○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦四十五日昼 秦国東北部 対趙国境線付近○
嘗ては趙国に属していて、秦軍の脅威に怯えていた同地の街道の多くを人だかりが行き来していた。
「…はぁぁ…まさか紀彗様が負けちまうなんてなぁ…」
「しかも西貴共々秦に付いたなんて…」
「…おかげで住み慣れた土地を離れなくちゃいけなくなったし…」
「ねー、やっぱり向こう側にいた従妹夫婦と同じように黒羊の近くに残った方が良かったんじゃ…?」
「無茶言うな、酷法で悪名高い秦の領地で暮らすなんて冗談じゃねえ」
「それによぉ、今回攻めてきたのはあの白起の孫だぞ。今は優しい顔してるけどそれもいつまで続くか…」
彼らの多くが悲嘆や落胆の声を上げており、それだけで黒羊戦の今回の結果を受けて秦領となった黒羊一帯から趙へ向けて移動していく難民であることが理解できた。
実際のところ、白漂の前世であろう現代社会からすればこの時代の秦の法律は大らかな方で、少年法に近い原則や故意犯処罰の原則も取り込まれているなど、理屈には適ってて雁字搦めであるというわけでは無かったことが考古学的調査で分かっている(刑罰に肉体を損壊させたりする肉刑があるが、正直そうした刑罰は秦に限らずこの時代では珍しくなかった)。
但し、秦以外の当時の人々は儒教的でもっと緩やかな法律の中で暮らしていたので、彼らからすれば細かい取り決めが多い秦の統治下で暮らすのは苦痛だったらしく、今回のように秦領になるとそこから他所の国に逃げ出すというのもよくある事であった(長平の戦いの原因もそこにあったりする)。
但し、今回はいつものそれとは異なる面があった。
「…ん、父ちゃーん、あそこ逆に秦の方に向かってるー…」
「あー、ありゃー秦に取り込まれた西貴と親戚が多い太行山脈当たりの連中だー」
今回、秦趙の間で結ばれた停戦協定の内容に従い、捕虜交換と共に黒羊及びその周辺の趙領で住民の移動が認められたのだが、今回の黒羊戦の経緯から秦側に残らざるを得なかった元趙人の親戚で、趙領にいた者達が現趙王派の連座に基づく処罰を口実にした報復を恐れて秦側に逆に逃げる場合が少なからず発生したのである(ちなみに国家反逆罪とかになるとこの時代では秦に限らず一族丸ごと極刑が普通)。
「あ! 今度は男の人ばかりで大きいのが来たー!」
「え…あー! あれは確か今回の戦で負けた李牧様側近筆頭の…!?」
ちなみに、そうして秦趙の新たな国境を超える集団の中に慶舎を含めた秦軍の捕虜にされていた趙兵達の姿もあった。
「…まさか負けるなんてなぁ…」
「あいつらがしくじったせいで…!」
当然、今回の大移動の主因と目されている彼らに難民達が向ける視線は厳しく、将兵達はその冷たさを感じつつも何も反論できず、肩を落としてスゴスゴと趙に向けて歩を進めるしかなかった。
「…き、金毛様ぁ…周りを行き来する民草達が…」
「何も言うな。今は生きて趙に帰る事だけ考えろ…! 生きてさえいれば…必ず復仇の機は訪れる…!」
「…………………」
秦側に武装を解除された平服の状態で帰国している彼らの先頭は、どうにか山場は越して意識を取り戻したが半ば呆然自失とした表情の慶舎であった。
この時、自分達の帰国が原因で再び趙国内部を波乱が襲うなど彼らで気付けるものはほとんどいなかった。
○秦国東北部 黒羊五丘樹海地帯○
「…おーい、久しぶりー」
慶舎らが趙への帰国を進めている一方、趙国西部中間地帯を削り取れたことで周囲を趙軍に脅かされる危険性が減った黒羊にて、要塞化作業に加わっていた信の鼓膜を懐かしい声が震わせてきた。
「…んーー、この声はーーーー…って蒙恬か!?」
信が建築中の望楼より乗り出すと、以前に見た時以上にお洒落さが増している蒙恬が自隊を率いて受け持ちの丘の麓に来ているのが見えた。
「…取り合えず―黒羊攻略成功を祝して―乾杯ー」
そして、ちょうどよく来た休息の時間を利用して水ながら信隊と楽華隊で杯が交わされた。
「いやーさー、漂の性格からしてさー予想出来ない手口で取るだろうなー思ってたけどさー。まさか現地の趙軍を寝返らせて周りまでごっそり削るだなんて思ってもいなかったー」
「カカカカ、俺も実際に趙軍が中央丘を明け渡すまでは信じられなかったけどな」
