○秦始皇4年(紀元前243年) 秦国北部 朔方郡近隣 始拓○
「…う、うぅ…あ、あの信が…マジで千人将にまでなって…しかも…こんな北の田舎とは言えこの広い土地持ちになるなんて…!」
それは秦が最後の昭王期六将王騎を失い、白漂が正式に朔方郡を治める朔方侯になってからさほど日日が経ってなく、まだ正史と呼ばれる時間軸よりも早く幽蓮を討ちに行く前のことで、尾平は目的地までの道中を牛に引かせている荷車の上で滝のような涙と鼻水を垂らしており、彼の周り同僚やその家族に友人、同じ職場先に向かう移民たちと共に飛信隊の面々が同じ方角を目指して進んでいた。
彼らは白漂軍の北部への赴任及び林胡(現在の林涼)の帰順に伴う北部新領土確定化のため、北への移民に選ばれた面々である。
「…それでー、今度向かう先の信の担当の地である始拓の地はー、元々は林胡の一種族と匈奴の一種族羌渠種が重複して暮らしていたんだ。元々は趙の前線基地である山砦があった地で、彼らはそこを中心に暮らしていたんだけど、李牧に雁門で負けて主だったお偉いさんと兵士が死んだ後で、それで生まれた空白の土地を狙う形で被害が少なかった他の種族が狙いに来て荒らしてるって状態だったんだ。漂がこの地の担当になって―――」
「カカカ、要するに最初はボロ城が始まりってことか。通ってきた場所も砂地ばっかだったし…でもま~逆にこれから大きくなるごとに好きに弄れるってわけだなー」
「―――ぇ…肝心なところ聞いてないね…」
その先頭を千人将へ正式昇格してこの地に地主も兼ねて配属されたという形になる信が気分良さげに鼻歌を歌いながら進んでおり、隣を共に進んでいる河了貂が呆れつつも安堵した雰囲気を纏っていた。
「…それでー、もうそろそろ目的地に着くかー?」
「うん、人さらいに捕まって中華に来るまでは良くこの辺りで広く放牧や狩りをしていたし、道はほとんど憶えてるから大丈夫…!?」
一行でこの地の出身者である玲花が信と共に先頭に立って道案内をしていたが、それ故にこの中で一番五感鋭い彼女は進んでいる丘の向こう側から見える煙や怒号の存在に気付いた。
「皆! 何かこの直ぐ先で戦闘が起きてる!」
「「「「「何ぃ!?」」」」」
「マジか! 直ぐに行くぞ!」
その玲花の警告に応じて一行で戦闘員に属する者達を信は即座に連れて動き出した。
『アアァ!?』
『…ちいぃ! よくも俺様の弟をやりやがったなぁ!』
『他にも仲間を大勢殺しやがって!』
『減った分はテメエの身に刻みつけてやらないと気が済まねえ―――』
「ふざけんなゴラァ!」
『―――えッてギャアァアア!?』
信が先頭に立って駆け抜けて丘の向こうにある林の中に入ると、そこで一人の怪我人が複数の男に押し倒されて今にもなぶり殺しにされようとしていたが、その直前に信が直に触れていた男から皮切りに次々と斬り捨てていく。
「………た、助かりました…。貴方たちが来なかった我らは死ぬかバラバラに売られていました…」
十数分後、目的地を襲っていた野盗団は討伐されるか捕縛された後、その者達によって捕らわれていた住民達の代表が秦語で礼を述べていた。
「…あ! ま、まさか…お祖母ちゃん!?」
その礼を述べている代表の老婆に、玲花が珍しく驚いた大声を出した。
「……え、その声は…って…お前はティファかい…!?」
「う、うん! あの日に拉致されて中華に売られた後で…色々あってあの人達に助けられて…」
半ば偶然で生じた仲間とその生き別れていた家族の再会に、信達は大人しく見守っていた。
「……………」
(…? 何かさっき信に助けられたあの金髪をした怪我人…なんか信に潤んだ瞳を向けてるというか…)
