○秦始皇7年(紀元前240年) 秦国中央部 王都咸陽 王宮○
蒙驁の死去を受けて秦国で昭王の時代を知る老将が減って悲しみと不安が過ぎるが、そこから立ち直らせるように慶事が発生。
この年に秦国の王子二名と王女一名が誕生したのである。
「あー! こらそんなまた勝手に這い這いで産車から出て! この前に階段を転んで額を切ったばかりでしょう!」
そして、後宮の一角で普段は怜悧として清廉な音色を聞かせる声が慌てふためいた声音を曝け出していた。
「またかー!? こらー扇琵ーだからその方から眼を離すなと言ったであろうがー!?」
そこは後宮と王宮の繋ぎ目の廊下で、同じく昌文君もまた動揺を隠さない表情で扇琵達と共にそれを追っていた。
「だーだー」
二人が追っているのは一週間前に扇琵が生んだ嬴政の第三子にして第二王子でもある嬴慧である。
嬴慧は生まれて数日で這い這いを実行して周りを驚喜させつつも、今や幼さに似合わぬその行動力と範囲で周囲を悩ませていた。
今回は後宮に繫がる王宮の大庭の牡丹の木をよじ登って母親と左丞相に汗をかかせていた。
「…またか、慧、こっちにいるからさあ」
「きゃっきゃ♪」
そこでまたかという感じだが楽しげな表情の嬴政が中庭を囲う高楼の二階から嬴慧を枝より抱き寄せて今回は終了となった。
「あ、陛下、お手を煩わせてしまって申しわけありません!」
「もう少し見張りも兼ねた世話役も手配させたほうが良いな。俺にとっても二番目の息子だ」
「………っ…そうですね…」
その姿に扇琵はギクッとした表情を浮かべるが、我が子を大事に胸で撫でている嬴政のその言葉で表情に翳を浮かばされる。
「またその不安か?」
「…えぇ、何せ男子で…且つ“二番目”ですから…」
階段で降りてきて寄り添う嬴政の気遣いに、扇琵は申し訳なさも手伝って却って表情を俯かせた。
国内外から教養ある美女が千人以上集まる後宮には、当然の事ながら外交も兼ねて各国王族の公主も次期秦王の母となるべく存在している。
そうした女性達を差し置いて、貧民の生まれでは無いが彼女達に比べて立場と後ろ盾はそこまで強くは無い扇琵が、息子の将来に不安を抱くのはその賢さに優しさからすれば当然であった。
長子にもしもの事があれば順当からして次男に向いてくるが、その際には後宮内の力関係は大きく崩れている場合が多いので家の力が弱い者から順当に消えてしまう。
「俺が生きている限りはそういったことはさせるつもりは無い」
「…ですが失礼ですが、人のやる事でしょう」
「…おい、あまり大王様にそんな事は言われるな…まあ、今の趙の政争を考えれば想定しないほうが不用心じゃが…」
「え…あの国で何か起きているのですか?」
その話しに絡んで自然と他国の情勢に移ってしまう。
「先の合従軍の大敗が原因で李牧が死刑にされかけたのを太子嘉が諌止したのだが、父の現趙王はそれを疎んで末子の方に太子を変更しようとしているらしい。それ自体はこちらにとっては悪くは無いんだが…実際に秦でも前に似たような事が有ったからな…」
嘗ての異母弟成蟜との内乱を思い返して表情が重くなった嬴政に、扇琵はある考えを思いつく。
「あ、それなら太子は決めてはおいても次の王が生まれるまでは公表はしないという事にしたらどうでしょう」
「? どういう意味だ?」
「いえー、だってまだ王が生きてる間に正式に太子を公表してたりしたら、選ばれた方がこれで自分の将来は安泰だと怠けたり、他の方があいつを蹴落とせば俺が太子になれるという感じで跡目争いが生まれるのでしょう? だったら公式な遺言書で決めてると公表しつつも内容は崩御直後か実際に譲るまでは公表しないようにすれば、後でこの子やっぱ止めた方が良いとわかってもこっそり内容を書き換えれば騒動は立ちませんし、誰が太子かわからないなら王子様達も目標決めづらいから派閥争いは起き辛いし、王が長命化したときにおきる不安を感じた太子による騒乱も起き辛いかと…え、な、何ですかその眼差し…?」
