○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦十五日目朝 趙国西部 黒羊 中央丘○
「…なーんか中央丘が騒がしくねーかー?」
「丘っつーか―…何か趙兵達が騒いでるような感じだよなー干斗―…」
朝日も大分上って空も青くなり切った時間帯にて、中央丘を取り囲んでいる秦兵達は見上げている丘から降り注いでくる喧騒と怒号の雨に困惑の表情を浮かべていた。
「おい! お前らぁ! 動きは静かにして戦の準備に取り掛かるぞぉ!」
「「「「「は、はい!!」」」」」
それに戸惑っている最中に信ら隊長達の指示が中央丘を取り囲んでいる秦軍全体に発せられ、兵士達は茂みに隠れながらその指示通りに動き出していく。
「…おい! 紀彗様に会わせてくれぇ!」
「本当に居られるんだったら顔くらい見せてくれてもいいだろ!」
「唐一族残党が今回の監査役ってのは本当かぁ!」
「は、早く助けに行かねえと大変なことになるぞぉ!」
一方、秦兵達が見上げているその中央丘では離眼兵の大半が昨晩から急速に回りだした噂による不安に駆られて抗議や暴動を各所で起こしていた。
昨晩に、暗何より逃亡してきた離眼兵が海剛の箝口令を知らずにそのまま駆け込んだ先の離眼兵達に打ち明けたため、紀彗達の更迭と連行は彼らの人望の厚さゆえにその身を案じる兵士達によって伝言ゲーム方式で一晩の内に広まってしまったのだ。
「し、静まれぇ! その噂はデマだぁ! 皆よ落ち着くのだぁ!!」
それを金毛は自軍や西貴兵を用いてどうにか鎮静化させようとしているが、あまりの数の多さと指揮官不足からややその進行を遅らせることが精いっぱいであった。
更に離眼兵だけではなく、西貴兵も彼らほどではないが浅からぬ不安に包まれていた。
「……お、おい…やっぱり紀彗殿達が嵌められたってのは本当じゃないか?」
「そ、それに邯鄲で留学してるってことになってる姫柏様のご子息様がもう処刑されちまったってのも…」
制止すべき側に入っている西貴兵もあまりの状況からその噂に高い信憑性を覚えだしており、それが離眼兵を強く抑えることに忌避を抱かせていた。
「ええい! どいつもこいつも軽々しく言いふらしおって! だ、だがどうすればぁ……!?」
それに怒りと恐怖が混ざり合った表情を暗何系監査役の将兵らが丘の上部より向けていたが、そこである趙兵が彼らに耳打ちする。
「た、隊長―こんなのは口で言い聞かせても聞きはしませんよー。何人か見せしめにやった方が良いですって。俺らがしてきますよ」
「…そ、そうだな! 甘い金毛や姫昭なんぞに任せるのが間違いだった! やるがいいお前達!」
「「「「「ハハァ!」」」」」
その讒言にほくそ笑んだ監査役達は許可を下し、讒言した彼らは弓に矢を番え、抗議行動を続けている離眼兵の何人かに矢を射かける。
「ええい! この謀反人共の死にぞこない共がぁ!」
「ぎゃあ!」
「く、くそ! やりやがったぁ!」
「ば、馬鹿な真似は止せ…あ、あああ……!!」
そして、離眼兵の何人かが身に刺さった矢に苦悶の顔を浮かべてうずくまるが、主君の厳しいながらも善良な指導に鍛えられてきた彼らは却って激高し、金毛達の制止の効果も薄まってますます混乱が広がっていく。
中央丘の各所で暴動が発生し、怒号と悲鳴が包み込んでいく。
「お、おい、何だかあいつら刀槍とかで斬り合ってねえか角にい?」
「告ぅ、それよりも飯の準備をしろって話だぜぇ。あー今日もこの巨釜使うのか」
一方、中央丘を取り囲んでいる秦軍はあろうことか飯炊きまで始めるが、その中で各陣地にて何人も成人が入れそうな巨釜が姿を見せてきた。
「何日も前から使ってるけどーこの巨釜良い鉄で出来てるよなー」
「初めて出された時から使ってるけど―何度見ても驚くよ」
「おーい、お前達ーそっちの分は使うなー。今日はー数を絞って巨釜を使うんだー」
