○秦始皇9年(紀元前238年)秦国使節団到着後10日目早朝 秦国北部 北涼地方 某山間民族居住地○
「「「「「わあああああああああああ!!」」」」」
白漂が出張先の楚で不穏な報せを聞く二日前、その報せが生じている北の地の重要な交通路に近くも、まだ秦国文官達の調査が届いていない僻地でまだ規模は小さいが気勢を多く放って火をつけていく者たちがいる戦場があった。
「ち! ちくしょお! くそうるせえ上官に半殺しにされてこんなど田舎まで飛ばされてやっと景気の良さそうな村を見つけて絞ろうとしてたってのに…何であの死んだって噂の趙の馬鹿王子が―――!?」
「やかましい!」
「―――あぎゃあ!?」
「乱銅隊長ぅ!?」
その戦場である集落を蹂躙していた素行と人相どちらもよろしいとは言えない秦の一千人将が悲鳴じみた文句を上げていたが、それを敵の目つきはやや悪いが風貌は整っている少年の将に首ごと切り捨てられ、秦兵達は驚いて潰走し始めた。
(…うむ、この半分隠居した身…この老体になっても何度も幾つもの国や多くの将から勧誘されたが、何処も興味を引けずに時を無為に過ごしていた頃…あの太行で黄河に流されてきた…当時は記憶を失っとったあの小僧の成長が今や何よりも楽しい…)
気勢を上げる少年の隊で軍師役を務めるその初老で例の墨字意匠の服装をした男は、微笑ましく自分達を率いるその少年を見守っていた。
(…この僻地でありながら自らを苦難へ追い落とした秦の白漂に記憶と地位を奪われつつも憎しみ以上に畏敬を覚え、その上で屈し続けるのではなく見聞を深めて身を鍛えたのち、記憶を取り戻した後はこの分裂を迎えた北の地に危険を覚悟で飛び込み、秦に不満を覚えるもその細分化された状態ゆえに面従腹背の態度をするしかなかった者達の中で暴走しそうな者達を見抜いて集めてまとめ上げる交渉力と統率力、それを用いて秦側のまだ目立たぬ弱点を見抜いて揺らす成長著しい用兵術、それを生かして連鎖的に他の野心を抱く北の大人達を揺らす外交力…全てが本当に成長著しい…)
その男が少年に息子の成長を嬉しく思う父親のような心情を浮かべていた中、秦側のようやく到着した援軍の将がその少年の名を忌々しそうに叫ぶ。
「ええい! 暗君と悪評高い現趙王の分身と嘲られていたあの
あまりにも別時間軸とは異なるその少年たる趙遷の激変と急成長は、僻地からながら秦にとって無視できない存在へ成長しつつあった。
○秦始皇9年(紀元前238年)秦国使節団到着後12日目夜 中華南部 楚国北部 王都郢(旧名寿春) 秦国用迎賓館○
「…と、そのような感じであの趙遷が秦のまだ安定しきらない北涼の地で、まだ反秦感情の強い部族に味方する傭兵という形で声望と勢力を集めているようで…」
その僻地での戦いから二日後、趙遷達の反抗の報せの詳細な内容を秦側使節団は楚の王都にて、伝書鳩を通じて知らされた。
「…いやー、まだ規模は小さいけど回数を重ねるにつれて徐々に大きくなって上手くなっていくのがわかるこの内容…それでいてこの戦い方、何というか憎みつつもその大きさを認めて真似して学んででも追いつき追い越そうとする若くも勇ましい生き方…そういうのを向けられると自分もそうされる歳になったと思うなー」
「もう今年で二十五だから四捨五入すれば三十路のおっさんだからな」
「おいごら」
「素直に感心しとる場合か馬鹿もん、お前の管轄下の問題じゃぞ」
そこで白漂は信の吐いた毒にジト目を向けつつも感心している風な表情を浮かべ、それに昌文君は苦虫を噛んだ表情になっているが本人も今一つ締まらない感じであった。
「当然、取り締まりは行っているとして情報封鎖は行った方がよいな。直ちに返事を―――」
「あ、先生ちょっと待ってください。取り締まるのは当然ですけどここまで何回もされると完全に隠すのは無理です。むしろ下手に隠そうとするとそれが弱点だと気付かれてもっと干渉を招きます。どっちみち隠せない以上はむしろこの状況を逆手に使わせてもらいましょう」
「―――お…ほう、黒羊の件を考えればまたそなたの脳髄は趙にとっての奸計を生じさせた面だな」
「先生、そこは奸智とでも言ってください」
「字面はともかく中身はたいして変わらんじゃろうが」
その会話には昌平君はいつも通りの真顔で加わっているが、そんな状況でも白標は昌文君の突っ込みを浴びながらも悪知恵をフル稼働させだしていた。
