226 人と物を動かすのは繋がり次第●
〇秦始皇9年(紀元前238年) 秦国東南東部*1 堅陽付近〇
この世界はある特定の人物たちの記憶にない特徴が存在し、それは地形にも含まれる。
別時間軸でモンゴルと呼ばれている北涼の地で面積はカスピ海に匹敵する淡水湖であるテングリ湖が存在し、その東にある満州と別時間軸で呼ばれた地は海岸が西に向かって深く入り組んで島嶼部が増え、東北方面まで勢力が伸びてしまった秦は中華統一する前に海岸部へ達してしまった。
それは、この世界における什虎攻略戦を終えた白漂達が秦北部方面への帰途に就いた数日後、その帰り道で経由している秦国の東南東部、長江と黄河の間の中間地域にも見えた。
「…この支流もまた大きい。黒竜江や黄河も大きいけど…長江はけた違いね。支流も含めて…」
「私も黄河が天下で最も大きいと思っていました。あの長江を見るまでは…」
「支流が多くて湖沼も多いですわねー」
その中間地域の自然環境に、紅華達は中華北部とは大きく異なるその地に紅華達は圧倒されていた。
「将軍、見えてきましたよー。既に壇上には他の関係者がお集りですー。先に出ていた柳宗様も既に壇上へ登っておいでです」
「ああ、こっちにも見えてるよ…(この世界のこの地域は、前の前の世界に比べて高低差はそこまでなかったし、間に湖沼や支流が多くあったから、この時代でも上手く繋げられるんじゃないかと思って、
やがて、この世界におけるその自然環境を生かした、自分も関わっている構造物の姿が見えてきて、白漂は表情にこそ変化はないが内心で大きく達成感を覚えていた。
「…あー、そっちもこんなにも早くご到着なされましたかー朔方侯―」
その中で最も高い壇上に、いつもの気怠そうな表情の柳宗がいた。
「ちょっと待て、車椅子の身でどうやってそんな高い壇上へ登れた?」
「満羽にここまで担いできてもらった。ようこそ、更なる
「おい、この場で明らかに不吉な旗な言葉は吐くな」
彼女に皮肉を言われつつも白漂もその現場へ到着して早々に壇上へ登るが、その眼下には静まってはいるが興奮を抑えている様子の群衆達が大勢集まっており、その彼らの行く手を阻むかのような大きく長大な垂れ幕が伸ばされている。
「…幸いなことはこの場の代表者は僕らじゃないということか…あ、来た」
そして、白漂がキョロキョロと視線を動かしていると、先の什虎攻略作戦とをそれを踏み台にした秦韓同盟を発案した秦軍総司令昌平君が最後に壇上へ登ってきた。
「…よし、全員集まり終えて席に着いたな。それでは…」
昌平君は壇上へ集まり終えた要人達を見渡すと、その先頭に立ってある縄を手に取り、周囲の眼下に集まる群衆へ演説を始めた。
「諸君! この幾年にも渡る貢献よくやってくれた!!」
「「「「「!!!!!!!!!!」」」」」
その気勢を宿した言葉を浴びせられた群衆はビクンと身が震える。
「此度の大事業がどれだけ困難なものであることはその身で従事した諸君らが良く知っていよう! だが、それ故にこれが齎す恩恵の大きさは諸君らが誰よりも知っていることは自他ともに疑う余地はない! これは中華で比類ない大国となった秦を本当の意味で繋げて一つの国民を創出するための大事業だ! 百年に一度のそれだといっても過言ではない! 諸君らの名はまさしく歴史に名を刻まれる! よって…!!」
群衆のワナワナトした震えと注目が沈黙の限界点に達したその時、昌文君は縄を圏で断ち切り、垂れ幕を引き下ろす。
「…今ここで“繋恵渠”の開通を宣言する」
「「「「「わァアアアアアアアアアアアアァアア!!!!」」」」」
そうして垂れ幕引き下ろされて姿を現した南北に延びる大きな水路に、群衆達は大きく歓声を上げて蠢いた。
それは、湖沼地帯や支流など多くの自然環境に恵まれていたとはいえ、別時間軸のそれよりも八百年以上も早まって、黄河と長江という二つの大河を繋げる大運河の開通であった。
「…恩恵かぁ、その分に血も汗も流されたし…それ以上に欲の皮を突っ張らせた人たちが多くトラブルも引き連れてきそうだけど…」
「おい、あんたも工事に関わってただろ(位置は前の世界と違って西側だし、長さも元からある湖や支流を利用してだから大幅に短くなっているから煬帝の時みたいな無茶な賦役にはなってないし…)」
その中で少数の昂ってない一人で冷めた表情までしてこの時代にはないはずの単語を口にしている柳宗に、白漂は引き攣った表情を浮かべていた。
そして、この大運河繋恵渠開通の報せは当日の内にて列国に広まった。
〇中華中央部 魏国東部 王都大梁 王宮〇
