○秦始皇10年(紀元前237年) 元陽暦1年2月20日朝 中華西部 秦国南部 蜀南以南某所○
「「「「「ウオオオオオオオオオオオ!!」」」」」
「「「「「ゴガぁぁアアアァアアアアアァ!!」」」」」
白家が北の大地で本来なら嬉しいはずの肉親との再会を微妙な空気で終わらせた日の朝、それとは反対の秦の南の辺境は今も異文明や異民族の言語も交えて、亜熱帯や熱帯の色が濃い密林や山岳に湖沼地帯問わず、戦による怒号と喚声が各所より立ち昇っていた。
「…昨年、楚との大戦で窮地に陥った挙句に恥を中華中へ晒す羽目になって国内の彼方此方が荒れ始めましたが、こちらはすぐ落ち着きが戻り始めましたなぁ」
「この辺りは咸陽と比べて猛暑がきついと聞きましたが、噂も当てになりませんな」
その秦南部の一角に玉鳳隊の姿があった。
昨年には対魏前線の著雍大要塞に駐留していた同隊だが、南原戦とそれの講和に伴う対楚韓前線の安定化と騰の対魏前線帰還に伴い、今は北部と同様に荒れ始めている南部の再平定と再編のために、練兵も兼ねて同地へ再配置されたのである。
「今はまだ冬場だから気温が上昇していないだけだ蒼望、夏場になると猛暑に加えて豪雨や疫病も首をもたげてくるぞ。特にここから北の育ちで風土がなれていないこちらは夏にはどうなるかわからない」
その練兵や再編には南方への流民や秦国内各所の余剰人口による移民も含まれており、そうして生まれた植民市の警備が今の玉鳳の主要業務になっていた。
「今日の小部族は久々に骨がありましたが、合従軍の時と比べるとやはり物足りませんなぁ。もういっそ向こう側のまだ返事を寄こしていない部族を見て回りますかぁ」
「先週にそう言って西の村に入ったら豪雨に出くわして道に迷って謎の馬鹿でかい蠍とかいう虫に刺されて三日寝込んで死にそうになったのを忘れたか黒金。ここでは我々は新参なのだからその第一印象を与えてばかりいる時期に不要な威圧感までは止せ」
そうした移民は秦の北側から伸ばされている交通路の整備と一体化しており、今も後代で言う東南アジアのどこかに繋がるだろう大河のどこかの港町で津*1の整備作業の監督をしている王偉は、弛緩が見え始めた現地を度々窘めたりした。
冬は長く寒冷となる草原がだだっ広い北涼も秦には難所なフロンティアだが、蜀南の方は長い夏が猛暑で湿度も高くて密林に覆われた未開の高地が多いので、蜀や成都などを元から開発が進んでいた南方の都市を南部開拓の本拠地とし、そこから道路を伸ばして繋げてその線路沿いに移民や流民を送り込み、補給網整備も進めながら開拓を進めていた。
「…王偉副長ー、間食に甘藷の焼きいもをお持ちしましたー」
「ああ、ありがとう。熱い所で頭ばかり使うからな」
その南方開拓でも白漂や楊端和が開いた西方交易路で流入してきた作物は絶賛活躍中で、特に甘藷は安く多く甘みが取れることで王偉みたいにデスクワークや通訳が主業務となっている面々には好評であった。
この時代の人間にとって食の確保は治安や統治の安定には後代よりもはるかに大きな比重を占めており、そこで大きなアドバンテージを得ている秦の南方進出は別時間軸のそれに比べて早く広く進んでいた。
一方で、気候などとの相性の良さもあって秦南部の新たに恭順した異民族が多い地域では新たな主食として広まり始めている木薯に次いで広まっている甘藷は、ある難点も広く知られるようになっていた。
「王偉殿ー、三日前に恭順したタドヌ族ですけどー甘藷の栽培を教えてほしいとー」
「ああ、それなら後方から新しい教科書の原本が届いているからそれを印刷してー…!?」
そこで甘藷について新たな申し込みが出た所で、王偉の下半身からブフォっと大きく奇妙な風の音が鳴り、少し遅れてプーンとした臭いが辺りに漂ってきた。
「…ぷっ…河の向こうのカドル村から連絡がきた。向こう側で反抗してる部族で最大のサダン族の弱点を知っているとー…」
