○秦始皇9年(紀元前238年)南原防衛戦五日目朝 中華中央部 韓国南部 南原平原 楚軍本陣○
「…思っていたよりも数日早く大雨が来たな。占領下の韓人共も駆り出して正解だった…」
白漂が嫌な予感を覚えた雨が始まって数時間後、翌朝になっても激しい豪雨は止んでおらず、その煽りで高低差の違いから小川が出来ている自陣の中を紅剡は静かな笑みを浮かべて歩いていた。
「よし、右軍でまだ残って居る連中も高台に移させろ。特にあの項一族のも含めた若い連中にはこのままじっとしてると決壊に巻き込まれて魚の餌になると脅してな」
「…え? まだ出していなかったんですか?」
「本気で慌てた様子をしている連中がいた方が向こうにも自然に思わせられる。自然に堤が切れて失敗したとな…」
「…確かに、では…」
「それと
「は、無論でー…それと
そして、その紅剡の元から側近の一人が離れて数時間後、楚側が掘削を進めていた堤の一つが切れて右軍陣地に大きく濁流が流れ込んだ。
○秦始皇9年(紀元前238年)南原防衛戦五日目正午 中華中央部 韓国南部 南奏城 韓軍本陣○
「報告ー! 楚軍の陣地で堤防の一角が崩れて向こうの右軍の陣地が水害で酷い被害を受けている模様です!」
「おお! 真かぁ!?」
「ははは! 博王谷軍が半壊して向こうに戦局が傾いたと思ったが天はこっちに味方したか!」
楚軍側を水害が襲って数分後、韓側は即座にその報せを受けて大半が喜びに沸き立った。
「洛亜完様、今朝に秦側から今後のその動きの予想についてですが…」
「ああ、こちらもわかってはいるが…既に豪雨が降りだして少ししてすぐにそれを防ぐのが難しかったのが…とりあえず、東側の森林を素早く通り抜けられるように準備をー…」
一方、韓軍の首脳は味方の多くが喜んで沸き立っている中、自軍との間に生じている濁流が大雨やそれによる堤防の決壊のせいで更に大きさを増し、見ているしかできない自軍の現状に憂いを強めつつ、対処療法にしかほとんどならないと感じつつも静かに動き出していた。
その後も、濁流は豪雨が続くにつれて水嵩を増し、その本数もまた増えていった。
○秦始皇9年(紀元前238年)南原防衛戦六日目早朝 中華中央部 韓国南部 南原平原 荒巌山○
「…ふああああア~~~、昨日はずーっと雨ばかりで辛気臭かったのにー…やっと今日になって止んだかと思ったらなんだよこの深い霧はよー…」
豪雨や濁流にそれで生じた堤防の決壊などで膠着状態となった戦場の一角を、ある秦兵の見張りの一人が最前線の木柵の前を欠伸しながら出歩いていた。
「…でも雨が止んだ途端に楚軍がまた攻めてきたりするかもしれねえだろ。あんな化け物猿みたいな連中の大軍とまたやり合うなんて俺はごめんだぜー…!?」
徐々に木柵の前を進む見張りは増えていくが、その内の一人が目の前の状況の大きな変化に、段々と薄まっていく霧を通して気付いていく。
「…お、おい…楚軍の連中が…ほんと姿を消してないか…!?」
彼らが眼にしたものは、南に向けて勢いよく流れる濁流の支流の一本の真横に幾らか兵が残って居るのを除けば、ほぼ空っぽとなってしまっている楚軍陣地の姿であった。
「…報告ー! 楚軍の姿が右軍の一部を除いてほとんど見えません! 視認できる陣地の水没状況からして水害に巻き込まれるのを恐れてこの地から退いだと思われます!」
「うおお! 本当かぁ!?」
「連中めぇ何か水計を企んでいただろうが失敗して諦めたようだぞぉ!」
「大雨と霧で隠れていたとはいえ一晩で姿を消すなど逃げ足だけは大したものだぁ!」
数分後、霧が完全に晴れた戦場では秦韓両軍の兵卒の大半が喜びに沸き立っていた。
「…そなたがこちらにとって最も困難な形として出したものにほぼ沿っているな…」
「…ええ、わかってはいるけどそれを防げず…相手の思惑に乗るしか僅かな希望も見いだせない…嫌な流れです…」
一方、秦軍の首脳陣たちは対照的に良からぬ未来図が脳裏に生じて難しく重い雰囲気に支配されていた。