それは扇琵にとっては愛しい殿方の悩みが少しでも晴れればと言う軽めな思い付きから出たものであったが、嬴政と昌文君は目から鱗が落ちたといわんばかりの表情を浮かべ合っていた。
「お主、本当に女か…?」
「さ、左丞相閣下?」
「…何と言うか、琵よ…お前の今回の言葉…史書にも偉業として残るかもしれんな…」
「え、えぇ??」
後にこの発言が秦国の命運を別時間軸の歴史から大きく逸らさせる契機となる。
○秦国北西部 某砂漠地帯○
嫡男白陵の誕生に、側室である藍蘭と杏橋の懐妊を受けて数日後、白漂は大きく広がった秦国の北方領土の再編のために、別時間軸で言う内モンゴル自治区西部辺りに出向いていた。
「…よーし、今日の分の書類仕事も終えたし残りの時間は気分転換の散策に出るぞー」
後に秦国東北部(正史以上に北方の国境が伸びているのでこうなった)の屯留へ向かわされるとは知らず、そこで有意義な時間を過ごそうと白漂は一人で馬を駆け出させた。
「…ここも色々と楊端和達の伝で西域との貿易が広まったおかげで、乾燥してたり寒い土地でも多く育つ作物が入ってきたから変貌してきたなぁ。雁門の大敗が起きる前より各地から人が集まってきたと譜孝も言ってきたし…!?」
白漂は峻険な岩石砂漠に浮かぶ小島のように存在するオアシス辺りまで進んだが、そこの岸辺に負傷して倒れている人の姿を発見する。
「…あれは…? 露になってる肌に切り傷や矢が何本か刺さってる様子からして…北の各民族の種族引き抜きで起きてる内輪揉め辺りの落人か………? おい、大丈夫か……!?」
白漂は急な斜面が続くその岩場を馬で駆け下りて、その先の岩場に倒れているその人物を見やるが、その身をずらして掛かっているボロ布がずれると目を見開かせた。
「………………」
「は……女…の子…?」
白漂が目にしたのは十代後半と思わしき、西方系の血筋を感じさせる白い素肌に凹凸がはっきり付きつつ四肢の長さと引き締まりから来る理想的な長躯に、赤紫色状に見える短髪の美少女だった。
少女は苦悶の表情を浮かべているが水に濡れた様子からして溺れて気を失っているらしく、体温はまだあるが息はか細く心音も止まりかけていた。
「…何だか見た感じからしてそこらの家の子という感じじゃないな…とりあえず助けた方が良い…」
白漂は少女の上着を脱がせてその深い谷間を露にすると、次に彼女の閉ざされた薄桃色の唇を薄く開いて自身のそれを被せて息を送り込み、次に胸元に手を当てて数回両手で押し込み、それらを数分に渡って繰り返し続ける。
それは白漂の前世でいう人工呼吸という救命措置で、この時代では知るものは限られている方法だった。
だが、効果は高く少女は僅かに眉が寄りはじめて身もピクピクと震え始める。
「効いたか、これならもう大丈夫だ―――」
「へえ? 何が大丈夫なのかしら? あ・な・た??」
「―――あ…え……!!?」
それに白漂が希望を感じて表情を安らげたその時、最愛の存在である妻の感情が全く篭っていない声がその背に浴びせられた。
白漂が恐る恐る背後を振り返ると、そこには光が宿ってない双眸を添えた冷酷な微笑みを浮かべている紅華の姿があった。
「…護衛も付けずにまた遠出したから捜してみたら…何ですかその子は…?」
「え、えーーーーっと…偶々行き倒れている状態で発見したので助ける事にした謎の少女です」
「私には襲ってるように見えましたが?」
「…違うよ…」
「もしくは口説いて寝かし付けた後に手をつけようと?」
「…それも違うよ…」
「…とりあえず、お話しは町に戻ってからじっくりと聞くといたしましょうか?」
「…………」
自分の言が愛する妻からの信頼を完全に失った事を悟らされた白漂の双眸より絶望の雫が零れ出て、乾いた笑みが静かに大気を振るわせた。
○秦国北西部 吉蘭泰 新規入植地一角○
「ご、ごめん扁鵲…まさか貴方も監修に携わってた救命方法だったなんて…」
「まー傍から見れば襲ってるようにしか見えんからな。私も真面目に内容決めたのはそこで両頬を腫れ上がらせているそっちの旦那殿の思い付きからだし」
