それも絡めて、趙軍を内部から危機が襲い始める事になります。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦七日目昼 趙国西部 黒羊 秦軍(白漂軍)右軍○
「追えぇ! 逃がすなぁ!」
「慶舎の首ももう少しだぞぉ!」
その日、慶舎を討ち取る寸前まで至っていた秦軍右軍は猛烈な追撃を趙軍左軍に掛けていた。
だが、その中で信達は別の理由も含めて先鋒を突き進んでいた。
「く、くそ! まさか…内側にやや兵を回したせいで…そこから突破してきた趙軍にステラ副長が捕まるとは…!!」
信隊の副長兼狙撃手筆頭にして同隊の二大頭脳の一角であるステラが、趙側に捕まって連行されている最中であったのだ。
その急報を聞いた時、信達の脳裏に戦死とは別の意味で危機感が訪れた。
当然のことだが、この春秋戦国時代では白漂の前世であろう現代以降とは価値観が大幅に違う。
人権やそれに対する意識など極めて低く、捕虜に対する非人道的な処遇は珍しくもなく、その中で女性の立場は圧倒的に弱く見積もられていた。
「よし! もう少しだ! 今少しで―――!?」
その中でステラと心身を深く通わせる身である信がもう少しと言う所まで迫るが、そこで両側から趙側の矢の雨が降り注いできた。
「―――えって…くそ!」
「…はぁはぁ! いい加減にしろ貴様らぁ!!」
信達を挟む両側の茂みから現れた劉冬率いる伏兵が現れるが、その矢は正確ではなくて率いている兵も満足に動けている者が少なかった。
先ほどの猛毒黒煙攻撃は慶舎軍だけでなく、秦から見て右側の戦場に位置する趙軍の前衛も包むように火種が配置されていたので、趙側に少なくない被害を出させられていた。
ちなみに馬呈の方はそれで弱った状態で、ステラが前面に配置させた罠や伏兵を力技で突破に成功したが、そのせいで率いていた直下兵の半数は討ち死にして彼も含めた残りも手ひどい傷を負わされていた。
「踏みとどまれ! ここで慶舎様を逃せばまだ勝ちの目が巡ってくる!」
「何としてもこれ以上は通すなぁ!」
慶舎やステラと遮るようにして現れた趙軍の決死隊を目にして、信の脇に続いていた玲花が素早く状況を計算して彼に近づき耳打ちする。
「信君! これ以上は追っても追いつけない! だからー…!!」
「……っ! くっそがぁ!!」
玲花の簡潔だが理詰めに基づく諫言に、信の直感はそれに逆らってはいけないと彼に瞬時で教えて、苦渋の表情を浮かばせてその矛を劉冬たちに向けて振らせた。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦七日目夜 趙国西部 黒羊 秦軍(白漂軍)右軍本陣○
「…とまー、そういうわけで趙左軍及び慶舎直下兵団は大きく削りはしたが…肝心の慶舎には瀕死の状態ながらも逃げられ、更にこっちの千人将だけど有望な士官が一人向こうに生け捕りで連れていかれたと…」
「…申し訳ありません。要約すればそのようになります」
昼間よりも大きく趙側に向けて大きく押し込む形となった秦右軍だが、その本陣天幕内に集まった者の多くから浮かばれない空気が漂っていた。
昼の合戦における最大の獲物である慶舎を討ち取る寸前まで追い詰めながらも結局逃げられてしまった。
特に、信隊の面子はそれに加えて副長で人望もあるステラが趙側の捕虜にされたことで憂いと焦りを一際強めていた。
「そう言えば一番荒れてるだろう信はどうした?」
「あーはい、白漂将軍がここに来られる前に玲花殿がここに出席させると本人も却って危なくなると薬湯と針の二重攻撃で眠らせて外れの樹木に縛り付けました…」
