○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦三日目正午 趙国西部 黒羊 中央丘秦側某高所 秦軍(白漂軍)中央軍本陣○
「………………来たか…」
自軍右翼から戦場全体へ広く伝っていく、その大きくなる一方の揺れを白漂は確かに見ていた。
「報告ー! 信隊を中心として我が軍右翼の左側が中央丘に向けて進軍を開始! それに呼応して羌瘣隊と対峙している紀彗本軍も横撃に備えるべく配置換えをしている結果で前面に乱れが生じている模様ですー!」
「……ああ、見えている…」
本陣に届けられる報告はいずれも秦側にとって芳しいものばかりで、故に本陣にいる将兵は自分達の将軍が自らに下すだろう指示を今か今かと待ち焦がれだしていた。
「羽沃!」
「は~~~~い!!」
白漂の最初の指示で、開戦初日で諸将に馬乳酒等を振舞っていた少女である羽沃がまた近くの樹上よりムササビのように降り立ってきた。
「仕事だ。すぐに直で伝令に向かうんだ」
「! 音術からの解読漏れを避けるほどの重要任務ですね~~~!?」
「そのとーり、この指令書を今から言う彼に届けて。送る相手は………」
「…はいよ~~~~~~~!!」
白漂に周囲に聞こえないように耳打ちされた後、羽沃は次に丘陵を滑るように再びムササビを思わせる衣装を広げて高速滑空して左軍の方の森の中へ消えた。
「次は英成に矢文を出せ。それと中央軍全体にいつでも守りを基本としつつも全面攻勢にも出れるように指示を広めて」
「はは!!」
待ちに待っていた武功を上げる機会の到来に、白漂本軍の兵士達も慌ただしくも正確に動き出した。
○趙国西部 黒羊 中央丘秦側某高所 秦軍(白漂軍)右軍左側前衛○
白漂軍本陣が慌ただしくなったのと同刻、秦軍右翼も最先頭を行く信隊が中央丘に陣取る紀彗本軍の横腹を詳しく見上げられる地点まで突き進んでいた。
「がはははは! 見ろ! 丘の趙軍も慌てふためきながら動いているぞ!」
「趙の左軍主力は嬴闘隊とかが防いでるから今のうちにこの辺りの有利な地形を全部獲れ!!」
今にも紀彗軍の脆くなっている左側面を突くべく丘を駆け上がりそうになっていた信隊の所に、別の隊からの伝令が大急ぎで駆け込んできた。
「報告ー! 先ほど本陣命令で右翼と左翼の一隊ずつを交代してこれからの総攻めの布陣を整えるとのこと! 右軍各隊は有利な陣形変えと配置取りを優先するように! 勝手な攻めは禁ずると!」
「っ! 何だよ待てかよ!?」
「いやー信君、これだけ贅沢な状況じゃーどの手を何時何処から打てばで良いのかと出来る軍略家ほど悩むわ」
それが伝えてきた制止の指示に信は不満げな声を上げるが、玲花が憂いの無い悩ましげな表情で丘を見やる。
「玲花副長どういう事です!?」
「…大まかに言っても、こっちを囮にして羌瘣隊が紀彗軍を打ち抜く手やその逆も出来るし、他にはこっちと羌瘣達を囮に別動隊で後方を突くやり方と、その逆で後方に別隊を回してそれに気取られているうちにこっち側の二隊で制圧する手もあるもの。いずれも大きな見返りが得られるし…そのどちらかに決まれば中央丘の取り方が見えてくる…」
「ほ、報告ーーーー!!」
玲花の考察で周囲の高揚が高まろうとしたその時、慌ただしい様子で新たな伝令が駆け込んできたが、その表情は先ほどのとは違って期待よりも引きつって見えていた。
「…さ、先ほど英成隊がこちら右翼を離れて…代わりに入れ替わる形で左翼から一隊が来たんですけど…そ、それが……」
「「「「「!?」」」」」
その伝令が伝えた交代要員の名に信達の表情に緊張が走った。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦三日目昼 趙国西部 黒羊 中央丘趙側 紀彗軍本陣○
「紀彗様! 丘の下に展開している秦軍に新たな隊が! あの旗印は…!」
「! あれが一日目でバトゥや綴と共に岳嬰を討ち取りその軍を半壊させたという…!」
丘陵の高所に布陣している紀彗にも、白漂が左右両軍各一隊の配置交換で送り込んできたその部隊を見てこわばりが走る。