秦国の北部に新たに設けられた入植地の真横に立てられた白漂軍駐屯地の一角で、扁鵲が紅華に謝られていた。
ちなみに吉蘭泰とは白漂が思い出した中国地理におけるこの地の地名からそのまま拝借したものである。
「久々に拳で天を舞いました…」
「長い間西に行ってたけどあんま変わってねーなそういう所」
赤く腫れ上がった頬を痛そうに動かしながらそうなった経緯の一部を語る白漂に、西方山界から北部に帰還していた信は生温かい眼差しを送る。
「…お前だって初めてのときは4人だろ…」
「んぐ、いや貂…あれは薬盛られたのがあとで分かったし…」
「まー結果的には良かったけどねー。お互い抱いてた疎外感は低くなったし…」
「それにしてもこんな北にまで入植地が出来るなんて…西域との交易路が繫がったおかげで色々人が見られるようになったわねステラ。あなたと同じ人種の人もちらほらとだけどほぼ毎日見かけるようになったし」
彼らがいる吉蘭泰の新規入植地の一角に設けられた城壁の上からは、整備された道や川に沿うようにして商店が連なっているのが見えるが、そこには秦各所や山界に西域からも商人が大勢集って商取引が行われており、荷を乗せた車や駱駝によるキャラバンが毎日行き交っていた。
「儒者が幅を利かせて税制の地方差が多い東方とは違って、秦は税金がきっちり取られるが公正に画一化されてるからな。慣れれば価値のある品が有る以上商人も自然と集まってくるさ。特に取り引きされてるのがー…」
「さー最近に秦に加わったここ吉蘭泰でとれた岩塩だよー!!」
「おーい! こっちには西域から持って来た透き通る硝子と言うので出来た器があるからどれくらいと交換するー!?」
それを見下ろしてる白漂の視線の先には、この入植地の一角に中規模ながら城塞都市まで築かれた理由である吉蘭泰の塩湖があった。
その周囲には湖の水が蒸発し堆積して出来た岩塩などが広範囲に広がっており、内陸部から大勢商人が集っていた。
「あ、そう言えばー前にこの辺りを支配していた騎馬民族月氏の反秦派は確か…」
「はい、山界の皆さんと違って国交も帰順も拒否して更にこちらの領域に侵入の意志を示したので、商売の邪魔に思った楊端和様とこちらで挟撃されて西域のもっと西に逃亡した模様です」
「…あ、あーそうか…なら仕方ないなー…」
前世よりも早い大月氏誕生の予感に、白漂は歴史の流れの変化を感じた。
その後、紅華にいびられながらもこの地の再編成に関わる書類仕事をこなしていった。
○秦国北西部 吉蘭泰 治安不安定地域○
吉蘭泰塩湖の防衛都市での話から数日後、白漂達は同地域で秦への帰順を拒んでいた部族の残党から生じた盗賊などの討伐に勤しんでいた。
その中には、白漂が数日前に救命して拾った少女の姿もあった。
彼女は白漂に拾われて彼の郡で治療を受けた後、今までのご恩返しとして今回の治安回復政策の現場に従軍を希望して認められた身だった。
「しっ!」
「ぎゃあ!?」
「ぐえぇ!?」
「ごふう!」
「ぶばあ!」
少女がその手を振るうと、握られていた槍が一瞬だが消え、直後に彼女を囲っていた盗賊達の首から鮮血が吹き出た。
「すっげーなーあの嬢ちゃん! 確か名前は何ていうんだ!?」
「あー、確かー漂将軍が町に換える前に行き倒れてたから拾った子ねー。本人はー
その武技は信とステラから見ても卓越しており、特に槍の速度とその攻撃範囲については常軌を逸していた。
「あの戦い方…槍なのを考慮しても攻撃範囲が広すぎる…!?」
同じく感嘆しつつも違和感を覚えていた玲花はその理由に気付く。
「馬鹿がー! お前の槍よりもこっちの方が範囲は広いは―――」
「馬鹿はお前だ」
「―――あがぁ!?」
綴は己の槍を打ち込むときに最後まで両手で掴むのではなく、めい一杯伸ばした片手で走らせるように槍の柄を高速で滑らせ、すっぽ抜ける直前に石突で掴んで瞬時に戻すと言う独特の槍術を使用していた。
(…あれだけの速度で両腕どちらでも何度も打ち込んでいて且つすっぽ抜けてないとなると…武才も尋常では無いがあの年に反して実戦と訓練を極めて濃密に積んでいるな…!?)