そこへ、それを裏打ちするかのような報せが届いてくる。
「報告ー! この地から去った楚軍の一つの部隊にここ南原の東隣りの韓東部の小城である鸞膜が攻撃されている模様です!!」
その報せは秦軍よりも少し早く韓軍本陣にも入ってきた。
「…他にも壕願といった東部各地の城が襲われだしている模様です!」
「何だとぉ!? 連中め今朝か昨晩の内に姿を消したと思ったらどうやっていつの間に東部の方へ入ったのだ!?」
数時間後、今度は自分達がいる戦場の隣から入ってくる凶報の連続攻勢に韓軍首脳の多くは今朝の喜びが吹き飛んだ反動で動揺と困惑を増しつつあった。
「…ここまで短期間に攻め落として行けるなら、消えた楚軍の大半はもう既に東部へ移り終えたということだが…いつの間に…!? あの数を一気に移せる道を通ったのなら…こちらの警戒網に引っかからないはずが…!?」
洛亜完がその明晰なる軍才と広い視野から見えてくるこの状況の非現実性の高さに表情を険しくしていくと、彼が待っていた最側近が戻ってきた。
「ヨコヨコ! 楚軍の陣地から何か分かったか?」
「は! 濁流のため小隊で迂回せねば行けませんでしたが…答えが見えてきました」
「そ、それでは…楚軍はどうやって…ヨコヨコ殿!?」
「…楚軍は、わざと壊れやすい堤を築き、そのことで自分達が通りやすくなりつつも逆に我らはそこを通れないように細工をしていたようです…」
「ま、待てヨコヨコ殿! 濁流の被害は楚軍陣地の方が酷いではないか!」
「ええ、ですが、その結果として我々は向こうの陣地の多くを埋めつくした濁流に遮られて、東側に向かえる最短経路を通れなくなりました。そして、濁流の向こうで…奴らは排水路も前から掘り込むことで…自分達だけが通りやすい吊り橋を掛けやすい…否、吊り橋を事前にかけても流されることのない浅瀬となる要点も幾つか用意していたようで…」
「…それで?」
「そうして排出された濁流を用いて…東部と遮る密林地帯の南側の一角を押し流し、邪魔な樹々を押し流した後で、占領下の韓人を動員して集めた草藁を敷いてその上を通って東部に入った模様です!!」
「「「「「!!!!!??????」」」」」
そして、ヨコヨコ達のその報告で二日目以降の楚側の不審な動きの数々が、連合軍側にとって劣悪な形で繋がってしまった。
「報告ー! 南原城の方で博王谷兵達が東部に援軍として戻らせてくれって騒ぎだしています!」
「更に東部の諸城から援軍を求める声が多数伝書鳩で!」
そして、その劣悪な現状へさらにダメ出しを掛ける報せが立て続けに来たことで、韓側の国民性も火に油を注ぐ形で強く表面化してしまう。
「い、いかん! 洛亜完様! 一刻も早く楚軍の東部侵攻を止めませんと!」
「今現在の東部はその兵の多くがここや王都圏に駆り出されていて守りの手が薄まっています!」
「…わかっている! だが…」
それらで洛亜完の顔に苦悶の色が浮かぶが、同じ頃の秦軍首脳陣もそれに懸念を覚え始めていた。
「…これ、完全にこっちを自分達のやりやすい場所まで引きずり出そうとしてますね…」
「ココココ、ですがわかっていても乗らないという手が使えない…実に渋い手を使ってくれますねぇ紅剡さんは…」
「そんな茶目っ気を出してる場合じゃねえだろ!」
秦側では騰が亡き主君の口調を真似して笑みを浮かべていたが、頬には確かな冷や汗をかいてしまっていた。
「ここで見捨てでもしたら韓は東部に見切りを付けられて楚側へ寝返られます。そうなると連中は南原を実質捨てた今でも楚本国との補給線をすぐに再構築できる…」
「…それを防ぐには、即座にこっちも南原を出て東部に入って韓東部の諸城を引き留めるしかない…」
「だが、そのための最短経路は楚の右軍の残っている部分が濁流を水堀として用いて堅く閉じており、次の経路は南奏城の東側だけど…密林にほとんど敷き詰められていて小道が何本かあるだけだから、すぐに出ていかないと間に合わない…」