そして、その雰囲気を彼らに注視されているその隊も鋭敏に感じ取った。
『…連中め、さすがに初日の失態から我らを警戒しているようですな…』
『それは知ってるから周りの連中にさっさと距離をとるように報せろ』
その隊を率いる男は冷淡な声音による北の言葉で側近に答える。
『巻き添えで焼け死んでも知らねえぞってな』
紀彗軍と周囲の隊の注視を受けるその男、粛尤の言葉が静かに北の民の言葉で赤狼隊の鼓膜を震わせた。
「な、何だあの異様な隊は!?」
「ど、どう見ても味方にゃあ見えねえぞ!?」
その赤狼隊の異様な姿に初見が多い信隊の新兵達が思わず後ずさりする。
赤狼隊は赤黒い狼や犬を元にした意匠が施され、露出が少ない格好をしており、何より彼らの背嚢と軟性パイプで繋がっていてる多くの得物や、馬や牛に乗せたり車で引かせたりしている兵器からある共通点があった。
「…!? この臭い…あいつら皆から強い油の臭いがすんぞ!?」
「おい! 連中には脇や後ろを固める程度であんま近づくな! 合戦中にあいつらに近づくとマジで巻き添えを食っちまうぞ!」
「た、隊長!?」
信の慌ただしい号令で新兵達ももたつきつつも離れ始めた直後に、粛尤らの攻撃が始まった。
『始めろ』
『『『『『ウオオオオオオオオオオオオォォォー!!』』』』』
即座に、彼らが手に持つ弓や弩砲に小型投石機で、次々と矢や弾が紀彗軍目掛けて撃ち出されていく。
「ぐあ!?」
「いでえ!?」
「こ、こんな所まで!?」
その飛距離と貫通力の高さに紀彗軍の将兵達が慄くが、それ以上に彼らを引きつらせる特性が赤狼隊の攻撃にもう一つあった。
「うわあ!? 火矢だぁ!?」
「れ、連中が打ち込んでくる陶器!? 割れた途端に爆ぜるように火を吹かしてくるぞ!?」
「み、水を掛けろぉ!」
「だ、駄目だぁ! 火力が強すぎてちょっとやそっとじゃ…!」
彼らが射出してくる火矢や陶器の詰め物を用いた陶弾から生じる火が余りに強く、水を掛けても中々消えないものが多かった。
その異様な火力は離れた隊からも見て取れた。
○趙国西部 黒羊 中央丘秦側付近某高所○
「な、何ですかあの異様な火攻めは!?」
「赤狼隊とはいったい何者なのだ!?」
「ちょ、ちょっと見せてみろ!」
秦軍は各所の高所に周囲の警戒を行うべく観測班を配置しており、彼らの多くが西域から渡来した硝子とその製造技術を用いて、近年の秦で開発された望遠鏡なるものを用いて他国のそれよりも遥かな広範囲を詳細に見ることが出来た。
その観測班の中で本陣に最も近い者達も赤狼隊の異様な火計が見て取れていた。
「……“火器兵器部隊”…それが赤狼隊の正体だ」
「火器兵器!?」
そこで突如現れた河了貂の言葉に観測班員達は困惑する。
この時代、油は確かに兵器として用いられることもあったが、それの貴重さと高価さから用いられることはそう多くはなかった。
「ぐ、軍師お待ちください! あれだけ大量の油を北の民が用意できるものですか?」
「俺たちが普段使う油とは違う…赤狼は昔に起きた大地震で生じた地元の幾つもの亀裂より“石油”が大量に取れるらしい」
「石油?」
「あ、最近付いた名だから知らないか。“燃える水”の事だよ」
「!?」
石油という名称自体は別時間軸ではずっと後世になるが、その存在自体は古代から知られており、油やもしくは天然アスファルトを用いての接着剤として使われることがあった。
だが、他の油と違って食用出来ない事や出現した際に水源を汚染してしまうことが多く、厄介者扱いされることも多かった。
「粛尤はその石油を蒸留すれば幾つかの変化を見せることを発見し、それらの品を北の民の伝手の広さを利用して売りさばいて必要な品を手に入れるほか、他の可燃性の動物・植物・鉱物を書き集めている。それらの混合と抽出に分離を繰り返して独自の火器兵器を作り出し、それらを用いての傭兵業で勢力と富を増やしてきた」
「ど、道理で……」
観測班員が納得しつつある最中でも、赤狼が放った大火の煙は趙軍を囲うようにして広がっていく。
○趙国西部 黒羊 秦軍(白漂軍)右軍左側前衛○
「うおおおおお! あの火攻めで趙軍が大きく狼狽えて乱れてんぞ!」
