○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦二十日目昼 趙国西部 黒羊付近 某原野○
「…と、これが姫昭様不在の理由でございます……」
黒羊樹海近辺原野に設けられた秦軍前線の本陣にて、西貴軍投降兵代表義哲から重く暗い空気が漂っていた。
「…そのボロボロな姿は、大方…姫昭ら主だった者達が要求を呑んで向こうに投降して拘束された途端に攻撃を受けて命からがらここまで退いてきたという所か…」
「「「「「………………」」」」」
暗い空気はその中でも鋭利な鑑定士の眼光をさらに強める白漂の問いで、言葉こそないが肯定するようにさらに重くなった。
「ちっ! 馬鹿が王様だと苦労するもんだ!」
「まー今の趙王の評価は脇に置くとして…それで、そっちの要求は…西貴の降伏と引き換えに同地及び姫昭らの救出と言う所か…」
秦側の代表の一人に加わっていた信の発言を横において、白漂は現状を確認すると直ちに話の本題に切り込む。
「は、その通りでございます!」
「剣戟を交えて恨みつらみが重なっていることは承知の上!」
「故に! ここで我々に刑死を下しても構いません!」
「その代わりに姫昭様達と西貴の民をお救いしてください!!」
それに対し西貴投降兵らの代表は地面に額を打ち付ける勢いで深々と勢いよく土下座し、白漂らに懇願した。
その点からして彼らの言葉が真実だと感じて西貴の主従に対し評価を高める白漂だが、それらを踏まえてよりこちらとの信頼関係を強めるべく言を重ねる。
「…義哲、君達に問うぞ」
「は…はは! 何でございましょうか!?」
「そなたらの姫昭らに対する忠義と故郷に対する愛は本物なのか?」
「は! 無論です! お望みとあらば自らの手でこの喉元を掻っ捌く覚悟です!!」
白漂のその言葉に義哲らは希望を感じると共に覚悟を強める。
数日前まで殺し合いをしてきた相手に救援を求めるなら、相応の見返りが必要だと考えるのは当然だし、責任者の首を差し出すというのもこの五百年続く乱世では珍しくもなかったためだ。
「…ならば、何をしてでも
「………え?」
故に、白漂が更に投げかけたその問いは、聞こえこそすれども始め何を意味しているのかは分からなかった。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦二十五日目昼 趙国西部 西貴○
「…は~~~~、まさか紀彗らをはめるために偽造するはずだった秦国との内応罪が本物になってー、更に黒羊から追い出されるわ離眼も叩き出されて寝返られるわでどうしたものかと思ったがー、どうにか黒羊や離眼から逃げおおせた同僚らを纏め上げて謀反予備軍の晋国残党連中の巣窟であるここをどうにか再占拠出来て良かったな~。どうにか敗戦の責任は李牧派に押し付けて大王様や宰相閣下の機嫌を損なわずに済みそうだ~」
黒羊樹海近辺での秦と西貴投降兵らの密談より五日後、どうにか生きて帰ってこれた趙国監査役責任者唐満は疲労が回復しきってないものの安堵の表情を浮かべていた。
ちなみに彼は先の暗何城主唐鈞の弟で、居城が離眼に制圧された際のどさくさに紛れて逃れ、圧政で蓄えていた財産を郭開に賄賂として捧げてその派閥に潜り込んで生き延びていた身である。
当然、離眼と西貴の対秦内応の嫌疑も彼と郭開が中心に練り上げたもので、初めの予定から大きく脱線していたが、度重なる窮地の所でやってきた西貴再制圧と姫昭らの捕縛成功で重度な緊張から解放された反動で気が抜けていた。
「唐満様ー! 黒羊近郊から落ち延びてきた別の城邑の代表らが加護を求めて酒や貢物など献上品を持って挨拶に来ましたー!」
「おおー、そうかそうか! 早速献上品の中身を調べてから城に入れるがよい! 宰相閣下には私から中継ぎしてやるからな~」
「それじゃー、今晩早速その酒のつまみにあいつの所に行きますか?」
「…ぐふふふ、そうだなそうだな…」
故に、そこで舞い込んできた小さけれども悪くない報せを受けて、彼らの思考はここ数日間で溜まりに溜まっていた黒い欲求の解消へ自然と思考が傾いてしまっていた。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦二十五日目深夜 趙国西部 西貴○
「………………」
同地の中枢に位置する城郭の地下部の一角に位置する牢獄にて、薄汚れていて暗く沈んだ表情で俯いている存在がいた。
(…もう、これで……全て終わるのかしら…?)
