○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦十日目深夜 趙国西部 暗何○
「…ふあぁ、今晩も何もねえなぁ……」
「おい、そんなデカいあくびしてると離眼とかから来た上役に怒鳴られるぞ」
趙国王都邯鄲からの監査役達の密談より1時間後、それが開かれた密室がある屋敷を守る衛兵達は不満を隠せていない態度を取っていた。
彼らの大半は離眼がこの地域を制するまでは大手を振るっていた暗何領主一族唐家に従っていた者達で、その煽りで同家が敗れた後は助命こそされたがこのように冷や飯食いの待遇であった。
「くっそ! つまんねえな! いっそ今あいつらが向かってる先の黒羊で死んじまえばいいのによぉ……!?」
その一人がむしゃくしゃとした態度で道端の小石を蹴ったその時、彼の鼻孔を焦げ臭い臭いが刺激した。
「……んん? 何だぁこの臭………いぃ!?」
別の衛兵もその異臭に気付いたその時、密談が開かれていた屋敷及びその周辺の建物からほぼ同時に複数の火の手が上がりだした。
「うわぁ!? な、何だこの火事!?」
「怪しい奴なんて見なかったぞ!?」
「どうやったらこんだけの火の手が上がるんだ!?」
「人を呼んで水を持ってこい! この辺りが火の海になっちまうぞ!!」
その様子は城の内部にて屋敷とは反対側に位置する庶民街からも容易に確認できた。
「す、すげえ! 俺たちはもう離れてるのにあんだけ火の手が上がるなんて…ほ、他に仲間がどんだけいるんだあんた!?」
「その質問は後にしろ。もうそろそろこの辺りの兵も消火のためにあそこに行くだろうからその隙にお前らはこの城を脱出して黒羊にいる紀彗様やその側近方達にあいつらの陰謀を伝えるんだ!!」
「わ、わかった!」
その光景に驚く紀彗派の兵士であったが、秦側の密偵に急かされると見張りが抜けていった裏路地を走り抜けていく。
「……しかし、こんな便利な道具が出来るとはな…」
「しかも素材は木箱と最近出てきたものだけど蝋燭と油紙で簡単に作れるもんだからな…」
「よし、俺たちも怪しまれる前に次に行くぞ」
秦側の密偵達も火災とそれに集まる人だかりを尻目にその場を後にする。
○趙国西部 黒羊 樹海各所○
「…そういうわけで、紀彗の暗何への移送が決まったようだな」
「ああ、これでようやく忌まわしい晋の生き残り共も根切りに出来るぞ…む?」
暗何で火災が起きていたのと同じ頃、黒羊でも趙軍やその監査役一団などで紛れ込んでいた暗何系の宰相派将兵が密談を交わしていたが、そこで彼らの一人が樹海の中である存在に気付く。
「…そうか。なるほどマジか」
「ああ、大将同士で話をしているから間違いない……」
その趙兵が気付いて茂みに隠れてそれを盗み見やると、視線の先で秦兵達と黒羊原住民と思わしき村人達が密談し合っていた。
(……あいつらは? 黒羊の連中か? あんなところで何故密談を―――)
「…機を見て秦の方から包囲を解くから、離眼軍が紀彗殿救出を名目で丘を離れて明け渡し、秦が黒羊を抑えた後に周辺の城邑が趙中央軍の連中の首を手土産に降伏するという話でな」
「ああ、儂らとしても邯鄲の連中は好かんからあいつらはあんたら秦人が好きにすればいいさ」
(―――な!?)
