○秦始皇9年(紀元前238年)秦国使節団到着後12日目正午前 中華南部 楚国北部 王都郢(旧名寿春) 秦国用迎賓館○
「…堅陽や楚の知人の商人達と周囲を散歩しながら談笑をしていたらその頭上を趙人っぽい大男が悲鳴を上げながら飛んで行って隣の水路に落ちたが何があったんだ?」
郢の市中で轟音や悲鳴が巻き起こって数時間後、朝の挨拶兼営業回りより藍蘭が奇妙なものを見た表情で迎賓館に戻ってきた。
「…あー、確かそっちが外に出ていた頃、何かあの険水関の戦いでココロに殴り飛ばされて趙遷を巻き添えに急流へ飲み込まれて行方不明になってたでかいおっさんが、とんでもなく強い力で投げ飛ばされてきたようにここへ飛び込んできたけど、何か韓の張宰相のお孫さんにぶつかりそうになったから康熙と一緒に外へ殴り返したから多分…それでそっちの方は今回どうなったのかな?」
「ああ、今回も最初の予想よりも好評だったぞ。手紙はこれだけもらってきた」
それを出迎えた白漂は初め微妙そうな表情を浮かべるが、藍蘭から大量の竹簡や木簡や木簡を受け取るとすぐに非常に面倒くさそうな顔を浮かべつつもそこには負の感情は見受けられなかった。
「…うげ、今回もこんだけもらってきたのか…甘い銭の匂いにだれもかれもすぐに集まってきて…」
「甜菜から取れる分については君が発見者だから自業自得だろう。樹蜜*1も君が産地を味方に引き込んだのだから観念したまえ。幸いにも頭脳労働に役立つ甘菓子も昔よりかは断然手に入りやすくなっているし…おいし♪」
その白漂の反応を楽しみながら藍蘭はこの地での客を相手にしていた時に用いた茶菓子の一種、甘い乾蒸餅*2の残りを口にして頬を緩ませるが、それへ地味に凄いものを見たという表情を向けるものがいた。
(…あれはたしか秦では市井でも買えるようになっているという甘菓子の一種! か、韓に輸入されたものを口にしたらサクッとした食感と共に嫌みのない甘味が…いやいやそんなことじゃなくて! 食を生み出す農業こそが国の根本だというのは先生もおっしゃっていたけど…穀類だけでなくこのような菓子まで市井で出回るまで広がっているなんて…く! 未開地が後方に広がっている事からくる国土の差が…!?)
甘菓子一種から見えてくる母国と嫁入り先の予定の国の隔絶とした差に、王元姫は冷静な表情を装いつつも悔しさを覚えるが、そこで白漂の背後に水路から水飛沫を上げながら大きな影を殺気と共に現れた。
「…は! はぐひょぉおおお! このぉ疫病神がぁ! この転落地獄の落とし前をここでつけてくれるわ―――!?」
数時間前の朝方にて白漂と康熙の二人によって迎賓館から殴り飛ばされた巨漢の不審者が、水路より飛び出してきて怨嗟とそれ以上の恐怖を隠しきれてない血走った表情で白漂の無防備に見える背に襲い掛かるが、その手に握りしめた大石が彼の身へ触れる前に別の何かが高速で飛び込んできて身の動きを止めてしまう。
「―――あ…あぁーーーーー!?」
不審者が止まった身のまま困惑した両眼で見たものは、手元に
「…うわぁ!? 何か秦の白漂に刺客が襲ってきたけど韓の張宰相の孫娘が返り討ちにしたぞぉ!」
「…何だーい? 何か騒ぎが起きてるけどー…え? これって確か李牧の側近だけど太行山脈で行方不明になってその後は倭の虎牢島の鬼神にとっ捕まえられて奴婢にされてるって噂のあの雁門の鬼人じゃ…? 何が起きたんだい?」
それで騒ぎを起こした周囲の通行人に釣られて出てきた康熙の口からその不審者の正体がようやく判明するが、その時にはもう馬南慈は王元姫が投擲した鏢を顔面等に何本も受けてとうに気絶済みであった。
○秦始皇9年(紀元前238年)秦国使節団到着後12日目夕刻 中華南部 楚国北部 王都郢(旧名寿春) 王宮○
「…えっと…話は聞きましたが…念のため…もう一度…聞かせてもらえませんか…?」
白漂達のところでまた何かのフラグが立ってからまた数時間が経過した頃、康熙に論破された後の動揺がまだ完全には引けていない様子の李牧にもその報せが届いていた。
「…は、はい…詳細は不明ですがー…険水関で急流に飲み込まれて…その後は何故か倭国で奴婢にされていた姿を見たという噂があった馬南慈ですがー…どういうわけかーここ郢に姿を現したもののー…白漂に襲い掛かろうとしたところでー…韓第三将冬史の側近の一人で韓の張宰相の孫である王元姫に公衆の面前で返り討ちにされたとー…」
「「「「「…………」」」」」
