278 見栄を張らねばならぬ帰り路●
○秦始皇9年(紀元前238年) 中華西部 秦国東部 対韓国境線付近○
「…はあ、居城に帰ったら…よりも国内に入ればもう馬車に机仕事で壺詰*1になるのはわかるとはいっても、やっぱり母国に入ると不思議な安堵がある…」
韓の王都新鄭を発って数日が経過して秦との国境線を超えた後、白漂は王の馬車から甲冑姿で出て硬くなった全身の骨をぽきぽきと鳴らしながら出てきた。
「…ああ、紅剡が韓国内に疫病を撒いたと宣った時はこちらまで流行してくるのではないかと咸陽も警戒したが、それらしい病人は出たものの今は博王谷の配下になっている旧成恢軍が対処したことで大事には至らずに済んだので、このまま俺達は咸陽、お前は北にそのまま直行で帰れるだろうな」
「ああ、単于制解体以降は四分五裂したところを武力と支援で上手く細分化しつつ再編していた所を、斉王来秦やら什虎攻略に楚王のお見舞いでそこから今回の南原だったからねー。めっちゃ北を空けたなー…」
「優先順位があるとはいえ思ってみれば危ないことをしていたなこっちは…」
「まー、こういう時になるとーこっちの敗戦の報もあるから、今が反乱を起こす好機って半端に狡猾な連中は立ち上がってわざわざこっちが潰しやすくなる口実を作ってくれるのを考えればー、今後の秦が国内を強く上手く再構築するにはそういうのは膿出しというか再利用する良い好機だけどー…。今回は留守役を任せたのがあの三人だからなぁ。即効性と効果は別として絵面が良くない意味で派手な状態になってるだろうなぁ…」
「言葉と理屈で解決するのが一番だが、通じるのが居れば通じないのがいるのも人だからな」
「…まあ、北への帰り道の間は北に戻った後よりかはまだ楽そうだから…その間は馬を走らせつつ少しの休みに入るよ…」
続けて嬴政も出てきたお互いに少し屈伸をして骨をぽきぽきと鳴らし合った後、両者は二手に分かれてそれぞれ急ぎ足でそれぞれの持ち分に戻っていった
○中華西部 秦国東部 対魏国境線付近 某城邑○
「「「「「………………」」」」」
だが、秦国に戻って北への帰り道の途中、顔の表情など細かい描写はあれど白漂軍の面々は立ち止まって陰鬱な殺気を生じさせている虚ろな視線を一点に向けていた。
「…か、咸陽からの緊急指令です…。魏、魏国の衍氏城を我が秦国の一軍が攻略したので…その…戦後処理を早く済ませるために…そちらは北涼へ帰る途中に寄って手伝うようにと―――」
「「「「「…あ!?」」」」」
「―――おってひいいいいィ!?」
その一点にいる咸陽からの伝令は震えながらも中央からの指示を伝えるが、それで白漂軍の虚ろだった双眸が血走ったものに変わり、備わっていた怒気と殺気がいつ物理を伴ってもおかしくない状態で強化され、泣き叫んで失禁するまで己の股間を濡らすまで恐怖も高まってしまった。
○中華中央部 魏国北部 衍氏城○
「…おい白漂、いくら実質敗戦の後でも大将はそんな顔を見せ続けるものではないぞ」
白漂達が伝令に殺気を浮かばせてから数日後、かつては魏国北部の要衝として存在していたその巨城が、高く分厚かったその城壁は所々で崩壊して望楼は全て粉々に打ち砕かれ、城内からも多数の火の手と悲鳴を上げている中、秦国西方に広がる山界を統べる女王楊端和が輝かしい笑みを白漂一向に向けていた。
「…ごめんね。久々の敗戦でまだそういうのは見た目にも大きく響く年齢だからさぁ。まあ、精神的には良い清涼剤を久々に嗅げたから良いけど…」
「…う、美しすぎる…ああ、めちゃくちゃ死ぬかと思った負け戦の帰りでやつれ果ててた心がぁ…癒されぇ…」
「で、でも何で山の民が魏の城を攻め落としたんだ?」
それに白漂を始め白漂軍一行、特に尾平は大きく疲れを癒され始めた顔になりつつ、当然の疑問が上り始めた。
「いや、前の合従軍における蕞救出の功で楊端和は秦から“大上造”という爵位…大将軍の位を貰っているから別に秦軍として戦うのは不思議じゃないよ」
「え!? 本当か貂!?」
「…ま、また六将に近い武威が出来たってことかー…!?」
「あーそういう前向きな話は後にした方が良い信。今はここからどう上手く引き上げるかが重要だから」
「「「「「…え!?」」」」」