「今回はあの今は北で息を吐いている元駄目王子を手助けしてあげましょう」
「手助け?」
「彼の良い評判を事実に基づいて流してあげましょう。特に趙側に強く流れる感じで」
「…なるほど、そういうことか…」
それで生まれた策に昌文君は訝しむが、昌平君はすぐにその意図を察して目をスッと細めた。
○秦始皇9年(紀元前238年)秦国使節団到着後19日目夕刻 中華南部 楚国北部 王都郢(旧名寿春) 王宮 趙国用迎賓館○
「…おい、聞いたか?」
「ああ、聞いたぞ」
「今、この楚を訪れている白漂の地盤である北狄の地で…」
「たしかその前の険水関で行方不明になった趙王の末子が生きているのが発覚してー…」
「それで北狄の地で反秦運動の旗手になっているとのことだろ」
「あの頃は今の王の悪い部分だけを受け継いだような末子がまさか…」
秦側迎賓館でまた白漂発案で奸計が始まった日の一週間後、趙側は小さめだが自国にとっての久々の聞こえが良い報せが広まりだしていた。
「…不思議と我らの国は窮地の時において傑物が出たり、それまで無名だったり暗愚とされてきた人物が真価を発揮して名を上げる…」
「おい! 貴様らここでそのような話をそんな大勢で堂々とするな!」
それは北涼の地での活動が隠しきれなくなった趙遷の動向についてだが、趙太子の趙嘉の側近達は自国民がそのような話をするのを見かけると叱責するようにもなっており、楚に派遣されている趙国使節団にも行われるようにもなっていた。
「…も、申し訳ありません…で、ですがー…我が国にとっても悪い話ではありませんしー…我が国にとって最大の脅威である秦の重要な新領土である北狄の地が揺らぐのがー…」
「問題はそれではない! その話が我々で奉じている趙嘉様ではなく今の王のお気に入りであったあの末子様から今の情勢で出て広まっていることが問題なのだ!」
「で、ですがー…あ! か、環幕様! あ、太子様があそこに居られるからそれ以上大きな声はー…」
「なっ! た、太子様…これは違いますぞ! これは決して叛意ではー…!」
そうしたやり取りは迎賓館の廊下を進む趙嘉の耳にも入るようになっており、今もその主君の深く悩んだ顔を見てしまった側近の一人が慌てて弁明するも、足早にその場を去って小さくなるその背を必死に追う。
「…なあ、やっぱり…今の内に考え直した方が良いんじゃないか?」
「…そうだなぁ、今までは生まれの順と真面であるから…今の王やそれを小さくしたような末子様しかいなかったから太子でいられたが…」
「
「その流れで父祖の代から冷遇されてきた我らも、あの方が次の王になられれば日の目を浴びれると思ったが…」
「近頃は後援をしていた李牧殿も失態続きで今ではここ楚へ亡命するまで凋落し、その煽りで太子様もお立場がだいぶ苦しいからな…」
「今のうちに拠り所を変えるべきではー」
そうして煩い上役の存在がいなくなると再び自分たちの今後のお仕え先について相談を始める趙の家臣達の姿が、今現在における同国内部の苦難を示す一端となっていた。
○秦始皇9年(紀元前238年)秦国使節団到着後19日目夜 中華南部 楚国北部 王都郢(旧名寿春) 郊外○
「…………」
家臣達の耳に良くない立ち話を聞いた日の夜、趙嘉は郢のすぐ郊外にある静かな山荘で難しい表情で俯いていた。
「…あの、太子様…もう…ここへ居続けられるのは身の安全だけでなく…季節からして夜風も身に触ります…お早めに館へ…」
「…まだいい…それよりも…邯鄲の方は…どうなっている…?」
「「「「「…………」」」」」
それを側近達はひどく心配していたが、趙嘉からのその問いでまたかという表情だが彼らも視線が下がりがちになる。
「…その様子…やはり…」
「太子様! 所詮は市井の噂です! 一月もすれば収まりましょ…」
「取り繕わなくていい! 弟が…再び邯鄲派が優勢になり始めたのであろう!」
「…っ…それは…」
そして、趙嘉が声を荒げて出したその言葉に側近達も口籠って言葉を返すこと自体をためらうようになる。
「…太子様! たとえこの先がどうなろうと我々を始め貴方様に忠義を尽くすものは大勢います!」
「忠義があっても結果がなければ意味はないのだ! この身では…
数秒だが重い沈黙の後に側近の一人が励まそうとするも、それに却って惨めさを強く覚えた趙嘉が振り払おうと荒げた声を出したその直後、巨大な鉄塊が高速で叩きつけられあったような轟音が茂みの向こう側より大気を穿ちぬいてくるような音量と勢いで響いてきた。