その報せを持ってきた伝令が再度の説明をすると、その場は非常に極めて微妙な沈黙に支配され始めた。
「…李、李牧様! どうかいつか…仇を―――!」
「苦労して送り込んだってのにマヌケ踏んで自分らの落ちぶれとんずらの理由になったでくの坊の仇討ちなんざいつかではなくてそもそもする見込みなんざねーだろ。国境の小競り合いで女二人に顔面ぶっ潰されてくたばったとみなされて捨てられて戻った後で捕虜交換の場で石投げにてぶっ潰されて使い物にならなくなった数合わせ不細工チビ」
「―――………」
そこで覆面の馬風慈が沈黙を破ろうとするが、面白半分で場に来ていた媧燐からの慈悲以前に気遣いも何もない痛罵で消沈していじけ出す。
「…そ、それで彼は…馬南慈の方はどうなって…?」
「馬南慈の方は秦に捕まったのですが…その後が…色々予想の斜め上を行く方向になって…」
そんな若い側近など微塵も相手にしないまま李牧は恐る恐る問いを続けるが、伝令は元から言いづらそうだったのがますますその空気を強めていく。
「…予想の斜め上? どういうことですか…?」
「…そ、それがー…こっちにー…来てましてー…」
「来てまして? どういう意味ですか―――?」
「すみませーん。こっちで保護した趙人を返しに来たのですけどー?」
「―――あ…!!??」
しどろもどろになっていく伝令の様子と意味がよくわからない内容に李牧は首をかしげるが、そこで外より自分たちを今の状況へ追いやったあの男の間が抜けた呼び声が割り込んできた。
「…な、何故あの男の声が―――!?」
「あ、やっと出てきた。李牧殿ー、あなたの側近で長く行方不明だった馬南慈が襲い掛かってきましたのでとりあえず捕まえたのですがー、外国で牢屋に入れるのも何でしたのでお引き渡しに来たのですがー?」
「…う…グ…グぅウウうウぅ…!?」
李牧がギョッとしてベランダに出ると、そこには側近や護衛を引き連れた状態で自分を見上げてくる白漂、その彼らによって担架で連れてこられた全身ミイラ男状態の馬南慈の姿があった。
(―――あって何で
「ち! 父上ーーーー!? 貴様らぁ父上に何を―――!?」
「
「―――おぶぅ!?」
「「「「「………………」」」」」
伝令が言いづらかった現実のあまりにも予想の斜め上を行く内容に、李牧は白目をむいて内心で絶叫し、隣で覆面から覗かせている片目で号泣しながら馬風慈が悲しみと怒りで乗り出そうとしたが、普段とあまりに口調が変わりすぎている李牧の裏拳で室内へ殴り戻され、趙側はそれにあんぐりとした顔を浮かべる。
「い、いや李牧! 言っとくけど漂は何もしてねえぞ! 大体このおっさんがもう見たり喋ったり物つかんだり歩いたりが出来なくなったのはこっちの韓の金髪嬢ちゃんのせいだ!」
「!? いやいや私だけのせいじゃないというかそもそも私は護衛任務も下されていたからそれを全うしただけです! そもそもこの男が白漂様に背後からその後頭部に大石をもって殺意全開で振り下ろそうとしていたから目と口に鏢を投げ込んで阻止しただけです! 手足の方はこっちの秦の伍鬼とナクタというお二方が…」
「!? ま、待て! 俺とナクタはこの捕まった男が治療中にも暴れて声を頼りに白漂様を絞め殺そうとしたからその手を解いた勢いで思わずバギっと折ってしまっただけだ!」
「それに足の方は我らではなくこちらの康熙の方だぞ!」
「そ、そんなことを言われても…僕はこの爺さんが手と目と口の治療が終わった後でも諦め悪く白漂の声を頼りにその首から蹴りでへし折って殺そうとしたから蹴り折ってへし折っただけでー…」
「「「「「…………」」」」」
その反応を見て秦側も信の下手な説明から責任の押し付け合いが始まってグダグダが生じるが、それを囲って見物している野次馬の秦趙それぞれへのひそひそ話の内容には差が生じていく。
「おい見ろ、あそこにいるあの二人、孤児からのし上がったという秦の白漂とー…」
「無名から王騎と劇辛を討って一気にのし上がったけどその後にがたっと落ちぶれて今では春申君の居候になってる李牧だよなー…?」
「あの秦側に連れて来られてるのは確か白漂に襲い掛かろうとしていた暴漢じゃなかったか?」
「あれどうやら李牧の側近らしいぞ」
「え? マジか?」
「あんなのを三大天の側近にしていたなんて趙は何を考えてたんだ?」
「あれでも雁門の鬼人と呼ばれてた剛将だったらしいが…」
「そんな武将を使い捨ての刺客に使うなんて…」
