257 西で津波に変わりゆく東からの波紋●
○秦始皇9年(紀元前238年)秦国使節団到着後24日目早朝 中華東部 斉国 海岸部 某倭人町○
斉国には崩御したばかりの斉文王田建が取った経済重視政策の一環で、外国人や異民族が権利を保障されている、ある種の人間に“租界”とも呼ばれる居留地が多数あったが、その中で人口の比率や拠点の数からして最も多くを占めているのが倭人であり、彼らの居留地を中華では倭人町と呼ばれていた。
「おい、聞いたか。王様がお亡くなりになられたそうじゃ…」
「…そんな、まだ五十に入る前じゃったというのに…」
「惜しい人が亡くなられたのう…」
造船技術などを中心とした優れた工学技術、それらを生かした海上交易の強さで斉文王から重用されていた倭人達は、その報せに悲しみを見せていて弔問の準備に取り掛かっていた。
それ故に、王都から斉国の兵団が来ても彼らは特に警戒はせず、速やかに城門を素通りさせた。
「…おお、お久しぶりです伍蘭様。お恥ずかしいですがまだ崩御の話を聞いたばかりなので今は弔問の儀式の準備に入ったばかりでー…!?」
そして、その倭人町の長が訪れてきた斉王都からの使者を出迎えた次の瞬間、長の首は斉兵の手によって首を斬り飛ばされた。
「…え!? ご、伍蘭様!? 何をぉ…!?」
「全て焼き尽くせぇ! 東夷共は皆殺しにしろと新王のご命令だぁ!」
「「「「「うおおおおおおおおおおおおお!!」」」」」
「「「「「うわああああああああああああ!?」」」」」
こうして、斉国の各所で怒号と悲鳴、血飛沫の雨が連鎖するように広まっていった。
○数週間後 秦始皇9年(紀元前238年) 中華中央部 韓国南部 対楚防衛線最重要都市 南堅○
「…とまあ、斉国は新たに即位した田孝*1が早々にやらかしてあちこちが血の海です」
「…あー…十中八九…斉は遠からず終わるな…」
「おい! 国外であっても…否! この韓の地でそのような不吉なことは言うな!」
斉国中が悲しみに支配されるもそれが恐怖でほとんど覆されるようになって幾つか週を挟んだ後、楚を出たばかりの秦国の楚王見舞い使節団のメンバーは一休みしていたが、そこで白漂が極めて微妙そうな表情でとんでもないことをぼやいて昌文君に怒鳴られていた。
「…だが、白漂の提言通り秦へ直接帰る道ではなく近い韓経由を選んで正解だったな。倭寇が楚に回していた分も含めて斉方面に向かいだしている。それで重荷が外れた楚の江東方面軍が長江を続々と登り始めた。王都は出してもらえたが長江経由で時間を食っていたら途中で止められていた可能性がある」
それとは対照的に冷静な表情で、けれども重い眼差しで伝書鳩にて送られてきた緊急の重要情報を昌平君は読み漁っていた。
「皆ー、あそこの人達が秦の両丞相に大将軍の白漂だってー…」
「へー、こんな南で何をしてるんだろうなー?」
「あの仮面をつけてるのが白漂だってー」
「おー、話に聞いた通り若くて背の高い女を何人も連れてるー」
「顔が悪くなくてもあの背じゃなー…」
ちなみに、まだ危機が目立って迫っていない韓では民衆が、戦時と違って秦の使節団を物珍しい表情で見物に集まっていた。
「たたた大変だー! ここからすぐ東の卵朱城が楚軍に攻め落とされちまったー! しかもその後ろからぞろぞろ大軍がすごい勢いで国境を越えてきてるぞー!!」
「「「「「!!!!!?????」」」」」
そして、その平和そうに見える時を叩き壊す報せが突然やってきて民衆がギョッとした顔を一斉に浮かべるのは韓も同様であった。
○中華中央部 韓国 王都新鄭○
「な、何だとぉ!? 楚が攻めてきたぁ!?」
韓の南の辺境で秦国使節団に楚の韓大規模侵攻の報せが届いてから数時間後、韓の王都の方でもそれは伝えられて騒然となり、特に王宮は震撼した。
「ど、どういうことだ!? 楚への什虎攻略の釈明の交渉は上手くいっていたのではなかったのか!?」
「それがどうして急にこんな事態になったのだ!?」
韓の宮廷内部はほぼ予想外の方向へ悪化した現状で動揺を隠しきれていなかったが、それには理由があった。
そもそも韓はこの時代における中華政経の中心部である中原で最も肥沃で商工業が盛んな土地に位置しており、中原への進出をもくろむ秦の侵攻をたびたび受けていたが、その都度に秦の脅威を嫌う楚を含めた他の近隣諸国の支援を受けて国を保ち続けられ、王族のほか貴士族に縁戚関係を結んでいる家系も多い。