「っひ!? な、何だこの音は…ああ!? 太子様!?」
それに側近達は驚き警戒と少しながら怯えを見せるが、何故か趙嘉はそれではっとした顔を上げて音がした方角に駆け出し、側近達は困惑しながらも引き留めるべく後を追った。
「…しぃ!」
「っ!」
「よし! やれぇ!」
「「「「「………………」」」」」
数十秒後、茂みの中にあるその開けた平野では、白漂と康熙が互いの得物で夜の修練を目に止まらない速度で行い、周囲には秦側の面々がそれをはやし立てており、音を頼りにこの場へ到着した趙嘉達は茂みの中よりそれへ魅入られていた。
「…毎晩あれだけ猿のように盛り合って…どうやってこんな風に毎晩真剣で打ち合えてるわけぇ!?」
それに見慣れている周囲と違って大きくひきつった微妙な笑みを浮かべて素の言葉遣いが出ている王元姫の目と鼻の先で、弭槍と十星戟が打ち合わされてその轟音や火花と共に答えが返される。
「「夜のお仕事体力と修練体力は別枠です!!」」
「只の馬鹿よりも高性能な馬鹿が面倒なのはこの二人で嫌というほどわかるな」
机系の仕事は面倒くさがりのくせに体を使うのは大好きな白漂と康熙の堂々と同調した答えに、羌瘣は心底面倒くさそうなものを見る顔を向けた。
「というか何でそもそも警護の責任者が今夜から警護対象のいる屋敷を離れてこんなところで修練をしているのですか!?」
「いや、だって仕方ないじゃない。刺客への威嚇も含めて鍛錬もしてたのに、館の内外から煩いって怒られて仕方なく迷惑をかけない場所を選んだのだから」
「それに人員の大半は警備で今も館に残してあるし、ここからでもすぐに異常をここへ知らせられる手段もあるし、それに全力で駆ければ五十を数えない内に戻れる距離に今の宿はあるし…」
「いや、あそこまでそんだけで戻れる足をしてるのは鎧を脱いだ時の薙鍛とお前ぐらいだろ漂」
それに対し王元姫は突っ込みを続けるが、康熙と白漂はシレっと答えを返し、今度は信が突っ込んだ。
「…あ、あいつが今の秦の大将軍第三将の白漂に、雁門以前に李牧様が隠している大敗へ若くして追い込んだという康熙…!?」
「…ど、どうする? 見た感じ…あの十数名くらいしか見当たらないから…館に留めてある手勢を呼べば…疲弊した後で適当な賊に見せかけて討てるので―――?」
「美しい…何度…見ても…」
「―――え…!?」
その見た感じには自分たちに気付いていない白漂達の様子に、趙側で邪心が生じていくが、それは趙嘉の口から呟かれたその言葉による戸惑いで遮られる。
「…っ!? 何か妙な視線と言葉がしたような―――!?」
「隙ありぃ!」
それを康熙は優れた聴覚と直感で感じ取るが、そうして生まれたほんのわずかな隙も白漂は見逃さず十星戟で彼女の弭槍を弾き上げ、それでがら空きになった脇腹へ高速の手刀を繰り出した。
「―――あって何のぉ!!」
「ダニぃ!?」
だが、康熙は空中で身を大きく捻って衣服を切り裂かれて脇腹に切り傷を付けられつつも避けると、驚く白漂の手を掴んで地面へ投げ倒してその背に乗った。
「満州固めええ!!」
「ちょおおお!? こ、これはぁ要するに卍固めぇ! ああぁけれどぉ背骨が歪む! 歪むううぅ!」
康熙に背後から抱き疲れつつも関節技を決められ、関節よりメキメキとした軋む音が響いて白漂が結構マジな感じで苦悶の声を出し始めた。
「ね、ねえ…これ…初めて見る技だけど何かやばくな―――」
「行けー康熙さん! あなたの勝ちにこっちは金貨十両かけてるのよー! その人が使い物になったりしない程度に押し切ってぇ!」
「―――あってちょっとぉこの人ぉ夫が愛人に負けるのを望んでるけどぉ!?」
それに王元姫は冗談ではなくやばい気配を覚えるが、隣に座る紅華から正妻とは思えない叫びが出て思わず絶句してしまう。
「ほらほら~旦那なら奥さんを心配させないためにも取り返しがつかなくなる前に負けを素直に認めたら~?」
「く…くそぉぉ…! こ、後頭部にぃ無駄に高性能な脂肪の塊を添えた誘惑の言葉とぉ関節があああああ…!?」
そのまま白漂の関節からメキメキとした音を上げさせつつも自分の長躯相応以上の質量と美麗さを持った双乳を髪越しに押し付けて彼の反抗心を削っていく康熙だが、彼女の技で急速に薄れていく意識の中で白漂にある一念が強く浮き出ていく。
(どんな形でも…勝たないと意味がないんじゃあ!?)