そして、中央丘を取り囲むようにしてその巨釜で料理が始まるが、その中より出てきた湯気は大きくて数十キロメートル先からでも見て取れるものであった。
それに呼応してか、黒羊から外部に向けて一本の線で繋がっているように狼煙が順に上り始めた。
「ぎゃああ!? この非国民どもめぇ!」
「う、うるせえ! 俺らに散々無茶ぶりしやがってるくせにぃ!」
「皆落ち着きなさい! これ以上内輪もめをしていたら秦軍が…!?」
その何条もの巨大な湯気に、離眼兵と趙国中央兵を中心に中央丘で頻発する内紛をどうにか鎮静化しようとしていた姫昭がまず気付いた。
「…姫、姫昭様ー!! 我々を囲むようにして巨大な湯気が何本も発生してます! 場所は秦軍の陣地中からのようです!!」
「やはり何かの予兆! 皆あれを見なさい! これ以上内争していれば必ず秦側が……!?」
遊湯気による白煙に何らかの計略を敏感に感じた姫昭が更に声を大きくしたその途端、音術による号令が鳴り響いて秦軍からその巨大な湯気はすぐさま止まり、代わりに現れた
「……は? ちょ…あれ…?」
「な、何だあれ………?」
「……で、でっかい袋が人を乗せた籠をぶら下げて…」
「……空に浮かんじまってるぞ!????」
驚きが急速に戸惑いへと変わっていった趙兵達が頭上を見上げ指さした先に見たものは、別時間軸のこの時代にはまだないはずの“熱気球”であった。
「…おおーーー、皆ー見てみてくれー。人が蟻んこのようだ」
「何か不吉な旗になりそうだからそんなこと言うな漂! き、北の極秘実験場で初めて浮くのを見た時は驚いたけど……ほ、本当に人乗せて浮かべたんだこれ……」
その熱気球の一つに乗り込んでいる白漂が新鮮な喜びを浮かべているのに対し、河了貂は不安と好奇心が強く混ざり合った表情を浮かべていた。
「白漂将軍ー! 全気球が無事に上がれたようです―!!」
「よーし、風と命綱に気を付けろ! 間違って趙側に流れたら笑い話にもならないから! 湯気の狼煙に呼応して
一方、その熱気球によって見下ろされる形となった趙軍は、自軍内部を行きかって不安に陥れる噂で動揺しきっていた所で、原理などわかるはずもないその存在によって得体の知れない恐怖に襲われていた。
「…に、人間が空を飛ぶなんて……」
「あ、あの猛毒の煙と言い…人間の所業じゃねえ!」
「ほ、方士を用いて鬼神とかを呼び寄せたんだ!」
熱気球を見上げる趙兵達には理解が追い付かない存在に対する恐怖が言葉にまで出ていた。
この時代、当然の事ながら現代とは違って自然科学及び庶民での教育のレベルは立ち遅れており、古来からの迷信や伝統などが大きく人々の思想を左右していた。
その中でも、占いや呪術に当時の化学も含めた方術に深く通じていた方士は中心的な役割を果たしており、それが常識である趙兵らがその思考に行き着くのも無理からぬ話であった。
(い、いかん! 確かに突飛抜けた代物だが鬼神などの仕業ではなく必ずカラクリがある! だが兵士達のほとんどにはそれがわからん! 早く何とかあの兵器を落とさねば…!?)
その中で僅かな例外の一人である金毛がどうにか打開策を練ろうとしたその時、周囲の趙兵達を新たなざわめきが包み込んでいった。
「あ、あれ…何か…デカい黒煙が遠くから登ってないか?」
「お、おい! あの方角って確か離眼と俺達が住んでる西貴から上がってるぞ!!」
その原因はこの場にいる趙兵達の半数を占める兵士達の故郷から上がってくる黒煙であり、それはこの地に住まうものなら知らぬものが少ない十数年前に離眼で起きた悲劇を連想させた。
当然、自分達が趙国中枢に冷遇されている事を知っている現地徴兵された人々の不安は最高潮に向けて駆け上る。
「お、俺たちの故郷で何が起きてるんだ!?」
「ま、まさか紀昌様の時みたいなことが起きてるんじゃ…!?」
悲痛な動揺に満たされていく趙兵達を見下ろす熱気球群に新たな動きが生じる。
「今だ!