その付き合いもあり、先日に秦と同盟を組んで什虎を攻略はしたが、元々同地は謎が多い異民族猩族が占拠していて、他の楚の地域も含めた周辺諸侯にも高圧的な態度を見せて嫌われていたので、攻略が済んで以降は目立った衝突はなく、縁戚関係のある家系を中心に関係改善の交渉が進んでいるのは公然の秘密であったのだ。
「…そ、それがどうやら…先の斉の新王即位に伴い同国と倭が紛争状態に入り…自由になった楚の江東・東海方面軍が長江を登り、我が国へ侵攻してきたようで…」
「それも大事だがまずはどうしてこのようになったかどうかだろう! 張宰相は今回の責任をどうなされるおつもりだ―――!?」
「落ち着きなされい! 今この場で内輪もめに力を割いても侵略への対処を遅らせるだけだ!」
「―――あってうおお!?」
それ故に生じた動揺が内に向こうとしたところで、秦側使節団とは別の近道でもっと早く帰国してきた張氏が気勢を放って参内して場は驚きつつも一時的ながら落ち着きを取り戻す。
「左様です。今現在で最も把握すべきことはこの度侵攻してきた楚軍の情報と楚の目論見を把握することです」
「…だ、だがー…」
続けて先に参内していた韓の第一将洛亜完がそれを後押ししてその場の張宰相派以外の派閥はしぶしぶと口籠っていく。
「…それではまず集まった情報を元に現在の戦況を把握しよう。今現在、我が国に進行している楚軍はこれまでわが国も含めた各国が相手をしてきた、旧汗明軍ら同国北部軍ではなく、我が国が初めて対峙する楚において
「に、二十万!?」
「他にもまだ五万以上も来ていると!?」
「さらに今回のその陣容、実質的に仕切っているのは
「「「「「……………!!!???」」」」」
だが、張氏と洛亜完の二人が戦況の解説で出した情報で廷臣たちの間には再びこわばりが生じ、それは出されたある名で決定的に高まった。
「…そ、そうだとすれば…今回の楚の侵攻は…“親征”だということか!?」
「…そうだとすると…此度の規模からしてー…ま、まさか…!?」
場は何名かが震える声だけを出す場となり、その者も含めてほとんどが血の気が減った顔になるが、そこへ追い打ちをかける言葉が放たれる。
「…楚は今回得た自由が続く間に韓を飲み込んで滅ぼす気ということだ」
「「「「「!!!!!!!!!!」」」」」
張氏が出した敵の目論見に一同は大きく息を飲む。
「…そ、そのようなこと…不可能です!!」
「その通りです寧様。いかに韓が七国中最小とはいっても防衛戦ならば兵力はそろっています。特にここ新鄭は趙の“鄴”や“邯鄲”、秦の“函谷関”と並ぶ要害です。仮にその大軍が来ても落とされることはほぼありません」
「おお! さすがは洛亜将軍!」
一方で理詰め込みにてそれへ冷静に対峙する人員もおり、場の空気は好転していく。
「それに此度の意外な侵攻で皆様方の多くは失念なさっているようですが、はっきり言って今回の戦も我が国がこれまで経験してきた戦の多くとは、立場が逆になっただけで基本は同じです」
「その通りだ冬史第三将」
「同じですと?」
「今までのこの国が経験してきた戦の大半は面積こそ小さくとも要所にあったことでそれを欲する大国の侵攻を、それを嫌う他の国の支援も絡めて防いで押し返すというもの。今回は過去のほとんどのものとはそれが逆になっているだけです」
「…逆だと…もしや!?」
「ええ、西の方に放っている密偵達からの報告は安心できるものです。此度の楚の侵攻とその目論見に気付いて“かの国”も動き出しているとのことです」
「今現在、その文官の両頭と武将の三番頭もちょうど我が国にいますから」
そうして一同の士気を取り戻した顔は多くが自然と西の方に向けられていった。
○中華西部 秦国中央部 王都咸陽 王宮○
「…何がどうしたらこうなるのだ!?」
「落ち着けぇ! 今はどうやって楚に韓が取られるのを阻止するかだ!」
韓の中枢が期待を寄せていた頃、その当人である同盟国の秦の中枢は慌ただしくなりつつもその対処を進めていた。
何せ、当分は国内再編と開発に専念しなくてはいけないため、今まで対立してきた韓を半ば自分達の盾にする形で上手く同盟を結んだのに、今度はあろうことか楚がフリーハンドを得て韓へ征服しかねない勢いで大規模侵攻を掛けてきたのである。
「先の斉王の急死とその後の租界排斥を受けて倭寇が斉に集中し始めようとしているのが原因と聞くが今回のその戦力はどれくらいだ?」