「煙が晴れると同時に攻めあがりゃあ勝てるんじゃねえか…!?」
紀彗軍で大きく広がっていく火計とその煙に秦軍から次第に期待感が高まってきたその時、彼らの周囲を荷駄隊が掛け始めた。
「邪魔だどけ!」
「のわ!?」
「配置はここでいいな!」
「次に行くぞ!」
「おい! お前らこれに触れたり動かしたりするなよ!!」
「本陣命令だぁ!」
現れたその荷駄隊は赤狼隊の者達で、彼らは車や牛馬に乗せた籠より慎重な手付きながらも何やら薪を下ろして各所に隠すようにして配置していく。
「な、何だったんだ?」
「さ、さぁ秦の言葉で言ってたけど…何なんだこれ…?」
彼らの緊張した雰囲気に当てられてか、他の秦兵達は彼らが置いてきた一見普通に見えるその薪を訝しんだ。
○趙国西部 黒羊 中央丘趙側某高所〇
「慶舎様! 左側の紀彗軍が秦側の火計に遭いました!」
「煙幕は広範囲に広がっていて視界が遮られ、その外側から秦の右軍が半包囲の布陣を進めつつあります!」
「どうかご指示を!」
初日から続く不利な状況とその極地を思わせる現在の戦況に、趙側の伝令達からも余裕が失われて声音からも切迫の色が見える。
それは此度の趙軍総大将慶舎に駆け込む者達にも表れていた。
だが、慶舎は丘の高所からその紅蓮と黒煙をじっと見つめているだけのように見えた。
「慶舎様! 何をなされているのですか! 早く対処を―――」
「良い所だから騒ぐな」
「―――!?」
だが、彼らの苛立ちも隠せない言上は慶舎の静かなれど濃密な圧迫感を伴った制止で静められた。
その時、慶舎は静かにだが深い笑みを浮かべていた。
(……さあ、来い白漂…この好機がわからぬ男ではあるまい。今こそ動け…そこから足音が伝わり…それから鼓動も伝わる。さすれば…お前も気付かぬひずみで生じた罅より……その心臓をもぎ取れる……!!)
(((((…け、慶舎様が…笑って……!?)))))
その静かなれど不気味な笑みに、周囲の趙兵達は却って冷静にさせられた。
それからすぐ後、白漂軍より音術による笛の音が響き渡った。
○趙国西部 黒羊 中央丘趙側 紀彗軍本陣○
「っ! 紀彗様! 秦側より笛の音が!!」
その笛は連鎖的に秦軍全体に伝わっていき、それは趙側にも容易に届いた。
「(っ! そう…この音術こそが白漂軍の伝達速度と連動速度を異様に高めている要因だ! だが、この合戦中に何度も聞かされれば嫌でも研究できる!)全員備えよ! 白漂軍は各隊の配置が終わり次の号令と同時に攻め寄せてくるぞ!!」
それは紀彗にも伝わり、表情を更に険しくしつつも冷静に指示を下して攻撃に備える。
「っし! 来たぞぉ!」
「耳を研ぎ澄ませ! もうそろそろ一斉攻撃の合図が来るぞぉ!!」
対峙している羌瘣隊を始めとする秦軍各隊にも伝わり、趙側とは対照的に待ち遠しそうな笑みを浮かべて得物を構える。
秦趙両軍の大半が近づきつつある決着の時を容易に感じ取っていた。
○趙国西部 黒羊 中央丘秦側某高所 秦軍(白漂軍)中央軍本陣○
「「「「「………………」」」」」
白漂軍本陣も総攻撃の合図を待って、高揚に満たされつつも無言で待ち続けていた。
一方、それに対して白漂は足元に置かれている木箱より何かを取り出す。
「王京」
「っ! 何でしょうか?」
同じく待ち構えていた王京が微笑みを添えて振り向く。
「ちょっと総攻撃の合図を出すまで碁に付き合ってほしい」
「……え…あ、は…はい…」
その予想だにしない命令に戸惑いつつも王京は受諾する。
そのまま、沈黙に近い状態で両軍の間を時間だけが過ぎていく。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦三日目夕刻 趙国西部 黒羊 秦軍(白漂軍)右軍左側前衛○
「「「「「……………」」」」」
空が夕焼けで赤くなりだした頃、中央丘の趙軍を見上げながら火計を行っていた粛尤の前に自隊の伝令が駆け込んできた。
「長ーー! 今先ほど例の物の配置が終わりやしたー!!」
「火ももうそろそろ消える頃合いですーー!」
「そうか、じゃあ下がって野営の準備を進めろ」
「はっ!」
その報告を聞き入れた粛尤達は悠々と中央丘に背を向けて森の奥深くに去って行く。
