○秦始皇9年(紀元前238年)南原防衛戦二十七日目朝 中華中央部 韓国中央部 王都新鄭 王宮本殿○
「…こ、こいつはー!!」
王元姫が過去最大の羞恥を伴う起床をして数時間後、韓の都は終戦と三か国和平条約締結を祝う祭りが開かれ、その中心である王宮の華やかな酒宴の場の豪華絢爛さと人の多さに信は興奮しつつも固まり、特に壇上で曲を弾くか舞をしている美女に目が行っていた。
「邪魔だからさっさと進めボケ」
「ぐほぉ!?」
さすがに原作のような袖なしの普段着ではなくこの世界では礼服に身を包んでいる信の尻を蹴飛ばしたのは、白漂軍軍師第一席という役職のためこの場における秦側の重要な出席者の一人である河了貂である。
「…いやー、この時代の中原ど真ん中の都だけあって(前々世…つーか原型の孫の時代以降の紫禁城にはさすがに及ばないけど)大きいし煌びやかだねー」
そんな二人に続けて本殿に入ってきたのは、捕虜交換の際に戻ってきた康熙の黒を基調として地元満州産砂金の金糸で刺繍された満州服で固めた姿である。
「あ、南原での最終戦時に向こうに取り残された数十機余りで李牧率いる趙人部隊数千騎を突破して誰一人も失わずに紅剡の眼前まで到達して白旗掲げたという伝説の降伏をしたという康熙殿」
「冗談や賞賛に機嫌取りと嫌味が混ざっているようでいても事実その通りの説明ありがとうねー蒙恬君。でもまーそのせいで今回は表舞台の客人ではなくてー裏方の仕切り役の端っこに今回はなっているからー」
信達に気付かれつつも康熙はスッと静かに背中を向けて本殿の裏に向かい始めるが、いかんせんそのこの時代の女性らしくないスポーティー且つ魅惑的な長躯とそれをも上手くものにする美貌、辺境出身とは思えない怜悧且つ光輝な雰囲気は、その短い登場でも本殿に集っている客達の注目を集める。
「…おい、あれが例の秦に恭順した北の満州の女頭領という…」
「あぁ、趙は隠しているが…李牧軍を北の地で火計に掛けて五万を潰したという…」
「それでこの前の南原ではその李牧の部隊を少数で一騎も失わずに突破して紅剡に投降したというが…あれが降伏した後の捕虜交換で戻ってきた女に出せる貫録か…?」
「秦への恭順を仲介して今は直属の上司になった白漂も、大女狂いなどではない貫録を覚えさせたがー…」
「…楚の捕虜にされたと聞いた時はヒヤリとしたが、特段に手を付けられてはいなさそうだな…」
「今回の実質的な敗戦を受けても、彼女が戻ってきてくれたならそこまで動揺はしなさそうだな…」
韓側の要人達は初見の者が多いゆえに康熙のその存在感へ畏敬に近い念を生じさせ、秦側は彼女と前から付き合いのある北涼の出身者を中心として安堵を覚えていた。
「…本当にすごいんだな康熙って…今さっきの短い登場だけで周囲の会話の多くを占めちゃってるよ…」
その宴席の場には蒙恬も加わっているが、その裏背景には隣に座る信の方が詳しかった。
「…そりゃまーよー、今の秦で最大の金の生る樹である北涼で更に海にも面している満州を一代で纏め上げてここまで繋げたっつー女傑だからよー。ぶっちゃけここに出てる料理も半分近くがあの姉ちゃんがいなければこっちに回ることは無かったろうからなー…」
その二人の目前にも並ぶ料理には、内陸国であるここ韓ならめったに目にしない鮑や鮭、マグロに昆布など海産物が多く用いられており、それは韓側には珍味として大きく注意を向けさせていた。
「…これならばー、捕虜交換の時に李牧が康熙の身柄返還にめっちゃ反対を表明していたってのもわかるなー。紅剡に黙らされたらしいけど…交換の時もめっちゃ
「まあ、それはさておいてー…こっちまで政…じゃなくて王様も出向いてきたし、ここまでお土産を持ってきたってことはよー。韓も韓で例の要求は断れねーだろうけど…その野郎がいつまでたっても来ねえなぁ…」