「やれやれ、向こうの喜んでおる姿が見えるがこっちは最悪じゃなー」
「「「「「………………」」」」」
秦で大運河の開通式が行われたころ、別時間軸と違って什虎の地を手に入れそこなったその国の王宮で、魏国現宰相である老人月華広が軽く愚痴っていたが、廷臣達の多くの表情は重苦しい。
「…そうですねー。こっちにとって取られたら滅茶苦茶キツイ手でしたけど、まさかこんな手で韓を抱き込むとはー。腕っぷしだけじゃないですねー」
月華広と違って若い魏国王宮付き軍師の玻璃が広げられた地図上で、韓と同じ色に塗り替わった嘗ての楚領であった什虎の地に視線を向けていた。
今回の戦の前に、魏は秦の大運河事業を破綻させるために楚と密通して韓南部の下の楚領を通る形で工作を両国共同で進めてきたが、今回の什虎の韓領化はそれにとって極めて大きな障害になるものだった。
何より、今回の大運河開通での流通促進による秦の経済拡大は軍事力のさらなる向上にも裏打ちできるので、それは同国と真正面から接している魏には最悪である。
「報告! 第一将呉鳳明様が対楚最前線の朱南関へ戻られました!」
「とりあえず現場で見てきた鳳明さんにさっさと戻ってもらわないとですねー」
「今はそれしかないのう…」
結局、その悪化した状況に対して魏国側の首脳は状況を今は見守ることしかできずにいた。
○中華南部 楚国北部 王都郢○
「…そうか、韓が秦の盾になりおったか…ふん」
魏国が什虎攻略戦の結果と大運河開通の報を受けて険しい顔を浮かべていた頃、前者の件で戦国七雄最弱の韓に領土を奪われた楚国の現令尹*2春申君が、同じ報せを受けて苦い表情を浮かべていた。
「…東海における倭の海猿共の馬鹿騒ぎで
国防の観点からして、楚が感じる脅威は魏のそれよりもはるかに大きい。
国境線の長さから元より秦韓魏趙斉の五カ国と接して大規模な軍事行動が難しく、更に東海の方でシーパワーでは中華圏を優に凌ぐ倭国が圧倒している中で、西側のランドパワー最大脅威と言える秦がそれを更に増そうとしているのだ。
黄河と長江という横での大規模水運流通を可能とする河川が縦状にも繋がれば、秦側は兵員と物資を南北でもスムーズに移動させられることとなり、地方分権方式複合多民族国家の楚にとってそうした外圧は国内不穏勢力を刺激してくるのだ。
「…撤退してきた軍の中に、項翼と白麗が混じっているのは確認しましたが…」
「負けガキ二名が帰ってきてもそれだけでは慰めにもならんわ。それと趙から逃げ込んできたあの穀潰し化真っ最中の居候共は?」
「…それが何かー連中の目はー、というかその頭目であるあの御仁の目はー…今回の什虎戦で参加したという…あのー、北の満州とか言う族の女統領をやけに追っているとかー…」
「…あ??」
そんな感じで春申君は苛立ちを強め続けており、今や北からの亡命を手助けしたあの者達の現状もそれを後押しする理由にしかならなかった。
〇秦国東南東部 繋恵渠水上 秦国水軍一団〇
春申君がいら立っていた日の夕方、その頭痛の原因の一つである大運河繋恵渠の水上の一角を、それが機能を発揮し始めている証の一つが進んでいた。
「…ここまで大きいものになるとは、言い出しっぺの身としては実際に働いていた人の苦労を考えると迂闊なことは言えないけど…」
証の一つである秦国水軍船団の新型楼船の一隻の甲板より、自身の言葉から始まった大事業の成功の証を白漂は微妙そうな笑みで眺めていた。
現在の白漂軍は、什虎攻略戦では最も遠方に位置する北涼から派遣されていたのもあって、現在は対外活動が消極的とはいえ主要敵国の趙への備えやまだ安定していない秦北部安定事業に戻るため、早く戻れるように今回開通した繋恵渠の大規模利用を許されたのである。
他にも、実際に軍の移動に運河を用いた場合どうなるかという実地試験でのデータ招集もあり、馬などは運河側と並走する形で陸路を進んでいた*3。
「そうかねぇ、少なくとも苦労に見合った分以上のリターンはちゃんとそれを嗅ぎ付けて食いついてきた連中にはあったと思いますぜ大将。ほら、あっちとか」
その真横にはこの時代にはまだないはずの単語も用いる竜騎の一人がいたが、そのものが指さす運河の対岸の一角にある真新しさの目立つその村では夜になっているというのに宴会が開かれていた。
「あー、長江と黄河を繋げるときは水量の違いと(前の前の世界ほどじゃないけど)高低差から南から北の方にドバンと流れ込むからねー。その余計に流れ込んでくる水は途中の荒れ地に流し込んで、運河工事の報酬目当てに集まった難民がその後も住める村用の水として使わせようって腹積もりか。どっちみち運河の管理や点検で人員はいるし…」
