○秦始皇10年(紀元前237年) 元陽暦1年1月1日正午前 中華西部 秦国中央部 王都咸陽○
「「「「「秦国万歳!! 万々歳!!」」」」」
王元姫が朔方城に到着して十数日後、年が変わったその日の咸陽では正月の式典が開かれていた。
「…ねー、なんかさー正月の日が去年と変わってないか?」
「ああ、それなー暦が変わったんだってさ」
「暦が変わった?」
「今までの暦は月を基準にしてたけど、実際の季節は太陽の動きに左右されるからずれが今までのだと大きくなるんで、これからは太陽を基準に計りなおした“元陽暦”ってのを使うって。これから一年は基本365日だってさ」
「それで、俺達も正確な時間を知れるようにってあんなのが出来たぞ」
正月とあって色々な出店が並んで賑わっている咸陽の市内は中華の外からの技術も流入して、この時代ではなかなかの高層建築物が多く目立つようになってきたが、その中でその塔はひときわ高く目立っており、その頂上部の四面の壁には大きな円盤が付いてそれには大小二本の大きな針が付けられていた。
「…何か円盤の周りには数字が彫られているな。大きい方は一から十二で、小さな方は一から六十まで…あれ? 針が動いて…!?」
その塔に咸陽の人々が好奇心の視線を向けていたその時、その四つある円盤にそれぞれ付けられた大小二本の針が十二を示して重なったその時、大きく鐘が鳴らされた。
「うわ!? 人がいないのにあの円盤の上にある鐘が鳴らされた!?」
「大きいけどカラーンって珍しくて綺麗な音色だなぁ」
「あれが示す朝の六時と昼の十二時に夕方の六時になると塔の中にあるからくりの動きであの鐘が鳴らされるってよ」
「す、すげえ…」
「あ、あっちの方に新しい暦が貼られているぞ」
どういう理屈で動いているのかはともかく、とにかくすごい技術が用いられているのがわかった群衆は、そのこの世界で恐らくこの地で初めて誕生した“時計塔”である“明時塔”を見上げていた。
「…贔屓無しに凄いですぞ今回のカラクリと振り子を用いた時計も! 今まで中原の工人共が厭味ったらしく自慢してくる水時計なんぞ勝負になりません! 一日での誤差は十秒程度! 性能を知った時の連中の悔しがっていた顔や口汚く罵ってきた顔は今でも痛快です!」
「…まあ、こっちとしても天文の研究で大きく役立つから支援してくれたのは嬉しかったがー、発表の時期からして去年の終わりから意識を逸らさせようというのが見え見えだからなぁ…」
「ちょっとそれは言わないで!!」
それを近くの望楼より学者や工人達が感涙混じりで見ており、その中には周囲から突っ込みを浴びているいつもの仏頂面の江殊幡の姿もあった。
今回の時計の設計と暦の制定は江殊幡が中心を担っていたが、彼女が口にした通り新年早々のこれらの発表は秦の芳しくない現状があった。
秦趙馬央攻防戦で六大将軍最後の一人王騎が死んだ時、秦人の多くが自国の武威の低下を覚えて不安を感じたように、昨年に秦が韓救援戦で楚に王自らが敗北宣言を出して講話を乞うたことは同じ現象を起したのだ。
さらに馬央戦の時はその直後に趙から領土を六将筆頭白起の孫である白漂が奪って国威をいくらか取り戻したのとは違い、昨年はその白漂も含めた秦軍は負けて、蕞で国を守った若い英雄王が他国に出向いて土下座外交をした昨年の講和は、それ以上のショックを秦国民に与えたのである。
今回のも含め、今年の最初の月で予定されている各種の行事や発表はそうした不安から国内外の目をそらさせようという意図もあったのである。
「…まーその立て直しのために私みたいな技術者とか科学者の扱いが前にも増して良くなったのは個人的には良いことだな。特にあの暦が採用されたのはー…(他のと比べて…私から見ても出来が良すぎるのが元からあったのは気になるがー…)」
