杏橋達のいる秘密陣地から打ち出された孥砲用大矢で、それらは断崖絶壁の上あたりに撃ち込まれ終えると白漂達に向けて長い縄を何本も下ろしていた。
「さっさと登れ、火と煙もいつまで続くわけじゃない」
「へ、へい!」
「す、すごーい…この絶体絶命な状況からこんな楽に脱出できるなんて…え? 何か向こう側で何かたくさん蠢いて…?」
「ちょっと途中で止まるなよ!」
「す、すいません!」
その縄を介して白漂達は素早く登って断崖の上に逃げていくが、途中で呂敏は猩軍を取り囲む煙の向こう側に何かが蠢いているのに気づくが、後続に急かされて慌てて上を向き直った。
「…ええい、火が付いた奴は切り捨てて水の中に捨ておけ。どんな種があるかは知らんがいつまで燃え続けるものなどこの世にはない…」
十数分後、火の手もある程度小さくなっていって周囲も相応に見渡せるウようになった猩軍側は、煙が消えていくのを埋めるようにして現れていく
「…え? 何か断崖の横から周囲の左右を…鎖で繋がれた…壁みたいなのが付いた小舟が取り囲んでいる…!?」
墨字意匠の者達がその新たに現れたその正体に気付いた直後、彼らがいる猩軍アンドリュー大部隊の後方から怒号と悲鳴が鳴り響いてきた。
「ずずめえぇぇぇぇ!!」
「ボアアアァ!!」
「ジャアアア!!」
その音源の正体は、桓騎軍から桓騎の命令で送り出されてきたゼノウ一家による狂暴にして強烈無比な攻めによるものであった。
「Wh, what is this!?」
「Who knows! Anyway, if we can just destroy the vanguard...Ahhh?!!」
それに対して猩軍アンドリュー大部隊は迎え撃とうとするも、ゼノウ一家の持つ圧倒的な武力差から薙ぎ倒されていく。
「N-No! Run to the side!」
「Ah, what's that?! 」
「There's a ship over there... a wall has formed...?!」
その光景にゼノウ一家の進路方向にいた猩兵達は慄きだして左右に分かれて逃げようとするも、そこで彼らの視界で障害になっていた刺激のする煙の多くが晴れて、そこにはなかったはずの長い“船団による壁”が出来上がっていることに多くが気づいた。
「今回みたいな戦場特化の兵器“船壁”による左右の包囲は大丈夫そうですね」
「連中の目から離れて隠れた場所で組み立てたかいがありましたね」
「おかげで昨晩は急な指示も加わって悟られないようするために葦の中や小島の上を、船を担いで運ばされたり、泥だらけの場所で一晩待たされるわで、戦とは別な意味で酷い目に遭いましたけど…。まあ、あなたがつい先ほど向こうを煽るだけ煽って引き付け照れたおかげでここまで気付かれずに進めましたが…」
白漂達は登った断崖絶壁の上から、待ち受けていた部隊と合流してその光景を眺めていた。
「あ、あの船の隙間から逃げられやしませんか!?」
「大丈夫、船と船の間は鉄の鎖でつないで更に有刺鉄線を絡めて最低でも素手では触れられないようにしてるから。更に船の上には盾で固めて下の方も錘を付けた網を下ろして泳いで逃げられないようにもしている。他にも色々と人員含めて工夫凝らしているからアレの首を上げるまでは十分に持つよ」
「な、何という準備の良さ…」
「あ、あれが全部…元から持ってきていた道具を組み合わせただけか…」
その光景に白漂の工夫の器用さと豊富さを本当の意味で見せつけられた桓騎兵達は、特に呆けが強い表情で魅入られていたが、当の猩兵達はもちろんそれどころではなかった。
「Ahh! Don't be afraid! If we attack together there will be no problem...Ahhh!?」
崩壊しつつある猩軍アンドリュー大部隊だが元々の数がこの辺りでは大きいので、何割かは冷静さを取り戻して対処しようとするも、その指揮官たちが次々とパンっと空気が弾けたような音が鳴り響くと同時に頭に穴を開けられ、そこから脳漿と血を噴出させながら絶命していっていた。