「…そうですか。それなら私も通訳として同行しましょう…。ああ、それと明日には例の二人も合流してきますよ」
「何だと? こちらが職務で西から移った
「「「「「……………」」」」」
その場に別業務で偶々来た王賁は即座に背を向けて失笑を悟られないようにし、先ほどに甘藷由来の腸内ガスを無意識のうちに漏らした王偉は若干気まずそうな薄い赤面でその後を追い、周囲の玉鳳メンバーはほっこりした感じでまた弛緩し始めた。
○秦始皇10年(紀元前237年) 元陽暦1年2月21日朝 中華西部 秦国北部 涼湖郡 涼湖(テングリ湖)東岸部 某港町○
「…おーい、久しぶりー」
「おー、お前もこっちへ再配置かー」
玉鳳隊が正史時間軸ではあまり見られなかった悪くない感じの弛緩に襲われていた(?)日の翌朝、北へ再配置となった楽華隊と飛信隊が再会していた。
香辛料など中華では貴重な物産が多く取れる蜀南も広大な未開地だが土地柄から大勢力は育ちにくいのに対し、草原が広がって行き来しやすい北涼は旧匈奴など敵勢力も大きくなりやすいことと秦のドル箱となっているユーラシア内陸交易路や海上ルートに繋がっていることもあり、咸陽は南以上に北と西へ力を入れている一環であった。
「うわー! 蒙恬様ー!」
「何つーかーやっぱ北涼って雪国だからか色白で髪や瞳の色が妖精みたいでお付き合いも積極的な子が多いのが良いよねー」
「蒙恬様ー早くお仕事のお話をー!」
そんな中でも蒙恬のモテる陽キャ性質と胡漸の突っ込み気質は相変わらずであった。
「…まー彼女達との再会の喜びは今夜のお愉しみまで待ってもらうとしてー。ちょっとー玲花千人将お教えしてもらえるー?」
「あー、その点についてはこっちにも地図があるからー」
そんな脇道に度々逸れそうになりつつも一応任務内容の確認作業へ入る。
玲花が広げた地図はここ涼湖を中心とした北涼の今現在のわかっている範囲での地図だが、同じ尺度の秦本土地図とも黄河や長江など大河川を中心で繋げられたもので、河川網や道路網を中心に細かく描かれていた。
「…で、どう見る?」
「……昨年の終わりの講和でこの内側に力を入れないといけない時期に、転んでもただでは起き上がらないとんでもない大戦略を打ったな先生は…」
「ええ、だからこれだけ多くの手が回されているのよ」
「ああ、先生達は秦国内を
「「「「「!!!!」」」」」
その地図を蒙恬など頭が切れる者達は注視していたが、その中で特に着目していたのは中南部で黄河と長江を支流も交えつつも繋げる繋恵渠、そのノウハウを生かして黄河と黒竜江を繋げるための大工事が進められている荒間がある朔方郡、その北の大地の中心にあって黒竜江を始めとする大河川と多く繋がって海とも結ばれている涼湖であった。
今現在、秦国が進めている国内再編で要となるもので大きなものが二つあった。
国内の無国籍地帯や未開地なども対象にした戸籍拡大と、それで新たに生まれる余剰労働力を用いた国内交通網も整備である。
その内の前者が大きな支えとなって後者の要として、情報操作を含まれつつも大規模に進められていたのが、“三水大環”計画である。
三水大環とはざっくり言うと、“黄河と長江に加えて北の海に繋がる黒竜江まで繋げて流通量を増やして経済のパイそのものを増やそう”というものである。
この時代の輸送というのは機械動力が
実際、繁恵渠によって黄河と長江がつなげられてからは両大河流域地帯の経済活動は激増しており、軍事面でも先の韓救援戦では各地に散在していた残りの予備兵を素早く動員して、楚による韓征服を阻止するのに大きく役立った。
その成功を受けて、今現在は朔方郡の荒間で黄河と黒竜江を新たな運河で繋ぐ大工事をしている最中である。
この計画が成功すれば、ユーラシア内陸部及び西方異文明世界を繋ぐ陸上交易路が、東海三国を経由せずに東方異文明世界がある海と水路で直接繋がることになり、秦はその能率的な中継基地として莫大な利を手に入れられるのである。