「「「「「ハハァ!!」」」」」
中央丘の悲痛な混乱が最高潮に向けて避けられなくなったのを見計らった白漂の号令を受け、全ての熱気球から大量で長大な垂れ幕が出されて重力に引かれて大きく伸びていく。
それは、主君の危機を報せる噂で動揺し、更に故郷での異変を感じさせる黒煙で思考能力が混乱で大幅に追い込まれていた彼らに止めを刺すものだった。
「し、秦軍のあの乗物から何かが伸びて来たぞぉ!!」
「な、何か字が書かれてるぞ!」
「お、俺は字が読めねえ! 何て書いてるんだ!?」
「誰か読んでくれ!!」
趙兵達からも見えるその熱気球から垂らされた長大な垂れ幕には文章が大きく書かれていた。
その内容を順に和訳するとこうなる。
『離眼及び西貴の将兵に告げる。我々とそちらがこの地で戦う理由は少なくとも我々よりかは消滅しようとしている』
「ど、どういう意味だ!?」
その内容を文章の繋がりから字が読める者から広められていくことで、趙兵のこの地の秦軍に対する意識が急速に変わっていく。
『我々は賢将紀彗殿と確かに交渉したが、趙国中枢はそれを謀反と曲解してそれを口実に諸君らを粛清すべく動き出した』
「な、何だとぉ!?」
『既に紀彗殿とその側近方は悲惨な終わりが見える調査に掛けられるべく、諸君らが既に知っての通りで邯鄲からの監査役になった唐一族の者達によって、暗何に向けて捕縛されて連行されている途上である』
「あ、あの暴君一族が生き残ってたのか!?」
「しかも王都の連中といつの間にかグルに!?」
その意識の中で、彼らの敵意は秦軍から急速に他へと変えられていった。
『今現在の諸君らが見ている二つの黒煙は、その故郷でそれを原因とした混乱によって発生したものである』
「ま、まさか紀昌殿の時みたいな惨劇が俺たちの故郷でも…!?」
「お、おい! 丘の下を囲んでいる秦軍が動き出した……ぞ!?」
そして、それを肯定するように秦軍も新たな動きを大きく見せ始めた。
『嘘だと思うなら道は空けておく。連れていかれている主君らを救い、故郷に帰って己が眼をもって事実を確かめよ』
何と秦軍が包囲網の一角を空けて大きな通り道を作ったのだ。
「ま、惑わされるなぁ! あれは秦軍による謀略だぁ! 丘を降りれば八つ裂きにされるぞぐ!?」
その光景を無理やり否定しようとして中央から来た将校の一人が声を荒げて制止の声を発するが、その口が飛んできた矢に射抜かれて命と共に言葉は止まった。
矢が飛んできた方角に皆が目を向けると、そこには震える様子で弓を構えていた現地の趙兵の姿があった。
「……お、俺は故郷に戻る!」
「「「「「!!!!??」」」」」
中央からの将校を射殺した士官らしき趙兵のその言葉に皆が騒然として数秒言葉が止まる。
「お、お前正気か!? 丘を降りたら斬首にされる―――」
「もうこんな正気じゃない国にまたあんな目に遭わされてたまるかーーー!!」
「…わ、儂もじゃあ!!」
「お、俺もぉ!!」
「―――ぅわああ!?」
それにまだ冷静さが少し残っていた趙兵が止めに入ろうとするも、射殺した趙兵は怒鳴り返して趙の旗を打ち捨てて丘を駆けて降り出し、続けて何人もの趙兵が必死な表情で同様にしていく。
「…ほ、本当になった…」
「人間、言って聞かせるよりも目で見せた方が説得力感じるものだよ」
その光景は熱気球に乗り込んでいる白漂達にも見えていた。
「…しかし、普通は上空からの偵察や監視での使い道が思いつかれるこの気球を…まさかこんな風に使うなんて……」
河了貂は自分達が乗り込んでいる熱気球から垂らされている宣伝の垂れ幕に対し、新鮮な感動を覚えた表情を浮かべていた。
ちなみに、それらの奇計は白漂が紫夏について行商として中華中を回っていた時期に、彼女が新しく訪れた町のあちらこちらに宣伝の立て看板を張り付けているのを見て、前世のデパートのチラシ配りを思いだし、その後に北の地での実験で熱気球成功を見て同施設の宣伝用垂れ幕を垂らすアドバルーンから編み出したものであった。
「……き、金毛将軍ーーーーーー! 大変ですーーー!!」
「な、何だ!? こっちは暴動の鎮圧でーーー…ぇえぇ!!?」
数分遅れて、中央丘において脱走を起こした者達のいる現場から見た死角側にいた金毛や姫昭がその流れに気付いた時には、もはや離眼や西貴出身の兵達で突然生じた通り道に向けて丘から樹海への巨大な人の濁流が発生してしまっていた。
純粋な武家の出ではなく、商売人の生まれ育ちを経験した白漂の新たな奇策が遂に決定的に炸裂しました。
次回は、意に添わぬ激流に飲み込まれて流されるしかなくなった趙側が中心になる予定です。