それに怪しさを覚えた趙兵だが、その会話の内容を聞いた途端に表情に驚愕が走るも、思わず出そうになった声を抑える彼の前で秦兵と黒羊住民らしき者達は密談を進めていく。
「………よーし、ここで出来る話は終わったな。それじゃー続きは村で話と行くか…」
「貴様ら待てぇ! そんな姑息な策略進めておいて帰れると思うなぁ!!」
「「「「「な!?」」」」」
ある程度進んだ後に、その秦兵らと原住民達は移動すべく腰を上げたが、そこで監査役の趙兵らが茂みより飛び出してきた。
その姿を見た途端に、秦兵に原住民達は脱兎の如き勢いで同じ方向目掛けて逃げ出す。
「追えぇ!」
「何としても逃がすなぁ!」
「ぐあぁ!? わ、罠がぁ!?」
それは軍馬なら決して追えぬ速さではなかったが、道すがらに白漂軍が掛けている罠などが彼らの足を幾度となく遅らせる。
そして、趙兵が彼らを追い続けるも微かに見えていた背すらも見失ったその時、そこには黒羊に幾つかある原住民の村が見えてきた。
「あいつら! あの村に隠れたか!」
「直ちに捜索を始めるぞ…ぐは!?」
それを見つけた趙兵達が村に突入しようとした瞬間、周囲の茂みから秦兵が現れて彼らを取り囲み攻撃を始めた。
「おい! 趙兵に気付かれたみたいだぞ!」
「工作がばれるとまずいぞ! 一人も生きて返すな!」
「く、くそ! やはりつるんでおったか黒羊の連中め!」
「誰か一人でもいいから逃げ切れ! この事を早く本陣に伝えるのだ!!」
そして、自分達の疑惑を助長する言葉を吐きながら襲い掛かってくる秦兵達から、趙兵達の逃走が始まった。
「………まさかこんなにも早く食いついてくれるなんてね…」
ちなみに、白漂はその光景を望遠鏡によって盗み見ていた。
「……現地の部隊には例の監査役の部隊とは全力で戦っている風にしつつも、逃げ出されて敵陣まで達された者はそのままに逃すようにと言い含めています」
「まあ、今回使った村はこっちに寝返るふりをして取り入ってそのまま情報を向こうに横流ししていた連中だからね。ちょっと無関係装って甘い汁だけ吸おうって連中には舐めた代償を取り立てさせてもらうとしよう………む」
白漂は周囲の参謀と今回の作戦に一部触れる会話をしたその時、命からがら逃げられた趙兵の何名かが自陣へと辛うじて逃げ延び、それを見た秦兵らが自然に退いていったのを目にした。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦十一日目正午 趙国西部 黒羊 中央丘○
「お、おい! 何だこれは!?」
翌日の朝早くより、金毛が再び味方であるはずの者達に対して何度目かの抗議の声を上げていた。
目前には、怒りつつも困惑も混じった表情で縛り上げられている劉冬と馬呈ら離眼軍の重役たち、それを囲む監査役達の姿があったからだ。
「理由は我々よりもこのお二人に聞けばよろしいのでは?」
「ああ!? 何をわけわからねえことぬかしやがる! 朝に出された茶を飲んだら急に身が痺れて動けなくなった所を縛り上げやがったテメエらが!?」
「落ち着け馬呈! 監査役殿! これはどういう真似だ!?」
荒げられていたり冷静だったりもするが一様に抗議の声を荒げる離眼側の前に、監査役達は新たな一団を連れ出す。
それは、黒羊の集落の中で接触してきた秦側の正体に気付き、寝返るふりをして逆に情報を趙側に流していた幾つかのグループの長達であった。
「こ、この者達がどうしたのだ!?」
「結論から言いますと金毛将軍、離眼側はこいつらを仲人にして秦に寝返る腹積もりだったのですよ」
「「「「「んな!?」」」」」
監査役の口から出た通告に周囲から驚愕と怒りに許しを請う声が再び波となって押し寄せていく。
「そんなバカな! ここまで殺し合ってきた相手にどうして帰順できるのだ!? 証拠はあるのか!?」
「そ、そうです! 濡れ衣ですよぉ!」
「…実はですねぇ、先日に秦兵とそれに内応していた集落の住民共が密談をしていたのですよ。それで連中が逃げ込んだと思わしき村を捜索してみたのですが…このようなものを見つけましてね…」
そうした声に涼しい表情を隠さない監査役たちが見せたのは、金貨風に加工された大量の金子と焼け焦げて多くが読めない書簡であった。
