○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦一日目夕刻 趙国西部 黒羊 秦軍(白漂軍)右軍前衛○
「…将二人が揃ってこちら側に忍び込んでいた理由がこれか…」
中央丘からの横線を中間に見立てて、そこにほど近い川辺と対岸の趙軍を見て信は難しい顔をしていた。
「お、おい! 秦軍がもうここまで来たぞ!」
「馬呈様と劉冬様はまだ戻られんのか!?」
「狼狽えるな! お二人が戻られるまでは何としてもここを通してはならぬぞ!」
対岸が動揺は走りつつも趙側が既に防衛線を固めてしまっていたのを見たからである。
「隊長ー、やはり事前の調べ通りにこのあたりの川底のほとんどは深い泥濘で歩いて渡るのは対岸の防陣もあるので相当無茶みたいですー」
「そうでない下流も敵が見張り付ける必要がないとするまでに激流で渡れそうにないですよー」
周囲からも芳しくない報告ばかり寄せられていた。
「確か橋組みとか工作に長けてる連中はー…」
「ここにも工人上がりの人は多いけど橋の専門家ってわけでもないし、何より向こうの人がそんなの作る余裕を与えるわけないでしょう」
「それにごり押しで作ろうとしたらそれこそ時間かかって紀彗軍のあの副将二人が戻れる時間が出来るだろうし…」
副長の女性二人も信の思い付きにぐうの音も出ない反論で潰した。
「確かー後ろの隊に手先が器用で頭の回転も速い譜孝も近づいて来てるしなー。あいつらとまずは相談を―――」
「のわー!?」
「あ、兄貴ー!?」
「―――おぁ…?」
信が首を捻らせていたその最中、例の如く尾平が何らかのドジで川に落ちてそのまま鎧の重みで川底の泥濘に沈みだし、近くの尾到を慌てさせた。
「あーの出っ歯また人が悩んでるときにドジ踏みやがって…ん?」
それに信が眉を顰めさせるが、その直後に彼は川岸の味方に引き上げられている尾平から、彼と共に落ちながらも浮いて流れ出した荷物入れの背嚢と槍の予備部品の一つである木棍に目が移った
「…あーーー、あ、あーーー…」
「ん? 信君どうしたのその顔?」
「おい、玲花、皆を本陣の天幕に集めろ。先に説明する。それと後からすぐに来る譜孝にも来てくれって伝令出してくれ」
「え?」
「良い作戦閃いた」
「は?」
流れる棍と背嚢の姿に信は何か頭のモヤモヤが薄らいでいくような表情を浮かべ、それに気づいた玲花に指示を出し、ステラには怪訝な顔を浮かべさせた。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦一日目夜 趙国西部 黒羊 秦軍(白漂軍)左軍○
「「「「「………………」」」」」
火災も日の沈みと共に落ち着きだした頃、秦左軍と趙右軍は中間線を右から左に上る曲線上に布陣を組み直して睨み合っていた。
夕刻に慶舎副官の一人岳嬰を討ち、その軍に火計で痛手を与えたとはいえ、火災で生じた陣の乱れは秦側にも生じていて夜の帳が近づくと同時に再編優先に切り替え、趙側もその隙に素早く姫昭が岳嬰軍を指揮下においてある程度立て直したためである。
現在、両者は火が小さくなりつつも焦げ臭さは残る、樹海の中に浮かぶ幾つかの小島のような焼け跡を挟んで睨み合っていた。
「…郭備、何故今宵は止まっている? もう各隊の再集結と布陣は済んでいるぞ」
その秦左軍の前衛の一角でバトゥが怪訝な顔を浮かべていた。
「漂将軍の指示だ。今宵はもう仕掛けてはいけないと」
左軍の指揮を執る郭備の言葉に、夕方での勝ち戦で気が高ぶっている北方出身の兵達がいきり立つ。
『ああ!? 何を言ってんだぁ!?』
『この勢いならもう向こうの連中も潰せるぞぉ!!』
『白漂は昼間の煙で目がいかれちまったかぁ!?』
「「「「「おいおい……」」」」」
中華とは異なる言葉ゆえに詳細には通じないが、人間というより猛獣に近い怒気を放つ騎馬民族出身の同僚らの声に、華夏出身の兵達はよからぬ意味だとは感じて顔を引きつらせていた。
