○秦始皇9年(紀元前238年)南原防衛戦九日目正午 中華中央部 韓国東部 環西道○
「敵の右翼の博王谷軍ですがもはやその本陣まで我が左翼先方は到達しており消滅は時間の問題と思われます!」
「洛亜完軍と秦軍も分断し終えて既にその後背も包囲を終えて韓兵には逃亡兵が出始めているとのこと!」
「もうそろそろ我が中央軍の予備隊も投入すべき頃合いと存じ上げます!」
信達が潘芸池で白漂からの重要指令を成し遂げたその直後、主戦場の方では楚軍が変わらず戦況を有利に進めていた。
「…そうか、では黄蓋に指示を出せ…!?」
だが、紅剡が本陣で総仕上げに取り掛かろうとしたその時、潘芸池の方角より秦側の鏑矢が天高く打ち上げられた。
「あれは―――?」
「全軍! 直ちに高所の丘へ戻れぇ! これから韓亡国と秦衰退につながる今の道を洗い止める激流が来るぞぉ!!」
「「「「「わぁああああアアアァアアアアアァ!!!!!」」」」」
それに紅剡は訝しむが、その直後に白漂がその危機感を込めて且つ戦場全体に響く声量でその指示を出すと、白漂兵は周囲の他軍の味方を置き去りにする速度で、後ろ側の包囲網を全力で突破し始めて環西道へ入る時に通った丘の上への全力撤退に取り掛かった。
「―――あ、孫雪蓮が珍しくしくじったようだな。こちらも即座に後ろの坂道を駆け上がって上へ引くぞ。但し潘芸池以外の坂道でな」
「…な!? しょ、承知しました…!?」
紅剡が不穏な気配を覚えてその指示を出して部下がそれに戸惑いつつもしたがった直後、彼女達の斜め後ろ側より徐々に地鳴りが近づいてきているのを多くの楚兵が感じ取った。
「…アアぁ!? こんだけ有利な状況で退けだぁ…!?」
そうして楚軍の多くが高所に続く崖上への坂道を迅速に駆け上がっていく中で、それに反発を見せていた項翼の部隊が遅れていたその時、楚軍が用いていなかった山間の坂道から勢いよく濁流が姿を見せてきた。
「「「「「うわぁぁアアアァアアアアアァ!!!!!」」」」」
それは環西道の低い平地の多くを飲み込んでいき、楚軍と連合軍の内の命令を無視か反発するなどして逃げ遅れていた部隊の多くを飲み込んでいった。
「…あー、やっぱり…全て救い上げるのは無理だったかぁ…」
「今この状況だとむしろこれだけ多く救えたのだと誇った方が良い白漂将軍。まだ今回の戦は終わっていないのだから…って、何ですかその娘に小僧は?」
その光景に、今回の戦の味方の犠牲を抑えるためとはいえ、自分の策でその
「…あー、これは味方を少しでも高所へ引かせる誘導の中で直に引っ張った子達の最後の二人でー…急ぎ過ぎたから楚兵も混じったっぽいけど…」
「……………」
「…ごほ…げぼ…ぐふうぅぅ…」
白漂の両脇に抱えられているその二人は、ずぶ濡れの状態だが顔を真っ赤にしている王元姫と、口と鼻から大量の水を垂れ流しにして意識が定まらない様子の項翼であった。
「…それでこれからどうするかだけどー…っと向こうからさっそく来た…」
その二人を白漂が味方に預けた直後、騰と洛亜完がその場に現れた。
「朔方侯、敵の包囲網を崩してくれたことを感謝する。このまだ定まらぬ状況で悪いが、分散している各隊をなるべく拾い集めなおしながら南原への撤退に協力を願いたい」
「無論、それだけではないでしょう」
「ああ、その通りだ。南原が見えてきたらー…」
連合軍の三将はこの急展開した戦況の中でも、戦意とそれに支えられた計算が止まっていないことを確認しあうと、味方のこの地からの撤退を進めながら今後の算段を高速で進めていく。
○秦始皇9年(紀元前238年)南原防衛戦十二日目夕刻 中華中央部 韓国南部 南原平原付近森林地帯○
「追えぇ! 何としても追い討てぇ!」
「退けぇ! 南原の城まで退けばぁ!」
