○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦七日目正午 趙国西部 黒羊 秦軍(白漂軍)右軍○
「「「「「ワアアアァアアア!!」」」」」
「「「「「ガアアアアアアアァア!!」」」」」
姫昭と白漂が接触してから次の日、黒羊は各所で激闘が繰り返されていた。
だが、盛り上がっている両翼は共に秦側が前線の有利な地点を抑えており、そこの守りを固めていることと遠距離系中心で兵器に差がある事で、奪還を目論み攻勢を掛けている趙側の出血が経過と共に大きくなりつつあった。
「おい! 縦三横五の地点に押し寄せてきた趙兵はもう半分潰したから指示通り戻ったぞ!」
「まだ本陣からの指示は来ねえのか!?」
特に最も激戦が生じている秦右軍本陣は各隊の指揮官や伝令が慌ただしく出入りを繰り返しており、翟はそれらを捌きつつも窘めていた。
「全員落ち着け! まだ中央丘の慶舎が動いてこない!」
翟が言うとおり、本日の最大注目点は中央丘に陣したままの趙軍司令官慶舎である。
今朝、白漂から何隊かの隊長及び副長達にのみこう指示が下されていた。
『本日に慶舎の目を潰し身動きできなくなった所を一気に討つ。そのためには風向きの変化が必要だが今日にそれがほぼ確実に起きる。故にそれを知らせる合図が出るまでは各隊攻守兼用の陣で守戦を優先すべし』
その指示を信じ、各将は各々の持ち場でその時を来るのを戦いながら待ち構えていた。
「ウオオオオオオオオオオ! 今度こそ秦軍のしゃらくせぇ兵器をぶっ壊せぇぇええ!!」
「翟! 馬呈が大きく押し込んできたぞ!!」
「その左斜め付近にいる信をぶつけろ! 空いた穴には楚水から兵を回させろ!」
無論、そのことに対する知覚の有無問わず故郷を守るために趙軍はその間も攻め寄せ続ける。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦七日目昼 趙国西部 黒羊 中央丘秦側付近某高所 秦軍(白漂軍)中央軍本陣○
「………………」
連日にかけて続く激戦において、とりわけ一際激しい秦右軍の方を白漂はそこを見下ろしやすい位置に移した本陣から、周囲の天候観測用の器材と共に注視していた。
風向きは未だに秦側に向けて緩やかだが続いており、彼が望んでいる状態には無かった。
「将軍! 未だに攻撃の機にはないのですか!? あの状態なら右軍は右翼側から回り込んで趙左軍を順次潰せます!」
「駄目だ」
「!?」
当然、何名かがじれったそうに進言してくるが白漂はそれらを一切切り捨てる。
「確かにその手で行けば離眼軍の幾つかを潰せる。だけど…今それを取ればこの戦はそこまで止まりになる」
「? どういう意味です!?」
「慶舎はただ手を拱いているわけじゃない。あれはこちらが網に飛び込んでくるのを待っているんだ」
「網!?」
「いや、この場合はこっちの足元に網を忍び込ませる隙間が生じるのを待っているといった方が良いな。順調に進められそうになってるときに普通に進めようとすれば良い所でああいうのは根こそぎかっさらってくる。その場合に一番良いのは足が地面から離れそうになるのを見せつつ摺り足で近すぎず離れすぎずの状態を維持し続ける。そうすればあいつの方から勝手に苛つきだ…!?」
そうした意見に白漂が何度目かの窘めを返そうとしたその時、彼の頭上で回る天候観測道具の方角が変わり、彼の注視で細くなっていた双眸が一瞬で見開く。
「
「「「っ!? は、ハハァ!!」」」
すると、先ほどまでの静かな視線とは打って変わって白漂の腕が大きく振るわれ、それに連動し周囲の兵達が迅速に動き出した。
○趙国西部 黒羊 中央丘趙側某高所〇
「報告ーーー! 秦右軍で楚水隊が大きく攻勢に出て我が方の左軍の右翼側から包囲攻撃を掛けてきました! 紀彗本軍は敵羌瘣隊が前衛に攻撃を掛けていることと郭巨丙が側面をうかがっているので大きく動けないとの事で…!!」
その白漂の指示は音術で速やかに伝えられ、迅速に動きを変えていく秦軍に趙軍の本陣の面子は顔を引きつらせ始める。
「慶舎様! これ以上離眼軍が損耗すると黒羊防衛が困難になります! 今すぐに何らかの手を打たなければ…!?」
本陣の将校の一人が主君に対し対応を求めるがその言葉は主君の表情を見て止まってしまう。
一見するといつもの物静かな様子だが、その双眸が血走っていて慣れ親しんだものには圧を掛ける怒気の混じる苛立ちが慶舎より立ち上っていたからだ。
(…おのれ! 私の網に意地でも入らぬまま戦を進めようというつもりか白漂!!)
