○秦始皇9年(紀元前238年) 中華南部 楚国北部 王都郢(旧名寿春) 国営葬儀場○
「…う、ううぅ…!」
「殿ぉぉ…」
「おい、この参列者の数、昨日から先に開かれている
「王の葬儀以上…うはぁ…」
白漂が朔方城で楚国からの大事変の報せを聞いて数日後、その南の都で開かれているその葬儀は大勢の嗚咽と悲涙が木霊しており、近場の高楼から楚の第二将媧燐とその側近バミュウはそれを眺めていた。
「退けぇ!」
「何がどうしたらこうなるんだ!?」
「止まれぇ! ここから先は参列者だけだぁ!」
「…あのやかましさ、帰国直後に別経路で他の前線に向かわされた項翼と白麗も戻ってきたようですなぁ」
「どうしてあんたまで死んじまったんだよ!? 春申君んんんんん!!」
「…くっくっく、色々とんでもないことが起き続けた年だが…最後の大トリはこの国が飾っちまったなぁ」
媧燐が見下ろすその葬儀場に生じたその混乱は、南の大国の行き先を暗示しているように見えた。
「…はぁ!? 明日に即位する考烈王の嫡子が実は血が繋がってないだぁ!?」
数分後、いくら他に人の気配がほとんど無いとはいえ、人に流布したらまずいその内容を項翼は驚愕した声で叫んでしまっていた。
「いくらここにゃー私の子飼いしかないからって声でかくすんじゃねー猿。王が
「だ、だから二年前にやっと
「だがその王子達を生んだ李環ってのが元々は春申君の女で、その子を身籠っているのは隠して王にその妾として献上されて、その後に男子が産まれたからそのまま王子になったっつーわけで…明日に即位するのがその王子っつーわけだ」
「…え!? じゃあ…本来の楚の王家の血はー…!?」
「途絶えるって寸法だな」
「そんな馬鹿な!?」
「そんでこれからの楚は春申君一派と王子を生んだ李一族のものになる
「!?」
「だが、王の死んだ日の翌朝に春申君が血をめっちゃ吐いてぶっ倒れてそのままくたばるなんて事態になった。その結果、楚のこれからの国政はめっちゃ怪しいが李環の兄である李園って奴が取り仕切ることとなった」
「はぁ!? そんなのまかり通るわけねえだろ!!」
「まったくだ。だからその件も含めて今後の楚をどうするかって連中から会見の申し込みがあった。お前らも同席させてやるから場合によってはぶっ殺せ」
「え!?」
そのまま媧燐は項翼と白麗を驚愕させる内容を吹き込みつつもバミュウに馬車を走らせ、ある館を目指していった。
「…おー、装甲でも仕込んでいそうな分厚い唇あいかわらずだな媧燐」
「ち、テメエにしちゃー悪くねー置き土産残してやっとくたばったと思ったら、やっぱりまーた血の気が戻ってきてんじゃねーか病弱紅剡」
「まーそうカリカリするな。ちゃんと見合う話は用意しておるからのう」
「れ、廉頗ぁ!?」
「…うはぁ…」
そうして自分達がたどり着いた館で待ち構えていたその面々に、項翼と白麗は重苦しい威圧感を覚える。
「しっかし、大変なことになったのぉこの国もぉ」
「居候のくせして偉そうに言いやがって。仕切り役を失った宮廷豚共はブヒブヒ鳴き合っているとこだろうなー。王族や譜代に外様問わずグダグダしやがりだしてやがる」
「そこに
「…そこまでテメエの耳にまで入ってきたか」
「列国、特に周囲を大国に囲まれて外に広がる余地が無かった連中にとっては絶好の攻め時だな」
紅剡が小馬鹿にしたような笑みで見上げた天井には、今現在の中華の地図が広げられており、特に三晋へ視線が強く向けられていた。
中原で三晋と呼ばれる魏趙韓は古くから栄えている中原に本拠地を置いていることで土地自体は豊かだが、既に開発された後なので内側の潜在能力は高くなく、更に周囲は秦燕斉楚匈と言った大勢力に囲まれているので、これまでは成長の余地がない状態が長く続いていた。
だが、その状況は今年において大きく変わった。
匈奴は李牧登場以降の大敗の連続の果てに靖涼の変で解体の憂き目に遭い、その遺産を巡る争いで燕と秦は北に大きく力を割き、後者の秦はそれと毐国反乱で生じた国内の動揺で外には大軍を向けられなくなって、斉は国を立て直した文王*1の死で即位した田孝の愚行で倭国との全面戦争に入りつつあり、さらに今度は楚で王と春申君が急死して国自体が揺れ出している。
これは三晋にとって外へ国を、特に南に向けて領域を広げられる数少ない絶好の好機であるといえたのだ。