そうした現状を踏まえて江殊幡は明時塔の下部にカレンダー形式で張られた新たな暦である“元陽暦”を見やるが、彼女が不審を覚えるそれは、この世界では西域から入ってきた幾つもの暦の一種が元で、何故か白漂が前の世界にいた頃に用いられていた西暦と同じであったためだ。
「…そういえば去年のあの和約を裏で手引きした彼はどうしている?」
「…あー、あの方ならー…もう先月からさっそく動揺しだしている北涼に戻ってー…」
「自分で蒔いた種を拾いなおしにー…いや、それを契機として色々と北涼で今後を見据えた手入れや庭作りをしている頃か。咸陽のそっくり殿を含めた大勢を巻き込んで…顔はともかく手はうきうきしている頃合いか…」
その江殊幡の仏頂面は、今月に押し寄せてくる各種行事やイベントの切っ掛けになったあの男の今の動向への興味に変わると北へ向けられた。
○秦始皇10年(紀元前237年) 元陽暦1年1月5日朝 中華西部 秦国北部 涼湖郡 涼湖*1(テングリ湖)南部 ハダル島○
「「「「「わぁぁアアアアアア!!」」」」」
江殊幡に視線を向けられて4日後、その北涼の地は小規模な争いが各地でまた発生するようになっており、それはかつてこの地を統べていたこの世界での
『おい! 北のバーヤル達がやられたぞぉ!』
『くそぉ!? 秦の連中は南で負けてもうここには攻めてこれなかったんじゃないのかよ…ぎゃああああああ!?』
「…だからってお前たちみたいに一敗の報せを聞いただけですぐ牙をむくような無能に負けるほど弱ってないよ」
「むしろこっちはまだまだ成長期だ。負けをしてもそこでへこたれて終わるほどやわじゃねえ。立ち直ってさらに強くなっていってんだよ」
その一角にある湖の中にある大小多くの島の一つであるハダル島の戦場で、旧ドレゲネ派に属していた反秦勢力の賊の一つが北に帰還してきた白漂軍による討伐を受けて、今もその首領が白漂と信の二人の攻撃を同時に叩きつけられて討ち取られた。
「うわ! この辺りで出ている賊の中でも大きい方の首領だってのにもう討ち取っちまったよ!」
「今年は例年と比べて雪が少なかったからよー。道が通れるから早く北に戻れって安定化に復帰しろって言われた時はーまたくそ寒いここで戦をしなくちゃいけないかと思ったけどよー…。先月だけでもこの辺りのでかい賊三つ含めた十一を討伐か降伏させたからー、思ったよりも早く帰れそうだなー…」
「あれさー、絶対去年の楚との戦で負けた鬱憤もあるだろ…」
その戦ぶりは周囲の秦兵から見ても目を見張るものがあった。
「く、くそぉ! 何で多くは石の都の連中かそれに近い南の連中ばっかなのにここまで強いんだよぉ…ギャアァ!?」
「まあ、同じ北の民でもこっちと同じ人間である以上はピンからキリまでいるんだろうけどよぉ。お前らよぉバラントと共に来た匡涼*2や燕とかに逃れた連中に比べて…弱くはないにせよ強くねぇぞ」
「まあ、北の地の中でだけど一番実入りが大きいここテングリ湖一帯を牛耳っていた連中だからなぁ。土地が肥えているとその分は外への戦に出なくてもよくなるし…」
「まあ、その分に恨んでいる連中が大勢いたからな(ノルドとかヘレネスとかフェニキアとか満州*3とか、河川や海に住んでいるところのお前らに高い税を取られた連中は、
その後、敵の残兵の掃討も兵士達が進めていってこのハダル島と周辺における反秦勢力はこの日の内に掃討された。
『…よーし、避難民に流民たちよー飯が出来たぞー』
『うう、ありがとうございます…』
「ふぅ、まさかこんな冬の時期でもこんな温かい飯に困らないなんて…」
「…こっちが持ち込んだ後で南へ戦に戻った後も残っていた方の組があちこちに回って配って教えていた成果が上手く出たな」
戦が終わった後、避難民や捕虜達に食事が振舞われていたが、その食材の多くはここ北涼の地で採れた作物で、特に馬鈴薯など芋類が目立っていた。