「適切な判断だな渕…」
この場にいない意外な面子の話を白漂が聞きおえると、ヌッと大きな影が抜き出てくる。
「それで白漂将軍、向こうにはどういう条件を突きつける?」
質問をぶつけてきたその大きな影は、慶舎を討ち取る寸前まで至りながらも姫昭の妨害で逃げられた粛尤だった。
「甘さは抜けそうにねえがそれを一応補える機転はあるその女の入れ知恵でこっちはそれ以上にデカい品を生け捕り出来た。色々要求出来る立場はこっちだ」
「あーん? あんた一番デカい獲物にまんまと逃げられて何をそんなデカい態度して…」
冷静な態度を崩していない粛尤に我呂が突っかかるが、白漂が手を翳して落ち着かせる。
「まーその例の品も実際に捕まえたのは同時に気付いた粛尤だからそう細かく言うんじゃない我呂。おかげで昼間の作戦に代わる新たな攻略戦の糸筋が見えてきた」
「また何か見えましたか?」
「そうだな紅武、その初めにー彼女に早速動いてもらってる」
そう言い終えると白漂の視線は、天幕の窓から見える中央丘へと向けられた。
○趙国西部 黒羊 中央丘趙側〇
「急げ! 重傷者は後ろの馬車に乗せろ!」
「傷病兵でも軽度の者は二線級だが戦線に戻せ!」
「おい! こっちの薬が無くなりそうだぞ!」
一方、趙側は趙側で秦右軍本陣とは別の緊張感が張り詰めており、夜になっても各所が慌ただしく動いていた。
そして、その中心にいたのは慶舎ではなく紀彗であった。
「紀彗様! 先ほど被害の概算が出た赤録隊ですが…!」
「…っ! やはり継続不能寸前まで損害が出ている。まだ彼が居れば対処も出来たのだが…」
やはり紀彗の表情も苦渋に満ちたもので明るい色は見受けられない。
そんな彼の元でも今現在の趙軍の状況から多くの人が出入りを繰り返している。
「紀彗! それと姫昭はおるか!」
慶舎の副官である金毛もその一人で、彼の声に近場で机仕事に険しい表情で臨んでいた姫昭も反応する。
「はい、私達はここにいますが…」
「昼間の奮闘感謝する! おかげで我が軍は大敗を免れた! これで明日以降も戦える!!」
机より立ち上がった姫昭に金毛は引き連れていた側近たちと共に礼を述べた。
「…いいえ、礼は結構です。むしろ私達のそちらの陣中を行く強行軍で被害が出たはずですが」
「その懸念は大丈夫だ。文句を言う馬鹿者は鉄拳制裁で黙らせた」
「……そ、そうですか…」
「冗談でそんな暗い顔を見せるな。あの危機的状況で主君をお救いし軍の命脈を繋ぎとめた功績に文句をつけるものなどおらん。明日からは当面動けぬ慶舎様の分まで秦軍に報復する決意を皆で固め終えたところだ」
「じゃが、これ以上はもう気力だけでは戦いを続けることも難しい状況じゃ。せめて彼がこの場にいてくれれば…?」
金毛の士気の高さを認めつつも鋼仲が現時点での趙軍の戦闘継続可能な戦力に触れて懸念を示すが、そこで彼は奇妙な物を見た表情を浮かべる。
「? 爺どうしたのです―――」
「たーのもー! 趙軍総大将代理の紀彗殿は起きておられるかーーーーー!!?」
「―――か……!?」
姫昭がそれに怪訝な表情を浮かべたその時、同じ中央丘で対峙している秦側から気勢の良い大声が響いてきた。
「な、何だこの声は…ってああ!? あ、あの女は!!?」
それに困惑し驚きつつも趙兵らが高台より身を乗り出すと、目にしたものは予想の斜め上を行く存在だった。
「私だー! 綴だー! 今晩は貴方にこちらの総大将の書簡を直に送るべくここまで来たー!!」
その綴の周囲には盾を構える兵士数十名ほどしかおらず、ほとんど自ら的になりに来ているような立ち振る舞いをしていた。