「…大分焼けていたのでまだわからぬ点がございますが、この密書の残ってる部分に寝返りの事が明記されていたのですよ…“秦側が中央丘を包囲しつつも後に解除し、その隙に離眼軍が丘を離れた後で秦軍が手薄になった同地を占拠し、その後に離眼らは秦側に付く”と…。いやー、証拠隠滅しようとしていた一部の村人共には逃げられましたが…そいつらが燃やして消そうとしていたこれらの証拠を確保できたのは我が国にとって幸いでした。それで更に調査を進めたら長老や村長の屋敷の傍にこれらの金子が埋められた状態で隠されていたのですよ」
「な、何ですとぉ!?」
「…これまでの秦軍の優勢な攻勢とその後のそれを捨てるような今回の不可解な行動は我々も不可解に思っていましたが、これなら納得が行きましたよ…」
監査役が見せつけた大量の金子を目にした住民代表たちの顔から冷や汗がさらに増していく。
確かに、白漂軍に寝返るふりをして情報交換を装って金目の物をいただこうとしていたが、それは向こうとの取引で交渉後に機を見計らってというものであり、住民側代表たちも馬鹿正直にもらえるとは思っておらず、自分達の情報横流しで敗走しだした同軍への落ち武者狩りと言う形で手に入れようと算段していたのだ。
それがまさか、実際に貰えるなどとは、しかもこんな最悪な形で発覚するなど思ってもいなかったからそうなるのは当然である。
「ま、待て! それらが本物だという証拠はまだない! 秦軍による謀略の可能性が否定出来んぞ!」
急速に事態が自分達にとって悪化していく流れをどうにか食い止めようと、金毛が必死な語気でこの時代の常識と合わせて反論する。
白漂の前々世にて存在するだろう本編だけを読めば想像出来ないが、この時代の秦は楚から奪った金山から採掘される大量の金を用いての買収や裏工作でかなり有名だった。
実際、白漂の前々世におけるだろう秦もそうした諜報活動で敵国内部を攪乱してきたおかげで統一戦争を進められたこともわかっている。
「そうですねぇ、ですからその辺りも含めてさらなる調査を暗何で行うという事ですよ。こちらの紀彗殿の側近お二人からもお話を聞く必要があると思った次第で…」
だが、監査役から返された答えはもっともらしい理由を付けた絶望の宣告だった。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦十一日目昼 趙国西部 黒羊 秦軍(白漂軍)中央軍本陣○
「…とまあ、趙軍本陣はそんな感じでもはや統一された行動が出来ない状況ですな」
「…まさかここまで酷くなるとはな…」
「いや、切っ掛け作らせた当人が何言ってんだ?」
趙軍本陣でのやり取りより1時間後、左慈の報告に白漂が非常に微妙そうな表情を浮かべ、それにもっと微妙な顔を向けている信が突っ込みを入れてきた。
白漂は四日前の慶舎討ち取りが不発に終わると、即座に離眼や暗何等に忍び込んでいる秦国密偵の情報を元に趙軍内部の離反工作に舵を切り替えたのである。
「何だ? こういう汚い勝ち方は反対と言うつもりか?」
「…もうガキじゃねーんだから好みじゃないにせよ度を越さない限りは好き嫌いだけで反対したりしねーよ。だがよーもし趙側にこっちの差し金だとバレたらどうすんだ? そうなるとあいつらムキになって抵抗もっと激しくなんだろ」
「うわ、あの信が理屈もちゃんとある疑問言ってる」
「うるせぇ」
だが、それを不安視する意見はこの場に離間作戦重要メンバーの一人として加わっている信のように少なくはなかった。
「そんなずっと騙しとおせるなんて思ってない。こっちの勝ちが確定するまでは確証を持たれさえしなければいい。何よりこっちにとって都合が良い意味で郭開とその今回の手先である暗何系監査役は無能じゃない。但し李牧達には悪い意味で」
「は?」
「郭開は今の趙王の身びいきもあるにせよ裏工作と奸智で宰相まで上り詰めるだけあって人脈も凄いが…腹黒い友人や政敵も多い。あれ自身も含めて油断も隙も無い詐欺師の中で生きてるのと同じだ。疑われこそはしてもそれくらいの知人は他に幾らでもいるから確証さえなければこれだって睨まれることもないよ」
「あ、あーー……なるほど」
「むしろここまで進めた以上はたとえ僕らが犯人だとわかっても、政敵である李牧派にここまで邪魔した状況でそれを認めてしまえば必ず奴の責任問題として追及される。だからもう郭開派は何をしてでも自説を押し通さなくちゃいけなくなってるんだよ」
「……………あ、悪党……」
それに対し白漂が上げた隙の見当たらない反論に信は目が丸くなり、紅華は目が点になった。