「中華では偏見が強くて目立たなかったけどここ北の民も半分くらいは農業で生活しているし、時期に応じて栽培できるもので農業を兼業している人も大勢いるわよ」
その炊き出しの場面を望楼で眺めながら咸陽への本日の戦の報告書を書いていた白漂の安堵に、今は第一秘書の立ち位置となっている紅華は答える。
実際、別時間軸における後代の研究でも、ここより更なる北にあるバイカル湖の湖岸でも、この時代のものであることがわかっている農園地帯の遺跡が発見されており、他にも水量が豊かな地域では黍や麦などが広範囲に栽培されていたことがわかっている。
その様相は靖涼の変による
北の地で単于家や中心を担っていた種族*4の変化などはあっても、長らく北の大地で要石となっていた
そうなれば、当然として大勢の流民が発生するわけで、彼らはより安全な場所を求めて移動するわけで、同時に住民を持たない打ち捨てられた空白地も広がっていくのである。
「はい、本日の分のここへ流れてきた流民達の書類と、打ち捨てられた土地の再配分、この二つを繋ぎとめるための支援、支援を支えるための各有力者からの手紙、今日中に署名しないといけない分を抜粋してきました」
「抜粋してきてもこの量ですか…(この時代の紙はまだ厚いし、木簡や竹簡も混じっているけど一年分のコロコロ並みの分厚さはある…)」
「仕方ないでしょう。今年は雪が少なかったけど、その分にあの混乱を生き残ってここまで逃げて来られた人も多いのだから。さ、今はまだ公表されてないけどここが私達の新しい家になる可能性が高いのだから…」
「…まあ、種を撒いちゃった本人としての責任はとるよ…(…けれどまあ、既存の旧勢力の多くもバラバラになったから、嘗てみたいに大きな種族や
望楼にも遠慮なく積み上げられる書類の山に白漂はうんざりしつつも、その頭と目利きの鋭さで今現在は通常よりも楽であることと、この再編をどうこなすかが秦の再起動にどれだけ影響を及ぼすのかも理解していたので、机仕事も手を抜かずにこなしていた。
「おい! そっちの柵の内側は城壁を立てる予定だからゲルを張るな!」
「へー、取れた作物をこれくらいおさめりゃー農具や種とか田畑は只でもらえるんかー?」
「本当だ!」
「あ、これが見本の種。特にここみたいに寒さが長く続く土地にはうってつけの馬鈴薯のはこれね!」
「市場はそっちだ!」
「城壁や堀は後で良いから今は将兵や住民の家を優先しろ! もちろん後で壁や堀を立てる時の邪魔にならないようにだ!」
「足りない石材は北の二つ島を挟んだガナン島に採石場に出来る岩場がある! それでも足りない分は南の龍城の捨てられた空き家をばらして持ってきていい!」
「雪が少ない今の内に進めとかないと後で大雪が降った時に凍死するぞ!」
「幸いにも水路の多くは凍ってなくて使えるから満州からも遠慮なく買い付けろ!」
「今の運ばれてくる船荷の量に比べて港が小さすぎる! 働き手はこっちで募集中だ!」
書類の合間から見える涼湖の湖岸の各所は、各所から流れてくる流民や将兵に人夫でごった返していたが、そこは人間の活気と熱気が無数に立ち昇っており、今の時期は本当に重要だということを示していた。
(…利権の寡占やそれに伴う腐敗がなるべく少なくなるように、既存の種族は多くが流民化した今の内に秦本土から流れてくる移民と適切に混ぜ合わせて再編して、各所に再配置、それに伴ったうちの軍を中心にしつつも、咸陽の警戒を高めるのを避けつつ他国の工作を取り締まれるようにするため、国以内の他の派閥や勢力も上手く抱きこんで北涼での各軍事拠点や城邑の新築、そうしたものの新築を要として残っている既存勢力の再編と改革…うっわー、これ全部を僕が万が一に早くいなくなった場合も含めて上手く回るようにしなけりゃいけないのか…他にも前から進めてる戸籍及びそれに付随する各種事柄の調査もあるし…。そんで朔方城から引っ越す予定のこの地の大開発や築城も混じるし…。まー…ここの家を建てるのもこの辺りの地形や土質に気候も調べつくさないといけないから大変だけど…築城は好きだから、こういう趣味を生かせる分野ではすかさず鬱憤を晴らしてかないと…、家でも戦場でも机仕事から逃れられない…けれどもほぼ毎日戟も振るわないといけないこの生活じゃー身が持たないよー…)