「…わかっていても、出ないともっと質の悪い事態になるのが見えているんだよなぁ…そういうわけで、一番被害は出るのは韓なのでー…指揮権は向こうにあるしそろそろ答えを聞かせてもらわないとー」
「………………」
周囲の言葉のやり取りと予想図が重さと暗さを増していくにつれて、騰の茶目っ気も消えて静かに俯きだしていく。
「…報告ー! 韓側総大将洛亜完殿よりご要請がー! 内容がー…!!」
「…そうか…では!!」
そして、今回の事態で最も重くなっている友軍からの報せを受け、騰は静かに意を決した顔を決めた。
「…南原には一部守備隊を残して東に楚軍を追って向かうだぁ!?」
「ええ、そうです…信隊長お気を付けください。有利であったはずのこっちがその持ち場を後手に回らされたことで捨てらされる…こういう時は非常に困難な戦況が先に待っています…」
数分後、秦韓連合軍は大規模な出撃準備に取り掛かり、特に秦側は白漂が豪雨中に出した警告でいつでも場所替えも含めた出られる準備を進めていたこともあって動きは速かったが、事情を知るものや経験が豊かな兵は表情に険しさや重い色が浮かんでいた。
○秦始皇9年(紀元前238年)南原防衛戦八日目昼 中華中央部 韓国東部 某森林地帯○
「…ゆ! 許してくれぇ!」
「俺たちはこんな楚の鎧を着せられてるけど韓人だぁ!」
「ああ! くそぉ! こっちはまた元韓兵かぁ!」
秦韓連合軍の大半が南原平原を出て二日後、楚兵の鎧を着させられた韓人が同族の集落や城を襲撃させられ、それを韓軍が鎮圧して生け捕りにするか逃げられるという事態が韓の東部のあちこちで発生するようになった。
「…報告ー! 今度は北東の臨麻城が襲撃されましたがそれは正規の楚軍のようでー…!」
「くそぉ! この二日間だけでもう三十回は接触しているのに奴らの小隊とかをどれだけ捕まえたり潰したりして吐かせても連中の動きの全体像が掴めん!」
「どうやら占領下の捕虜にした韓兵を身内の解放を条件にこちらを襲撃させて…ああ!? 今度は捕虜の所から脱走したという韓兵が近くの臨馬橋に火を付けて焼き倒してしまったと…」
それらの情報は連合軍本陣にも届けられているが、集積と解析が重なるにつれて連合側は焦燥を強めつつあった。
「…隆国、これは…」
「…ええ、徐々にですが…韓東部から王都圏に繋がる主道を北上し、新鄭に近づきつつあります白漂将軍…」
「それでいて、敵の全容が途端に掴めなくなって…うかつに動けませ―――」
「報告ー! 敵の実質的総大将紅剡の動きがわかりましたー! かの女はどうやら一万の兵に守られて東部において王都圏を守る入り口である環単城に繋がる環西道を北上している模様です! 更に旗印からして楚王もその中にいる模様です!!」
「―――えって何ぃ!?」
そんな中、ようやく一つ目だが今の連合側にとって朗報とも解釈できる報せが一つ入ってきた。
「そうか! 上手く追跡できたのだな―――!」
「あ…いやー…それがー…たまたま発見した我が軍の小隊の一つがそれを追い始めたら捕らえられー…それで途中まで連れていかれたところで、向こうにこれから行く場所を教えられて“別に知られて追われてきてもその方がこっちに都合がいいからさっさと付いてくるように伝えろ。まー絶対罠だろって言い訳しながら安全な南原にこもって粗方終わった後でこっちが雇いなおす時が来るのを待つのもいい”と紅剡に言われて解放されたとのことでー…」
「―――あってズコーー!?」
だが、その情報を入手出来た経緯が口にされると、何名かが秦韓問わずズッコケた。
「…そんだけの数で追われた方が都合がいいだぁ!? ケバ髪ガキが舐め腐りやがってぇ!!」
「録嗚未あんまり喚くな。唾がこっちまで飛んでくるから」
「そ、そうです! あの女の傲慢で幼稚な言い方はあれですけど! 入手出来ている情報の内の正確なものを考えれば我々にとってはむしろ好都合です!」