信が背後を振り返ると、彼の席に近くも数段は上な上座の一角にまだ誰もついていない席があった。
「…なあ、いつまでもあちらの席の御仁が来られないようだが?」
「う、うむ…その件についてだが…後日で貴国に送るのでそこまでー…」
この場での上座の最高席の一角に座している秦王嬴政はそのことを気にかけていたが、隣に座る韓王韓安は何やら不安そうで落ち着きのない様子であった。
「…遅いな。ある意味で今回の秦王来韓の主賓なんだけど…ちょっとなんか知らない?」
「知らんな。だが…一番考えやすいのは…
そのことを不審に思う白漂が問いを生じさせるが、何か成蟜が良くない感じで心当たりのある苦い顔を浮かべたその時、裏側から上座に繋がる扉を開いて一人の男が現れた。
「? 何だあの男は?」
「身なりからして韓の王族のようだがー…?」
「…え!?」
「何故あの方がここに!?」
「警備部隊は何をしていたのだ!?」
それに秦側で気づいた面々は困惑するが、韓側の多くは不安を隠せない様子になって上座を見やり始める。
そして、秦側の席に進むと信はその顔に見覚えがあった。
「あ! あんたは確かここまで来る時の韓の衛兵にいた…!?」
「や、やあ…ついさっきぶりだねね。飛信隊の信んん…答えは出たかい?」
「…か、韓非…何のつもりだ?」
「「「「「!!??」」」」」
そのやり取りに不安を強めた韓安が問い掛けるが、それで男の正体を悟った秦側の多くは驚いて視線を一斉に向け始める。
「さ、さっきのの問いへの答えはぁ決まったかい?」
「いや!? どういうつもりだ」
「ぶ、豚以上にに貪欲ななな秦へわわ私が行けるようにに…人の本質が…善か…アアアア悪か…答えられるかかかな?」
「「「「「…!!!!!?????」」」」」
故に、その問いは声量こそ大きくなかったが内容は周囲にしっかりと聞き取られ、秦側の多くは動揺して韓側はその多くが顔を青ざめさせた。
(…何を言ってんのおおおおおおおこの人おおおおおお!!??)
その中で最も顔を青ざめさせている王元姫は顎が外れんばかりに開いていた。
「…少しお待ちください。先ほど…このような酒宴の場とはいえ非常に聞き逃せない内容が聞こえたような…」
少し沈黙に陥っていた中、秦側より介億が怪訝な顔で問答に割り込んできて、それが王元姫に失われていた言葉を取り戻させた。
「そこまでお気になさらないでください! 何も貴国を豚よりも貪欲な国だなんてことはー…あ」
故に取り繕おうと必死になったが冷静さが戻り切っていないのか一番触れてほしくない部分を復唱してしまい、王元姫は青くなっていた顔が今度は白い彫像になった。
「…う、うん…言ったよ。貪欲さがが…ぶぶ豚以上のくく国…それが秦だ」
「「「「「…!!!???」」」」」
(…あ、終わった…)
そして、韓非の口から出たその止めで周囲はどよめき、王元姫は心がガラスのようにパリンと割れて目が白目をむいた。
「…あーすみません。酒場の席なので酔った勢い混じりの品のない冗句が聞こえましたけどー、そう評される理由についてお聞かせしてもらえればー…?」
「「「「「「!!!?」」」」」
それに対し白漂は普段の酒場での知人同士での集まりのような感じで難なく問いを掛けるが、それで秦韓双方の緊張は増していく。
「…し、秦は武力に任せ…止まることなくく…奪い…肥え続ける…し、秦王の欲望のままに…な、何の…思想も…信条もなく…獣のように…故にに…豚の国だ」
「…………………」
その中で、韓非はその秦王である嬴政が居る前で暴言を続けるが、嬴政は特に感情を見せない静かだが気が濃い顔で見下ろし、それが周囲の強張りと恐れを却って集めながら再び静かにしていく。
「…ぷ…く…くくくくくくくく!」
「「「「「…!?」」」」」
再びの静寂を乱したのは、腹を抱えて笑いを堪えていそうな成蟜であった。