だが、上向き始めたその空気は白漂に水を差された。
「ああ、こっちも元から予想済みだ。おい、人手が大勢来たから後のことは任せるぞ百眼族族長ハダマとその末娘ウダマ」
そこで背を向けた楊端和に変わって、目の装飾が沢山ついた仮面と一体の兜をかぶって同様の衣装を羽織った男ハダマとその娘ウダマが出てきた。
「え? だ、誰だ?」
「あれ、何か山の民っぽいけどその山の民も知らないっぽい?」
「…ち、こんな汚れ仕事な時ばかり矢面に出しおって!!」
「おのれ自己顕示欲の化身の楊端和め! 普段は我らが討たれて参謀が居なくなるのが怖いとほざいてひっこめ続けて我らが生み出した策による成功を全て自分の名声としているくせに…!!」
「まー嘆くな娘ハダマよ、今はそれよりも山界の賢者一族百眼の名に懸け、この城及び西にある堤防と北にある山川藪沢を早く上手いところ生かして魏軍をここへ長丁場させるぞ」
「え、こ、この城を守るんじゃないのか?」
「いや、今の秦軍にこの城を守るのは無理だから。そして守れない拠点は嫌がらせに使う方が良い」
その百眼族族長の親子と白漂は周囲の戸惑いに構わず、この地から上手く撤退する算段を進める。
「その通りじゃ。そもそも今回の作戦は先の毐国反乱の後始末及びそれを契機とした国内の再編で外に大きく兵を秦が動かせなくなったところで、倭と斉のドンパチを見て今の内に韓を分捕っておこうと動いた楚を、秦が止めようとするもそれも結局あまり上手くいかなかったのを見て好機と動き出した魏軍の出鼻を潰してその侵攻を止めさせようというもの。だったらこんな城に留まっても長丁場の泥沼にしかならん以上は向こうだけにそれをさせるのが最良に決まっとろうが」
「そういうわけでさっさと帰り路に戻って北に帰るためにさっそく動くよ皆ー」
「それとさっそくこの辺り一帯の地図だ白漂」
「どうもありがとう。それと生き残りの住民や捕虜はいる?」
「ああ、城を落とした後でも抵抗していた連中がいたから何名かは巻き添えが出ない内に派手な見せしめにしてつるし上げはしたがそれ以外は大人しくなったんで縛っているだけだから安心しろ」
「そうかー、じゃー皆ーまずはー…」
「「「「「…へーい…」」」」」
そして、この三人を中心として声音からしてやる気はないが色々手慣れている白漂兵も含め、秦軍はさっそくテキパキと動き出した。
「…な。なんだこれは!?」
数日後、秦軍は居なくなったが、代わりに城壁も中の住宅も一部の瓦礫を残してほとんど残って居ない衍氏城を見て、この地の奪還及び救援の軍勢を率いて来た呉鳳明が画然としていた。
「し、秦軍は昨日一昨日の内にこの地をもう離れたようでー…」
「民や捕虜はどうなった!? 確認した死体の数からして多く生き残っておろう!?」
「そ、それがー…」
だが、それはまだ序の口に過ぎないことを呉鳳明達は知ることになる。
「た、助けてくれー!」
「このままだと魚の餌になっちまうー!」
「ギャー! 水嵩がまた増してきたー!」
「押さないでー潰れちゃう!」
数分後、呉鳳明が駆けつけたその現場は、瓦礫でせき止められた川とそれで生じたダム湖、その中にポツンと出来ている幾つかの小島をぎゅうぎゅう詰めにしている衍氏住民の姿があった。
「…ど、どうやら秦軍は住民まで駆り出して堰を壊して城を打ち壊し、その瓦礫で川を別の場所でせき止めた後で住民らを縛って丘に取り残して…それで今はー住民達はあのように水攻めとなっているようでー…」
「お、おのれぇ秦軍の外道共めぇ!!」
「船を用いて住民を救出しろぉ!」
「そ、それがこの地の船も多くが壊されていて残されている住民を全て救うには今すぐ動いても数が足りずー…」
「だったら秦軍が勝手に築いた堰を壊して水嵩を減らせぇ!」
「そ、そんなことしたら下流の町や村が洪水に遭いますよぉ!」
「ええい! 魏軍を総動員して隣りの川に残ってる船を移動させて小島に取り残されてる住民の救出を優先しろぉ!」
秦軍の嫌すぎる置き土産に魏軍から続々と悲鳴や憤懣が立ち昇って大気を震わせる中、更に追い打ちは続々とやってきた。
「うわー! 火の手がここまで来たー!」
「助けてー! 焼け死んじまうー!」
「ええい! 早く縄を切れー!」
「川から水を汲んできて火の手を止めろー!