そして、血走った双眸で慶舎は白漂本陣をしばし見据えていたものの、やがてその視線を秦右軍の方向へ変える。
「(…ならばまずお前のコマ共に我が網を投げ被せてやる…)行くぞ。今ここで対峙している秦軍で最も目障りな隊をまず潰す…」
「は!? ハハ!!」
慶舎は突如として猛烈な勢いで丘を下りだし、それに戸惑いつつも直下兵の大半は迅速に追っていった。
「…何!? 慶舎様が出陣を……?」
それから少々の後、慶舎がいた地点に近い別の中央丘高所より副将の金毛が主君の出撃を聞いて戸惑いを浮かべた。
「ハハ、慶舎様曰くこのようなことで…」
送られてきた伝令が盤上の地図を示しながら説明すると、周りにいる趙軍参謀達は歓喜の表情を上げる。
「ウオオオ! 遂に慶舎様自らが深く食い込んできておる秦右軍を潰しに出られたぞ!」
「これで白漂は片腕を失いますな…え? 金毛様?」
だが、喜ぶ周囲とは対照的に金毛は考え深げな表情で盤上と慶舎が向かった方角を交互に見やり合う。
(いや、初日のあれとは違う。本日のこれは…この数日間上手い位置に近づきながら一向に深入りしようとしない白漂への報復に見える。初日の方で秦左軍の方が最初は上手く罠に飛び込んできた来た時とは状況が違い過ぎる。それにしても白漂め…この状況で自軍右翼の丘方面側に対して大きく脇を空けさせるなど…慶舎様でなく凡将でも好機だとわかるのに…!?)
それから秦軍右翼が中央丘方面に対して、他と比べて意識が薄くなっている状況も思い返すが、そこで金毛は自身の背筋に悪寒を感じる。
(……まさか!? 今この状況を見越して…白漂が既に何かをしている後だったとしたら…!?)
金毛はその悪寒を気のせいと思うことが出来ず、冷や汗の量が少しずつ増え始めた。
○趙国西部 黒羊 中央丘秦側〇
金毛が嫌な予感を感じてから数分後、慶舎の動きを羌瘣はその場で誰よりもいち早く気付いていた。
「ん? 何だ? 対峙している紀彗軍の奥深くで向こうが揺れてるような―――」
「慶舎がこっちの右軍を左の横腹から突くべく動き出した」
「―――あってぇええ!?」
続けて何らかの動き程度には気付いた自隊の将校が奇妙そうな声を上げるが、自身の隊長のそっけない口調とは相反する非常にまずそうな戦況に慌てふためく。
「ま、不味いですよ隊長! 連中が向かってる先は右軍の楚水隊が大きく前に出たせいで左脇辺りが大きく乱れてます!」
「安心しろ。もうそろそろー…来た」
取り乱す部下とは対照的な羌瘣の背後に別の騎馬弓兵による小隊が現れた。
「本陣命令だ。これから俺たちが向かう場所は優先的に使わせてもらう」
「お、お前たちは確か中華十弓のあの方の…!?」
羌瘣隊隊員達が名を上げる前に彼らは速やかに同隊の中を速やかに突き進んでいった。
○趙国西部 黒羊 秦軍(白漂軍)右軍○
「「「「「ウオオオオオオオオオ!」」」」」
羌瘣達の前にある隊が現れつつもすぐにその場を立ち去って数分後、秦側右軍の左端に展開していた楚水隊は慶舎率いるその直下軍と交戦していた。
だが、軍及び兵の個々の力の差が余りに大きく、楚水隊は辛うじて先に抑えた有利な高所を守りつつもどうにかその侵攻を遅らせるのが限界であった。
「た、隊長! これ以上は我が隊が先にすりつぶされます!」
「ならん! ここで我々が引くと右軍全体が左側から順次食いつぶされる! 何としても後続の隊が駆け付けるまで持ちこたえろ…!?」
部下の悲痛な報告に楚水が叱咤激励したその時、樹上から彼の前に庶徐隊の隊員が舞い降りてきた。
「楚水三千人将、本陣からの命令です。先ずは…」
「………! それは本当か! 皆!」
その者に耳打ちされて楚水の表情が再び引き締まった後、彼の隊が大きく動き出した。
「慶舎様! この辺りの秦兵が大きく動いて来ています!」