ズッコケなかった他の多くは額や米神に青筋を浮かべるものが出るまで怒気を募らせたりするが、その一人である王元姫がひきつった笑みを浮かべつつも話に上がった環単城及び環西道とそれらの周辺を指さし、周囲は静まると同時に難しいものを見る表情になる。
環単城は韓の王都圏の東側の出入りを守る要害の地で、環西道は他の東部諸地域から王都圏を繋げる要衝だが、王都に近づくにつれて道のりは険しく狭まって岩石が多く高低差の激しい地形を強めていく。
そこへ今すぐ急襲を掛けるよう動けば、今の楚軍が分散している状況も含めて一気に敵の心臓部を狙える可能性があるのだ。
だが、その動きを知らせてきた韓兵の言い分からして、紅剡とてその可能性を熟知しているだろうし、おそらく向こうにはこちらが再び彼女と対峙する頃合いには散っている隊が再集結を終えて返り討ちに出来る準備と算段があるのだろう。
そして、これだけ大胆な策を打ってくる敵なら、こちらが乗らずに黙ってみていれば環西道を進みながら再集結を終えて新鄭に近づく可能性もあった。
故に、今この場で連合軍の最高指揮権を持つ洛亜完は最も重い沈黙に陥っていた。
罠の可能性を考慮して楚軍への追跡を待つか、それとも楚軍の罠が発動する前にその喉元に喰いついて破る可能性に賭けるかで、ハイリスクハイリターン過ぎる選択肢を突き付けられている現状を考慮すれば当然であった。
「…洛亜完様! この好機に何を悩まれているのです!」
「せっかく敵の大将が少数で進んでいる場所が分かったのですぞ!」
「今すぐに出れば奴らが再集結する前にあの女を討ち取れます!」
「ここまで東部を荒らされている状況で黙って待っていれば諸城が寝返りだすかもしれません!」
だが、その沈黙は今現在の楚軍侵攻で最も荒れている東部に出自を持つ博王谷軍将兵達を大きく焦らせ、主の重傷及び意識不明からくる重体によって重しが亡くなってしまっている彼らは必死に楚軍追撃を直言しだした。
「…あい分かった。全軍に通達! これより我ら連合軍は…!!」
「「「「「………!!!!」」」」」
それらに背を押されるように放たれた言葉は、周囲の意識を即座に集めるには十分な力があった。
○秦始皇9年(紀元前238年)南原防衛戦八日目夕刻 中華中央部 韓国東部 某山中○
「…南からの偵察小隊が戻りました! 秦韓連合軍主力は当方に向けて進軍を介石した模様です」
「…で、あるか…」
数時間後、環西道の一角を進んでいた紅剡はその報告に静かだが神妙な顔で曇天が燻ぶる空を見上げた。
(…今まで散々に領内を荒らされたあげくに挑発されて少数で離れられていく。韓側にとっては矜持も信用も傷つけられる事態だ…たとえそれが有害な矜持や信用だとしてもな…)
紅剡が見上げる曇天の増していく黒さは、今現在の韓が彷徨っている闇の中を示しているように見えた。
(…だが、その矜持や信用を奪っていく闇の中の一筋の光明が見えてくる。此度の楚軍の大権を握る紅剡の首と楚王の身柄を獲れるかもしれんという光明だ…)
その曇天から何か所から僅かに見える光の筋を見やりつつ、紅剡の思考はさらに進んでいく。
(その光明へ全ての要素が正当化のために用いられる。今の状況で楚軍の侵攻を更に許すと城邑や諸侯の離脱を招くのではないか? 今この秦側におんぶばかりしてもらっている状況で自分達の武威を見せなければ同盟関係が自分達にとって不利なものになるのではないか?)
雲の隙間からの光が僅かな間だけだが強まったその時、紅剡の思考は今の韓側の心境へ大きく近づいていく。
「(…僅かな光なのにそれがあまりにも眩くなってしまう。今の韓の大将の経験が浅いゆえに)…赤の十四の鏑矢を放て!!」
「ははぁ!!」
そして、キッと鋭い眼光を放って周囲を見渡した紅剡の鋭く気勢を宿したその指示を受け、楚軍も即座に動き出した。
それは、やがて環西道を中心として一帯を静かにだが深く震わせる震動となって広がっていった。
今回のお話、中華とは別の某戦国系グルメ漫画からオマージュさせてもらっています。
次回、三者が再び剣戟を激しく交し合う予定です。