西貴の実質的な城主で、今や唐満らに捕えられてしまっている姫昭である。
身に纏う衣装は牢獄の廊下に薄明かりだけが灯されている状態なので分かりづらいが、不潔な亜麻布の肌着だけであった。
そのために地下の澱んだ空気も肌身に沁みやすくなっている姫昭の耳に、嫌な意味で印象に残る足音がコツコツと近づいてきた。
「…ふん、大人しいものだな姫昭。戦場でお前程度に誑かされて命を散らせていったこの地の愚民共に見せつければ、未だにグズグズ言っている連中に効果がありそうだな」
「…唐満……」
自身を頭上の鉄格子越しに見下げてくる現状の張本人に姫昭は嫌悪を隠し切れない表情を向ける。
自分達を戦の勝敗に関係なく嵌めて潰そうとし、更に横槍を続けて敗戦にまで追い込んで味方を死に追いやり、あまつさえその責任の全てを擦り付けて逆恨みの復讐を果たす寸前まで至っている男だ。
通常なら泣きわめく幼子が口を噤んでしまうだろう姫昭の静かな怒気を混ぜた眼差しに、唐満は内心ではビクついて仰け反りそうになりながらも無理に嘲笑を浮かべて部下に鍵を解かせた。
「ふん、貴様がどれだけわめき散らそうともはや現状が貴様らこそ謀反人であることを如実に示しておるわ。貴様たちと離眼の連中を強行に推してきた李牧がどのような言い訳をするか楽しみよ」
唐満は周囲を武装した衛兵で固めており、その中には顔を隠した見慣れぬ兵士も多数混じっていた。
それでも動じる様子を姫昭は見せていなかった。
「お前はあと数日もすれば邯鄲に送る。そして大広場で大王様直々に考案した刑で極刑だ。そうすれば晋王室の亡国一族も最後の生き残りである貴様の代で途絶える訳だ!!」
だが、唐満のその放った言葉が大きく姫昭の気を大きく揺るがす。
「!? 待ちなさい! 確か邯鄲には留学の形で留まっている姫柏兄上の唯一の嫡男たる姫髪殿がいるはずです! 私たちがどのような形で死のうとあの子が西貴を継ぐと約定したはずです!!」
「…あーー、それはだなー…確かーーーーーー……」
久しぶりに見れた姫昭の動揺しきった顔に唐満はわざと思い出すのに苦労してそうな顔を浮かべて他所の方向を向いた後、嘲りの笑みを浮かべて再び姫昭を見やる。
「…その姫髪はその約定が結ばれた後にー……大王様に無礼を働いたのでー、大王様直々に命令された生き剥ぎの刑で誅されたのだったなー??」
「!!!!??」
それは姫昭を完全に絶望に追いやるには十分な言葉であった。
故に、身命を賭してでも西貴と姫家の血脈だけでも残すべく冷静さを保っていた彼女からそれを奪う。
「そんな!? そのような童のような屁理屈で…がは!?」
姫昭は背後の壁と鎖で繋がれていることも忘れ、唐満に襲い掛かろうと飛び上がるが、そこで衛兵の一人に石突で頬から殴り倒されてしまう。
「おい! 傷を付けるな!」
「も、申し訳ありません!」
「ふん! もういい、部屋の明かりを付けろ!!」
それに機嫌を少々悪くした唐満の命令で牢獄内に十分な明かりが付けられ、そこでようやく暗闇に隠されていた姫昭の姿が浮き彫りになる。
「お、おいおい!」
「こ、こいつは…何てえ上玉だ…!!」
明るみになった姫昭の姿は、薄く汚れた罪人の衣装であったために白漂に違和感を覚えさせた胸元の大きな二つの膨らみと、裾の短さゆえに半ば露わになっている豊満なれど形の良い尻肉が丸見えであった。
「そのような約定がどうした! そもそも法に乗っ取れば成人した後継者がいない故に取り潰されるはずだった姫家を延命させるために、
「う…ぐぅぅうぅ……!」
その自身にとって最大の弱みを高らかに嘲る唐満の嘲りを、姫昭は悲しみと怒りで濡れた瞳で睨むことしか出来なかった。
「さあ、邯鄲ではあの馬鹿王様の相手ばかりしていたせいでここの世話がろくに出来ずにいたんだ…散々苦労させられてきたお前のでその取り分は払わせてもら―――!?」
姫昭の怨嗟と悔恨が混ざり合った表情を、その長い髪から掴み上げて間近から楽しもうとした唐満であったが、その途端に彼の手首から勢いよく鮮血が噴き出た。
「―――あっびゃあああああああああ!?」
「「「「「唐満様ぁああああぁああああ!?」」」」」
