○秦始皇9年(紀元前238年)南原防衛戦一日目昼 中華中央部 韓国南部 南原平原 南奏城○
「「「「「わぁアアアァアアアアアァ!!」」」」」
博王谷の身に凶刃が迫ろうとした十数分前、この戦場の中央に位置する洛亜完軍と紅剡中央軍も剣戟を交えていた。
戦場は両軍の左右両方と隔絶する丘陵山林の北側の奥に位置する韓軍中央に楚軍中央が襲い掛かるという形であった。
戦線自体は剣戟を交えた時よりあまり変化はないが、両軍共にそれを崩そうと敵の前衛をむきに突き破ろうとしていた。
「ヨコヨコをこちらの右側を襲っている氾という敵の左翼の横腹にぶつけろ!」
「氾然を二百歩下がらせて開いた口に切り込んだ敵の横腹へ
両軍の主将である洛亜完と紅剡が周囲を厚い防陣に守られつつも、敵の一般弓兵の矢が届く前衛の中で総指揮を執っていたのである。
「ええい! こちらの矢が届く距離まであの赤髪が近づいているというのに何とじれったい!」
「“雷進”のために進ませた左右の両隊も途中で横腹を複数突かれて行き詰っておる!」
洛亜完の本陣でその側近達は特に歯がゆい思いをしているが、それと対峙している楚側中央軍本陣より紅剡はそれで生じているざわめきを確かに見抜いていた。
「…そろそろいいな。左翼を薄めても構わん。代わりに右側に予備隊を八割注ぎ込んで前線を上げて連中の後ろの城の城門も塞いでおけ」
「御意!」
そうして楚軍は即座に動き出したが、今度はその動きと目的を洛亜完は素地の都合で広すぎる視野と冷静さから即座に見抜く。
「…こちらの左側より食いつぶす気になったようだが…あちらには我らの城がある! その分で空いた余力をヨコヨコに預けて敵の西側を食いつぶすぞ! “雷分”で敵の西側半分を切りつぶす!」
「「「「「うおおおおおお!!」」」」」
膠着していた戦況を自軍有利に変える好機を感じ取った洛亜完軍は即座に動き出す。
今まで前線各所で乱れつつもその場で交戦していた韓側部隊の幾つかが、急速に幾つかの矛状態に纏まりだして楚軍西側を寸断して各個撃破させる布陣の展開のため動き出した。
「む! 連中の予備隊もこちらに向けて動き出しましたぞ!」
「雷分の枠を広げろ! あれも加わったらそれごと小刻みする…!?」
だが、そのための布陣の準備を終えようとしたところで、韓側は信じられないものを目にした。
「よし! 韓側の意識と数は十分にここへ集まったぞ!」
「第一から第四隊は反転!」
「………は!?」
韓側の前で対峙している楚軍の後ろに合流すると思われていた楚側予備軍の半分が、向きを変えてこの場から離れだしたのである。
「…? どういうつもりだ…?」
その動きが見える視野があるゆえに洛亜完は訝しむが、そこで東側の戦場より血相を変えた表情の伝令が駆け込んできた。
「ほほ報告です! 左軍の方で博王谷様がー…!」
「「「「「…!!??」」」」」
それは洛亜完側にとって予想の範疇になかった報告であった。
○中華中央部 韓国南部 南原平原 南原城○
「どわぁ!? な、何だ貴様らぁ!?」
「み、味方だぞぉ!」
それは洛亜完の本陣に震撼が走る報せが入る数分前、博王谷の本陣で起きた。
自軍が交戦中の楚の右軍の分断各個撃破の佳境に入っていた頃、博王谷は自軍の本陣を守る東側の茂みの味方達から上ったざわめきと悲鳴に気付き、そこへ振り替えった瞬間に茂みと陣幕は切り裂かれた。
「…っ!? 貴様は…李ぼ―――!?」
その隙間より現れた先陣を行く男、今は楚の春申君の庇護を受けている趙人亡命軍の長である李牧の姿に博王谷が目を見開いたその時、彼の喉元の皮膚を剣先が切り裂いて更に押し進もうとした。
「李牧ぅ!!」
「っ!!」
だが、その剣先が首の内部を走る動脈を切り裂こうとしたその時、その場に乱入した信の剣がそれを弾き飛ばして二人の身を引き離した。
「―――っ…!?」
その弾みで博王谷は剣を喉元に突き刺されて薄まりだした意識をどうにか保たせるが、噴き出ていく血に吸われるように体から力が抜けて視界が朦朧とし始める。
「え!? 本陣が襲われているぞ!」
「博王谷様が馬から落ちて…ぐはぁ!?」
その騒ぎで博王谷軍本陣周辺は本陣の異変に気付くが、その彼らを同じ韓の旗を掲げている者達が討ち取っていく。