この時にて信に助けられた怪我人は仲間と家族の再会を静かに見守っている信を熱っぽく潤んだ瞳で盗み見ており、それに河了貂は信と玲花が関係を深めだした場面を目の当たりにした時と同じ危機感を覚えた。
実のところ、この時に助けられた金髪の怪我をした兵士は男物の衣装を着ていた事と、包帯で巻かれていたので気付かれてはいなかったが実は女性であり、この後に地本民の有力者の娘で既に実戦経験者であったので、その腕を知った信達に正式な隊員として迎え入れられて、副長になったステラであった。
『…シ、シスター…あの人達…凄いネー…』
『今はそんな事を言うな晳琥、連中が気付いていない今のうちに、先に襲っていて連中が盗み出して林の中に置いた物資を皆の所に持ち帰るぞ』
ちなみにその信達と玲花の同族のファーストコンタクトの場面を、少し離れた別の茂みに隠れて盗み見ていた者達がいたが、その中に晳琭の姿があった。
○秦始皇8年(紀元前239年) 秦国北部 朔方郡近隣 始拓 開拓地○
それから4年後にて、それは白漂が居城での何度目かの刺客騒ぎに乗じて、幾度目かの城内の間者の掃除をこなし、バトゥから頭曼単于の容態の悪化を耳にした後のことであり、北の地での反抗勢力の一つを制圧するもそこで燕の梁魁と嬉しくない再会を果たした日の間のある日の出来事であった。
「…な、何だぁこれは…」
後の時代ではゴビ砂漠と呼ばれる砂漠地帯である大漠の外れ当たりの一角で、4年前に信達が赴任された始拓の外れにある地であるそこにて、偵察の一環で国境を秘かに越えて趙軍の小隊がその光景に目を丸くしていた。
「よーし、五番水路の水門を開けー」
「きゃはは!」
「こらー! そんな所で遊んでいると井戸に落ちて流されちまうぞガキども―!」
「いやー、この西から商人が盛って来たって高粱って穀類はこの元々が砂漠だった土地でもよく育つなー」
「他にも砂漠でも育つ珍しい果物や野菜が入ってきてるし…」
「近頃はよく見るようになった西域商人が持ち込んだあの木も少ない雨で良く育つし、味も慣れれば美味いしなー。縄や建材とか色々使えるし…」
「まさかシロアリの蟻塚でここまで砂地が良い土に育つなんてなー」
「蟻塚が増えてから移住させられた時よりかは涼しくなってるし…」
「あのデカい山師のおっさんが滅茶苦茶水源を見つけるのが上手かったのもあるけど…」
彼らの記憶によれば大半が砂地で、僅かな雨季で生じる緑を巡って争う蛮族の姿しかなかった土地が、山裾の扇状地の水源から引かれた坎児井(地下用水路)の穴、地面から無数にはい出たシロアリの蟻塚が多く点在する緑豊かで広大な農地に変わっていた。
乾燥に強くて、実が食用となるナツメヤシや西方から届けた商人が付けた呼び名よりよりブー・フブーブと呼ばれるバオバブ、
「こんちわー、ちょっといいかー?」
そうした緑が広がる田園に一角にある村の一つに、車を引かせたりその背に荷物を背負わせた数十頭のラクダや牛の群れを引き連れた遊牧民の牧夫たちが現れた。
「あー、チャルゴさん久しぶりだねー。今度は牛と駱駝かい?」
「そうだよー、前の時みたいに収穫が終わった畑はないかい?」
「ああ、村の南側倉庫の隣りにある甜瓜(ここではメロンのこと)畑は収穫が終わったから草を食ませていいよ」
「ありがとうねー。お礼に塩湖から運んできた塩も安めにしとくよー」
「いいぞいー、そっちの塩は村の真ん中に行って、それでそこの肥えた牛はー…」
「え、村長いいんですか? 作物を食わせて…?」