「な、何のつもりだあの女は!?」
「おい! 誰か弓を持ってこい! 岳嬰将軍の仇だ!」
「あ、あれ、あの女…槍に何かを括りつけておるぞ?」
困惑と共に殺気が趙側で高まるのに構わず、綴はあろうことか盾兵の間を抜け出てゆったりと手に持つ槍を遊ばせながら趙側に向けて歩を進めてきた。
時折、矢などが飛んでくるが彼女は顔色一つも変えずに小石を除けるようにしてテクテクと趙側陣地に近づいていく。
「……聞いていた向こうの本陣は…あの辺か!!」
綴は紀彗達がいる趙軍本陣を見据えると、槍を投槍器に構え、更に疾走の如き助走も上乗せして全力で投擲した。
槍は音よりも速いのではと思わせる豪速で趙兵らの頭上を行き、紀彗の斜め後ろに位置する樹木が穿ち割れそうな勢いで撃ち込まれた。
「「「「「んな!?」」」」」
予想の遥か上を行った槍の威力と飛距離に驚く趙軍本陣を尻目に、綴の方は普通に歩きながら秦軍陣地へと帰っていった。
「な、何のつもりだ秦軍め!?」
「き、紀彗様! 飛んできた槍にあなた様宛で書簡が括りつけられています!」
その行為に戸惑いつつも趙兵達は綴が投げ込んできた槍の付属物の存在に気付き、罠などが無いことを調べた上でその内容を読み進める。
「…!? こ、これは……!?」
紀彗が自分の番になってその内容を読み進めると、彼の表情に安堵と困惑の色が同時に浮かんだ。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦八日目朝 趙国西部 黒羊 秦軍(白漂軍)右軍○
「「……………………」」
黒羊での勝敗を決しかねなかった死闘の次の日の朝、両軍は剣戟こそ交えてはいないが、それとは別の緊張感に包まれてやや距離を取り身構えた状態で対峙していた。
やがて、秦軍右軍側の前衛の一角が開けて、そこにある人物が出されると趙側から戸惑いと不信が混じりつつも歓声が上る。
「おお! 劉冬様だ!」
「ぶ、無事か!?」
秦軍の中から現れたのは、昨日の戦いにて趙側で生死不明となっていた紀彗副官の劉冬であった。
その後から続けて捕虜になっていた他の趙兵らも続いていく。
「…どういうつもりだ? 少なくとも俺がいた時点までに向こうに囚われている秦兵で交換すべき価値のあるものなどいなかったぞ」
劉冬は伺う顔でこの場に集う秦軍の総指揮官たる白漂に問い詰めるが、彼は見向きしないまま反対側の趙軍を見据えつつ言葉を返す。
「秤や升が国ごとに違うように、そっちとこっちでは勝敗の条件とそれへの最良の道も違う。それに聞けば全て答えが返ってくると思っていられる歳ではないだろう」
「…まあな」
これ以上聞いても無駄だと悟った劉冬が自軍に向き直ると、同時に趙軍の一角が割れて、彼らよりかは少ないが趙軍に捕まっていた秦兵達が困惑しつつも希望が戻った表情で現れた。
「! 大丈夫そうだな…」
その中にはやや痣が幾つか見受けられていて表情も少々気落ちしていたが、大事は無さそうな様子のステラもあり、それに信は安堵の息を吐く。
そして、両者は互いの本軍が見守る中でそれぞれの母体へと歩いて帰っていく。
「……見立て通り、向こうは手出しはしてこなさそうだね」
「だろうな。これは慶舎ではなくて紀彗だろう。彼は礼には礼で返す人種だ」
それを白漂は冷静な面構えで見守り、河了貂ら側近らも安堵しつつも困惑の色を浮かべていた。
(…ステラが助かったのは嬉しいけど…悪いけど劉冬を向こうに返す危険性の方が大きい…。ステラの救出作戦が容易ではないとはいえ、早々に人質交換に踏み切るなんて漂は何を思い描いてるんだ…ん?)