「っ! くそぉ! あと少しで李牧様が博王谷の首を斬り飛ばすところだったのに!」
「あの秦の部隊はどこから!?」
「今すぐに我らも行けば討ち取れ…駄目だ! 後ろの茂みから続々と秦兵が現われて守りを固め…」
「ええい! こうなれば他の韓側左軍本陣の連中の首を上げながら離脱するぞ!!」
「ギャアァ!?」
韓の旗を掲げつつも鎧などからして違う彼らは、博王谷本陣にいる側近や参謀たちを次々と討ちとっていく。
「っ! こいつら…ほとんどが言葉の訛りからして北趙の連中よ! 匈奴時代にやってた刺客みたいなやり口で刺客よりも質の悪い結果をまた出したわ!」
「本当か紅華!?」
「本当も何も今のそいつにここまで付いてくるのはそれしかないでしょ!」
「あー、まーたしかに…」
「でもだったらどうやってそいつらがここまでー…!?」
「多分、函谷関の時の桓騎みたいに奪い取った韓の旗を掲げて茂みの中を突き進んでどさくさ紛れにここまで来たってオチだ! こんだけの数でどっちも目の前の敵に目を血走らせていたら真横を更に茂みの中を通り過ぎられると気付かねえ! 一人か二人は気づくだろうが言っても頭に血が上ってて気づかないままの周りに“馬鹿を言ってないで目の前の敵に集中しろ!!”って黙らされるのがオチだ!」
「し、信がもっともな理屈を言うとは…ああ!? そのためか李牧達がもうこの場から離れて目の前の韓軍の隙間から離脱していってる!!」
「なぬー!?」
そして、李牧達は韓側本陣を離れてまだその混乱の報せが届いておらず、楚の右軍の東半分を湖沼に沈めようと取り掛かりつつあった韓左軍の波の中に韓左軍本陣より奪った旗を掲げながら逃げ込む。
「…え? 本陣からの部隊だ?」
「何が起きたんだ―――?」
「大変だー! 博王谷様とその側近達が討たれたー!」
「本陣は壊滅状態だ!」
「―――あ…えええ!?」
「何ぃ!?」
それに当初韓側左軍の前衛部隊は何の指示が来るのかという感じで意識が向き始めるが、李牧達が味方面して大声で放ったその内容で瞬く間に動揺が生じていく。
「ま、待て! 今のは虚報だ! 博王谷様はまだ…!」
「本陣が裏切りで壊滅したぁ!」
「秦側が手引きしたぁ!」
「な、何だとぉ!?」
「ほ、本当か!?」
「本陣から火の手が上がっているぞ! それに秦の旗もある!」
動揺は本陣より見える視覚的証拠もあって拡大していき、それは疑念とそれからくる混乱に変わって感染が加速していくのは自然の流れであった。
「…春申君の所の穀潰し連中が向こうの本陣を潰したぁ!?」
「ああ項翼! 紅剡が自分の側近の一人とその隊を護衛に付けて一緒に博王谷とその側近をやったらしい!」
「何だよ! 何もしねえかと思ったら裏でコソコソ進めてやがったのかよ! シャアア! テメエらもうかったるい守りなんてやめて敵を押し切るぞぉ!!」
「「「「「ウオオオオオオオオオオオオオ!!!!」」」」」
逆に楚軍は士気が回復して高揚していき、各所で韓軍を押し返しだしていく。
「こ、これ以上は敵の流言に惑わされるなぁ! 何としても立て直せぇ…!?」
その崩壊の波を韓側左軍がどうにか押し止めようとするも、それを加速させるダメ出しが彼らから見て西側より現れた。
「頃合いだぁ! 紅剡様の指示通り本日中に韓の左軍を潰すぞぉ!!」
「「「「「ウオオオオオオオオオオオオオ!!」」」」」
西隣りの南奏城前での戦いで、洛亜完を困惑させる動きをした紅剡軍の予備隊が境目の茂みを超えて現れ、韓側右軍の右横腹に攻めかかったのである。
○中華中央部 韓国南部 南原平原 南奏城○
「…続けてご報告ー! 先ほど我が軍の部隊に扮した李牧の左側本陣が襲われて混乱状態に陥った左軍に、少し先ほどにてこの戦場を離れた紅剡軍予備隊が襲い掛かり挟撃を仕掛け、左軍は急速に崩壊が進みつつあります!」
「「「「「何ぃ!!??」」」」」
当然、情報が早い韓軍では味方に襲いかかったその大凶報は他の友軍にも広まり、今回の連合軍総大将を執る洛亜完の本陣にもその動揺は伝わってきた。
「博王谷様は無事なのかぁ!?」
「それが生死はまだ不明ですが今は楚に亡命中の李牧の奇襲を受けて深手を負って意識が不明なのは確実だと…」