「あー大丈夫だよ。向こうの他の収穫が済んでない畑に入らないように網で囲うくらいしてくれるし、それにああして草を家畜がしばらく食んだ後の畑って糞が撒かれるけどそれで土が良くなって次の種蒔き以降の作物の育ちが良くなるからなぁ。他にも家畜は草を食う時にその種とかもこぼすから牧草を撒く手間も省けるし、家畜も食わないような草もシロアリが食ってくれる…儂もそれを知ったのはそう昔のことじゃないけど」
「…へー、自分最近に南から移住してきたばっかだからまだここのこと詳しく知らなくて…」
それから、その村では農民と牧夫達が穏健で有益な取引を始めており、それは中華では北狄と呼ばれる異民族とは対立と交戦が基本である趙人には信じられない光景であった。
「…お、おい…ここだけじゃなく…あの高い山の向こうでも、他の地でも同様の地が広がってるらしいぞ…」
「本当か!?」
「秦が支配してから…北の方では蛮族同士の争いも少なくなっているとは聞いたが…李牧様に負けて狄戎の体力が無くなったせいと思っていたが」
「連中…李牧様の目が中央に向いている間に辺境をここまで―――」
「おい、そこのお前達…誰だ?」
「―――え…!?」
その光景とその広がり具合に趙の偵察兵達が驚きと恐れを強めていると、彼らの中に白いフードを被った人物が現れた。
「ッ! 貴様その訛りは狄のだな!? 他を呼ばれる前に死んでもら―――!?」
趙の偵察兵の長が瞬時にその立ち位置を見抜いて矛を振りかぶるが、その刃がフードへ触れる前に、フードは勢いよく宙へ投げ飛ばされて、代わりに砂漠の陽光を伴った銀色の輝きが生じた。
「―――あ…?」
それに気付いた時には、趙の偵察部隊の長は馬の首ごと胴から両断されて宙を舞っていた。
「…うん、改めて打ち直してもらったけどこの新しい精錬法と素材で鍛えた鋼の大鎌…良いな」
趙偵察部隊の小隊長の切り飛ばされた上半身が戻ってきた傍らには、先ほどフードを脱ぎ捨てて代わりにその大鎖鎌を血に濡らした状態で構える晳琭の姿があった。
「た、隊長ーーー!?」
「貴様アアァ! 蛮人の分際でよくも石鴈隊長をー! なぶり殺しにしてくれ―――」
「マイビッグシスターに手出しするのは許さないデース!!」
「―――え…ぶげびゃ!?」
それに他の趙兵達は悲痛な声を上げつつも晳琭を討とうとするが、その刃が彼女へ触れる前に、この時代にまだないはずの単語を添えて、水平に豪速で振り回されてきたその巨大な塊で彼らは馬ごと粉々にされた。
「おーい! 二人ともどうだーーー…ってもう終わってるし!」
そうしていると尾平が丘を越えて姿を現すが、もう既に敵が全て躯になっている光景を目にして、その中で立っているのは血に濡れた大鎖鎌を肩に担ぐ晳琭と、長身である彼女をも優に凌ぐ樽のような巨体で且つ先ほど趙兵らを一振りで粉砕したアフリカ系と思わしいが俯いていて暗い雰囲気を纏う大男に息を飲んだ。
「…あ、尾平さんお久しぶりデース!」
だが、尾平の声でその存在に気付けたのか大男は一変して、白漂の前々世における新大陸のポップ好きアフリカ系みたいな調子になって顔を上げた。
「姉と違って入隊してからわずか数カ月で物凄いなー!」
「始めて見た時は蒙武将軍よりもデカかったわりに非常に気弱だったから違和感ありまくりだったけど…」
「力も白漂軍では伍鬼さんの次くらいに強いもんなー!」
「姉貴の晳琭とは腹違いだからっても見た目全然似てないのに馬鹿力は姉弟同じだなー
それから続けて追い付いてきた飛信隊面々や他の白漂軍将兵達に囲まれたアフリカ系大男の名は
見た目は全然似ていないが異母姉である晳琭と共に同時期に飛信隊に加入した大型新人で、その中華では異相の巨躯とそれからは想像し辛い明るい笑顔と性格で人気のある身である。
「うっひょー、今回もまた鍬で叩き殺された鼠みたいになってんなー敵さん」
「……ッ…ご免…ナサイ…」