「…な、何がおかしい? 秦の王弟殿?」
「…いやぁ、失敬失敬…まさか…今この中華にある法家で…最高位であろう貴殿の口から…まさかその貴殿を産んだ…我が母の国でもある韓をも否定する言葉が出ようとは…意表を突かれたというべきか」
「!?」
「…先生が…?」
「韓を否定?」
通常なら激怒してもおかしくはない中で、それとは逆な余裕綽々ともいえるその態度に韓側から戸惑いが上がる。
「…秦が豚だというのなら、その秦と接している中で…嘗ての大国にして主君であった晋の利権を欲して反旗を見せ、その旧領を三分して奪った韓は…自らを守る大きな傘を捨てて豪雨に身を打たれる道に迷い、そうして弱って只の餌になり果てた…“目先の利しか見えない鼠の国”ということか」
「「「「「!!!???」」」」」
その韓非の暴論を逆手にとった更なる暴論は韓側を大いに刺激し、怒気が染み込んだ視線を一身に成蟜は浴びるが悠々とした態度を崩さない。
「またれよ長安君*1、ここ韓の血を半分流す貴殿ならば当時の晋の混乱とそれに抗うため立ち上がった我らが先人たちの苦悩を知らぬわけがありますまい。いくら先の什虎割譲と援軍の恩があるといえどこの場でそれらを侮辱するなど許せませんぞ」
その中で洛亜完が双眸を細めて威圧してくるが、そこでさっきまで静かに見守っていたあの男がレスバに参戦してくる。
「ああ、当時の晋における公室の弱体化とそれに伴う晋国内の混乱は史書で知っている。それを解決するために韓魏趙が変わって諸侯に名乗り出て東周に認めさせたこともな。ならば、小国を大国が併呑をするのが政情安定のための大義の一つとなっている今では、この韓からより強い他国に離れて安寧と繁栄を得ようとするのも無理はなかろう」
「「「「「…………」」」」」
嬴政のその歴史を踏まえた理屈による封じ込めは、韓側の怒りが先ほど以上の言葉になるのを抑え込んだ。
「…あの皮肉と嫌味の上手さ、血のつながりを感じさせます…」
「………」
「ぎゃはは」
目の前のレスバの光景に、自分の先祖をその材料にされた姫昭は極めて微妙そうな笑みを浮かべ、信は無言の苦笑い、録嗚未はすっきりした感じの軽い笑いを上げる。
「韓非、これ以上話を脇道に逸らしても無駄なのはわかるだろう。そろそろ本題に入らぬか?」
「…………」
「その本題がそなたに秦への移籍を躊躇わせている最大の理由だろう」
「…そ、そうですな…わ、私から見て…し、秦は“歪”だ」
そして、場の中心は途中での割り込みを挟みつつも、嬴政と韓非の静かだが濃い気を放つ問答へ移る。
「…こ、酷法の国とお表世間では悪評をを集める秦だが…れ、冷徹なようで…情を感じさせる面がある…。法でのよ、弱い人間をほ、保護する条文しかり、さ、先の合従軍での蕞戦しかりり、今年にあったた毐国反乱のう裏の対応しかり…秦王、貴方は“性善説”ではないか?」
「いや、それの何が問題だよ?」
「し、信殿…す、既にそこにいる李斯も在籍しているのを考慮すれば…し、秦は中華の統一後…そ、その外への交流を含めた…巨大…法治国家を築くのをを…既に見据えているのだろう」
「…え? 先生…?」
「だ、だが…法は人を放置すると…豚みたいなことをするという“性悪説”をを前提として生まれたものだ。そそれを…“性善説”を前提に切り替えて組みなおすとと…なまじ規模ががでかい分…前代未聞の豚になるぞ。そんな馬鹿なな事業に私はは加わりたくない」
「なら韓非先生、その疑問への答えを持つ男が一人そこにいますよ。ほれ」
その問答の途中で白漂が指さしたのは自分の懐刀である信。
「…は!? 俺!?」
「いや、だって君がさ一番うちの王様と心理的な垣根とか一番少ない…を通してほぼなしな同然で近いし、こういうのは本人に言ってもらうよりも近い第三者に言ってもらった方が主観と客観が良い塩梅になりやすいし」