「い、いかん! 直ちに西側へ援軍を出さねばー…!?」
当然、韓側はその崩壊を押し止めるべく動こうとするが、そこで自分達の布陣が思い出されて顔が強張る。
凶報が入る前に自分達が対峙している紅剡軍を東側より潰そうとしとした動きの結果、敵が自分達と博学王谷軍をちょうど遮る位置に移動してしまっていたのである。
「よし! 無理をせずとももう良いぞ! 甲典隊を前に押し出して守りを固めろ!」
「後は右軍が予定通りに韓軍の東半分を食いつぶしてくれる!」
更に楚軍も東隣りの味方が大きく動きだしたことに気付いて、そこに邪魔が入られないように洛亜完軍を包み込むように陣形を高速で組み替えだしたのである。
○中華中央部 韓国南部 南原平原 南原城○
「背を追い討てぇ!」
「ギャアァ!?」
一方、その渦中の中にある南原城の南側を見やると、先ほどの優勢が嘘であるかのように韓側はその戦線が崩壊中で、それを楚の右軍は情け容赦なく追撃していた。
「は、早く俺も城に入れてくれぇ!」
「ま、待て押すな! 潰れ…ギャアァ!?」
韓側の恐慌はひどく、味方に押し倒されてその背を踏まれて圧死する者まで出始める始末であった。
「くそぉ! 話には聞いてたけどよぉ一番きついのをくらわしてきやがったな李牧の野郎ぉ!」
その中で信は手勢を率いてその流れに抗っていたが、楚軍に対して組織的抵抗を出来ていたのはこの東側戦場ではそこだけであった。
「報告ー! すぐにこれからの立て直しに入るために白漂様から指揮権を事前にあずかっていた蒙恬様からこちらの本陣に戻れとー!」
「ああ!? やっとここの偉い連中の生き残りを集め終えたのか! 皆ぁ! 戻るまでの間は攻めしなくていいからここはギリギリ山城の麓までは守りぬいてくれよぉ!」
「ええぇ!?」
だが、その信も韓軍左翼本陣に呼ばれて、かろうじて士気を保たせていた飛信隊にも周囲の韓兵達の逃走が移り始めてしまう。
「さ、左翼第五隊が潰走しました!」
「中央第一隊の雅唐様が戦死です!」
その頃、韓軍左翼本陣はごく一部生き残った本陣将校と、各隊から集った伝令たちを中心に何とか立て直しを図ろうとしていたが、その要であるはずの生き残った本陣軍師は肩を酷く落として表情には虚ろな色すら浮かんでいた。
「ここの生き残った上級将校は皆揃ったか!?」
「っ!? 生き残ったのはこれだけかよ…!?」
そこに連合軍右翼の秦側から派遣されてきた将校たちが出そろうが、博王谷軍頭脳部のあまりの現状に信は顔を引きつらせる。
「何をしているんだあんたたちは!? 博王谷に変わり指揮を執るべきあんた達が動かないから精強な博王谷兵達が次々と討たれて戦況は向こうに傾いていってるんだぞ!!」
「「「「「!!!!!????」」」」」
その場で大きな声で叱咤を発したのは、意外にもこの場にいる面子の中で一番冷静な蒙恬であった。
「…仕方ないのだ! 本陣付きの参謀や軍師たちが儂以外に討たれた現状ではもう…後は一人でも多く城に逃すしか…!」
「それに敵の動きがあまりにも速すぎるのだ! こちらが崩壊を緩めさせようと打った手がことごとく初手で横腹を食われて潰されたのだ!」
「出来たのはそちらの裏切りが誤報だと明らかにしたことくらいしか…」
「もう、この軍は限界点に達してしまっている…」
「「「「「……………」」」」」
だが、それに対する韓側の反論も喚くような力ないもので、改めて彼ら側から出た重く沈んだ空気は秦側にもうつっていく。
「いや、今現在は外様として見てわかった韓軍の個々の隊の精強さのおかげでどうにか崩壊点ギリギリ手前の状態で踏みとどまったという感じだ。後は士気を取り戻して各隊を連携させる指揮系統を復活させれば明日以降も戦える力を残せると思う」
「「「「「!!!!?」」」」」
だから、そこで蒙恬が出した策に一同の注目が行くのは自然であった。
「じゃあ、その士気を取り戻す方法というのは?」
「簡単だ紅華。敵が流している士気を低下させている他の虚報を事実で押し止める。というかまずこれをやるべきだったんだ」
そして、韓軍左翼本陣から左翼各所へ伝令が飛び散っていく。
「韓兵全員聞けぇ! 博王谷様が眼を覚まされたぁ!」
「博王谷様は生きておいでだぁ!」
「「「「「!!!???」」」」」