「あーそうそう、それと大事なお報せの一つ。
「!!!???」
こなしていかなければいけない仕事の種類と量がその概要だけでも多いことに白漂は改めてうんざりするが、そこで個人的には最も
「…いやいやいやいや紅華さん、そ、それさーいくら何でも話が早すぎません? 僕の娘たちは一番上の蓮でも満年齢で二歳くらいだしー…その辺はもっと大きくなって自分の意思で決められるようになってからー…」
「は? 何を言ってるの? こういう権力者の娘なんて嫁ぎ先には相応の家じゃないといけないし、あの子達ってあなたの血のおかげか子供の内から頭の出来の良さがわかるくらいに勉強もできて顔立ちも将来は美人になるのがわかるし、何よりこの時代の他の有力な家とはこうして太い繋がりを得ていかないと商売とか色々で困るでしょ」
「紅華、蓮の嫁入り先の大族や貴族の婿の名簿や資料の最新のものの場所は知ってるかな?」
「あぁ藍蘭、それなら今はこっちにー…」
「ちょっとお母さん! 自分が腹を痛めて産んだ娘さんがものみたいに扱われてるんですよ!」
数秒の沈黙の後に白漂はギギギとだがどうにか再起動して前々世の価値観的に真っ当な発言をするが、妻が不思議そうな顔でこの時代的な反論をしながら側室と共にそれ系の話を進めようとすると、素の憤りの咆哮が出た。
「それを言うなら私達があなたに嫁いだのもだって秦との関係強化のためもあるんだから同じでしょ」
「ああ、それで私達はそれを承知の上であなたを男として愛しているぞ」
「それでも娘が可愛いのが父親というものなんです!!」
「すぐ本音が出たな」
「あーもー、今回のは軽いお見合い…ですらなくてうちの子達と同じくらいの子がいる関係のある家とのあいさつ回りみたいなものだからそんなに狼狽しなくていいわよ。何よりあの子達もまだ小さいし、こういうのは本人たちとの相性もないと上手く長い付き合いは出来ないしね」
「…そ、そう…」
「…まー、その分にあなたには色々な意味で夜も働いてもらうけど…」
それに面倒くさそうなものを見たり、可愛いものを見る顔を浮かべつつ話を逸らした妻達だが、途中から紅華は目元が暗い笑みを浮かべて夫の耳を摘まんだ。
「…幸いにもー齢が若くて身も丈夫で可愛いけどー、性格や背丈に人種や趣味で他の嫁の貰い手がないって子達がー、これだけ増えた人口の分も増えているのでー、
「は、はい…無論、自分の責任は自分で取りますので…」
「よろしい♪ 幸いにもセレーナ達がお風呂場は真っ先に立ててくれたので身は綺麗にしてね♪」
声こそ柳のように柔らかいが自分の肌に触れる握力が増していってやがて愚息に圧迫感を及ぼした時、白漂は先ほどの怒りなど消え失せて従順を通り越して卑屈な使用人のようになり、そこでようやく紅華は綺麗な笑顔を見せた。
「あ、そこで偶々通りかかったのを興味が沸いて盗み見している元姫さん、今日の分の書類の追加のあなたの分はそっちにあるから持って行って。それと今夜の女の仕事要員はあなたも混じっているから」
「…デスヨネー…」
ついでにその笑顔は、ようやく慣れ始めた感じと諦めが混ざっているような世帯窶れ感が髪から何本も現れている王元姫にも向けられ、乾いた笑みを彼女に生じさせた。
次回、今回は見せられなかった大人向けシーンがありつつも、それも絡めて秦国内の変わっていく各所の様子が見えてきます。