「そう言えば粛尤は今は何をしている?」
「彼なら今は道具集めの最中とのことだ。趙軍を落とすためとかとな」
「道具?」
「急くなバトゥ、その道具を使う時はきっと…お前たちの力も用いて趙軍を潰す時になるように漂将軍も考えている」
「「「「「…………………」」」」」
だが、バトゥと郭備の問答が重なるに連れて両者は不安のない落ち着きに戻っていった。
○趙国西部 黒羊 秦軍(白漂軍)右軍本陣○
「…成程な、それが珍しくお前が立てた策の概要というわけか」
「珍しくってなんだよ紅武の旦那」
郭備とバトゥの会話と同じ頃、秦右軍本陣にて紅武は物珍しい顔で不満そうな信と対峙していた。
「だが材料はどうする? 伐採の音で十中八九ばれるぞ?」
「持ち込んできた盾と槍の予備部品と縄を使えばこっちの奥側で音もたてずに作れて軽いし持ち運びもできるじゃねーか?」
「それだけだとその隊に必要な人員を乗せられるけの量は確保出来ないが?」
「こっちでは兵員に支給されてる背嚢に荷物の代わりに空気詰めて浮袋代わりに括り付ければいいんじゃねーか?」
だが、その会話の主な内容を事前に聞いている譜孝は信に対する目をぱちくりとさせていた。
(……えーーっと玲花…あれってー…本当に信よね?)
(う、うん…そうだけど…)
(ま、まさか…あの信殿が武技だけでなく知略でも覚醒を…!?)
同じく信隊の副長達も信じがたい眼差しを信に向けていた。
「…確かにその手ならあそこも大勢渡れるだろうが…あの急流の近くだと見張りも少ないがいるだろうし、それなりに流れも速いだろうから急流ほどではないにせよ体力も相応に消耗し…」
「あーーそこは渕さんに気合で…」
((…あ、いつもの彼に戻った))
「…あ、考えすぎだったみたいですねー…え!?」
だが、その感嘆も混ざりだした視線はいつもの無茶ぶりを見せた信で嫌な懐かしさに戻った。
そして、続きを今回の無茶ぶりの対象にされた渕の悲鳴が飾った。
〇趙国西部 黒羊 秦軍(白漂軍)中央軍本陣○
夜も深くなったその頃、白漂は本陣の天幕を出てある男の到着を待っていた。
「持ってきたぞ、白漂将軍」
「来たか」
椅子に座っていた白漂の前に粛尤が現れた。
彼の背後には一台の馬車が続いており、その荷車には伐採されたばかりの樹木が大量に載せられていた。
「効果は事前に調べた通りか?」
「ああ、何なら自分の鼻と目で試してみてくれ」
白漂がその荷にやや近づいた所で、粛尤はその手に持つ松明を樹木に投げ込んだ。
当然の如く樹木は燃え始めるが、そこから立ち上る黒煙は通常のそれとは何かが違っていた。
「何ですかぁ将軍? そんな薪にも加工してない丸太に火を付けて…!?」
それを衛兵が訝しんだ表情で近づこうとするも、彼の双眸に煙が触れる寸前で白漂の腕が彼の頭を射程圏外へ強引に引き戻した。
「あまり近づくな。身内に盲人の世話で苦労させたくはないだろう」
「え? どういう意味ですかそれ…っ!? な、何だこれ…煙は離れているのにこの臭いは…!?」
「「………………………」」
鼻を摘まみながらもまだ理解が追い付いていない兵とは異なり、白漂と粛尤は眼光を鋭くして今も燃え盛る通常とは違う焚き木を注視していた。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦二日目朝 趙国西部 黒羊 秦軍(白漂軍)右軍前衛○
趙左軍の陽動と奇襲を撃破した一日目の次の日、秦右軍前衛は朝を迎えるとともに黒羊右側河川の秦側で攻撃の布陣が整いつつつあった。
「く、あいつらめ…仕掛ける気か…」
「狼狽えるな! 劉冬様が編まれたこの防陣なら奴らはここに上陸など出来ぬ!!」
「ん!? 何だあいつら…馬に何かを引かせているぞ…」
対岸に位置する趙側にも秦軍の様子が見えていたが、そこには古代ローマのオナガ―やバリスタに似つつも馬一頭で引けるまでに小型化した、投石機や弩砲が姿を覗かせていた。