「しかし、いくら混乱中だからって敵陣に忍び込んだ挙句に厳重な警戒が付く敵本陣の盗聴なんて出来るな…」
「人間って生き物は何を始めるにしても遅すぎるってことはねえのさ。いや、中には何かを支払うが代わりにそれ以上に大きいものを得る事だってあるのよ」
河了貂が畏怖を宿す眼差しを浮かべるが、向けられた左慈は人斬り長と呼ばれた時期を知る者が見れば目を丸くするだろう落ち着いた態度で、鼻孔に綿棒で何らかの薬を塗っていた。
「…それで、白漂将軍これからどうなさいますか…?」
「…そうだな。初めの予定では…慶舎の意識が戻らない内に精々疑われた離眼軍が黒羊から退かされて、弱い郭開派の軍隊と入れ替わって生じた隙を突いて丘を取る予定だったが…現在の趙軍の状況は?」
「は、紀彗の代わりに離眼軍を指揮していた副将二名とその直近多数も実質更迭されて後方への移送が決まったので、その分更に姫昭に負担が集中して指揮系統が更に混乱しているようで…」
「そうか…じゃあ、庶徐。君が中心となって各隊から足が速い騎兵を中心に工作部隊を組んで、紀彗らよりも先回りしてくれ。暗何辺りから紀彗に危険を知らせようと離眼派の伝令が出ているだろうから、それが通り過ぎるのを見計らって暗何に続く橋などといった交通網を破壊して、紀彗らが暗何まで届く時間を遅らせるんだ…それで……」
当然だが、この時代の情報網やスピードを考えれば白漂は紀彗を救うべく暗何を夜中に飛び出た離眼兵の存在には気付いていないが、今現在の趙軍の不安定な内情と離眼主従の繋がりの強さを考えればそういう存在はとうに出ているだろうと見抜き、素早くそれへの対策を含めた今後の作戦を詳細に話して指示をしていく。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦十四日目夜 趙国西部 黒羊 中央丘○
「な、何だとぉ!? そ、それは真か!?」
紀彗に続いてその副将二名の計三名を中心に離眼軍条約多数の暗何への移送が決まり、主だった者が不在となってしまった同軍の大将代行に急遽繰り上げとなった海剛の狼狽した声が、中央丘における離眼軍の本陣の天幕にて響いていた。
「はあはあ…! ま、間違いありません! 現在…暗何に駐屯している王都からの査察団の中心は暗何唐家で行方不明になっていた残党達です! 奴らはこれを機に紀彗様達を冤罪で処刑して復讐するつもりです!!」
「い、いいか! この事はまだ決して誰にも話してはならぬぞ! 我々の方で対処する! 皆の者! この者を連れて陣より離れさせよ!!」
事態はあまりにも深刻になっていたが、軍人としては平凡でましてや政治力はさほど高くない故に見逃されてこの場に残る事が出来ていた海剛はせいぜい箝口令を敷く他なく、打開策を考えようと一人で陣幕に籠るが無為に時間が過ぎていく。
「……なあ、最近は紀彗様の姿を見ないけどなぁ…」
「馬呈様と劉冬様もなんだか本陣内から姿消したって親衛隊の親戚も言ってたし…」
「今は急な病とかで人に見せられないとしか聞かされてないが…」
その頃、離眼軍の兵士の奥が不安を感じていた。
紀彗と腹心二名らの更迭に連行は金毛の命令で箝口令が敷かれていたので彼らの大半は詳細を知らないが、慕う主君と上司が突然姿を見せなくなった状況が何日も続くとそうなるのが自然である。
「ハァハァハァ…!!」
「む…何者だ!?」
「み、皆聞いてくれ!」
そんな時に、中央丘の離眼軍が受け持つ区域の外れの何カ所かに必死な表情である趙兵達が駆け込んできた。
「「「「「…な、何だとぉ!!?」」」」」
そして、彼らの口から出た此度の真相が黒羊での趙軍全体に急速な勢いで罅を走らせる事となった。
原作で合従軍結成を察知出来ずに侵攻受けた場面からするとわかりづらいですが、このころの秦は実際には諜報活動や対外工策における裏工作を積極的に上手くしていたらしいです(まー他の国も含めてそうでもしないとやってけないでしょうね…結局秦に征服されましたけど…)。
それと一部の村人の描写ですが、モデルは日本戦国時代の村落ですが実際に同時代の中華の村落も似たような感じだったろうと考えて取り入れました。実際、五百年も戦争をしていたのなら民衆もこれくらい出来る人たちがいないと生き残れないでしょう。実際、史記等にはもっとえげつないことしてた庶民の記録もありますし…。