その思案の途中で、河了貂は眼前で自陣に戻っていく捕虜だった趙兵らのある違和感に気付く。
彼らの多くが、劉冬や向こう側の高位の将兵らに対し不審や隔意を感じさせる苦い表情をしていたのだ。
「…無事だったかお前」
「あーうん、頭打った後がまだ痛むけど…向こうで治療されてたから大丈夫よ」
一方、捕虜にされていた秦兵も自陣に戻ってこれ、それに混じるステラも気落ちした表情だが体の何カ所かに軽い痣がある以外の異常は見られなかった。
「見りゃ感じでわかるが…?」
「他の皆と同じ収容所に入れられてた時に群がってきた向こうのに襲われそうになったけど、打ち飛ばされたときに私を捕えた姫昭が尋問を名目に私を別の場所に移してくれてね…」
「……そうか…」
信に出迎えられてステラは味方の海に戻る。
その後、両軍による捕虜交換は穏当に終わり、その日の戦闘は無かった。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦九日目夕刻 趙国西部 黒羊 秦側○
「止めだ。引き上げるぞ」
「趙軍が退き始めました」
「よーし、我々も夜の担当と代わって宿営地に戻るぞー」
不可解な捕虜交換から次の日、秦趙両軍はこれまでの激戦と打って変わって交戦内容が静かなものに代わっていった。
時々に、各所で矢の打ち合いなどが起きる程度であった。
「…どうだー、上手く出来そうかなー?」
「はい、組み立ては明日までには終わりそうです。実験も北で終えた後ですし…只―、これは何に使われるおつもりですか?」
そんな最中、白漂は自陣の奥深くにある工兵隊の秘密仮設工廠で何かを作らせていた。
「それは実際に使う時のお楽しみだね。これで吊し上げる品の方と一緒にね…む」
時折来る問いに白漂が適当にはぐらかしていたその時、姿は見えないが他の気配を感じて彼は工廠の天幕の外に出る。
「…将軍。やはり慶舎は当分意識が戻らないまでの重傷の模様です…」
そして、自身のゲルに戻る風に林道を歩き始めた白漂に、庶徐が暗闇から姿を見せないままで報告を始めた。
「そうか。それで暗何の方の動きは?」
「どうやら明日の夕刻にはこの地に到着する模様です」
「そうか、それじゃー…今から名を読み上げる指揮官達を僕のゲルに集めてくれ。先ずはー…」
そのまま自分達以外には誰もいない林道を歩きながら二人は話を進めていった。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦十日目早朝 趙国西部 黒羊 中央丘趙側○
「…うぅ、いでえ…」
「あ、頭が…」
大きな戦闘こそなかったものの、趙側陣地の各所からは大勢の負傷者の呻き声が立ち上っていた。
開戦してからの秦軍の猛攻で、既に趙側は残存兵力で向こうに逆転されてしまっており、能動的な戦闘が困難な状態に陥ってしまっていた。
ここ数日、秦側が何故か大人しくしていた間に彼らも積極的な攻勢に出れずにいたのもそのためであった。
「……うぅ、くそ。ここまでケガした連中の声が聞こえてくる…ん?」
故に、その時の趙軍前衛で警戒に当たっていたある趙兵は、姿を見せ始めていた朝日に照らされだした向こう側のその様子が何なのか最初は理解できなかった。
「んん? どうしたんだー? そんな鳩が面に小石を投げられたような顔をして―――」
「お、おい! 皆! 櫓や壁に上って見てみてくれ!!」
「―――え、えぇ?」
それに気づいた下の兵士達が怪訝な表情を浮かべた時、彼らは櫓に上っていた趙兵に急かされて上へ登らされる。
だが、彼らも上って同じ光景を見ると初めは何が起きたのかわからず顎が大きく開くも、やがてわなわなと震えながらその言葉を口にした。
「…し、秦軍が…秦軍が丘から消えてる!!!!」
その言葉は、直ちに趙軍全体へ瞬く間に広められていった。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦十日目正午 趙国西部 黒羊 中央丘付近○
「お、おい! これはどうなってんだよ!?」
「七日目は確かにしくじったかもしれないけど…それ以外はこっちが押し続けていたのに…!?」
「「「「「何で丘が趙軍に渡されちまったんだよぉ!!?」」」」」
それから日が最も高くなった時にて、立ち退かされた秦兵達はこの合戦最大の目標である中央丘全体に翻る趙旗に対し困惑と怒りを声音に表していた。