「Hey, hey! What was that sound just now?! 」
「Why is a ``fire-shooting sword'' aimed at me?!」
「 Who cares?!」
その轟音と味方の死に方は猩兵達の何割かには既知のもののようだが、それ故に彼らは恐慌を強めた様子を取っていく。
「…ん? なーんかあいつらこの“タネガシマ”を知ってるような顔を何人か浮かべてたなー、まあいっか。あのあたりのもあらかた撃ち殺したからゼノウが更に押し込んでくれたし…あの猩の馬鹿大将を狙えるところまで進もう」
それはゼノウ一家のすぐ後ろの茂みに身を潜めている
「…す、すげえ…この距離とタネガシマで…全員一発で当ててやがる…」
「さすが凶弾一家頭領…」
「前の前の合従軍の時…お頭が引き抜いてきて今や幹部に加えてるだけはあるぜ…」
その彼女が動くと、その部下や行動を同じくしている他の一家も畏怖を向けた眼差しを向けつつもその後を追っていった。
「シャアア! ゼノウ一家が派手に暴れて往生際がわりいのは蒐猘のクソガキがどんなに遠くても脳みそぶちまけさせてぶっ殺していくからサクサク楽に行けるぜえ!」
恐慌と苛烈さを強めていく戦場の中、この戦線へ桓騎によって投入された主力部隊の一つ朱摩一家は敵兵を切り捨てその血を撒き散らしながらも、その多くが絶好調そうな笑みを浮かべていた。
「ククク、正面から押しつぶすゼノウ一家とその罅からすぐめぼしい頭を撃ち殺しまくる凶弾一家、その隙間を余裕で掻い潜ってずばずば切りまくって進む朱摩一家…、この三重攻撃に嵌っちゃあ終わりっすね。しかもアンドリューの馬鹿は白漂を追い詰めたと思ったらあっさり逃げられちまって、逆に断崖とあんな仕掛けで左右を防がれちまった所で後ろから三つの一家が迫ってきてんだから。更に連中が撃ちこんできた弾から噴き出た毒の煙で多くが弱ってると来た」
その光景を桓騎軍側陣地のある高所より、同軍の幹部の一人が愉快そうな笑みを見守っていた。
「ああ、昨日にあのガキが色々船と車を引き連れてる姿を盗み見して話の内容を盗み聞きしていたからあの展開はもう予測していた」
「えっ!? いつの間に!?」
桓騎はその中心で冷たい笑みを浮かべながらそう述べ、長年の付き合いから幹部たちはそれが虚言ではないことがわかる故に驚く。
「…ククク、さぁ…しっかりとその光景を脳髄に刻みながら死ねアンドリュー。それが…弄ばれ潰される奴が最後に見る景色だ」
そうした幹部たちの驚きも含めて、桓騎は艶こそあるがそれ以上に冷酷さを覚えさせる笑みを浮かべた。
「…こ、こんなにきれいに決まっちゃあ勝負はも―――」
「普通に行けばなぁ、問題はぁ…」
「―――ぉ…え?」
一方、登った直後に待ち構えていた友軍でさっさと守りが固まり終え、逃げ道を求めて登ってくる何名かの猩兵らを跳ね返し続ける断崖絶壁の上で、呂敏は呆けつつも戦が勝利で終わりに近づきつつあるのを想像するが、そこで少し考えた表情の白漂のその言葉を聞いて戸惑う。
「ギャハハ! この調子でそのままあのデカ豚もぶち殺せぇ!」
「デカい分だけ的は当てやすいぞ…!?」
一方その頃、絶好調なまま猩兵達を蹂躙し続けていたゼノウ一家だが、その先陣を突っ走っていた者達がその
「…
「「「「「!!!!????」」」」」
この状況下に陥ってなお嘲笑を崩さない様子のアンドリューの光る大矛が、そのゼノウ兵達を一振りで胴から赤い噴水に変えたのだ。
「「「「「んな…!?」」」」」
「…頭ぁ、ありゃあ…」
それを見てゼノウ一家の表情にこの戦いで初めての強張りが小さくだが走り、その隙間を縫うように接敵していた朱摩一家も目を細めた。
(…遠目で見た時もデカかったが…実際に近づけばゼノウよりも更に一回りはデカい…。それで腕っぷしもそれ相応よりありやがる…!?)