環西道の戦いより三日後、信達が成功させた水計で痛み分けになった環西道から南原へ続く道中の各所は、楚軍による連合軍への執拗な追撃の場となっていた。
潘芸池の堤が秦側に壊されて流れ込んできた濁流に飲み込まれた味方の救助と立て直し、濁流の迂回に楚側は少なからず時間を掛けられたが、いかんせん連合軍側は楚の東部侵攻で散った味方の拾いなおしや難民の避難誘導に多く力を避けねば行けなかったので、南原に近づく頃には追い付かれてその背を次々と討たれていっていた。
「…ご報告! 周泰さまが韓軍の微鍛将軍を討ち取った模様!」
「おお! さすがは周泰様だぁ!」
「環西道では連中の悪運に邪魔されたがもうそれも尽きそうですなぁ!」
「…ああ、このままで行けばよいな…」
そうして南原へ近づいていく楚軍の本陣にも喜色が増していっていたが、その中で紅剡は顔色が幾分か悪く、表情にもどこか堅い様子が見られていた。
(…戦況自体は急速かつ順調にこちら有利で進んでいるのに、あの紅剡の顔色の悪さ…考えられるのは身に何か負傷や病を抱えていることだ…。楚王ももう残りは長くなさそうだから…今の内に適当な成果を出せば韓側に条件付き降伏をさせて秦を退かせ、楚側にもこれ以上の侵攻を辞めさせられて中原のこれ以上の不安定化は留められるのだが―――)
「急報! 急報ですー! 連合軍に不審な動きがー!!」
その本陣の片隅で李牧が自分の弱体化していっている立場など構わずに思考を重ねていたその時、伝令が慌ただしい様子で駆け込んできた。
「―――あ!? 何事で…ぐはぁ!?」
「敵が続々と逃げ込んでいっている南奏城ですが! その城門の前で白漂がー…!!」
「…あ!? 何だと…!?」
それに只ならぬ予感を覚えて李牧は伝令に駆け寄るも、邪魔そうに突き飛ばされて鼻っ面を地面に打つが、伝令が紅剡に伝えたその内容は彼に鼻の痛みを忘れさせるには十分過ぎた。
「…朔方侯! 大将軍の身で殿を引き受けて感謝いたす!」
「皆のもの! 今の内に城内に入るぞ!」
南奏城の周囲は近づいてきている夜の闇を照らすために大量の篝火が炊きつけられており、城内からは聞く者に安らぎを与える音楽が流れ出て、それを頼りにして続々と城内へ逃げ込んでいっている連合軍将兵が通過している正門の前に広がる平野の一角に、白漂が僅かな手勢を引き連れた状態で布陣していたのだ。
「…な、何のつもりだ白漂は!?」
「気が狂ったか!? もしや何かの策略か?」
それは南原平原に到着した楚軍にも見え、その中華に若くして名をとどろかせた大将軍のあまりに軽率な行動に、彼らは困惑と警戒を生じさせて追撃の手を緩めていく。
「…! あれは…ただのハッタリだ!!」
「「「「「!!!???」」」」」
その中には李牧がおり、そして、彼が持つ広い視野と知力が色々な焦燥でいくらか弱体化しつつもこの場でも素早く動き、彼らのこれからの行動に影響力を行使し始めた。
「…え、えーーっと李牧殿…ハッタリというのは…?」
「この三日間、我々は連合軍の追跡と並行して敵の残存兵力も数えながら周囲の隊の様子も見てきました。その中で…まだ向こうには三城の守備に必要な兵が戻り切れていないのはわかっています。現に、一番南側に位置する南原城は守り切れないと放棄されてこちらの部隊が入れているのが証拠です」
「…あ、確かに…」
「あの動きに狙いがあるとすれば…あの
「でしたら、我々は…」
「…この平原に各部隊を展開させて横を固めながらあの城を攻撃するのです! そうすれば仮に敵が左右の茂みに伏兵がいたとしても、兵力差でそれを防ぎながら城を攻め落とせます(そうすれば白漂を討ち取って楚側に今回の遠征はこれで十分ですという説得の材料を作れる! そうすれば秦韓に対してこちらが有利な条件の講話を受け入れさせ、楚王と紅剡の身の不調を隠さねばいけない楚側をそれが出来ている間に戦を有利に終わらせられると納得させられる!!)