「おかげでこの辺りの人員が不足してるってー理由で俺達も急遽予定変更されてここに回されてきたよー。こっちは南方の毛色の異なるお嬢さんを口説く予定だったのにー…」
「いやまー、その辺りは白漂将軍には感謝しかありません…」
途中で楽華隊副長の胡漸が小言を挟んだりするが談笑は和やかに続いた。
「ここまで来たらーお前も遂にあの話が来るかもなー。なんやかんやで夜も懇ろしてる出来た子が三人いるし…」
「ん? 何の話だ?」
「結婚だよ」
「ぶーーーーーーーー!?」
だが、途中で蒙恬が軽く持ち込んだその話題に信は飲んでいた水を大きく噴出させられてしまった。
「なななな何を言ってんだぁ! おい!?」
「いやねえ、もう俺達も追いついたとはいえお前も早い時期に五千人将になって名も家も上がっただろ。仲良くしてる子のうち二人も地元では結構大きな家になってるんだからそろそろその辺固めなくちゃいけない時期だろ」
「はいはーい、その辺は中身の年齢も考慮しなくちゃいけない話よー。はい、昼食」
狼狽しだした信の唾を回避しながらも蒙恬がその辺の話を進めていると、その対象の片割れであるステラが昼食を持ってきた。
「いや! それを言うならお前も実家からしてまだ結婚してないのがおかしいじゃねーか!!」
「あー、俺はねー実家と他の家の関係も考えなくちゃいけないから―。その辺は相手のお嬢さん方達と夜も含めてじっくり協議しなくちゃー…」
「名家ですから早くその辺を固めなくてはならんでしょう! 他のお家との付き添いも考えれば白漂将軍同様に早く相応の家の人を迎えなくてはなりませんぞー!!」
「は! もうそろそろ他の丘の要塞化について白漂将軍達と協議に行かなくては! 爺よ早く行こう!!」
そのまま自分好みに談笑を深めようとする蒙恬であったが、胡漸にそこで自分の身持ちを斬りこまれると本来の業務を口実に素早くその場を後にした。
代わりに、先ほど蒙恬達が現れた丘の根元に信達にとっても嘗ての同僚が姿を現した。
「え…あの旗は…王偉さん!?」
「ああ、久しぶり玲花」
現れたのはここから南方の対魏戦線にいるはずの玉鳳隊所属の王偉であった。
「んー? 玉鳳もここに回されてきたのかー?」
「違う。玉鳳隊が五千人隊に昇格した後で、私も著雍攻略及びその後の防衛戦で手柄を立てていたのが認められて、玉鳳指揮下ながら兵員は別枠で二千人隊へ昇格になったからな。その増員などの手続きのために一旦故郷に帰る途中で寄ってきた」
いつもの仏頂面なままの王偉が理由を説明しているが、その彼女を望遠鏡で発見した白漂は彼女に対して抱いている疑問をよみがえらせた。
(…前の世界にいた新聞部のセロンを女の子にしたような顔つき…何というか…あっちには悪い気がするけど…王賁よりも似てるんだよなぁ…)
その時、白漂の脳裏に自分達とは別方面で対趙戦線に出向いている、もう一人の仮面をつけた同格の男の姿が思い浮かんだ。
○趙国北西部 某要塞都市○
趙の北部山岳地帯の北西の端に位置しているその要衝は、今朝に現れた秦軍によって瞬く間に陥落させられた城だった。
「…ば、馬鹿な…十倍の数に襲われた時も揺らがなかったこの城が…同数の敵に落とされるなど…しかも率いていたのがこのような若い女だとぉ!?」
「あー、そこにいる捕虜は整理したからもう本軍の麻鉱将軍の所に送っていいぞー」
その城を囲う堅固な城壁の一角は一カ所だけだが何故か外部と行き来が出来るようになるまで崩落しており、今現在は再建工事中のそれを背に捕虜達が連行されているが、その彼らが憤りと困惑を綯交ぜにした声を上げている秦軍指揮官は彼らの目を疑わせるものだった。
その対象は深い藍色を基調とした鎧に身を包んだ長躯の持ち主で、凹凸は抑えてはいるが元々の理想的な性別の特徴も感じさせており、兜を脱いだ頭は淡い金髪の後ろ髪を纏めていて同色の瞳を備えた面貌は知的だが感情を感じさせない仏頂面をした女性であった。
「…はい、わかりましたー…って、
「本日及び明日以降の為の仕事は届いている分には終わらせているぞ。空いた時間くらいは好きに使わせてもらってもいいだろう」
「将軍は本当に星読みが好きですねー」
その女性たる江殊幡はどうやら現地の秦軍の司令官であったらしいが、当の本人は怨嗟が混じる視線を向ける捕虜には興味を示さず、何やらコンパスのような道具を用いて机上に広げた紙に星図を描いていた。