「…なあ、話は聞いたけどよ…こいつばっかりはいくら何でも博打が過ぎるんじゃねえか…!?」
そうした訳を知らない兵士達に気付かれない場所の櫓から、何か知ってそうな顔の信達が周囲から上がる不満にも押される形で不安を口にしていた。
「そんな珍しく不安を覚えてるのならさっさと動いてもらうぞ」
「のわ!?」
「咸陽の狸殿が聞きつけて動く前に進める必要があるからな」
その信の背後にいつの間にか白漂が現れ、その耳を引っ張ると色々と耳打ちを始めた。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦十日目夜 趙国西部 黒羊 中央丘○
「急げぇ! 早く木柵用の木を加工しろ!」
「最初に下を囲う木柵から順に上へと伸ばしていけ! 並行して空堀の掘削も進めろ!!」
秦軍が姿を消したその日の夜、趙軍は計略の臭いをかぎ取りつつもこの降って沸いたような幸運に乗じて中央丘の要塞化を急ピッチで進めていた。
「…目にした時にはまさかと思ったが……本当に丘から降りたとは……!」
「今度も何か策を巡らせているだろうが…先に要塞を固めてしまえば付け込める隙は生じさせぬ! 何が何でも要塞化を完了させるぞ!!」
連戦の敗北で気落ちが進んでいた趙軍は俄かに士気が戻っており、それは本陣にいる紀彗達も同様であった。
だが、中央丘要塞化を進めようとする紀彗達を最も脅かす敵は、予想外の方向から現れた。
「き、紀彗様ーーーー! 急報です! 急報でーーーー―す!!」
「どうした!? 秦軍に不穏な動きが出たか!?」
「い、いいえ! そ、それが…!?」
要塞化作業の真っただ中にあった紀彗の前に慌てふためいた伝令が現れるが、その者の背後から一目で高価だとわかる高位の具足に身を包んだ将兵が突如として現れた。
「!? その意匠は…王都軍の…(それにこの者の顔つき…何処かで…)!?」
「初めまして紀彗将軍。軍務中の所で申し訳ありませんが王都の命令で来ました」
紀彗達の前に現れたその将兵の正体は、趙王直属の王都邯鄲守備軍でも最上位に位置する近衛兵団であった。
彼らは紀彗達に対し二通の書簡を見せるが、そこには宰相印と何よりも驚くべき事に王印が押されていた。
「………何用で来た?」
黒い噂が絶えない今の祖国の№1と№2の干渉に、紀彗は嫌な予感を覚えてゆっくりと口を開くが、現れた近衛兵達の次に放った言葉は彼の予想の中で最悪のものだった。
「紀彗将軍、あなたを秦国との内応の疑惑により調査のために今すぐ連行いたします」
「「「「「!!!!!??」」」」」
その近衛兵達の通達に周囲の趙兵から困惑が混じる驚愕が飛び出た。
「ま、待て! それは何かの誤りだ! 我々はこの地を含めて趙国を守るべく文字通り命懸で秦軍と戦っている最中なのだぞ! それが今になってどうしてそのような嫌疑をかけられねばならんのだ!!」
真っ先に金毛が割り込んでくるが、近衛兵は冷徹な表情のままに言葉を続ける。
「…紀彗将軍、貴方はこの地での開戦以前に…今この地で対峙している秦の白漂とその一党を秘かに居城へ招いたようですね?」
「(!? 何故それを…!?)誰だ! そのような讒言をしたのは!?」
「誰とは貴方様の城に勤めている侍女の一人からの通報ですが? 何より…」
曲解が混じってはいるが表沙汰に出来ない自身の密事に触れられた動揺を憤りで隠す紀彗に対し、近衛兵は手を翳して中央丘を取り囲んでいる秦軍を示す。
「ここ数日の戦況をこちらで調べさせてもらったのですが、圧倒的に優勢な状況でありながら捕えたあなたの副将を高くても千人将止まりとの人質交換で解放した不相応な取引、何よりもこの地での最重要拠点であるこの中央丘を一晩で明け渡した秦軍の不可解な行動…偶然と言うには出来過ぎではありませんか?」
「おいテメエ、何だそのこじ付けみてえな難癖はよぉ…!?」
そこで鎧の下は包帯で包みながらも無理して顔を出していた馬呈が割り込もうとするが、その首筋を一瞬で無数の穂先が包囲してきた。
「なっ!?」
「それがこじ付けであるかどうかは我々を使わしてきた王都からの監査官閣下の調査でわかる事です。詳しいお話は暗何でお聞きするとの事です」
「「「「「!!!??」」」」」