彼ら伝令が各所で発したその報せは、押される一方であった韓兵達の俯きがちになっていた頭を上げさせ、楚兵達に困惑からくる動きの遅れをもたらした。
「は、博王谷様が生きておいでだと…!?」
「嘘だぁ! 俺は李牧様が敵本陣に急襲を掛けて博王谷の喉元に剣先を突き刺して落馬させたのを見たぞぉ!!」
「っ! そうだが博王谷様は重傷にとどまって今どうにか意識を取り戻された! 今は前線には出られないが指示は出せる! 皆ぁ! これから来る指示は全て博王谷様の指示だぁ!!」
韓楚双方で疑惑による動きの遅滞が広まり始める中、韓側前衛に近い三点の要所、東側湖沼地帯の一番大きな陸橋の韓側根本、西側にある中央戦場と遮る茂みの高所、最後にその真ん中に位置する小高い丘にそれぞれ博の旗が大きく掲げられた。
「皆ぁ! 博王谷様の次のお言葉を伝えるぅ!!」
「「「「「!!!!!!」」」」」
そして、その三点の要所から放たれる伝令達の言葉は博王谷兵達の記憶を大きく刺激する。
「屈するな! お前たちが屈すれば…次に屈するのは家族だ!!」
「この三つを拠り所に近づく侵略者を叩き潰せぇ!!」
「「「「「う…うおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」」」」」
「のわぁ!?」
「こ、こいつら先ほどみたいに…!?」
その博王谷が練兵と実戦どちらでも幾度となく使用してきた言葉を交えた指示で、韓兵達は前半の優勢時の士気を取り戻して楚兵をたじろがせて前線をわずかだが押し戻し始めた。
「よし! 何とか前線の崩壊は留められた!」
「しゃあ! 韓兵共ぉ! 押し上げて空いたところにここらの盾兵をありったけ集めろぉ! もう無理だっつうなら俺らの後ろからせめて矢を撃ち続けろぉ!」
「茂みの中から突き続けて楚のたじろぎを後押しして前線を少しでも上げるわよ皆!」
そうして生まれた敵の力の空白点へすかさず連合軍側は残った力を結集して仮の拠点を設け、東側がら順に湖沼の中で楽華隊副長陸仙、信、紅華が発破をかける。
「か、感謝する! 皆ぁ行くぞぉ!」
「舐めるなよ秦のガキ山猿がぁ! 者どもぉ! あいつらにばかりデカい顔をさせるなぁ!」
「お、女の後ろで戦っているなど恥だぁ! 行けぇ!」
「「「「「うぅおおおおおおおおおおおおお!!!!」」」」」
その発破に韓兵達はその場に応じて異なりつつも士気の上昇が再び起き、三点の守りは更に固まっていく。
それを孫雪蓮は見逃さず、スッと目を細めた。
「…これはぁ、皆、右から順に黄蓋、陸遜、虞翻を当ててあの三点がこれ以上大きくならないように囲みながら萎ませて」
「は!」
「それで我らははどのように?」
「決まっているでしょ。あの三つに駆け込んで助かろうとする韓兵をあの三将の目の前でしらみつぶしにする。それが今この場で彼らが最も嫌がってあのまだ若い子である三将を最も高い確率でこっちの狩場に誘き戻せるわ」
「「「「「うおおおおおおおおおおお!!!!」」」」」
即座に孫雪蓮達は動き出し、その動きを三点の後ろにいる蒙恬は見逃さず自分の馬に乗りなおして韓兵の群れの中に身を投じる。
「…即座にこっちの弱点を見抜いてきた。じゃあ…後はこっちがあの再び動き出した孫雪蓮軍をとにかく嫌がらせし続けて、三点に収まり切れなかった他の兵士達が城まで退却させる時を稼ぐのが第一だ。退却の指揮は今の
「は、ははあ!」
「…こういう役回りは好きじゃないんだけど今この場ではうちしかできないからねー。あのまだ底が見えない強軍がぁ相手じゃー…夕刻まで生き残れば何とかこっちも城に生きて入れる望みがそれなりに出るんだけど…」
そして、周囲の大半が韓兵達の中で外様の身でありながら難なくその指揮系統の中枢に入った蒙恬は、戦場でもめったに浮かべない腹を決めた表情で馬を駆けらせた。
「…あれ? 何か俺ら…この戦場の大事な場面から…いつの間にか外されてなくね…??」
一方、楚側のこの戦場における若き有望な将である項翼は、なんとなく微妙な予感を感じ取ってポカンとした。
今回、原作にはなかった不利な状況が蒙恬の覚醒を原作よりも早めさせることになりました。
次回は、本作主人公の戦いが中心になる予定です。