「…しかし、戦よりもあの自分の好きな学術の方に意識が向きがちな性分はあれだが…本当にこの十数年で伸びに伸びたよなぁあの人…」
「この前、麻鉱様と田里弥様が
「マジか!? 白漂の元より移されてきた時は学に異様に詳しい娘としか思わなかったが…」
(……そう言えば飛竜からこちらに引き抜きされてからもうあれだけ経ったのだな…)
その姿に周囲の秦兵達は感慨深そうな顔で言葉を交わし合っていたが、対象である江殊幡は興味を示さず、星図を描いている最中に何度か黒羊の方角を時折見やっていた。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦四十五日夕刻 趙国西部 対秦国境線付近某関所○
近日までは秦との国境戦からはある程度距離があったため、防備はそこまで厚くは無かったその関所は何故か多数の趙軍が詰めて異様な緊張感に包まれていた。
「将軍! 見えてきました!」
「……うむ、来たか…。全員、第一級警戒態勢…」
「「「「「ハハ!」」」」」
彼らにとってのその原因が視認できる距離まで近づくと、慌ただしく人と物が動いていく。
「……!?」
「ど、どういう事だ!?」
その原因である黒羊戦で捕虜にされた後、停戦締結で解放された趙兵達が関所にたどり着くと、向けられている得物と疑いが混じる視線に慶舎と金毛は驚きと困惑を浮かべる。
「……趙国黒羊防衛軍司令官慶舎様と、その副将金毛様ですね?」
「!? お前は邯鄲軍の…!? だったら見ればわかるだろう! これはどういう事だ!?」
まるで交戦中の敵国からの使者に対する出迎えのような味方の態度に、金毛は声を荒げるが返された言葉は彼らにとって予想の斜め上を行くものであった。
「…此度の黒羊防衛戦後で停戦協定が結ばれたのですが、その事で大王様と宰相閣下があなた方に対してある懸念を抱かれておりまして…」
「懸念だと?」
「此度の黒羊防衛戦にて…あなた方の奮闘は敵味方共に知るところであります。特に剣戟を交わした秦軍は恨みのある分その恐ろしさを知っているはずです…」
「それがどうした?」
「…それにも関わらず、黒羊及びその周辺地方一帯の割譲に加え、賠償金支払いと住民交換で済ませた後、何故少数の邯鄲監査団ではなく多くの損害を与えたはずのあなた方を秦側はまず解放したのか…その事で内応の嫌疑が掛けられているのですよ」
「「「「「!!!!!!???」」」」」
邯鄲から派遣されて出迎えてきた部隊の指揮官のあまりの言葉に、慶舎達は言葉すら出ない愕然に襲われた。
○秦国東北部 黒羊五丘樹海地帯○
「…はあ……」
慶舎達を新たな危機が襲っていた頃、要塞化工事が進んでいる黒羊樹海地帯の一角で玲花がお茶をしみじみ飲みながら物思いに耽っていた。
「何-? そんないつもなら雑技みたいな鍛錬している時に静かに黄昏れて?」
「あー貂、昼間の蒙恬さんの話が気に掛かって…」
「………うぐ…」
玲花の複雑そうな表情の原因を知ると河了貂に引きつった表情が浮かぶ。
蒙恬の話で切り込まれた話題の一つである結婚は個人的にも社会的にも、この時代では極めて重要な案件であったためだ。
この時代、死亡率は白漂の前世だろう現代と比べれば比較にならないレベルで高く、早めに婚姻を結んで家を設けることが求められていた。
またこの時代の中華の死生観も深くかかわっており、人々は祖先の祭祀を行う事で祖霊の加護を得ようと考えていたが、こうした祖霊は子孫が絶えたりなどして祀る人間がいなくなると悪霊と化すという価値観があった。
「…そうねー、今回の戦果が余りにも大きいのと時期が時期だから、当面は大きな進出は出来なくて守勢中心になってある程度長く落ち着くだろうから…、逆に今この時期がそうした事を進める良い機会かも…こういうのも早く片付けた方が次の戦での憂いも少なく出来るし…」
そうした宗教観とは別に同席していたステラが情勢面から思考を走らせ始める。
今回の黒羊戦で得た戦果が当初の予定を大きくしのぎ、それでいて山陽及び著雍の強化と重なっていたために、今現在の秦国の各前線は文官武官共に人手不足に襲われていて、当面は占領地の教化及び安定化が中心になるので大きな侵攻は出来なくなっていた。
逆に言えば、交代制にて各隊は後方で隊の補強を進められる時期に入ったと言え、それに託ければ有力グループとの関係強化との理由も付けて婚姻を進められる好機でもあった。