「おー、もうあっちこっちの茂みでもーおっぱじめやがってらー。十月くらい経ってる頃にゃーガキがしこたま出来てるぜこりゃ…ん」
荒れ地だった村で起きている運河開通式で振舞われた酒を用いてのお祭り騒ぎに、白漂は護衛の竜騎隊員と共に和んでいたが、そこで自分達が回る楼船の周囲の水面に大きな影が浮かび上がった。
「お、こりゃー大物が来たわ。ちょっとこれも夕飯に加えようぜ」
竜騎隊員はそれを見やると腰にぶら下げていた回弩を取り出すと、それで軽く狙いを定めた直後に数本の矢を射出した。
「!?」
その矢が水面を突き破って水飛沫を撒いた後、それ以上の水飛沫を上げた後にぐったりとした様子で翳の正体がプカっと浮かんできた。
「スッポンだね。めっちゃでかいけど」
「倭人から習った鍋料理にすると美味いんだよなぁ。マルタ達に渡してこれも捌いてもらおうぜー…ぬお!?」
頭に全て矢を命中させられて絶命したと思わしいそのスッポンを、竜騎隊員は戟の一本で引っ掛けて自分達が乗る楼船まで引き寄せるが、引き上げて甲板まで水揚げしたところで、スッポンが最後のあがきをしてその者が被る兜を叩き飛ばして水面へ沈めた。
「てめー! あれはこっちで色々削ったり足したりして扱いやすくしたお気になんだぞー!」
「あ! 落ち着けレヴィ…あ」
すると、その竜騎隊員は露わになった深い小豆色の髪を振りつつ、沈んだ兜を追って鎧を身に付けたまま運河に飛び込んだ。
「…で、こんなご馳走とってきたのはいいものの兜を追って鎧衣装のまま運河に飛び込んだですってぇ? 普通は重くて浮かず溺死してるってのに…馬鹿は風邪ひかないって言うけど溺れもしないわけ?」
「うっせぇ、あたしが獲ってきたのを捌いてるくせに」
数分後、船内の厨房を仕切っているマルタの呆れ顔の近くで、厨房の窓辺に腰かけて鎧を脱いで濡れた衣服を絞っているのは、スッポンを仕留めてその直後に運河へ飛び込んだ竜騎隊員であった。
その隊員は水に濡れた肢体の背が160センチ台半ばで、健康的に薄く焼けた肌に包まれてスポーティーな曲線美を持ち、悪態を付いているが面貌は小豆色の髪が似合う活発な美貌をしており、右肩には鋭利な刃と思わしきものが無数に重なる刺青をした十代後半と思わしい美女の面貌をしている。
「まーレヴィは泳ぎの方は天性のものがあったけど…」
「おー、お久しぶり姉御ー」
その厨房に入室してきた紅華に軽い口調だが敬いの色を見せたその竜騎隊員の名はレヴィ。
白漂軍では珍しくない何処からともなく流れてきた浮浪児の出自で、回弩による射撃と短剣を用いた近接戦を用いた軽業師のような戦いぶりはまるで水を得た魚と評されるまでの女兵で、また泳ぎについても天性のものがあると評される身である。
「まースッポンの方だけど獲って捌いたのはあなた達だから優先的に食べて良いわよー。まー面倒くさがり屋なのが目立つけどあの人はまた今回も色々無茶していたからその分は残してくれればね」
「わかってますよー。任せておいてくださいねー」
厨房で働く料理人達や捌かれていくスッポンの様子を見やりつつ、紅華もまた今後の動きについての算段を進めていた。
(…初めに聞いた時はまさかと思ったけど、これだけ縦に広くなった国をまさか船で行き来できるような時代が来たなんて…。南北の行き来がますます増えてこっちにも色々と今まで以上に多くの人や物が出入りするようになるわね。それに備えて船にも前みたいに酔うみたいなことにはならないようにしないと…う、また酔いが…飲んでおこう…)
窓から見える運河が齎す今後の影響を、深い船酔いの気配を感じて酔い止めの薬を口にしつつ考慮していく紅華。
(…そうなると色々なお家と長く深くお付き合いをしなくちゃいけなくなる…。そうなると兄弟姉妹がいない漂には他所との結びつきを上手くするためにも、嫁や婿養子として協力してもらうために陵の弟妹達をもっと増やしていってもらわないと…。彼女達にも頑張ってもらわなくちゃ…スッポンは精力が付くというから幸先はいいし、これからは良くなった流通の流れを利用して精が多く付く食材ももっと仕入れていかないと…)
「…!?」
その窓辺から見える別の船に少し移って船釣りを楽しむ白漂を見やる紅華だが、思考が見方によってはかなりゲスイ方向にも深まると、白漂は嫌な予感でも感じたかびくりと背中が不審げに震えた。
次回、今回のスッポンの影響が如実に表れた夜が中心になる予定です。