「「「「………………」」」」
だが、敦告がその敵の屍の惨状を口にすると、味方に背中をバシバシ叩かれながら既にそれへ背を向けていた晳琥の口からほんの小さく出たその言葉に、信と晳琭は危うさを覚えた。
○秦国北部 朔方郡近隣 始拓 拓景山城○
「…今回の偵察隊は比較的奥地まで来られたなー。まー北での領土が広がった分に国境線も長くなったから見張りや城砦を増やしても、どうしても奥深くまで潜り込んでくる敵は無くならないし…」
数時間後、趙の偵察小部隊を殲滅した飛信隊の面々は、この地で自分達が中心地と選んだ地で、嘗ては趙軍による前線基地であったが今では自分達の居住地とした山城で夕食を取っていた。
「…信ー、いなかった今朝の方に朔方城から指令書が届いてたの。内容からして今度は雁門敗戦で晳琭の散っていた羌渠種の流民家族がまた来たから、まだ工事の人手が足りてないなら送るって」
その元々は廃城だったので所々は古びて破損が目立つが、その事をあまり気にしない信らでも住めるようにある程度改修されている拓景山城の大部屋で、ステラが信に手紙を届けてきた。
「あー、助かるわー。今度にまた坎児井を伸ばさなくちゃいけなくなったからよー」
「ありがとう。お前達が来てくれたおかげで、ここは敗戦が起きる前よりむしろ豊かになって、散らばっていた皆が戻るようになってる」
信が夕飯を口にしつつも手紙を受け取った部屋には、昼頃にて活躍した晳琭の姿もあり、彼女は信に頭を深く下げていた。
「…まーなー、しかしあの4年前はあちこちに砂地が広がっててその真ん中でわけわからん雑草ばっかの荒れてたこの城も変わったなー。その時期にここを根城に野盗をしていたお前らも随分変わったし」
「…その事はあまり言わないでくれ。当時は家畜も碌に食むせられなくなった土地で、子供しかいない集団で生きるにはそうするしかなかったからな…。特に弟のあいつは気弱なわりに巨躯相応の大飯食いだったから…」
ちなみに晳琭は北で覇権を握っていた
現在は刑務期間が終わった後で此度のような趙の偵察部隊と出くわし、どうにか撃退したことで腕を認められて飛信隊に誘われ、本人も戦場で名を上げたかった身であるので了承し、現在は順調に武功と昇進を重ねている身の上である。
「…そう言えば晳琥は姿見ないけどどうしてるんだ?」
「あ、あーあのメッチャ西方から流れてきた黒い異人種が母親って人なら今も坎児井の工事を今も手伝ってるみたいっスけど…。凄く強くていい人ですよねー…戦場であれだけ敵を粉々にしまくった後で毎回働いてるんだから…?」
信がその事でこの場にはいない晳琭の弟に触れると、彼のいる大部屋の縁側を挟んだ中庭で夕飯と同僚らと共に取っていた干斗が答えるが、その内容に信ら一部の顔に憂いの色が浮かんだ。
「…そう…ここまで長くなると…」
「あまり良くないね…」
「?」
その面子に混じっているステラと玲花が懸念を口にするが、干斗にはこの時それがまだ理解できなかった。
「!? いやああああ!? 人が他所の心配を真面目にしてる時にご飯にまで入り込まないでよ! そういうのは悪食な信君の方の茶碗にして!!」
「お前さ普段は真面目な分に時々酷いこと言うよな」
だが、そこで止まっていた玲花の茶碗に結構な数のシロアリの羽蟻が止まると、普段の冷静さが珍しく失われた彼女の言動で真面目な空気は台無しになった。
ちなみに、本作で勝手に原作主人公の今の地元というか一応領地として赴任されている土地は、現実の春秋戦国期の気候などはわかりませんでしたが、現在は砂漠の緑化が行われている現中国の内モンゴルにおけるバヤンノール辺りで、本作での描写もそれを素材として取り入れたものです。