その戦ぶりに白漂が関心を覚えるもそこで紅華が剣の鞘で彼の後頭部を結構な速度で打ち据えた。
「漂将軍! まだ交戦中ですから一部にばかり気を取られないでください」
「は、はいはい! 分かりましたー!」
紅華の体罰付きの諫言に白漂は別の隊に指示を出すべくその場を後にするが、代わりに今度は紅華が綴に対して違和感と不審を隠さない双眸を向ける
「こ、紅華隊長! まだ入隊したばかりの子をそこまで気に掛ける必要は無いかとー…」
それに自分も似た経験がある王京が戦斧を振るいながらも紅華に諫言してきた。
「いや、王京…そんなのだけじゃないのよ…何だかあの子…何処かで見たことが有るような…」
「あー、確かに言われてみれば…確か…東に逃げたあの大族がまだ強勢だった頃に…集められたクリルタイで…」
紅華が感じた違和感はステラもまた同様であった。
○趙国南部 王都邯鄲 王宮○
「何ーーーーーー!? こちらの北部からの税収が減ってるじゃとー!?」
中原に位置する中華の王道の華やかさを嗅ぐわせる大都市の一つ邯鄲の王宮の一角で、肥満同然の巨躯の男性が不愉快さ全開の表情で叫んでいた。
「宰相閣下ー、機嫌悪くなってるなー」
「おい、もっと声を小さくしておけよ。郭開様に聞かれるとしつこくネチネチ言われるぞー」
周囲から触らぬ神に祟り無しと避けられているその男性の名は郭開。
別の時間軸以上に合従軍での失敗が大きくなった事と、地盤である北部が白漂に削り取られた事で立場が弱くなっている李牧に変わって、別世界よりも早まる形で暗君と名高い現趙王によって宰相に任命された寵臣である。
だが、その郭開は普段のふてぶてしさ全開の態度はかなり薄れていた。
「は、はい…それがーどうやら秦との輸出入が逆転してしまって…向こうにどんどん富が流れている状況で…」
「そんな訳あるかぁ! 特に塩は燕や斉からのは儂らが中間を押さえておるからそれに税を上乗せして大儲けし取るはずじゃあ!」
「そ、それがー…こちらの品をご覧ください…」
その郭開の詰問に彼の側近は恐る恐る懐からあるものを子袋包みで取り出して見せるが、中身は岩塩などの塩であった。
「ど、どうやら秦が新たに北西や西方で広げた領地で解池同様に塩湖を見つけたらしく…それがこの通りに良質なものが大量に取れており…こちらからの塩の輸出が大幅に減って」
「な、何じゃとー!?」
「さ、更にー秦はその塩と絹などを用いて西域との交易を大規模にしてきており、そこから来た珍しい物品をこちらに輸出してこちらの輸入超過の状態に…」
「え、ええい! だったら向こうとの商取引に制限を掛けよ!」
「い、いや、それがー…」
郭開の怒声が自分の説明に連れて深まっている状況に、側近はますます言い辛そうな表情に変わっていくが、その直後に別の文官が恐る恐る口を開く。
「…あのー宰相閣下ー。先程大王様から透明な酒盃を落として割って葡萄酒が切れてその零れた分で西域絨毯がまた汚れたからもっと取り寄せてまいれとご命令がー…」
「ええい! だったらさっさと取り寄せんかぁ!」
「そ、それがーどちらも秦の名品かもしくは奴らを通さねば手に入らない品で…宰相様を通さずに決めるのは如何かなと…」
「…………あ…」
「「「「「………………」」」」」
その報告に始め狼狽と不機嫌さを更に増していく郭開であったが、理由の一端を聞いてその動きは止まり、更に周囲も派閥問わず言葉を発し辛い沈黙に包まれていった。
最後に原作で周囲に傍迷惑をかけまくったあの王様のその所業に本編で描かれてない内政からの影響を混ぜて書いてみました。
次回も原作には無い、白漂がいて生まれた影響についても絡めた話です。