「…こいつらが調子乗ってボロを出すか姫昭が殺されそうになるまでは手を出すなって指示だったが…こうして目の当たりにすると本当に剣を抑えるのは難しい時はあるのだな…」
半分近くまで斬られた手首から噴き出す赤い噴水を抑えながらも悲鳴を上げる唐満とその衛兵たちに対し、彼らの影から突如として現れた羌瘣が剣を突きつけてきた。
「な、何者だ―――」
「た、大変ですー! 城内で拘束していたはずの西貴兵らがいつの間にか解放されて暴動しだしましたー! 更にいつの間にか接近してきていた秦軍まで引き込んできてもう城内は無茶苦茶ですーー!」
「―――あって何だと…あぁーーーーーーー!!!!??」
その急な登場に唐満の衛兵達が驚いた直後、地上から新たな急展開が慌ただしく知らされてくるが、それらは数秒程地下で木霊した剣戟と悲鳴の二重奏で掻き消された。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦二十七日昼 秦国中央部 王都咸陽○
「うわ! 手から急に鳩が現れたよ!」
「姉ちゃーーん! もっとその変わった竪琴の音を聞かせてー!」
西貴にて色々と表沙汰にするには吟味が必要な事態が複数進行していた日より二日後、嬴政達一行が扮している芸人一座は各所への視察や調整を済ませながらの帰り道を終え、今は咸陽の一角で大道芸や演劇を催していた。
「おーい、退いた退いたー」
「何だよー!? 割り込みすんなよー!」
「王宮の使いだー! 芸を見たければ他の日にでもしろー!」
それを楽しむ観客の中を割って入る形で王宮より役人達が現れ、歓声が不平不満の声へと変わる。
「? あれは確か左丞相様のお使いの…?」
「まだ時間はあるのに…? 何か有ったか?」
舞台の中央で竪琴を引いている扇琵と手品師に扮している嬴政が戸惑うが、二人は役人達に連れ込まれる形で舞台の裏に回った。
「申し訳ありません。色々と急で且つ大事な報せが複数入ってきまして…」
「大丈夫だ。前線で何か不測の事態でも起きたのか?」
「…いいえ、不測は不測でも悪い意味ではないのですが…」
舞台の裏で礼を取りつつも何だか自分自身も理解が追い付いてなさそうな表情を浮かべる文官であったが、嬴政に押される形で何とか言葉を紡ぎ出していく。
「…おおよそ一月近く前に陛下や殿の後援で初めて単独で大軍を率いられた白漂将軍による対趙国遠征ですが…」
「…何というか漂が関わってる時点で頭を捻らせる展開になっている気がするな…」
「…いいえ、本当に頭を捻らせる展開でした。先ずー最初の勝利条件である黒羊五丘樹海地帯の制圧には成功しました」
「…まー、漂なら出来ると思っていた。その内容とその後に何かあるだろうが…」
「そ、そうですねー。先ずその際に敵の総大将慶舎の生け捕りに成功しましてー…」
「?」
最初に出てきた結果に嬴政の顔の皴の一つが消えるが、続けて出た敵軍指揮官のその情報に更に目元の皴が増える。
「…その前後のどさくさでー、敵である趙軍で中央軍と西部軍の間でゴタゴタが起きましてー…」
「??」
「黒羊制圧の時にそれが頂点に達して西部軍は自ら同地を明け渡しましてー…」
「!???」
「…しまいには味方の趙国中央軍に本拠地を攻撃された西部軍は我が国に降伏を申し込みました」
「!!????」
そして、それらの皴は文官がひとまず告げた黒羊戦の結末の内容で、無表情の白目へと変わった。
「あまりに不可解且つ濃い内容に加えて伝書鳩で細かく分けられての連絡ですので総司令部も事態の把握に混乱しておりー…、とにかく当初の予定よりも戦後処理が大型化且つ複雑化しそうなので大王様も早く王宮に戻られて裁可に加わって欲しいとの事でー…」
「申し訳ありません。今の陛下にはそれ以上はしばし届かないようです…」
「…え? へ、陛下ー??」
頭の中を錯綜している情報を上手く纏めて言葉にするのに悩んでいた文官が主君のその変顔に気付けたのは、扇琵の注意を受けてからであった。
二次創作の醍醐味は原作では見れなかった好きなキャラの色々な表情を描き出せる点にあると思いますね。
次回は、今回の黒羊戦の結果を受けての各方面の反応です。