「…こんなスゲー良いのが簡単な組み立てで出来るようになるなんてすごい時代になったなー」
「今は北で机仕事に専念してる藍蘭さんとー今じゃー王翦軍で働いてる
「あのねーちゃんの事は今はどうでもいい! 準備も出来たしさっさと始めるぞぉ!」
「「「「「ウオオオオオオオオオオ!!」」」」」
配置についていくそれらの兵器に周囲の兵士達が喜色を見せる中、その内容に気に障る内容でもあったのか荒くなった信の号令を受けて、彼らの表情が引き締め直されて慌ただしく動き始める。
「…よし、弩砲の第一から第五は敵軍の灰の旗を掲げてる隊に燃弾集中。第六から第九は昌の旗に灰弾を。第十から後は…」
そして、ステラの指示でそれらの兵器より巨大矢と火が付いた藁玉が趙側に目掛けて撃ち出された。
「ぎゃあ!?」
「ぐあぁ!?」
「た、盾が撃ち抜かれて!?」
「ひ、怯むな! 連中が渡ってきたりしなければ突破は出来ぬ…ぐあ!?」
始めてかもしくは経験が少ない兵器の登場と攻撃に、趙側は驚き怯え、更に指揮官達はそれに紛れて飛んでくるステラら狙撃手の攻撃で次々に射抜かれていく。
そして、その支援の下で信たちが背嚢に空気を詰めて浮袋代わりにして川の浅い所より渡河を試みてきた。
「く、くそ! あいつら川越しようとしてくるぞ!」
「た、盾兵を集めて弾き返せ! 上陸させるな…ぎゃあ!?」
それに趙兵も気付いて守備を固めようとするも、そこで秦側が投石機で石弾を発射して盾ごとその身を撃ち砕いて怯ませる。
その間に信たちは素早く泳ぎ越えて遂に趙側の対岸にたどり着いた。
「しゃあ! お前らこの間にさっさとここに拠点を築くぞ!」
「「「「「ウオオオオオオオオオ!!」」」」」
「弩砲と投石機はあそこの攻撃は停止。信たちを取り囲んでる両側の趙の部隊の横腹を砲撃」
「「「はい!」」」
機を逃さず一気に川を上がって続々と上陸を果たす信ら前衛を、ステラはすかさず適切に支援していく。
「…うっしゃああ! こりゃあこのままこっちだけでも行けそうだ―――」
「んなわけあるか! この出っ歯ぁ!!」
「―――あえ…!?」
だが、上陸部隊に加わっていた尾平がその状況に調子づいたその時、趙側の茂みの一角が勢いよくなぎ倒されて、そこから戦斧が飛び出てきた。
「危ねえぞ! 下がってろ尾平!!」
「ぶべぇ!?」
「ぬぅ!?」
そこで信が両断されるはずだった尾平を蹴り飛ばして逃がし、代わりに大斧を矛で打ち飛ばし、徒歩であるにもかかわらず馬上のその相手をよろめかせた。
ちなみに尾平はその勢いで再び川に落とされた。
「ち! やっぱそうそう上手くいかねえか…」
信が徒歩で見上げるその大斧の相手は今先ほど帰還したばかりの様子の馬呈であった。
「よくもノコノコこっちまで来やがったもんだ。全員その礼に胴から一撃で真っ二つにして魚の餌にしてやる…!」
「はぁ! そりゃあこっちの台詞だ!!」
趙側の対岸で、盛大な大斧と矛の剣戟の合唱が鳴り始めた。
○趙国西部 黒羊 右側下流地帯某所○
「…う、こ、怖くねえ…怖くねえぞ……」
河川地帯の各所には趙側が主戦場以外にも渡河を防ぐべく少数ながら見張りが配置されていた。
その中の年若い兵士の一人が見るからに恐怖をにじませた表情で震えていた。
「そんなにビビるなよ。ここは主戦場から離れているし見張りがいないところもあの激流で秦の連中も渡れやしねーよ」
「だ、誰がビビってるだぁ! おらの剣なら秦の山猿なんざ一刀両だ―――!?」
主戦場から離れていることからくる安堵で同僚が落ち着かせようとするも、そこで反発した若い兵士の頭を何処かから飛来してきた矢が射抜いた。
「―――あり…!?」
「……え…な、何だ…!?」
それに理解が追い付かないままの表情で地面に年若い兵士が倒れた直後、戸惑う同僚たちに矢の雨が降り注いだ。
「ぐあぁ!?」
「ひえ!?」
「だ、誰だーーーー!?」