「あ…あれ…何か赤狼の連中動くぞ?」
「総攻撃の合図出てねえぞ」
「もしかして俺が聞き逃しただけでもう出たか?」
「あ…いや、聞こえてきてないぞ……?」
それを切っ掛けに秦右軍全体に困惑が広がっていく。
但し、音術は使用されてないのでそれが本陣や左軍まで伝わるのには相応の時間を要した。
○趙国西部 黒羊 中央丘秦側某高所 秦軍(白漂軍)中央軍本陣○
「白漂将軍ーーーー! 各隊から守備を基本としつつもいつでもできるようにとの総攻撃の号令は何時かと伝令がーーーー!!?」
その声がようやく本陣まで伝わったころには、周囲の衛兵達が高所に陣取る白漂の背に疑問や催促の声を上げている頃だった。
彼らを押しのけるようにして私的に白漂と最も深い仲の女性も彼らの意思を代弁するように現れる。
「漂将軍! もう今ある地点を守りつつも位置でも総攻撃できるように各隊の準備は終わっていますよ! いつまでその子と碁を楽しんでおいでですか!?」
紅華が陣幕を跳ねのけて目にした白漂は王京と碁をまだ楽しんでいる最中だった。
「……あ、い、いや紅華様…それが―――」
「僕が説明する」
「―――あ…」
奥方を見た側室は言い辛そうな表情ながら釈明しようとするも、そこで白漂が立ち上がって紅華と向き合う。
「将軍! 皆が総攻撃の合図を待ってます! このままだと相手の守備が固まり終えるだけじゃなく夜になって否応なしに打ち止めですよ!?」
「うん、知ってる」
「ではなぜ!?」
紅華の剣幕のある声にも白漂はいつもの態度を崩さずにいる。
「確かに総攻撃するとは言ったけど、別に今日中とは言ってないでしょ」
「…………はい??」
白漂のいつも通りの態度のあんまりな言葉に、紅華は間が抜けた困惑を口にするがその真横を白漂はテクテクと通り過ぎて、自軍を見下ろせる高所の端まで行くとメガホン風の道具を取り出して大きく息を吸う。
「…そ―いうわけでー! 本日は見張りと交代守備要員の段取りを済ませて終了ーーーーーーーー!!」
「「「「「!!!!!!!!!!!!!????????」」」」」
そして、一瞬の間を置いて発せられた総大将のそのあんまりな命令に、白漂軍将兵はほぼ全員が声にも出ないショックに包まれた。
ちなみに、その煽りで河了貂は思いだにせぬ顔芸を炸裂しながら落馬した。
○趙国西部 黒羊 中央丘趙側〇
「……………!!!!??」
数分ほど掛けて中央丘の趙側の某高所にもその報は届き、それを耳にした慶舎の表情に困惑が走り、それは数秒後に双眸の血走りとなって現れた。
「!!?」
それと同時に、中央丘を見上げられる近場に布陣していた信が射抜かれるような視線を感じてビクッと身が震えて強張った顔を丘へ向けた。
「ほ、報告ー! 先ほどの火計ですが煙が晴れたところ要所は外されていて被害は軽微の模様! それと煙が晴れた頃には秦右軍がもう退き始めております!!」
ちなみに、その両者の間に位置する紀彗軍は緊張からの解放の安堵と歓喜に沸いていた。
「フ、フハハハハハ! 紀彗様ぁ奴らめ派手な奇策が外れて落ち込み退いていきましたぞ!!」
だが、歓喜の笑い声を上げる周囲とは対照的に紀彗の表情は更に晴れないものとなっていた。
(違う! 今日この日がどれだけの好機だったかわからぬ男の訳がない! あえてあれ以上動かなかったのだ! あの時…視界が閉ざされたあの場で
「………ぅぉぁーーーーーーーーーーー…」
「―――!?」
ちなみに、遠方より響いてきた悲鳴が紀彗の鼓膜を小さく振るわせて泥沼に入りそうだった思考を搔き乱したりした。
その悲鳴が、あんまりな指示に思考が数分止まっていた紅華が我に返ると同時に、怒りを込めて放った彼女のハイキックで首から蹴り飛ばされた白漂の悲鳴であることなど紀彗は知る由もない。
傾向違っても同じイケメンキャラなのに桓騎が周囲をおちょくる側に大抵終始するのに対し、必ず相手の突っ込みで残念な目に合うのが白漂というイメージが私にはあるのでこんなオチになりました。
次回は、高揚を不発に終わらされた各々がそれを原因たる上司の通達でムフフ方面にもぶつけたりするシーンも出てきます。