その一念が強まったその時、近からず遠からずの距離からこの時代では本来ないはずの爆ぜによる揺れと轟音が薄くも響いてきた。
「…っ!? 何故この音があそこから―――!?」
「千年殺しぃ!!」
それに真っ先に反応した康熙が視線をその方角に向けた瞬間、白漂の足が大きく素早く動いた。
「―――あっーーーーーーー!?」
その次の瞬間には今度は康熙が尻の中心を手で押さえて悶絶した様子で暴れ出し、白漂への拘束も解いてのたうち回りだした。
「「「「「んなぁ!!??」」」」」
「…あー、試合場代わりに引いた円の線の外に康熙が出た。白漂の勝ちー」
「…え? な、何が…起きて??」
それを目の当たりにした周囲の大半は驚きながらも程度の差はあれどそれ以上に引いているという感じを見せ、その内の一人である河了貂は豚を生暖かく見守るような乾いた笑みを浮かべつつも一応公正な審判を出し、王元姫は一人だけ戸惑った。
「…あー、うちの人がー負けたくない一心でー…自分の足と背を大きく曲げてー…康熙さんの足の付け根にある方で後ろ側の方の穴をー…足の親指でー穿ちぬいちゃった…」
「ぶふーーーーー!?」
数少ない苦笑いに留めている一人である譜孝のその解説に、王元姫は中原の文化国韓出身にふさわしいその絢爛な美貌で盛大に唾を驚愕と啞然で噴出した。
「…うわぁ、女性にそんな汚い手で勝つなんて…サイテー…」
「戦場では老若男女平等に死と“兵は詭道なり”は訪れる! それを訓練でも乗り越えられないものは死ぬだけだから戦場に来るな!」
「そりゃそうだが今のお前が言っても良くて危険思想か普通に最低にしか聞こえねえ」
その唾の余波を浴びつつも紅華はそんなこと構わずに夫へ生ごみを見るような眼差しを向け、それに対して白漂が真面目な顔でビシッとフレイザード理論で反論しても信からすらも真っ当な突っ込みが上がる。
「…み、皆ぁ…こんな敗北者を弁護してくれて嬉しいけど…なんか、それどころじゃないっぽい…あっちの都を見てぇ…」
「ちょっと、あなたとうちの人の人にはむやみに話せない関係は知ってるけどそんな涙目でお尻の真ん中をさすりながら這うようになってもこんな駄目な人を弁護してくれなくても…え!?」
そこで涙目の苦笑いを浮かべる康熙が芋虫のように這ってきながらもある方角を指さすが、紅華はその指先にあるものを目にして目を大きく見開かせた。
「…え? あ…あれは…何故…郢がやけに明るいようなー…?」
「明るいじゃない! 郢! しかも王宮! 更にあんた達の泊ってるところから火柱が盛大に立ってるんだよ!!」
「「「「「…えーーーーーーーーーーー!!??」」」」」
一方、茂みの中に隠れているままであった趙側の一人がその方向に訝しむ顔を浮かべた直後、彼らの間に険しい顔で草木を押しのけて割り込んできた白漂のその叫びで、趙側全員が絶叫で夜空を震わせた。
何やら原作でも史実とは何か違う印象を我々読者に与え、この世界ではいい意味で大変化を遂げた趙末子君。
逆に、趙太子殿の周囲にはそれと反比例する形で何やら不穏な空気が漂い…というか顔を覗かせ始めているような…果たしてどんな裏事情が?
それらはさておき、次回は今回の話の最後で出てきた郢の異変が中心になります。