実際、玲花とステラのそれぞれの出身部族は秦帰順化以降の産業発展と交易量増加で経済力を増しており、それが信隊の物資や人員面で大きな下支えになっているので良い機会とも言える。
「…………………………」
「…まー、人間って理屈や損得だけで動く生き物じゃないことも考慮に入れないといけないけどねー…」
但し、その話が深まろうとするたびに河了貂の感情が籠ってない空虚な瞳の視線が刺すように注がれるため、ステラ達は彼女の前ではあまり深化させる事は出来なかった。
「…でも、その際の細かい話は二人で気を付けて進めてね。私はもうー昔の仕事のせいで…女の子の一番大事な仕事は出来ない身になったし…」
「………あ…」
「………………」
だが、それに苦笑を浮かべつつも動じてなさそうな玲花がそう切り込むと、河了貂に気まずそうな表情が浮かび、ステラはやや哀しさを瞳に帯びさせた。
○秦始皇8年(紀元前239年) 黒羊争奪戦五十日夜 趙国 北部 某要塞都市○
「! 李牧様! 邯鄲の巷淹中将軍から伝書鳩が!」
「来ましたか…直ちに内容を…」
秦国で家族計画が色々な思惑絡みで多く進みだそうとしていたその時、敵国趙の北部で冷や飯食いとなっている李牧達の元にある件に対する調査報告がやっと届いて来ていた。
五日前に趙国に帰還した同派閥の慶舎が秦国との内応の疑いを掛けられ、それを前線にも配下を忍ばせていた巷淹中から知らされて緊張感に包まれていたためだ。
「…どうやらまだ調査不十分を理由として即時の厳罰は避けられたとの事。但し…当面は調査を名目として拘留が長期化しそうだとの事で………」
「……そうですか。敗北も痛いですが…しかし、何故あの時にこんなすんなりと捕虜の解放を提案してきたかと怪訝でしたが…やってくれましたね秦……」
個人的に幼少から面倒を見てきた腹心の生還に安堵しつつも、自国内部の政情から苦悶の表情を李牧は隠せなかった。
現在、秦国脅威論を唱えて現趙王及び宰相郭開と意見衝突を繰り返しがちな李牧は前々から彼らに不穏な噂を流されていたが、今回の慶舎らの解放はそうした陰謀論を後押しする恰好な材料であった。
普通、前線にて血で血を洗う敵将を解放するなど少なく、それ故に郭開派は此度の一件で李牧派が裏では秦に内応しているのではとの喧伝の材料にしていた。
「おのれぇ! 郭開も秦も何て陰湿な連中だ! なぁカイネ殿!」
黒羊戦で重視していた西貴と離眼の思わぬ離反で立場が苦しくなっていた李牧派の面々は憤る。
「…あ、う…うん…そ、その通りです……皆様方…ん? 何この数字?」
それに同意を求められたカイネは、過去に李牧と知り合ったばかりで反りがまだ合わなかった頃に、今は無きある友人が自分を喜ばせようと陰湿な手で主君を一時期解任に追い込んだ一件を思い出して微妙な表情を浮かべるが、その煽りで視線を彷徨わせていると書簡の一角にある数字の羅列に嫌な胸騒ぎを覚えた。
「…あ、い、いやこの数字…実はー邯鄲と秦の間で停戦協定締結に伴い…大王様の寵臣唐満を始めとする複数の中央名家子弟が秦側の捕虜から解放されて帰国となったのですが、その際に秦がそれを利用して多額の賠償金を要求してきましてー………王都はある事を条件にこれを飲みましてー…」
「え? 何ですかその条件とは?」
書簡を開いていた側近の言い辛そうな表情に、李牧も政情とは別種の嫌な予感を覚えて顔を引きつらせる。
「…王都はー…慶舎将軍敗戦及び黒羊地方失陥の信賞必罰だとしてー…この賠償金や住民交換などにかかる費用をー…我々の領内から徴収するとー…」
「「「「「!!!!!!????」」」」」
そして、書簡から読み上げられたその内容に部屋に集っていた全員の表情が、憂国とは別の意味で凍り付いて引きつる。
「…そ、それで総額は…………………あ…」
「カ、カイネーーーーーーーーーーー!?」
数十秒の沈黙の後、最初に意識が現実に戻ったカイネは恐る恐るながらも文面を確認すると、後頭部がゆっくりとだが重力に引かれて撃ちつかれる痛みを最後に意識が途絶えた。
………やっと黒羊編を終わらせられました…。
次からは内容を維持しつつもっとサクサクと進められるようになりたいです…。
ちなみに、今回にはちょびっとだけキングダム連載開始前の読み切り作品ネタがあります。
次回からは、秦国内部の情勢及びその変動が中心の章となる予定です。