「優先順位が低い地点を切り捨てて防御の密度を高めて後続到着までの時間稼ぎをするつもりだ。付いて来い」
それを素早く見抜いた慶舎は再び直下軍を大きく纏め直して侵攻を再開する。
その先は、秦右軍の中間あたりで最も趙左軍を押し込んでいる位置にある信隊だった。
「! 信! もう向こうの総大将が来たわよ!」
「お前らぁ! 旗を高く掲げ直した所まで守り固めながら集まりなおせ! 目の前の敵はほっといていい!」
副長ステラの視力はその新たな敵襲に気付き、素早く信隊は前衛により近い重要な個所へ守り重視で再集結し直しだす。
それを彼らの付近で交戦中であった紀彗副将劉冬は素早く見抜いた。
「右側に動くぞ! 慶舎様と挟撃して秦右軍の突出している連中を包囲殲滅する!!」
「「「「「ハハァ!」」」」」
信隊と他の秦軍部隊の薄くなった合間から秦右軍をまず分断すべく動き出す劉冬軍。
兵はいたが密度は薄かったので自然に突破に成功し、それを見て秦右軍全体に音術で緊急集結回避の命令が下る。
「っ! 皆ぁ大急ぎで各々の隊の中心に向けて走れ!」
「急げ急げ!」
その動きで秦右軍の各隊員たちは各々の隊で前衛に近い守備点へ転身し始め、それを見据えて慶舎は合流してきた劉冬も含めて号令を下す。
「よくぞ合わせて来たぞ。先ずはこの秦軍の右腕を…?」
だが、慶舎がその利き腕を伸ばして部隊に号令を掛けようとしたその時だった。
彼の影の傍に、見慣れぬ影が新たに一つ急に現れたのだ。
「…!?」
「………」
「…あれは!?」
慶舎がそれに只ならぬ悪寒を感じ、続けて何かを知覚した劉冬が背後を振り返ると、彼らを見下ろせる秦側が放棄した高所の頂点に、火矢を構えた蒼源の姿があった。
○趙国西部 黒羊 中央丘秦側付近某高所 秦軍(白漂軍)中央軍本陣○
「なー、譜孝よ知ってるかい?」
「何でしょうか?」
慶舎と蒼源の接触は、中央丘付近にある秦右軍を見下ろせる高所より望遠鏡を用いている白漂にも見えた。
「蜘蛛の糸とはとても丈夫だけどね。半面、非常に…」
そして、白漂が言葉の途中でもったいぶって少し止めたその時、蒼源の火矢が放たれた。
「燃えやすい」
その締めくくりの言葉が放たれた直後、慶舎達を囲んだり、趙軍と秦軍を遮るようにして業火が走り抜けていった。
○趙国西部 黒羊 趙軍(白漂軍)左軍○
「のわぁ!? な、何だこの火の勢いは!?」
「瞬く間に囲まれて更に各所で寸断されたぞ!」
一方、その業火の真っただ中に置かれる形となった慶舎軍らは火災の余りの勢いに仰け反りつつも、直にその火による直接の被害者が少ないことに気付く。
「ば、馬鹿め! このように何本も分かれていては飲まれはせんわ! 直ぐに越えられ……!?」
異変はその炎の壁で生じた黒煙が、その場にいた趙兵達と混ざり合ってしまったことで起きた。
「ぐあああぁ!? め、目がぁ!?」
「目が滅茶苦茶いてぇぇ!?」
「な、何も見えん!!」
煙に当てられた趙兵達が次々と視覚の不調や苦痛を訴えだしたのだ。
それは、白漂が待っていた無風状態のために趙軍、特に慶舎軍にとどまり続け、苦悶の声はさらに広がりと深みを増し続けた。
○趙国西部 黒羊 中央丘秦側付近某高所 秦軍(白漂軍)中央軍本陣○
「な、何だここまで届くあの悲痛な絶叫は…!?」
「焼かれている者のそれとは違うぞ!」
その慶舎達を襲っている災難は、肉眼で監視可能ながらある程度離れている白漂本陣にも一部しかめっ面になる者を出すほどだった。
「ぐ、軍師よ何ですかあれは!? 確かあそこは先日に赤狼が何かしていた個所ではありますが…!?」
それを超視力で難しげながらも注視している河了貂の口がゆっくりと開く。
「………この黒羊で自生する“猛毒の木”…それがあの煙の正体だ…」