「さ、左様…こここういうのは本人の口ではい、言い辛い…故に、き、君に問いたい…に、人間の本質は…善か? あ…悪か?」
急に話を振られて信は慌てるが、韓非本人が距離を詰めてくると周囲の注目は二人へ集まってくる。
「いや、そもそも善とか悪ってなんだ?」
「「「「「…????」」」」」
故に、信が逆に問いで返したその言葉に周囲の多くは目が丸くなった。
「他国を侵して人を傷つけるのが悪なら、昔に韓を無茶苦茶にしたことのある漂の爺さんの白起や王騎将軍は悪か?」
「ム?」
「おいイイ!?」
そのまま信の問いが重なっていくにつれて、身内というか秦側の英雄にまでディスられるような形で及び、騰は目を細めた他の秦国人の多くから悲鳴や怒りの声が上りだした。
「馬鹿言うんじゃねえ! 亡き殿達の何処が悪だ!? 秦の地を他国から守りながら領土を広げた英傑だぞ!!」
「でもさー録嗚未、その過程で漂の爺さんも王騎将軍も敵は大勢ぶっ殺してるわけだろ。そうなりゃー敵の遺族からすれば身内を殺した悪人ってわけでー…いや、それは俺やお前もそうだし…けれど確かー、什虎攻略の時に桓騎軍と共闘していた時、桓騎兵は桓騎を悪党を見るのじゃなくてすっげーキラキラしたものを見るような目つきしてたぞ」
「隆国みてえに細かいことをねちねち難しく言うんじゃねえ! つかそんな言い方だと殿が桓騎の腐れガキと同列みたいに見られるだろうが…!?」
そのまま今この場における秦国人で気の短さでは一位を争うだろう二人の間で口論が深まりそうになるが、それに興味深そうな顔で韓非は口を挟んできた。
「し、信殿は善悪の定義自体が難しいとと言いたいか?」
「人の良し悪しなんざ時と状況や立場で変わる。戦場じゃあころころ変わるからいちいち考える暇なんてねぇ。だから関係があるとは思えねえ」
「まー、自分や敵味方の生死が関わる戦場だとそもそも考える暇なんてないよねぇ。せいぜい陣地に戻った後で次の戦いではどう味方の損は減らして敵のそれは増やすかで脳みそはほぼ使い切られるし…」
「は、白漂殿…き、机上にて他者が集める情報をも元手に思考をめめ巡らせる学者にはそれはは耳が痛いがが、故に…君に聞きたい…そ、その…善悪の垣根を問えないせ世界で…君達が見出した…ひ、人の本質とは?」
「「「「「………………」」」」」
韓非の重なるその問いに、周囲は静かのその続きを見守る。
(…李斯の言によれば性善説性悪説論争から離れた境地に韓非は至ってると聞いたが…)
(おそらくこの問答での答えで韓非の秦移籍の有無が決まる…)
(いったい…何と答えれば韓非は納得するのだ…!?)
そうして重い空気に支配されつつある問答の場だが、そこでまた一人の割り込みが場を揺らす。
「信、お前ともあろうものが難しく考えることはない。ただ、感じてきたもののままに話せばいい」
「!? し、秦王!?」
「大王様!?」
嬴政が上座から降りてきて励ますその光景に周囲は思わず騒めく。
「正解を答えようではなく、十分に経験してきたものをもってお前が感じた…人の本質を」
「「「「「……………」」」」」
その嬴政の静かだが重く確固とした信頼と、それを向けられる信に周囲は静まってその答えを待つ。
「…そうだなー…じゃあ、俺が覚えた…人の本質はーーー…」
「「「「「……………」」」」」
そして、信が迷いからではなく既に答えを見出しているのがわかる声音と瞳なのを周囲は感じ取り、注目はより密度と重さを増して集まっていく。
「“火”だな」
「「「「「…!!??」」」」」
「!? “火”…だ、だと!?」
故に、信が放ったその答えは周囲、特に韓非を大きく戸惑わせた。
次回、原作で貴重な信の名レスバシーンの高まりが、この世界での要素に応じた変化も含めて出てくる予定です。