「韓の張の糞爺がさっそく動いてんなー。あいつ裏では魏の鳳明の早漏小僧や趙の郭開の豚に連絡を取りつつ、今回の葬儀にもシレっと出て北当たりの楚に潰されて吸収されて裏でブヒブヒ抜かす元中原諸侯系の外様豚共とも密通してやがる」
「…儂が趙で現役なら内側の立て直しに集中したい秦に恩を売る形で和平して背後を固め、張氏の奴を介して同じく南に食指を伸ばしたくなっておる魏韓と一時同盟して大軍で一気に南下して領土を大いに削り取るところじゃあ」
「「………!!」」
今の母国の危機的な状況にまだ若い白麗と項翼は冷や汗を大量に掻いていく。
「そうならないように楚の朝廷を再構築せねばならん。それも楚が考烈王・春申君体制の時よりも更なる強国になるように」
「…え?」
「だ、誰?」
そこで見慣れない男が会話に加わってまだ若い二人は戸惑う。
「…ん? 何ださっきから廉頗の隣でうじうじ頭を下げていて黙っていた文官野郎が急にしゃべりだしやがって? 病弱紅剡が寝台に寝転んでいるのはいつものこととして私や廉頗と同じ席に着くとは良い度胸だなごら」
「ふ、そうカリカリするな。今回、宮廷から来た密使で
「…ほー、私を見返すとは良い度胸だがさっさと失せな。私ゃー宮廷豚共なんざ嫌いなんだよ」
「私も武官は吐きたくなるほど嫌いだ」
「「!?」」
だが、その男が媧燐の痛罵にも屈さずに堂々言い返すと項翼と白麗は驚くが、男はスッと立ち上がる。
「だが、国家瓦解の危機を防ぐため、私は貴殿らに頭を下げねばならぬ」
(!?)
(頭を下げる?)
「それぞれが楚国第二・第三将、南部の支城も含めれば三十万の軍、東海で弱小の頃より死闘に身を投じて今や軍船四千艘超の中華最大最強の水軍を創設して倭寇から東方を守ってきた貴殿らの力が必要だ」
「!?」
「三十万に四千艘!?」
((なぜそれを!?))
若人二人が明かされていく情報に驚きを強めて楚の大将軍の側近らが困惑する中、その男は勢いよく頭を下げて声を張り上げる。
「私と共に摂政と宰相に着いて楚が真の大国となるための土台を築いてくれ!! 媧燐!! 紅剡!!」
「…な!? こ、この二人が…!?」
「摂政に宰相ぉぉ!?」
「…落ち着いて話をするのは久しいな」
「! 紅剡…こいつがテメエの言っていた…!!」
「ああ、私が春申君の
そこで、自分の正体と提案に別時間軸と言い方の違うその罪状を明かした李園に、若人らは驚愕するほかなく、要人達の目を大きく見開かせ、楚の運命は大きく動き出した。
○中華西部 秦国中央部 王都咸陽 王宮○
「…楚の摂政と新宰相に…紅剡と媧燐が着任と…」
「は、あの李園が変令を用いて、まだ二歳の幼王を支えることを名目に、紅剡を
李園が開いた密会より十数日後の朝、咸陽にて昌平君と介億は神妙な顔を浮かべていた。
「…あの李園という男、我々の見立て以上にやり手であったということでしょうか?」
「だろうな。それよりも、問題は今回の件で楚の摂政と宰相に就いたのが、南原で騰と白漂を後手に回らせ続けて韓攻略の手前まで進んだ紅剡、合従軍戦で騰と蒙武を出し抜いて函谷関突破寸前まで至った媧燐、この二人は前任の春申君と違って生粋の軍人にして知将だ」
「趙は自ら李牧を追い払いましたが、その当人が逃げ込んでいる楚でも、こちらの殿のように軍略の天才が宰相に就いてしまったと…」
「それだけで上手くいくほどあの国はたやすくはないが…」
「もとより我が国にあちらを急襲する余裕は
「…ああ、そうだな…」
この二人の会話はその日の内に上奏文として纏め上げられ、嬴政も国内の現状を知っていたので、三か国和平締結後の秦楚の平和はしばらく続くこととなった。
○中華西部 秦国中北部 朔方郡 朔方城 内城○
「…とりあえず、また北から南へのとんぼ返りならぬとんぼ出兵は無くなったと…助かったか…」
「助かったわね。今は冬で雪も降っているから家の中の整理が中心だけど、雪が溶けたらここから北に引っ越さないといけないから…」
咸陽が楚の政変と中原諸国の動向を表向きは静観すると決めた日の翌朝、その旨を鳥で伝えられた白漂と紅華はホッとしていた。
「今は通れる道が少ないからそう大きな手は回せないけど、沿海郡に連絡して難民の受け入れの準備を進めた方が良さそうだね…」
「やはり今すぐ大きく動くとしたら、やはり
「ああ、斉文王が亡くなられた穴は大きい。咸陽の親斉派や秦国内の斉人も動き出しているし…」