完全に不意を突かれた趙兵達が矢傷に苛まれながらも顔を向けると、茂みより飛び出てきたのは彼らの予想の上を行く敵の登場であった。
「皆ぁ! このままの勢いで行くぞ!!」
信隊副長の渕がいくつもの筏を抱えた手勢を引き連れて茂みより飛び出て来たのだ。
その筏は秦側の後方で槍の予備部品や盾に、空気を詰めた背嚢を縄で括りつけて速成させた代物だった。
それを渕は後方からいくつもの斜面や勾配に茂みを乗り越え、ここまで持ってきたのである。
「な!? て、敵襲ぐ!?」
趙兵の生き残りに止めを刺しつつ、渕達はすかさず筏を川に着水させて乗り込み渡河していく。
「て、敵の数は少ないけどなんてー体力勝負な任務なんだ!?」
「こ、こんな状態で敵の援軍に来られたら一たまりもねえぞ…!?」
「泣き言は終わってから言うのだ! 水面を見てみよ!!」
軽めの筏とはいえ夜通しで障害物や凹凸が激しい樹海の中を担いで移動していた事に、兵士たちは別時間軸ほどではないにせよ疲労していたがそれを渕が水面を指さしながら叱咤する。
「か、川が上流からの流血で赤くなってる!」
「信殿達が必死で上流で引きつけているからこそ我々はほとんど出くわさずに直ぐに叩きながら進めているのだ! 上流と比べれば楽なものだ! それと大声や気勢を上げるでない! 見張りを倒しても声で気付かれると意味がないぞ!」
兵士たちと混じって先頭を切る渕の櫓を漕ぎながらの激励に、兵士達も疲れた身を奮い立たせながら川を越え、再び筏を担いで斜面越えに乗り出す。
「…なあ…初めこんな大役が渕さんで大丈夫かって思ったけどさ…!」
「隊長みたいな怪物や玲花さん達みたいな才人じゃないあの人だからこそ…俺たちはあの背を追いたいって…!」
「…うん、やっちまうなこれ…!」
水気と汗を撒きながら先陣を行く渕の姿に、彼と同じく凡人の域を出れない故に兵士達も歯を食いしばって後を続く。
そして、昨晩の作戦会議が渕の脳裏に浮かぶ。
『なあ信』
『何だ紅武の兄貴?』
『確かに作戦としては良いが渕で大丈夫なのか?』
『逆だ。渕さんが一番適任なんだよ』
『そうです将軍。この任務で一番求められるのをこの人が一番持っています』
『玲花?』
『『責任感』』
その際に自分に向けられた上司と同僚の二人の真っ直ぐな視線に、渕は歯を食いしばりながらも口角を吊り上げる。
(…ふ、二人とも…あなた達は…阿保っぽい男や…それに惚れた意外に残念な女人そうに見えて…そのもっと意外に策士だ…あんな瞳で頼まれたら…やり通すしかないではないですか……!!)
渕達の樹海の斜面を駆け上がる速度がさらに上がっていく。
○趙国西部 黒羊 秦軍(白漂軍)右軍前衛○
「しゃあああああああ!!」
「がああああああああ!!」
一方、1時間ほど経過した上流の主戦場に目を向けると未だに信と馬呈が互いの得物を激しく打ち付け合っており、その周りには上陸出来た秦兵とそれを弾き返そうとする趙兵の乱戦が出来ていた。
その輪は結構に広がっており、ステラ達の遠距離攻撃で生じた幾つもの綻びに趙兵は大きく意識を割かれていて、端の方から大きく注意が薄れていっていた。
「信殿ぉ! やっと来ましたぞぉ!!」
「…え…」
「な、何だお前たちは…のわぁ!?」
故に、趙側が渕達の存在に気付けた頃には、既に彼らは趙側防衛線の下流部分への突入に成功し、少数となっていた彼らを押し出すと担いでいた筏を直ちに川に浮かべ、それを秦側の対岸まで並べていって縄で結んでいく。
「今よ! 皆で突入ーーーーーー!!」
「「「「「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」」」」」
そうして出来た浮き橋を、弓隊の護衛や信達の支援に回っていた玲花達が疾走し始めた。
原作と違って信もまだまだですが頭の方でも覚醒しだしたのをそれなりに書けたつもりです。
次回は、今回の成功がもたらす黒羊各戦場への影響の波及に話が触れます。