数分後、衍氏城の北にあるその山にはそこの木々に縛り付けられている住民とそれを救助している最中の魏軍、その彼らに悲鳴を上げさせて急かしている火の手が隣りの山から徐々に近づいてきている姿があった。
「…よーし、魏軍はもうあっちの救助で必死になっているから今の内に嫌がらせしつつ秦へ戻るぞ」
「…おい、大丈夫かあれ?」
「大丈夫。呉鳳明は何だかんだ真面目で有能だから今ここで住民らを見捨てた場合の人心の離反の可能性がわかるから、必死に救助するし、それが間に合うように住民の縛り付けの配置や川をせき止めている場所に火つけの数や位置はしっかり調整してあるから。まー魏側がこれを反秦宣伝に使いはするだろうけど…」
「…まあ、お前ならなんだかんだその辺の計算は欠かさないだろうけどよ…恨みつらみは」
「中長期的にきついけどこっちがまた外に出る頃にはもうそんなの微細になるくらいの力の差がついてる」
その光景を少し離れた遠方の山より、白漂は望遠鏡で除いて安堵しつつも微妙な視線を向けている部下を宥めていた。
「父ー、橋を壊して山道は崖を崩して潰しながらついでに今は荷物にしかならん塩を顔からろくでなしなのがわかる魏の役人の畑にまいてきたぞー」
「おおーさすが儂以上の神脳を持つ我が娘ハダマ、即興の悪知恵も冴えて来たな。お前の亡き姉たちと言い儂の娘たちは凄いなー。あの白漂の小僧も若さからまだ甘くて荒削りだが素地自体は非常に悪くはない。お前の姪っ子にして我が孫であるあ奴らと交わればお前の生徒もさぞ良いのが来るだろうてー。例の話も進めとくかー」
「…ん? 何かまた良いのか嫌なのかよくわからない嫌な予感が…?」
ちなみに少し離れたところで撤退を進めている百眼族親子がそんな会話をしていると、白漂は嫌だがどこか慣れた感じのする寒気を覚えた。
結局、白漂達の計算と呉鳳明達の必死な救助作業もあって水攻めや火計の死者は出なかったが、そのことに手間取らされたことと白漂達の更なる妨害工作によって、魏軍主力は今回の秦軍とは本格的な会戦には至らなかった。
そして、韓救援戦で楚軍に実質的に敗戦した後も、今回の電光石火な衍氏戦は秦軍まだまだ侮れずという印象を広く知らしめ、また魏軍も秦軍によって無茶苦茶にされた衍氏地方の復興に駆り出されることになり、秦魏国境は再び落ち着きを取り戻すこととなった。
○中華西部 秦国中北部 朔方郡 朔方城○
「…お帰りですな朔方侯。今回の成果は手痛い教訓というところですか…」
「こちらこそこっちの見通しの甘さでこんな北の留守役を押し付ける形となって申し訳ありません…」
衍氏にて魏軍に嫌がらせをして一週間後、北部安定へ早く戻れるように水軍に乗せてもらって通常よりも早く居城に戻れた白漂は、嬴伯満の出迎えを受けていた。
「…すいやせん。魏軍に嫌がらせした後は帰るのを最優先してたんで色々と見苦しくなってて…」
「初めて出会った頃に比べて謝りが最初に出るとは何だかんだ成長しているな信殿、さあ、皆も風呂や粥の準備はしているので早く城内へ…」
「ごちになりまーす」
こうして白漂軍は楚王の見舞いから色々とあって寄り道をさせられつつ、朔方城に多くが帰着してそこから皆がそれぞれの家や領地への帰り道となって解散となった。
「…ただいまー」
「「「「「お帰りなさいませ、皆様」」」」」
数分後、城の正門を潜って人々からお帰りの挨拶や気遣いの言葉を浴びつつ彼らの前で半ば虚勢と自覚しつつもシャキッとした様子で城下町を通り、住んでいる内城に入ると白漂は家族の出迎えを受けた。