だが、次に白漂の瞳は冷徹な光を帯びて東方に向けられた。
○中華東部 斉国東岸部 某城邑○
「…今日も何もなかったなー…」
「まあなー、最初の頃は“陽人”…あ、今じゃ“倭人”と呼んでるあいつらの報復がどうとかって言われてたけど…なーんも起きなかったなー」
「倭人の孤児の盗みとかも今じゃー取り締まりが進んで減ってきたし、東夷が小難しい道具を振り回して偉そうな顔で歩き回っていた頃に比べれば精々したよ」
白漂が懸念を抱いていた頃、その地である斉のあるその小さな町はかつての粛清など嘘のように平穏さが表向きは戻り、名残など城壁に上る兵士などの軽口などにしか見られなくなっていた。
「…それにしても今朝は霧が深いなー。特に海はもうほとんど見えないよー…ん?」
故に、彼らは忘れていた。
正確に言えば忘れようとしたがっていたに過ぎないことに
「…あれ? 何か霧の遠い向こう側から…黒いのが幾つか見えたようなー…!?」
「い、いや…俺も見えたぞ…!?」
「あ、あれ…何か…
そして、天災は忘れたころにやってくるという言葉の通り、斉人達が嘗ての隣人たちに振りかけた惨劇を忘れようとしていた頃に、そのお返しはやってきた。
「…お、おい…あ、あれ…!?」
「き、霧が晴れてきてー…!?」
それまで弛緩に近い安堵の顔を浮かべ合っていた斉兵達が城壁の上や望楼から霧が晴れ始めたのもあって見えてきた水平線に見出したのは、彼らに幾度となく恐怖を抱かせてきた存在の再来の証であった。
「…な、何だ!? あの数は!?」
「百…二百! い、いや…大きさのばらつきはあるけど千艘以上はあるんじゃないか!?」
徐々に霧が晴れてきた水平線から近づいてくるその存在は、見た目はもっと後代に出てくるはずの安宅船の特徴は見えつつも、ジャンク船や後代の西洋帆船の特徴も混じる船の大軍であった。
「!? わ、倭船の大軍だぁ!!」
「ひいいィ! 倭寇が攻めてきたぞぉぉ!!」
長らく忘れられていた海からの大人災が、史実や別時間軸では仮初ながら平穏をしばらく続けられていた斉に再び襲い掛かっていたのだ。
○中華西部 秦国中北部 朔方郡 朔方城 内城○
「…やっぱり、新斉王の自称国粋政策は盛大な自爆になったか…」
「ていうか何であのアクは強いけど頭はすごく良くて立派な王様からこんな馬鹿な事態を招く息子が産まれてそんで王様になったわけ?」
「…明君だからってその息子が英明とは限らないのは趙王家が示してますけどー、斉の方はー今の斉王が先の斉文王の唯一の息子というもあってー、更に母親が斉の楽毅合従軍戦後の復興で一番財を出してそれで稼ぎを増した大貴族なせいもあって廃嫡できなかったようで―…」
「更に他の王族には有力且つ有能は方が多いですけど、あの国は王族が多いのでそうした方はその分も多くて、文王が急死した時に誰を選んでも国内が揉めるのは確実だから、だったら消去法で王子を選んだようでー…」
「その結果、外と盛大に揉め出したと…」
斉国に再び倭寇が襲い掛かった日の晩、白漂達は中華東方にいる知人等からの伝書鳩でそのことを知り、新王の即位早々の暗君ムーブに微妙な顔を浮かべ合っていた。
「…それで周辺の様子はー?」
「中華の同胞の支援名目で燕が斉との国境付近に軍勢を集め始めているようでー…代わりに秦とは再び同盟継続の確認を求める使者が咸陽へ向かっているようでー」
「更に今は趙王の不興を買って巡察名目で趙東部を回されている郭開が王都に帰れる口実の手柄に出来ないかと、斉からの難民と倭寇の対処を名目にー自分の配下が多い東部から兵を集め出しているようでー…」
「そうか、じゃー当分は秦の国境はよそほど大きな騒ぎにはならなさそうだな」
外部にはあまり漏れないようにしているがそのスペックの高さから外との伝手も広く深くなっている嫁達と情報を集めつつ、白漂は夜の職場もとい戦場へ歩を進めていた。
「…そういうわけで皆ー、戦地の前線も職場に含まれる子も含めてー、来年は落ち着いて子供作れそうです」
「「「「「………………」」」」」
数分後、自分が平時の居城にいる際は夜の主戦場としている大寝所で白漂が発したその言葉に、彼の閨に属していて今この場では薄く白い寝巻だけになった女性達は無言で視線をお互い向けあい始めた。
次回、これまで戦後の後始末や政争関係などに尺を取られて書けなかった大人向けパートがやっと出てきます。