「それに対してそれを返り討ちにしつつも送り返しに来るなんて秦の白漂って噂で聞いていたよりも人情味がありそうだな―」
「でもなー、確かその頃の匈奴って王位簒奪に伴う内部分裂で弱体化してたって話らしいぞ」
「実際は大したこと無かったんじゃね? あれじゃー合従軍もほとんど春申君が取り仕切ってたけど趙がしくじって足を引っ張ったから失敗したってのも本当そうだなー」
そうしたお喋りはほとんど趙側に対する低評価のものばかりで、少数の高評価のものも多くは秦側へのものとなっていた。
「…おい! 何をどうすればこんな状況になっている!? 本当にあの拷問された後のような男は本当に李牧の側近なのか!?」
その間に、冬史は近場の適当な物陰に王元姫を引きずり込んで詰問していた。
「…わ、私に聞かれても…ただー…一緒に居た場で白漂殿に背後から襲い掛かったのを見たので…いつもの護衛で付いた反射で対処したら…生け捕りになった後の取り調べで分かったのでー…」
「それで改めて聞くが…あれは本当に李牧の側近とかだったという馬南慈という男なのか!?」
「そ、そのあたりは間違いないかと…生け捕りにして治療しながら取り調べを始めたら、その場にいた北狄…失礼、北涼出身者達が検分して“これ馬南慈だよな”“うん、ひどくやつれてるけどそうだね”みたいなことを…すごく微妙そうですが素の表情でぼやいていたので…」
そこでの王元姫も非常に微妙そうな表情だが嘘を言っている様子ではないのは、彼女と戦場を何度も共にしている冬史もわかったので微妙な表情で無言になる。
今回の件、外交的には韓にとって地味だが重い痛手となった。
今でこそ秦との経済関係の深化から同盟を結ぶに至った韓だが、歴史的には同じ春秋期の大国晋を分割再編する形で独立した趙や魏との方が友好は長くて深い。
韓にとっても秦と同盟を結んで要所什虎を得たとはいえ、その代償で楚と敵対関係になったのはダメージが大きいので、今現在は秦との友好の仲介という形で趙との関係再強化を裏ですすめていた。
但し、その交渉相手には現趙王ではなく太子と李牧派である。
その理由は、今の趙王があまりにも対外政策には消極的で性格が歪んでいるが、病弱で先が長くないのは見えているので次代の真面な太子とそれに好意的な李牧と関係を強化した方が、長期的関係強化を深めやすいと判断したためだ。
だが、今回の韓人、しかも宰相の孫がその遠くないだろう将来に趙で要職に復帰するだろう李牧の側近を(本人に非があるとはいえ)害したというのは、今後の趙との関係改善を考えれば非常に都合がよろしくなかった。
「…あのー、すみませーん。そのままお話が長くなるなら僕らは先に帰りますけどよろしいですかー?」
「…ってうわぁ!?」
そんな地味だが韓にとって深刻な状況に嵌りだしたことを頭の良さから気付いて落ち込んで周囲から意識が離れていた王元姫は、いつの間にか白漂にその背後へ近づかれていたことに驚いた。
「(!? この男…いつの間に…)? 白漂将軍、どういうことだ?」
「いや、何かあの馬南慈を引き渡しに行ったら趙側が何名か出てきたのですけど、その中でこいつは知らないとか、いや、味方だとか揉め出して取っ組み合いが始まって、こっちももうどうしたもんかと悩んでいたら楚の捕吏達が大勢やってきて馬南慈をどこかに連れて行ったので…、もうこれ以上この場に留まってても意味がないと思うのでもう帰ろうかと…じゃ、僕らは先に帰りますから王元姫も帰り道には気を付けてね(何かこっちにはいない方の趙のあの王子が、北涼の裏社会で何か怪しい動きを見せだしたって報せが急に来たから、早めに詳細を聞こう…。ギャアギャアやかましい殺気全開なおっさんに近くに居られてもウザいし…)」
「ああ、そちらもお気を付けて…(手元に置いて時間がたてば面倒ごとになる種を温情に見せてさりげなく最も帰ってきてほしくない連中に押し付けたなこの小僧…)」
冬史は表向き冷静だったがいつのまにか白漂に近づかれていたこともあって、彼の嫌な事には面倒くさがり屋な性分から出た今回の行動を、深読みして警戒を更に高めた。
「…あの男に、セキトの居場所を聞き損ねた…」
一方その頃、現場から楚の捕吏に連れていかれる馬南慈の姿に、あのフードに身を隠した赤毛の人物は少し困った顔を浮かべたが、すぐにその場から姿を消した。
次回、主人公の心中に出てきた良くない報せが中心になります。