「お、おおおお!!」
「ではさっそく本陣に進言いたします!」
これまでの情報収集で得られた敵味方の確かな情報と、最近は下降気味とはいえ李牧という名が持つ影響力は、有利な戦況もあって楚軍の中枢を動かすには十分であった。
「…そうか。李牧も同じような結論に至ったか…(間が悪いことに紅剡が意識を失う手前までになっている…遠征前から体調が良くなっている日が目立っていたから…今の内に手柄を上げさせようと思ったが…ここは我々が)では、我々も左右を警戒しつつ南奏城の攻略に取り掛かるぞ!!」
「「「「「ウオオオオオオオオ!!!!!」」」」」
それに一時的ながらこの場の指揮権を握っていた周瑜も同意を示し、楚軍は直ちに南原平原に出て陣形を展開しながら南奏城に近づいていった。
「…くそ! やっぱりこっちには十分な兵がまだ戻っていないことに気付いてきやがった!」
その様子に別ルートで再合流して帰還していた信達が南奏城の城壁の上で苦虫を噛んだ表情になる。
「白漂将軍! あの
「今はまだそれを言うんじゃない。まだこの場で発動しても…連中が一部を犠牲にして気付いて多くが逃げおおせるだけだ。まだ…まだだ…」
それを正門からやや離れた位置に布陣している白漂軍も見ていたが、焦りを募らせる部下たちを白漂は叱って押し止めつつ、彼も表情こそ冷静だが大きく気を張っている瞳を浮かべていた。
そして、敵側と矢が自軍の味方の盾に届くまでになったその時、白票は動いた。
「! 今だぁ! 全ての縄に火を付けろぉ!!」
「はいよぉ!!」
「あーもったいないなぁ」
白漂がこの地に幾つも生じる亀裂の内の自分の足元にあるその一つへ叫びを浴びせると、白漂軍では主に坑道掘りを担当している土竜隊を率いる袁羽が気勢良く、危険な動植物の管理を行う西遼の頭である壄瑮が面倒くさそうな感じで、その足元にある油が染み込んだ何本もの縄に火を付け、それで急速な勢いで南原平原の地下を無数に走る坑道の中を火の手が走っていった。
「…む? 何だぁ? 霧…いや、煙が出てきたぞぉ?」
「な、何かぁ…妙な臭いがするなぁ…!?」
そして楚軍が平原に広く布陣を展開させて白漂軍との距離を詰めていったその時、平原に幾つも生じている多くの亀裂から大量の煙が噴き出して楚軍の多くを包んでいったが、異変はそこから生じだしていく。
「…ぅ!? 何か気分が悪く…ぉええええ!?」
「目が!? 目がかゆいいいィ!?」
「鼻が曲がるううぅう!?」
その煙に当てられた大量の楚兵から次々と体調の不良を訴える声が生じて動きが鈍り、混乱が急速に広がりだしたのだ。
「ご報告ー! 楚軍が毒煙で大きく乱れ始めましたー!」
「あく抜きをしないと最低でも腹を壊すのはわかっているが、まさか特定の植物と合わせて燃やすとここまでなるとは…“ティピオカ”の材料にもなるのに恐ろしいなこれって…」
その様子を離れた茂みより畏怖を覚えた表情で見ていた羌瘣がその片手に持って戦場と見比べていたのは木薯、後代で言うところのキャッサバであった。
キャッサバは後代でも過酷な環境においても簡単な栽培で大量に収穫できることからアフリカ辺りで重用されている作物だが、有毒なのであく抜きをしないと食べられないという欠点があった。
この世界では毐国反乱の時期に蒙毅が西域より帰国した時、西域の水上交易民フェニキア人が未開の地より入手した作物の種子を土産にしたが、それに混じる形でキャッサバもこの時間軸の中華に入ったものの、この世界のそれは特定の植物と合わせて燃やせばより強い有毒性の煙を大量に出すという特徴があったのだ。
今回、白漂は敵の諜報を警戒して食料名目で木薯をこの地へ隊医療に輸送させて地下の倉庫に溜め込んでいたのは、その特定の条件下だと毒の煙を出す性質に目を付けて、今回は明白な敵との戦力差を少しでも埋めるための兵器にすることも想定していたためであった。
「か、風が向こうに吹いている状況もありますけど…相変わらず仕込みが上手いですな」
「向こうはこの地で決戦を掛ける時のための準備に坑道掘りと並行して進めていたようですが…」
「いや! 細かい条件は変わっているがこちらにとってはもうこの戦を逆転できるかどうかの決戦だ…!?」