「ああ、ただいま。それでごめん…留守中の内助の功を徒労にさせるような結果にしてー…」
「そんな前線で戦う方々の苦労に比べれば私達のものなんて気安いものです。さあ、この場で立ってお話しするのもあれですからどうぞ中へ、それと
「はい、ひとまずこの場で初めまして。この度、白漂様の第十一夫人となりました王元姫と言います。どうぞお見知りおきを…」
そこで留守番組の代表である魏亶が馬上から降りた白漂の身にやさしく触れた所で、今回の件で秦側へ正式移籍となった一員である王元姫が軽く自己紹介してきた。
「おかえりー、どうにか今回も再会できたわねー」
「ああ、そっちも急な無理難題ばかり押し寄せてきて大変だったと聞くが…」
「…へえ、あれが韓の今の名宰相のお孫さんっていう…」
「色々な子が来るここだけどー、完全に外国から来たって子は初めてよねー」
「髪の色はこっちではあんまり珍しくなくなった金髪だけどー…」
「今も残っている国とは裏では当然ひも付きのままだろうしー…」
それで遠征から戻ってきた組と留守番組は再会を喜び合いつつ、新たにそこへ加入となった王元姫に興味や警戒を禁じ得なかった。
(…警戒はされているけど当然ね。この時代だと嫁は実家から嫁ぎ先を調べて伝える間者としても求められるし、今回は国も関わるからー…致命的な尻尾を掴まれるのを避けつつ此度の関係を韓秦双方の利になると印象づけて、韓へ情報を流せられるようにしないとー…!?)
王元姫もそれは当然察しつつも今後の白家での立ち振る舞いや行動について思索していくが、そこで慌ただしく早馬が駆け込んできた。
「お疲れのところ申し訳ありません! ですが南方から大事な報せが入ったのでどうか何卒…!!」
「…あー大丈夫。今年は色々と起き過ぎたから…もう感覚が麻痺したというのもあるし…帰ったばかりで残ってる気力が少ないってのもあるけど…もう何が起きても驚かない自信があるから…」
白漂は城内の群衆では見せていた精悍な笑みなど消えてどんよりとした顔をギギギっとオイルが切れた機械のように伝令へ向けるが、その報せの内容は彼の転生者要素を悪い意味で極めて刺激するものだった。
「…楚王が帰国したその日に病死した模様です…」
(…ああ、あの遠征自体が…自分も何か史に名を残すことをしたいって王様特有の欲もあるけど…それ以上に、病気で余命が少ないのを自覚して…跡への遺産を少しでも増やそうって
そこまでは現世由来の知力や経験で白漂もどうにか納得させられる内容だったが、次の報せはそれだけの予想の斜め上を行くものだった。
「…それでー、楚王が病死した日の翌朝にて…春申君が急死していた模様です…」
「(…あ、たしかこの年…このイベントもあったなー…)…あ…そ………う」
その転生者ならではの知識を嫌な意味で大いに刺激する内容に、白漂はやっと家に帰れたという弛緩もあってか、擦り切れていた精神的耐久性もぷつんと切れ、糸が切れた人形のようにパタンとなった。
「…あ、ついに倒れた」
「皆、寝所まで運んでー」
「医術組は動ける子を一応全員呼んでー」
「…え!? 何なのこの反応!?」
それを紅華ら古参の女性達は見慣れた様子でテキパキと対処するが、あまりにも慣れ過ぎているその動きのあまり感情がない様子に王元姫は一種の薄情さを覚えて思わず素の声が出た。
次回、キングダム本編でも政の加冠の儀と共に大事件として描かれた、南の国でのあの事件に中心が移る予定です。