「…今現在の確認できた分だけですが…すでに韓へ入った分も含めて二十万超の軍勢が…更に後続がある模様です!」
「…こ、この短期間でそこまで…」
「相変わらず田畑から兵士が取れるような国だ…」
「今現在の両丞相と朔方侯の動きは!?」
「本日にて韓に入国して楚からうまく出国できた模様です! 今現在も我が国への帰国を急いでいる模様で…」
「それはいいとして韓へ出す分の援軍の算出にも取り組まねば…」
「丞相お二人もいない中でか!?」
「…い、今の我らは国内再編で文官も武官も国中に散っている状況なのに…」
それでも近日続くオーバーワークが半ば常態化していることで、毎日重い疲労が抜け切れていない様子が目立つ廷臣達は韓への援軍派遣に躊躇を覚える。
「すぐに今現在の国外へ出せる兵力最大規模十万を基準として韓への支援の具体化に取り掛かれ! 今現在ここ咸陽の王宮などの再建に投じている分も用いて構わん!」
「だ、大王様!?」
「ここで楚に韓をとられれば秦は直接中央からその脅威にさらされる! そうなれば今までの尽力が水泡に帰すぞ!!」
「「「「「…っ!!!!」」」」」
だが、それは同様にも関わらず嬴政は即座に韓への大規模支援を命じ、廷臣達の多くもそれで意を決した表情になる。
「…兵力は今現在進めている国内事業の幾つかを一旦中断させればどうにかなる。問題は率いる将だ!」
「…近場で適当な将軍は…蒙武と桓騎のご両名だがー…」
「前者は東南部国境で媧燐の大軍と対峙しているから駄目だ! 後者は同盟締結の前まで韓進出を担当していて恨みを買っておるし、締結後の今は対魏方面に配置されておる…」
「趙の方は今の趙王が消極的だが体調が芳しくなくていつ政変が起きて方針が変わるかわからんから、王翦を太行方面から離せられん」
「趙北部と対燕を担当する白漂軍は主将当人がまだ韓に入ったばかりだから下手に動かせん…」
「…だとすると、今回の韓への援軍の将を務められるのは…今の同地にいる白漂ご本人と…その
そこで苦しい雰囲気を強めつつもどうにか韓への支援の内容を決めていく中、新たな伝令が朝廷に飛び込んでくる。
「ご報告ー! 韓から帰国している途中の両丞相! 特に右丞相から今回の楚の侵攻に対する対処で献策がー!!」
「昌平君からか!? すぐに教えよ!」
そこで渦中の場にいる者達からの手紙が届き、それに秦の朝廷は一気に意識がそこへ集まる。
「…こ、これは!?」
その手紙を真っ先に呼んだ嬴政の声には一筋見えてきた希望に対する驚きの色があった。
○一週間後 秦始皇9年(紀元前238年)中華中央部 韓国西部 広西○
「…まあ、予想はしていましたが、今の状況でここまでしてくれるとは…此度の事態が秦にとっても予想外且つ地味だけど致命的にまずい状況の証拠とも言えますが…」
「ああ、だからお前にも任せるぞ」
秦と韓の朝廷に激震が走ってから一週間後、秦との国境に近い韓の西部防衛の要所であるその城の郊外で、苦笑いを浮かべた白漂といつもの能面に見えるが重い眼差しを浮かべた昌平君が、秦から来たその軍勢を前にしていた。
「ンフフフフ、普段は面倒くさがり屋なのに相変わらずその時になったらお若いのに色々考えすぎてしまう顔をしてますねぇ白漂さん」
「その王騎将軍の物まね含めて相変わらずですね騰将軍」
こうして、韓の国内にて此度の秦の韓救援軍の
「…あ、あの二名が此度の秦からの援軍という…」
「あ、あの髭を生やしたお方が…“秦の怪鳥”に
「裏切り者が…!」
「おい! 今はそういう言い方は止せ! 一応は味方だぞ!」
「それで仮面をつけている方があの秦の白起の孫っていう…」
「あ、あれが…“伊闕”を始めとしてこの国に何度も災いを齎してきたあの白凶の孫の…」
周囲には韓人が大勢見物に来ていたが、その表情は概ね安堵よりも不安と畏怖が混じった複雑な色が強かった。
「…まさか、王とは言え人ひとりの死で生じた波紋が…遠く離れたここへ楚軍による侵攻という津波に変わってこれほど多くを巻き込むなんて…“風が吹けば桶屋が儲かる”とはこのことですね…悪い意味で」
「んふふふ、他にもお互いこの国にはいろいろと思われている身ですしねぇ。副将は任せましたよぉ白漂さん」
「ええ、僕はこの地で戦うのは初めてですのでよろしくお願います。騰将軍」
こうして、両将は秦韓両国にとって本年度最後の大戦となる“南原の戦い”へ本格的に向かうこととなった。
次回、韓へ侵攻してきた此度の楚軍の侵攻の様子とそれへの秦韓側の対応が中心になります。