その中でこの世界の黒竜江の中間点に位置して多くの支流と繋がる涼湖は、その計画の北における要石の一つして位置付けられていることから、同地には白漂軍に限らず秦国内の各派閥や各有力者も加えて再開発と安定化が進められていたのである。
このような軍事的な領土拡大による税収という形での搾取ではなく、流通の促進で経済そのものの質を向上させて拡大し、国民そのものを富ませて国力を拡大するというのは“奪った方が早い”が常態化している戦国時代では少数派の異端であり、気付けるのは蒙恬も含めて数えるほどしかいないだろう。
「…この目論見に気付ける少数派だろう李牧が楚に追われて影響力を失い、春申君が死んだのはこちらには不幸中の幸いだったな。あの二人が実力行使できる状況だったら絶対に潰しに来ていた。もう一人の気付いてる紅剡は楚内部の再編と地盤である江東が対倭方面で手を抜けないからそこまで邪魔できない。韓は同盟を組んでその権益にくっついている形であるから邪魔になるような妨害は基本無理。燕は合従軍戦を除けば昔からの同盟国で且つ地力の差からそこまで心配は無し。趙は李牧を追い払った愚王が外部に消極的過ぎ。真面に対決の姿勢を示してる魏は距離がありすぎるのと国力差からせいぜいが間者を用いての破壊工作程度…。去年の終わりの謝罪外交で国内に緩みが生じたのはあれだが、今年は本当に秦が生まれ変わるには良い年だ」
「そんだけデカくてすげえ計画を進めてるんだからそれを守るための手はきちんと打ってんだろ」
「ああ、黄河と黒竜江の繋ぎ目に位置する朔方郡には、王伯*2の嬴伯満様が新たな朔方侯…もとい朔方公として封じられた。そして、ここ北涼には涼湖中心に白漂が…失礼、安涼公が奉じられ、他の地域含めて各所は他の諸将や諸侯を再配置して再編は進んでいるよ」
「…代わりに机仕事が主の人達はどこもかしこも過労死してないのが不思議な顔になっているけどね。李斯様が復帰していなかったら仕事配分を間違えての過労死が続出していたわ…」
但し、それだけの大事業となると後代で言うところの公務員、特に文官達へ圧し掛かる負担と疲労は凄く、飛信隊の地元駐留組に常駐していることから彼らとその土地の帳簿を管理している水谷もそれに巻き込まれて目元に隈が出来て髪は無造作に何本も跳ねるようになっていた。
「…ま、まーそういうのを進める文官達の調査の護衛もこっちの今の任務に含まれるわけでー…とりあえず、今年をやり過ごせば来年は明るくなるよ…」
美女の心の機微には鋭い蒙恬が水谷から立ち昇る黒いオーラに気圧されつつ、周囲を安堵させようと言葉をかけた。
「…じゃー、当分は後ろからグサッとの心配はそこまではせずに秦の内側の馬鹿共を潰すか締め上げて引き込むかが中心になって、他は
「あー、それなんだけどー先生達が国外へ追放されそうになったんだけど、それは取り消しになったよ」
「「「「「…え? 何それ…?」」」」」
信が今の自分達の主にやるべきことをざっくりまとめて何となく問いを発するが、蒙恬から出たそれは周囲を戸惑わせた。
「…あー、詳しい話はねー…」
その反応を楽しみつつ蒙恬は言葉を続けていく。
事の始まりは昨年に起きた毐国反乱に関与有りと呂不韋が今年の始まりにて裁かれて相国を罷免されて隠居となり、また雍に幽閉されていた太后も咸陽へ帰還できた件である。
毐国反乱に大きく関わった人物の多くが外国出身者なのを受けて、これまで成果を出せず要職に就くのを許されなかった国内貴族達が大勢声を上げたのである。
「呂不韋も嫪毐も他国の人間だ!」
「だーから内戦を起すのだ!」
「これからは秦人が国政を担うべきだ!」
「それと楊端和と白漂もだ! 前者は女の分際で国外が拠点で後者は匈奴の王族の血を継いでいて実際に連中の王を名乗ったというではないか!」
「たとえ逆心がなくともその生まれで反乱の錦にしようという連中は必ず出るぞ!」
「その通りだ!」