朱摩は近づいて感じ取れたアンドリューの人外を感じさせる武力を覚えて少ししかめっ面になるが、そこで船壁の片側の向こうより怒号と悲鳴が割り込んできた。
「Let's break through quickly!」
「何を言ってるかわからねえが通すわけねえだろボケェ!!」
船壁の片割れの向こう側にて、アンドリュー達の危機に気付いた猩軍の別大部隊が、それによる救援を阻止すべく横入りしてきた信率いる飛信隊と交戦に入ったのだ。
「あ! 姐さん! こっち側の隙間からも猩兵共が!」
「ッ! させるかよ! 向こう側の敵増援は白漂に! アンドリューの首はゼノウ達に任せる! 我々はこちら側の敵増援を迎撃殲滅してここ什虎の完全勝利をものにする!!」
一方、アンドリュー達ともう片割れの船壁を挟んでその反対側からも猩族の増援が近づきつつあるのを見て、桓騎軍本陣の櫓に留まっていた黒桜の指示で、その本軍も動き出して戦局は過熱を高め始めた。
「…ククク、ますます面白くなってきやがったなこりゃー」
「い、いやお頭、こっちから見た感じですがあのゼノウ一家の皆さんがあの猩族の頭とその直下兵に結構返り討ちにされてま…あ、なんかこっち側に張られたあの船の壁に敵の一部が取り付いて壊し始めてますけど…」
それを自軍側陣地の某高所より桓騎は面白そうに見ていたが、摩論はその参謀としての立場から戦況を細かく説明しつつ冷や汗を一筋流す。
「よし、じゃー次はあいつを呼んで来い。メジェ…ん?」
そんな周囲の反応にもぶれずに桓騎はマイペースにある配下を呼ぼうとするが、そこで動き出したある一隊の存在に気付く。
「何だあいつらは?」
桓騎が気づいたその小島と浮島や浅瀬にそれらの合間を、ぬかるみなど関係ないようにするすると抜けていっているその一団は、色や縁取りなどで八種類に分かれる旗を掲げていた。
「ああ、あれは確かー数十日前に白漂の所に恭順したっていう満州とか言う北の異民族の一団ですよ。あの八種類に分かれる旗を掲げていて“八旗”と名乗っていますけど…」
その一団“八旗”を摩論はいつもの癖で解説するが、桓騎の中止はその彼らの先頭を進んでいる存在にあった。
「おい、摩論、すぐに
「へ? メジェドさんを?」
「大急ぎでだ」
「は!? はい! さあ! 早くー…」
それを見て下された桓騎の指示を受けて周囲の側近達も慌ただしくなり出した。
「…ん…さっきからの視線は途切れたか…」
「? どうした
「…何でもない。それと前の前の生でのその呼び名はもう止めてくれ」
一方、その桓騎に注目されていた八旗を率いる康熙は一瞬だけ視線を逸らすが、すぐに進行方法に向け直した。
彼女の馬の鞍にはライフル銃に似た銃器の他に、中華のものとは異なる上長下短の長弓が括り付けられて揺れていた。
果たして、今回の最後辺りに出てきた彼女が持っていたあの弓は、どこの島国のものなのでしょうか…?
次回は、その彼女が今回の戦局を更に大きく動かす予定です。