「え…!? も、猛毒の木ですか!? しかしあのように燃えてる状態でそのような効果を発揮するなど……!?」
「いや、そういう木は実在するんだな実際。実際にこの中華ではここ黒羊で取れた」
そこでヌッと急に白漂が訪れた。
今現在の慶舎軍を襲っている猛毒の煙の正体は、白漂が事前に調べた後に粛尤に一日目より集めさせて三日目の火計に隠して各所に仕込ませ、更に先ほどの蒼源の火矢で燃え出した、ここ黒羊産出の猛毒の木から生じせしものであった。
「あ、あんな燃えることで毒を出す植物などあるのですか!?」
「遥か西方にある大海の向こうの遠い地の国にもあるという話だ。中華にも似たようなものがあっても不思議ではないだろ」
驚く部下とは対照的に白漂は冷静な面構えで慶舎軍を追い詰めていっている火計についてそう補足する。
実際、メキシコ沿岸に存在するマンチニールという樹木は樹液が肌に触れると火傷に似た炎症を引き起こし、傷口から入れば死亡する危険性もあり、燃やせば失明の可能性もある重度の炎症を引き起こす猛毒を空気中に発散させることで知られており、今回にて白漂が黒羊で発見し用いたその植物はそれと類似した効果を持つものだった。
白漂は黒羊攻略戦開始前の調査で地形や住民配置だけでなく、生態系までも調べさせた際にこの植物の存在を知って、同時にマンチニールの事を思い出して軍略に組み込んだのである。
「…ま、待てよ。離れているここにまで悲鳴を届かせる…その黒煙の中にいる慶舎軍は…!?」
耳を劈くような悲鳴に顔を顰めさせつつも、白漂親衛隊員の一人がその奇計の証の中にいる敵に対し思いを寄せた。
○趙国西部 黒羊 秦軍(白漂軍)右軍○
「ううぅ! 離れてるのに目が痒い!」
「ど、どれくらい待てばいいんだこいつは!?」
一方、趙軍に近い秦右軍各隊も直に煙を吸わずにいたものの、致命的ではないにせよその黒煙に対する被害を口に上げていた。
「け、けど風が止んでて良かったなー兄貴ー。もしも風がこっちに向けて吹きでもすもが!?」
「おおおお恐ろしいことを言うんじゃねえよ尾到! それに味方が聞いたらどうすんだーー…あ、なんか煙が小さくなってき―――」
「テメエらぁ! 急いで陣形と配置変えだぁ! 愚図愚図すんなぁ!!」
「―――いってわぁああ!?」
「「「「「ウ、ウオオオオオオオ!!」」」」」
そして、しばしして信の号令を切っ掛けに白漂軍右軍各隊が再び大きく動き出す。
それが終わる頃には、彼らが仕掛けた黒煙が徐々に収まり始めていく。
姿を現した慶舎本軍の姿は見るも無残な姿を晒してしまっていた。
「目がぁ! 目がぁ~~~~~~~…」
「な、何も見えねえぇぇ…」
「の、喉が焼けるように痛いぃいいぃ…!」
火災による焼死者や窒息の死者こそは少ないが、大半が目を赤く腫らしていて涙を流しており、それらの中心に回避に成功した者達はいたが圧倒的に少なかった。
「……………………」
その中に、周囲の味方の惨状に呆然とした表情を浮かべる慶舎の姿があった。
続けざまに、白漂本陣から笛で秦右軍に対し号令が発せられる。
「ま、待て…!?」
「秦右軍! 狩り時だぁ!!」
「「「「「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォ!!!!」」」」」
それを理解した無事の慶舎の衛兵が縋るように言葉を発した直後、紅武の号令と秦右軍の喚声が大気を震わせた。
工夫一つで何事も作業の苦楽は大きく変るものです。
大抵の兵法では天候や地形は上手く利用せよと出ておりますし、白漂は奇抜な策をとりつつもそうした基本を忘れずに(全体的な楽もしたい本音込みながら)、昌平君の教えを受けてきたことを書いているように心がけました。
次回は、原作以上に大窮地に陥った慶舎を中心に話が進む予定です。