混乱中の楚軍により近い荒巌山に戻っていた騰軍将兵はその光景に驚きつつも勝機が戻りだしたのに気づいて喜色が蘇り始めるが、そこで新たな混乱が向こうに生じてその本陣に近づいているのに気づいた。
「…メッキの皮がはがれ始めたとは思っていたが…ここまでとはな…」
一方その頃、毒の煙が風力のために及んでいない楚側の本陣で調子が良くなった様子の紅剡が戦況の変化に気付き、声量こそ大きくないが落胆を隠せないという様子で前方の味方、特に客将扱いの趙人部隊の混乱ぶりに目を細める。
「ご報告ー! 混乱中の前の陣へ白漂が帰還してきた隊を纏めて攻撃をかけてきた模様です!」
「李牧の愚策に乗った周瑜様が今現在は煙の合間を抜きながら各隊を纏めてひかせていますが…今現在この地へ到着している兵の相当数があちらで巻き添えになりましたので時間がかかるかと―――!」
「ゴガぁアアアァアアアアアァ!!」
そこへ連合軍によるダメ出しも掛かってきて楚軍本陣の意識が前方の味方の立て直しに力と意識の多くを囚われだしたその時、本陣に隣接する茂みの奥より殺気だった怒号と喧騒が生じた急速に近づいてきた。
「…と、騰様ぁあれはぁ!?」
「ココココ、
その正体にある地面にひょっこり開いた穴より、騰がお茶目な様子で顔を見せながらも気付く。
「―――お…あ、あれはぁ…!?」
「紅剡ぇええええええええええええんん!!」
それに楚軍本陣の見張りが戸惑いつつも振り向くと、身のあちこちに深手を負いつつも血を撒きながら矛を振るう干央と、主君に負けず劣らずの状態だがその背を必死に追う干央兵達が楚軍本陣に猛烈な勢いで近づく姿があった。
「…な!? あ、あれはたしか干央!?」
「馬鹿な!? 奴はもう環西道で軍はほとんど細切れになっていたぞ!」
「それが何だ!? あの死に体であの突破力は―――!?」
「連合軍総大将洛亜完よりこの場の連合軍将兵に告げる!!」
楚軍本陣はそれで同様に陥るが、それをさらに後押しする宣言が辺りの大気を振るわせ始めた。
「―――あ!? あいつは…!?」
「こちら側の毒の計と本陣急襲で楚軍は大きく揺らいでいる!! この大戦を逆転させる勝機は今ここにあり!! 各隊突撃し紅剡の首を狙えぇ!! 韓兵!! この我らの祖国を守る戦で他所の背ばかり追うのはもう止めだぁ!! お前たちが前面に立って故郷を侵さんとする凶刃を全力で打ち砕けぇ!!」
「「「「「ウオオオオオオオオ!!!!!」」」」」
それは地上と繋がる廃坑の入り口より姿を現した洛亜完で、彼と同じく廃坑に隠れていた韓兵達が地上と繋がる穴より続々と喚声を上げながら地上に出て楚軍に切りかかった。
「け!
「ま、まぁそうですけど今はそういうことはー…」
「だが曲がりなりにも俺らの総大将の言葉なら乗るしかねえよなぁ!! テメエらぁ!! あんま長くないこの風がこちらを押している今の内にあの派手な赤髪を首ごと斬り飛ばしに行くぞぉ!!」
「は、ははぁ!!」
そして、別の廃坑の出入り口より録嗚未軍がドドッと出撃して楚軍本陣へ襲い掛かった。
「何としても守り通せぇ! 直に味方の後続が大勢来る! それまで持ちこたえればー!」
「そこまで持たせるかぁ! よし! もう紅剡のあの目立つ髪が目と鼻の先だぁ! 今の内に討てば―――!?」
楚軍本陣の動揺が急速に高まっていくにつれて連合軍の先陣がその中心部を視界に収めたその瞬間、彼らの視界は反転してその身は大きな浮遊感に包まれてしまう。
「―――あ…な、何が…!?」
その先陣の一人である騰兵の一人が戸惑う中で目にしたものは、馬の首もろともその胴を鎧ごと両断されて宙を舞う十名前後の友軍の兵の姿で、それを最後に彼の生は終わって視界は闇に満たされた。
「…まさか
「「「「「…!!!???」」」」」
そして、その両断されて亡骸となった連合軍将兵の屍とその血の雨が降る中で、それを一瞬の一撃でなした大太刀を遊ばせながら馬を進ませてきた紅剡のその艶のある笑みに、周囲は敵味方問わず畏怖と震撼を覚えた。
何か、別の戦国系作品を思わせるネタが出てきましたけど、詳しい理由はまだ出るとは限りません。
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