目にも止まらぬ早業で身動きが出来なくなった馬呈に見向きもせず、近衛兵が言い放った決定に周囲の趙兵、特に離眼兵から戦慄が走る。
「ま、待て! 暗何の因縁を調べておらぬわけがなかろう! 何故その地で行うのだ!?」
「今回派遣されている監査管閣下が同地に拠点を置かれたためです。これ以上は実力行使とさせていただきますが……」
「それだったら黒羊の守備はどうなる! 今現在慶舎様が起き上がれん状態で紀彗まで抜けたらあの白漂軍相手に持ちこたえられんぞ!!」
「それでしたらもう一人の副将の方がいるかと…」
抗議の声を上げる周囲に対し、近衛兵はある人物を指名した。
「………え…私!?」
その人物たる姫昭は自身に対し向けられた視線に戸惑う。
「…正直に申し上げますと、紀彗将軍ほどではありませんが貴方にも嫌疑が掛かっているのですよ」
「何ですって?」
「…この黒羊戦で…貴方は敵総大将白漂と直に戦いながらそれを取り逃がしたと聞いています。また…先の火計で周囲の趙軍が手を出せなかったのに何故か貴方の軍は慶舎様の所まで速やかに行けたのか…」
「そんなの偶然に決まっておろうが!!」
「まあ、その辺のことは我々もまだ軽い嫌疑だと判断してますので…その挽回の場として此度の総指揮官を任せるとの宰相閣下のお達しです」
「ま、待て! 姫昭はまだ若すぎる! 他に別の司令官の後任はいないのか!?」
「現在、他に任せられる方は対燕及び対斉戦に出向中です。先の宰相の方針の影響でその二国との情勢が不安定なので…これ以上は反逆の意思ありとみなせと宰相閣下に仰せ仕ってますが…?」
あまりに急すぎて且つ雑な人事に現場の趙将達から不安全開な抗議が出るが、出された名前から圧力を大きく感じて多くが口籠ってしまう。
「で、ですが…」
「邯鄲へ勉学中の甥でもあるご城主殿のお立場を追い詰めたいおつもりですかな?」
「…っ……わかり…ました………」
大任を悪意込みで押し付けられそうになっている姫昭が何とか抗弁しようとするも、出された名に不承不承ながら従う他はなかった。
○趙国西部 暗何〇
「……今頃は黒羊におる我々と同志でもある宰相派近衛兵の者達が監査役の一隊として到着したころだな…」
「ええ、その通りです…」
趙軍にて再び暗雲が漂いだしたのと同じ頃、嘗て離眼と黒羊周辺の覇権を争っていた暗何にてある一団が光を消した密室にて謀議を重ねていた。
「…まさか離眼に忍ばせていたかつての暗何の者から、白起の孫と紀彗の密談の密告が寄せられるとは思いもよりませんでしたなぁ…」
「それに加えてあの者達なら適当な理由を現地で得られるでしょう。若様、父君と兄君の無念を晴らせる日も近いですぞ…」
その一団の中心に座っている、育ちの良さ以上に傲慢さと陰湿さを感じさせる男の身がわなわなと震えはじめていく。
「…紀彗めぇ…こちらまでおびき寄せればあとはこちらのものだ! 宰相様とそのご助力で得た大王様の許可付きの調査で幾らでも拷問に掛けて内応及び謀反の罪を吐かせてやる! そうすればあ奴らの命脈を伸ばし続けた晋の亡霊共も連座で潰せる! その時には邯鄲で大王様に例の灯篭を貸し出してもらい見せつけて絶望に陥れてから姫昭はなます切りにしてやるわ……!!」
その密室での会話を、やや少し離れた部屋より鋭敏な聴覚で聞き取る者達がいた。
「(先にある程度の話は聞かされたが…今の趙王は予想よりも大きくイカレテやがる…白漂将軍の指示通りこの事はすぐに二つの城のお偉いさん達に知らさねえと…)む?」
その者達の中で秦の密偵としてこの暗何に潜伏している者が表情を険しくしつつもしっかと聞き取っているが、その最中に顔を青ざめさせて震えている別のものに気付いた。
「ま、不味い…早く姫昭様達に知らさねば…むご!?」
今にも音を殺すのも忘れて立ち上がり走り出しそうなそのものの口を秦からの密偵は塞ぎ、小声で耳打ちし始める。
「落ち着け! そんな態度じゃすぐに気付かれて伝える事が出来なくなってしまうぞ」
「だ、だったらどうすれば…!?」
「俺に策がある。とりあえず後で詳しく話すからここを出るぞ」
そして、秦からの密偵に率いられて小部屋に集う彼らは物音を押し殺して姿を隠しながらもその場を後にした。
今回は自分なりに政情とそれに混じる過去の因縁が戦争にも影響してくる現実を描いた話になりました。
次回は、今回で出てきた謀略で黒羊戦が再び大きく動き出す予定になっています。