ちょうどその頃、実務を担う文官達の大半が秦国内中を回っており、嬴政とその側近達も彼らと国内監督や慰撫のために同じようにして咸陽は留守にしていたので、彼らがその勢いのままに発した外交人追放の“逐客の令”の発令そのものは止められなかった。
「出自を問わない実力主義でここまで大きくなった秦で何を馬鹿抜かすかぁ!!」
「…ほほう、外国生まれだけでなくその血を引いているならば追放か。ならば俺は韓へ移るので少しでも他所の血をひくものはその御引きとして連れていくか」
「「「「「ひいいいいィ!?」」」」」
「…ずずー…」
だが、すぐに李斯の大喝と成蟜の根回しで法案廃止に伴って閑職へ再び追いやられ、韓非はその様子を秦での屋敷から茶をすすりつつ楽しそうに観察していた。
「…な、何ちゅーあほな話だ…だけど、笑いたくなるけど笑えねーぞ…それ…」
その話を聞かされて信はあんぐりとした顔になりつつも、瞳は難しいものを見る瞳になった。
「…まーそうなんだよ。今回のは新聞とかでも珍報扱いで乗っていたけど…、実際に一日とはいえ形になった以上は、これをもっと上手く使ってこっちの足を引っ張ろうって連中が絶対出てくる…」
蒙恬も甘菓子を口にしつつも同じ懸念を抱いている。
「…今後、力だけではかなわない以上は正面からではなく裏から知恵で挫こうという動きはますます強くなる。だからー人を鍛えるだけじゃなく、その足を付ける地盤とかも強固にしていかないといけない…だからー信…」
「「「「「…………」」」」」
その普段の気安い空気とは異なる蒙恬の平時では珍しい真面な威圧感に、周囲は息を飲んでその言葉の続きに意識を傾ける。
「そんな良い子がもう何人も出来てるんだから全員娶っちゃえよ」
「ぶふーーーーーーーー!?」
そして、茶目っ気が戻ったその提言に信は盛大に噴出した。
「ゲホゲホゲホ!? 何をしたらそんな話になるんだよ!?」
「いや、こんな時代なら普通だろ。有力なお家から嫁に来てもらって他家との関係を強めればその財で自分の領内を固めていくのもしやすいし、君の所の子達さー本人たちの出世にも連れて実家ももう地方とかで見れば十分に大きい地主や土豪になってるじゃん。このまま待たせておいて他所に横取りされたらもったいないでしょ。何より当人たち自身もズルいくらいに出来る可愛い子ばっかだしー」
「…え、えーーっと蒙恬五千人将…け、懸命な助言ありがとうございますがー…こういう何処が聞き耳を立てているかわからないところでそんな迂闊な発言はー…まあ近い内にすべきだともいますけどー…」
「あーはいはい、本音も混じる苦言をしつつもそんなすりすり後ろ歩きをして抜けるのは駄目よー」
「…と、とりあえずー…始拓から移ってくる皆に話を持ち帰って相談をー…」
「わ、私の経験はあまり役に立ちなさそうねー…!?」
噎せる信に蒙恬は少し呆れがちな顔になるが、満更ではなさそうな様子になった玲花をステラは可愛いものを見る顔で引き留め、晳琭はカチカチな動きになって他所を向き、水谷は苦笑を浮かべるがそこで悪寒を感じた。
「………………」
陣幕の僅かな隙間より、巨大な梟を思わせる虚ろだが澱んだ威圧感を放つ両眼がその場を盗み見ていたからである。
「…と、とりあえず全員の顔を合わせられた時に話し合おうか…」
「…あーうん、そうだね。けれどー早目にしといた方が良いかも。もう王賁は今年あたりに一人目が産まれそうだし…」
「なぬーーーー!?」
それにビビり始めた信であるが、同じく顔が引きつった蒙恬の新たな爆弾発言で再び顎が外れんばかりに大きく開いた。
「アアアァアあの嫌味ったらしいカチコチボンボン野郎が結婚だとー!? アアあれの嫁なんてよっぽど聖人みたいに心が広い子じゃなきゃ無理だぞ無理!!」
「あー正解、その
「え?
その正史と呼ばれる時間軸には無かった要素も混じる恋バナ(?)に飛信隊の女子メンバーも興味を強めた。
何やら、あの若様もこの時間軸特有のムフフ病の魔の手が及んだ気配が…。
次回、また秦南部のお話が出てきます。